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第145部分

 そうして、文字通りタチバナの手を借りての事ではあるが、アイシスは緑果の皮を剥く事に無事成功する。皮剥きだけとはいえ初めての料理、そして初めてのタチバナとの共同作業が上手く行って本当に良かった。その様な事を考えた直後、アイシスは突如咽せ始める。


「お嬢様? 如何なさいましたか?」

 

 突然咳込み始めた主の身を案じ、タチバナがやや慌てて声を掛ける。咳の影響であるかは不明だが、アイシスの顔は耳まで真紅に染まっており、タチバナから見ても主が尋常な状態ではない事は一目瞭然だった。


「だ……大丈夫よ、タチバナ。何でもないから、心配しないで」


 一通り咳をし終えたアイシスが息も絶え絶えにそう答えるが、その顔は相変わらず真っ赤に染まったままだった。一先ず大事には至っていない様だが、突然咳込み始めた事も、未だに赤く染まっている顔面も、どう考えても「何でもない」事ではないだろう。タチバナがその様に考えたのも当然の事ではあるが、主の言葉にわざわざ反抗する程の状況でない事も確かであった。


 とはいえ、アイシスも嘘を吐いたという訳ではなく、その言葉はある意味では真実であった。アイシスにとっては「何でもない」事ではなかった為にこの様な状況になったのは確かではあるが、それはアイシスの内心での出来事であり、その影響もアイシスのみにしか及ぼされていない。つまり、タチバナにとっては「何でもない」事であるのも事実であった。


「それならばよろしいのですが。緑果はもう一つ残っておりますので、お嬢様が落ち着かれましたら、次は独力で挑戦されては如何でしょうか」


 いつも通りの淡々とした口調でタチバナがそう言うが、アイシスにはそれが少しだけ自身を責めている様に感じたのは、その心に後ろめたさがある為だった。自身を案じてくれたタチバナに対し、偽りを述べた訳ではないとはいえ、真実を告げられなかったのは事実である。根が善良なアイシスには、その事を気にせずにいるのは難しかった。


 だが、それでも先程の事態の全てを明かすという事は、アイシスにはどうしても出来なかった。自身の思考の中で浮かんだ「初めての共同作業」という言葉から少女が想像したのは、一つのナイフを二人で持って巨大なケーキに入刀しようとする自分とタチバナの姿だった。それを明かすという事は、その恥ずかしさだけでも一生胸に秘める事を決意するのに十分であった。だが、それ以上に少女が気にしていたのは、それがタチバナに知られる事による現状の変化なのであった。


「ええ、そうね。大分落ち着いてきたし、挑戦してみる事にするわ」


 息を大きく吸い込む事で気分を切り替えたアイシスがいつもの調子で言う。その前にも深呼吸を幾度も繰り返した事により、未だ顔面に若干の赤さは残っているものの、アイシスはその平静を取り戻したと言って良い状態になっていた。


 アイシスが残された最後の緑果を左手に取った時、タチバナは万一に備えて止血の為の道具の位置を確認していた。タチバナがアイシスに任せるという選択をしたという事は、アイシスには一人で無事に済ませられる能力があると判断したという事である。だが、それでも先程の様な発作が起きる等、不測の事態が起こる可能性はある。そう考えての備えであった。


「こうしてナイフの背に親指を当てて、先ずはヘタを落とす。そうしたら刃を緑果に当てて、こう……」


 そうして先程のタチバナの言葉や自身の手の動きをなぞりながら、アイシスは緑果の皮を剥いていく。その動作は本人が思うよりも滑らかに行われ、アイシスは自身の意外な器用さを感じていた。かつてはそもそも病で身体が思う様に動かなかった為に気付かなかったのか、それともこのアイシスの身体のお陰なのか。それは本人にも分からない事だったが、既にアイシスとして生きる事を決意している少女にとっては同じ事だった。


「それで、最後にこうよ!」


 ややテンションを上げてそう言うと、アイシスはナイフを軽やかに動かす。すると緑果の皮がアイシスの左手から離れ、その中身が現れる。それも皮と同様に緑色をしており、過去にその酸味を十分に味わったアイシスは、未だ熟していないだけなのではという疑念を抱くのだった。


「お見事です。一度の練習で十分とは、流石でございますね」


 訳の分からない事を考えていたアイシスであったが、そのタチバナの称賛を耳にした事で、漸く達成感と喜びが湧いて来るのを感じていた。たかが果物の皮を剥いただけにしては大袈裟だとは本人も思っていたが、タチバナの称賛の言葉を噛み締めている間にそれらは更に大きくなっていた。


「ありがとう。結構緊張していたけど、やってみれば何という事はなかったわね」


 平静を装ってアイシスがそう言葉を返すが、その表情から喜びが滲み出ているのはタチバナにも瞭然だった。その事はタチバナにとっても喜ばしい事ではあったが、タチバナは自身が些かの別の感情を抱いている事を感じていた。自身がアイシスの為に出来る事が一つ減ってしまった。そう無意識に思ったが故の寂しさにも似た感情であったが、その正体にタチバナ本人は気付いていなかった。

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