第139部分
その様な心地良い時間を満喫して過ごしていたアイシスであったが、食後、かつ夜間にそんな時間を過ごしていては、やがて訪れるものを避ける事は出来なかった。
「お嬢様。そろそろお休みになっては如何でしょうか。明日も早いですし、恐らくですが食後の時間も既に十分かと思われます」
眠気からその身体をふら付かせ始めたアイシスを見かね、タチバナが静かに声を掛ける。その声に反応したアイシスは身体をびくつかせてその目を見開かせるが、また直ぐに瞼が半分ほど落ちてしまう。タチバナの言葉を咀嚼する様にゆっくりと理解すると、大きな欠伸を一つしてから改めてその口を開く。
「……そうね。そうさせて貰うわ。……それじゃあお休み、タチバナ」
「お休みなさいませ、お嬢様」
そう言ったアイシスにタチバナが挨拶を返すと、アイシスは倒れ込む様に寝転がり、毛布に包まると直ぐに目を閉じる。程なくしてアイシスが寝息を立て始めるが、それからも暫しの間、タチバナは静かに眠る主を見守り続けていた。その様子からアイシスが安眠状態である事を確かめると、タチバナは視線を蝋燭の方へ移して思惟に耽り始める。
優しい、か。先程のアイシスが並べ立てた自身への評価について、多少の差はあれ、それぞれに対して思い当たる部分はあった。だが、その言葉だけに関しては、私には当てはまる言葉ではない。優しい人間は眉一つ動かさずに罪も無い人間を殺めたりはしないし、その事で一切心を痛めない様な事もない。
だが、アイシスがその言葉を口にした時、私はそれが偽りだとは感じなかった。というよりもアイシス……お嬢様はその様な嘘を吐く人ではなく、だからこそ私は一生を掛けてでも仕えようと思った筈だ。ならば、私は優しい人間になったというのだろうか。
……いや。お嬢様と行動を共にし始めて以来、確かに私は変わりはしただろう。だが、その本質が変化したとは到底思えない。私は相変わらず、他者の死というものについて心を動かしたりはしない。それが誰であろうと、自身が手を下した相手だとしても。
……だが、それにも例外が生まれた事は認めざるを得ない。アイシスは言わずもがな、ノーラや黒星がその命を落としたら、私は少なからず動揺はしてしまうだろう。しかし、そんな事は人間なら当たり前の事である。何十人という相手を殺めた大罪人であろうとも、親しい相手が命を落としても気にしないという者はそうはいないだろう。
その様な事を考えている間に、いつしかタチバナは思考の板挟みという様な状態になってしまっていた。かつての自身の行いや自身の内面を知っているからこそ、タチバナは自身を優しい人間とは認められないが、アイシスの言葉を疑う様な事も出来ない。そんな葛藤状態の中、タチバナはそれを打破する事が出来る情報を漸く思い出す。
そうだ。その言葉を口にした後、アイシスは言っていた。「少なくとも私に対しては」と。それならば問題は無い。私の内心や性格は兎も角、私がアイシス……お嬢様に対して「そうあろう」としている事は確かなのだから。
そうして、勝手に一人で思い悩んでいたタチバナは、大した時間を掛けぬ間に、自身の頭の中のみでそれを解決する。この様な事で悩むとは、やはり私は随分と変わったらしい。そう頭の中で呟くと、タチバナは自嘲する様な笑みを浮かべる。その直後だった。
「うぅん、むにゃむにゃ。もう食べられないわよぉ」
直近の出来事の記憶を如実に反映した、あまりにもお決まり過ぎる寝言をアイシスが口にする。あまりにも突然に、かつ完全に不意を突かれた事で、タチバナは自身の反応を完全に掌握する事が出来なかった。その結果、テント内にはタチバナが中途半端に吹き出した事による、乾いた吐息の音が響き渡った。
タチバナが懸命に抑えた事もあり、あまり大きな音が生じた訳ではなかったが、タチバナとしては痛恨の極みとも言える失態であった。即座にアイシスの方へ視線を向けるが、その内心は主を起こしてしまっていないかという不安が占めていた。
「ちょっとタチバナ」
目を閉じたままのアイシスがその言葉を発した時、タチバナは先日の狼擬きの件の際と同等の不安を覚える。この私とした事が、主の安眠を妨害する等という失態を犯してしまうとは。タチバナがそう悔やんだ時だった。
「だからもう食べられないって言ってるでしょお」
アイシスが続けてそう口にした事でタチバナの不安と悔恨の念は全て吹き飛び、代わりに笑いが爆発的に込み上げる。だが、同じ失態を二度演じる訳にはいかない。その強い意思と元来の精神力により、タチバナはそれを抑える事に見事成功するのだった。
とはいえ、この様な事を続けていては精神が持たない。そう判断したタチバナは、未だ早いとは思いつつ自身も眠りに就く事にする。着ているメイド服を手早く脱ぎ、それを畳んで床面に置くとカチューシャをその上に載せる。そして手早く身体を拭くと、蝋燭の火を消して毛布へと横になる。
その一連の動作を高速でこなしながら、タチバナは考えていた。アイシスは敬愛する主であり、かつ何をしてでも守るべき相手でもあるが、ある意味では自身にとって最たる強敵でもあるかもしれないと。