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第142部分

「なるほ――」


 タチバナの一連の言葉に納得したアイシスが、それを示す言葉を返そうとした時だった。アイシスの腹から鳴る音が、ふと辺りに響き渡る。厳密に言えば、そう表現する程に大きな音を立てた訳ではない。だが、片やその音の発生源本人であり、もう一方は特異とも言える程の聴力を持っていた為に、結果としては響き渡るのと同じ事になっていた。


「……それでは、先ずは朝食を頂くと致しましょうか。と申し上げたい所なのですが……」


 赤く染まった顔を下に向けて黙ってしまったアイシスに対し、タチバナは取り敢えず食事を取る事を勧める。その言葉が、タチバナにしては珍しく歯切れが悪いものだった事が気になり、アイシスは俯いていた顔を上げる。そうしてタチバナの傍に置かれたトレーに載せられたものを見た時、アイシスはその理由を理解した。


「緑果……だったっけ、それ?」


 渋い顔をしてアイシスがタチバナに尋ねたのは、トレーに置かれた緑色をした果物の正体だった。少し前に苦い思い……いや、酸っぱい思いをさせられたそれに対し、アイシスはあまり良い印象を抱いてはいなかった。その事はタチバナも何となく察しており、その影響が先程の言葉にも表れたのであった。


「はい。……業務上の理由により、私はお嬢様が眠っているテントからあまり離れる訳にはいかず、その範囲内ではこれしか食用になる物が見付からなかったのです。無論、お嬢様がお気に召さないのであれば、今からでも別の物を用意する事も可能ですが」


 アイシスの言葉から、自身の見立てが間違っていなかった事を確認したタチバナは、現状に至った経緯を説明する。その上で代案を出しはするものの、現在のアイシスがどう答えるかはタチバナにも何となく予想が付いていた。


「……いえ。折角タチバナが採って来てくれたのだし、そもそもこの前のは、先に甘い果物を食べてしまったせいよね。だから早く剥いて……いえ、この前言っていた奴を折角だから今やる事にしましょう。覚えているわよね?」


 そのアイシスの返答は概ねタチバナの予想通りではあったが、最後の部分だけが違っていた。無論、タチバナはアイシスが言わんとする事は理解していたが、主が既に腹を鳴らす程に空腹な事もあり、その申し出は意外な物であった。


「……お嬢様がそう仰るのであれば、そうする事に致しましょうか。では、私が後ろからご指導致しますので、お手数ですがこちらにおいでになって下さい。無論、その前にお手本もお示し致しますので、ご心配には及びません」


 とはいえ、火急の際や明白な誤りがある場合を除けば、タチバナにとってアイシスの言葉よりも優先すべき事など存在しなかった。その意に沿う為の最善の方法を瞬時に考えると、それを実行する為にアイシスへと言葉を掛ける。


「分かったわ」


 そうとだけ短く言ってアイシスがタチバナの方に歩み寄るが、その声からは喜びの感情が滲み出ていた。タチバナ程の頭脳を持っていれば、仮にも主である自身が言った事を忘れているなどという事は無いだろう。そう考えてはいたものの、自身が口にした些細な願いをタチバナが実際に覚えていてくれた事は、アイシスにとって実に喜ばしい事なのであった。


「それでは……僭越ながら、先ずは私がお手本をお見せ致しますので、お嬢様は私の後ろに立ってご覧下さい。ご自身でなさる時に近い視点の方が、動きをご理解し易いでしょう」


 アイシスが自身の付近にまで来ると、タチバナがそう口にする。それは正面から見るつもり満々であったアイシスにとっては意外な提案だったが、非常に合理的であり、アイシスは改めてタチバナへの尊敬と信頼を高めるのだった。


「分かったわ。どんと来い、よ」


 偶に口にするこの様な妙な言葉を、我が主は何処で覚えて来たのだろうか。アイシスの言葉を聴いてそんな事を思ったタチバナだったが、それをおくびにも出さず、緑果の皮を剥く為の準備として先ずは手袋を外す。緑果は林檎等よりも小さい為、計四つの果実が朝食用としてトレーに載せられていた。


 これだけあれば、アイシスの練習の分を含めても十分だろう。そんな事を考えながら、タチバナはその中の一つを左手で掴む。そしてその左手の袖からナイフを取り出すと、アイシスが見易い様な角度を意識してその皮を剥くのだった。


「……あのねえ、タチバナ。私はね、貴方が聡明で有能な従者だと思っていたのだけれど、買い被りだったのかしら?」


 いつも通りの事だが、我ながら手際が良く出来たものだろう。そう思っていたタチバナは、アイシスの呆れ気味な態度と言葉に衝撃を受ける。そもそも、嫉妬等から来る人格面への罵倒を除けば、自身の能力に対して否定的な言葉を掛けられた事自体が、タチバナにとっては初めての経験だった。


「……どういった意味でしょうか」


 タチバナが平静を装って言う。口調はいつもと変わらなかったが、アイシスはそこからタチバナの精神的な動揺を何となく感じ取っていた。普段のタチバナは、殆ど完璧な従者であると言っても良い程に有能である。が、今タチバナが見せた行動は、そこからは想像出来ない様な間の抜けたものだった。その為に思わず出てしまった言葉であったのだが、今にして思えば言い過ぎてしまった様だ。その様に考えたアイシスは、ややばつが悪そうに口を開く。


「ごめんなさい、さっきは言い過ぎたわ。でもね、タチバナ。私はね、貴方程には目が良く無いの。あんなに速く済ませてしまっては、何が起きたかまともに見える訳が無いでしょう」

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