第140部分
ふと気付くと、アイシスの目の前には見た事も無い様な程に鮮やかな色をした何らかの獣の肉らしき物が、妙に豪華な皿に載せられて置かれていた。この世界でも真に貴重な種であり、最も美味とされている野生動物の肉。その中でも一頭につきほんの一欠片しか採れないという幻の部位である、という様な説明をタチバナがしており、それによると生で食べるのが一番旨いらしい。
そんな物を食べてしまって良いのだろうか。衛生的に、或いは人道的に。そう思いながらも、こうして食用になってしまったからには食べなければ勿体ない。そう考えたアイシスが、やや気が引けながらもそれをナイフで切り、フォークで刺して口に運ぶ。そして、その味への期待と共に恐る恐る口に入れた時だった。
その濃厚かつ芳醇であろう味わいが口内に広がる事は無く、アイシスが口にしたのは空気のみだった。テントの外部から聞こえて来る小鳥の囀りによって、アイシスは自身が夢を見ていた事を認識する。昨日は感動する程に美味しい食事ばかりをしていたから、その影響かしら。そんな事を考えながら、アイシスは今朝の自身の目覚めが普段よりも良い事を感じていた。
これまでの朝よりもすんなりとその身を起こすと、アイシスは直ぐに着替えを始める。今朝の寝起きが妙に良い理由がアイシスには分からなかったが、覚醒して直ぐに心身がすっきりしているという気分は悪いものではなかった。冒険用の衣服に着替え終わると、毛布の横に置いていたリボンを手にテントの入り口へ向かう。
アイシスがそこを開くと、今朝も明るい外の世界がアイシスを迎える。その眩しさに目を細めながら、アイシスは今回もその事に感動を覚えていた。こうして自由に動ける事も、眩しい太陽の下に出られる事も、鼻腔をくすぐる草木の匂いも、いずれはまた当たり前のものになる。少女はそれが素晴らしい事だと思っていたが、だからこそ、今はその感動に身を浸していたかった。
「おはようございます、お嬢様。本日も晴天に恵まれて幸いでしたね」
アイシスがその全身をテントの外部へと移動させた事を確認してから、タチバナが淡々とした口調で主へと声を掛ける。それは何でもない朝の挨拶であったが、それを聞くだけでアイシスは更なる喜びに胸を躍らせる。この少々不愛想な従者の存在こそが、アイシスにとっては何よりも感動に値する事だった。
「おはよう、タチバナ。そう言えば、毎日晴れてくれて助かっているわね」
あくまでも平静を装ってアイシスが答えるが、一度睡眠を挟んだ事もあり、その胸中は新鮮な感動で溢れていた。こうして挨拶をし合う事を始めとして、タチバナが居てくれるからこそ感じられる喜びも沢山ある。だが、先述の様な一人でも味わえる感動であっても、こうしてタチバナが傍に居なければ、その喜びはきっと半減してしまうだろう。そう思うと、アイシスのタチバナに対する感謝の念は絶えなかった。
「はい。雨が降ってしまうと、基本的には先に進む事が出来なくなってしまいますので、本当に助かっていると言って良いでしょう」
そのタチバナの返答を聴き、アイシスは少し意外に思った。確かに自分達は傘等を持っていないが、少しの雨が降った程度でも、それ程に気にする必要があるのだろうか。そう考えたアイシスだったが、その事をタチバナに尋ねる前に、自らの頭の中でその答えを出す事に成功する。
自分達は今、冒険の旅の最中なのだ。雨で身体が濡れてしまっても、家に帰って着替えたりお風呂に入ったり出来る訳ではなく、それで体調を崩してしまっても医者が呼べる訳でもない。身体を拭く為の布の類まで濡れてしまえば、身体を拭く事すら出来ないのである。
その様に考えたアイシスは、そのまま或る事にも気付く。もしかして、冒険の旅での真の敵は魔物などではなく、天候や地形等の自然現象なのでは。少なくとも、自分達は巨蜂や小鬼等の魔物を大した苦も無く退けて来たが、現在も森林への突入が出来ない為に遠回りをしている最中である。
「そう考えると、魔物なんかよりも自然の方がよっぽど厄介よね。今だって、森が険しくて入れないから遠回りしている訳だし」
そんな自身の考えを言葉にし、アイシスはタチバナへと答えを返す。自身の思考の結果を伝える事が出来る相手が、こうしてすぐ傍に居る。その事こそが、少女にとって最も嬉しい事なのかもしれなかった。
「……そうかもしれませんね。ですが、それはあくまで巨蜂や小鬼の様な、比較的弱い魔物に関してのみの話です。世界は広く、その中では人類の生活圏などごく限られた範囲に過ぎません。残された広大な部分は言わば魔物の領域であり、その中には私でさえ歯が立たない魔物も少なくはないでしょう」
「えっ。そんな魔物も居るの? それは、私だってタチバナが無敵であるとまでは思っていないけど、歯も立たない様な相手が居るとは流石に思えないわね」
アイシスの考えに対してタチバナが返答するが、それはアイシスにとってあまりに意外なものであった為、アイシスは即座に言葉を返す。すると、少しの間を空けてからタチバナが口を開く。
「……幸いな事に、実際にその様な相手と遭遇した事は、今までに一度もありません。ですが、先程も申し上げた様に、世界とは広いものです。私がどれだけ強いと言っても、あくまでそれは人間にしてはという話ですので、何処かにはそういう魔物も多く存在する事でしょう」