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第143部分

 そのアイシスの言葉に、タチバナは目を丸くしてアイシスを見つめる。確かにタチバナはそういった配慮を失念してはいたが、自身の目や動きが特別である事を忘れていた訳ではなかった。だが、これまでの旅に於いて、アイシスはその戦闘に関する才能の片鱗を幾度も見せてきた。それをしかと記憶していたからこそ、この程度ならばアイシスにも十分に見えるだろう、とタチバナは無意識に思ってしまっていたのだった。


 とはいえ、そのタチバナの見立てが一概に誤っていたという訳ではない。アイシスがタチバナの動きを手本として懸命に観察しようとしていたのは確かだが、魔物との戦闘の様な非常時と比較すれば、その際の集中力が劣っていた事は確かである。生命を懸けた戦闘の際と同等の集中力を発揮出来ていれば、先のタチバナの動きが如何に速かったにせよ、少なくとも全く見えないという事は無かっただろう。尤も、それを平常時に発揮しろというのは酷な話なのだが。


「……これは大変な失礼を致しました。それでは、今度はもう少しゆっくりとお見せ致します」


 そう言うと、タチバナは先程よりも速度を落として緑果の皮を剥き始める。とはいえ、それでもその動作は流麗であり、アイシスが見惚れている間に忽ち緑果の中身が露出してしまっていた。今度はその動きを目で追えないという事はなかったが、アイシスにとってはあっという間の出来事であり、その動きを十分に理解する事は出来なかった。


「……うん、ありがとう。今度はちゃんと見えはしたんだけど、正直良く分からなかったわ。まあ、私はナイフの使い方も碌に知らないから仕方が無い事だとは思うけど、折角見せてくれたのに申し訳無いわね」


 その事をアイシスが正直に、かつ少々申し訳無さそうに口にするが、その答えはタチバナにとって想定通りのものだった。いくらアイシスに天賦の才がある様だとは言っても、初めて見た一瞬の動きを一目で理解する事は流石に難しいだろう、とタチバナは考えていた。


 にもかかわらずタチバナが先に手本を見せたのは、次の予定である後ろから指導をする時を考えての事であった。たとえ見た瞬間には理解が出来ずとも、正しい動きを一度でも目にしていれば、実践の際にそれを想像し易いだろう。そういった細かい配慮を事前の段階で考えてはいたものの、先程の様な失態を見せては台無しである。そんな事を思いながら、タチバナは主の言葉に答える為に口を開く。


「いえ。どの様な人であれ、初めて見た動きを理解するのは難しいものです。それに類似する十分な経験があれば話は別ですが、お嬢様はそうではありませんので、仰る通りに仕方が無い事かと思われます。次は私が後ろからご指導致しますので、その際にご理解とご習得をして頂ければよろしいでしょう」


 そのタチバナの言葉はアイシスを安心させたが、当然ながら、それはアイシスに新たな疑問を抱かせた。それなら、最初に手本を見せた意味はあるのかしら? そう思うのは自然な事であったが、アイシスはそれを自ら直ぐに否定する。


 タチバナがする事が無意味な筈は無く、それが分からないのは自分の考えか知識が不足しているからだ。即座にそう思った事からも分かる通り、先の失態はアイシスのタチバナへの信頼に一切の影響を与えてはいなかった。アイシスは逆の立場から少し考えると、直ぐにタチバナの意図を理解する事が出来た。


「……成程ね。それじゃあ、早速お願いするわ。言っておくけど、私は本当にナイフなんて殆ど使った事が無いからね」


「かしこまりました。私が補助を致しますので、ご心配には及びません」


 アイシスはそう言って置かれたトレーの前に移動し、自身の腰に差してあるナイフを抜いて右手に持つとそこにしゃがむ。タチバナはそれに返事をすると、アイシスの動きを指導する為にその後ろに立つ。皮が向かれていない緑果が二つ残っている事を考えれば、一度目は自身がアイシスの手を取って剥いて貰えば良いだろう。そう思ったタチバナが更にアイシスとの距離を詰め、その右手を取ろうとして触れた時だった。


「ひっ」


 アイシスがそう短い悲鳴を上げながら身体をびくりと反応させると、反射的にタチバナも手を引く。ただでさえ急にタチバナとの距離が縮まった事で緊張していた所に、不意にタチバナの手が触れるという更なる刺激が加わった為、そういった経験が殆ど無い事もあり思わず身体が反応してしまった。アイシスの動きの理屈はそういったものであったが、タチバナはふと別の考えを浮かべてしまっていた。


 やはり、私の様な者の汚れた手に触れられるのは嫌なのだろうか。一瞬だけその様な考えが頭を過ったタチバナであったが、アイシスがその様な事を思う筈が無い、と即座に自身の考えを否定する。タチバナは自身が一瞬でもその様な事を考えてしまった事を呪ったが、そのお陰で気付けた事もあった。


 いや、そもそも緑果の皮を剥いた事で汚れている自身の手では、主の身体に触れるべきではない。そう考えたタチバナが濡れた布に手を伸ばした時、驚きで固まっていたアイシスが振り向きながら口を開く。


「あ、ごめんなさい。急に触るからびっくりしちゃったけど、あれよね? 先ずは手取り足取り、って事よね」


 無論、そう口にするアイシスの心中には、タチバナが心配した様な考えなど一切存在しなかった。その代わりが何で占められているのかは、真っ赤に染まったその頬を見れば一目瞭然であった。

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