第144部分
とはいえ、多くの人にとっては一目瞭然であっても、タチバナにとってはそうではなかった。今のやり取りの何処に、アイシスが羞恥を感じる様な要素があったのだろうか。そんな事を考えながら手を拭き終え、手袋を着け直すタチバナの頭の中には、アイシスが自身に触れられる事に特別な意味を感じている、などという考えは欠片も無かった。
「はい。先程は緑果の皮を剥いたままの手で触れようとしてしまい、大変失礼を致しました。たった今手を拭いて手袋も着け直しましたので、私の方の準備は整った所です。お嬢様の方は如何でしょうか」
手袋を着用して普段通りの格好になった事もあり、完全に普段の自分を取り戻したタチバナが言う。一方のアイシスは、この後にまたタチバナに触れられる事を思うと、未だそれなりの緊張を感じていた。いや、今までも髪を梳かす時等にも触れられているし、これもあくまでただの皮剥きの練習である。そう内心で言い聞かせる事で、アイシスは漸く平静を取り戻すのだった。
「……ええ、大丈夫。私の方には元から特に問題は無かったからね」
深い呼吸を一度挟んでからアイシスが言う。だが、それを聴いたタチバナが再びアイシスに近付くと、まるで敵がそうして来たかの様にアイシスの緊張は増していく。しっかりしなさい、貴方が言い出した事でしょう。そう自身に頭の中で言い聞かせる事で、アイシスは何とか表面上の平静を保っていた。
「それでは、先ずは左手で緑果を掴んで下さい。そうしましたら、ナイフの背に親指を当てる様にして、そうです。それで先ずはヘタを切り落としてしまって下さい」
先程とは違い、タチバナが先ずは口頭で方法を説明する。先程はアイシスの「ナイフを殆ど使った事がない」という言葉を真に受けて、全てを手取り足取りで教えようしていたタチバナであった。だが、改めて冷静に考えると、この様な単純な動きの部分であれば、未経験のアイシスでも十分に可能であると考えられたのだった。
「こ、こうかしら?」
タチバナの言葉に従い、アイシスは恐る恐る緑果のヘタをナイフで切り落とす。それは既にレイピアを用いて実戦を何度か行った人間とは思えない様子ではあったが、アイシスにとって戦闘と料理とは全くの別物であり、その後者に属する行為をする事は生まれて初めての事なのであった。人生初の何かを経験する時であれば、緊張を感じるのは当然の事と言っても良いだろう。
だが、思っていたよりもすんなりと刃が通り、あっさりと第一の工程が完了した事で、アイシスは自身の気が随分と楽になったと感じていた。初めての料理に関する成功体験はアイシスの自信になり、それに感じていた緊張がある程度解れたのだった。そしてそれは同時に、いつの間にかそれと混ざっていた、タチバナとの接触に対するそれが緩和した事も意味していた。
「お見事です。後は……言葉でご説明しても分かり辛いと思われますので、お手をお借りしてよろしいでしょうか」
先程のアイシスの反応の件もあり、タチバナが今度は事前に手を触れる事への許可を求める。そんなものは不要であるとアイシスは思ったが、先程の自身の反応を考えれば仕方が無い事であった。
「ええ。私の手を切らない様にしてよ」
「かしこまりました」
そう冗談交じりに答えるアイシスからは、先程までの緊張は嘘の様に感じられなかった。その言葉に些かの安堵を覚えながらそう返事をすると、タチバナは主の右手を優しく掴む。その手袋のすべすべとした感触にアイシスは若干のくすぐったさを覚えたが、それが何やら心地良くも感じるのだった。
「それでは、左手を右手の方へ近付けて頂いて、そのまま動かさないで下さい」
「こうかしら?」
自身とそう体格の変わらないアイシスの手を取って動きを教えるという事は、子供に対してそうする時とは異なり、両手を取って行うのは難しかった。それ故にタチバナは左手の動きを口頭で指示すると、アイシスはその通りに動く。何だか立場が逆転してしまった様で、少しだけ可笑しい。ふとそんな考えが頭に浮かぶが、タチバナはそれを直ぐに振り払うと、眼前の仕事へと意識を向けた。
「ありがとうございます。右手の力を抜いて、左手はそのまま動かさないでいて下さい」
アイシスがその言葉通りにしていると、自身の右手がタチバナによって動かされて行く。その事に奇妙な感覚を覚えながら、少女はかつての母との記憶をおぼろげに思い出す。折り紙の折り方を教えて貰った時だったっけ。そう幸福な記憶を辿ろうとする思考を少女は自ら断ち切ると、自身の手の動きへと集中する。そういった記憶を残している事も、それを思い出す事も、少女は決して悪い事だと思った訳ではない。ただ、今の状況に於いてそうする事は、自身の頼みを聞いてくれているタチバナに対して誠実な行動だとは思えなかった。
「こうして緑果に刃を当てましたら、こうして……こうです」
そう言いながらタチバナがアイシスの手を動かすと、緑果の皮の中からその果実が姿を見せる。実際に自身の手でそれが行われた事で、アイシスは漸くその動きを理解する事が出来たのだった。