第137部分
即座に地雷が踏み抜かれるという事態を一先ずは回避し、少女は考えていた。どんな仕事も完璧にこなし、引き受けた事に対する強い責任感も持っているタチバナが、即座に話題の提供をこちらに頼るとは。どうやら、この手の対人のコミュニケーションに関しては、タチバナは本当に不得手である様だ。とはいえ、それは自身も同様であり、この様な時に話すべき話題など何も……。
そこまで考えた時、アイシスはある事に気が付く。話すべき事、等という風にを考えるから話題に困るのであると。我々は互いに好き好んで共に居るのであり、そこにはすべき事も、話すべき事も存在しない筈であると。無論、何かしらの目標や目的を定めるのであれば、同時にその為にすべき事も生まれる事にはなる。だが、少なくとも此処での会話に於いては、何かを話さなければどうにかなるという話ではない。
そうして別の方向から話題を考え始めるアイシスだったが、実を言えば既に答えは見付かっていた。遥か以前……そう、かつて病室で孤独に過ごしていた頃から、少女にはずっと夢見ていた事があった。それ故に、アイシスが現在考えているのは何を話そうかという事ではなく、それを此処で本当に話しても良いのかという事だった。
少女は理性では、それは今此処で話すべき話題ではないと薄々は気付いていた。だが、長い間抱え続け、一度は果たせぬままに終わってしまった夢を、自らの意思次第で曲がりなりにも叶える事が出来る。その様な状況に直面してしまっては、それを見過ごす事は少女には出来なかった。
「……それじゃあ、タチバナ。貴方、好きな人っているのかしら?」
意を決したアイシスが、その顔を耳まで紅潮させながらタチバナに尋ねる。一度で良いから、同性の友達と恋バナというものをしてみたい。かつて果たせなかったその夢を叶える為に、少女は魔物と対峙した時以上の勇気を振り絞ったのであった。厳密に言えばタチバナとは未だ友人になってはいないのだが、ある意味では既にそれ以上の存在であるのだから、アイシスにとって問題は無かった。
その言葉を聞いたタチバナは、先ず初めに自身の聴覚を疑った。自身の五感には絶対と言っても良い程の自信を持っているタチバナにとって、それは初めての経験であった。そして次に、タチバナは自身の認知機能に問題が無いのかを確かめた。自身の聡明さを疑った事のないタチバナには、それも初めての経験だった。
それらの結果、自身には特に問題が無い事を悟ったタチバナは、次にアイシスの言葉の意図を考え始める。だが、タチバナの知識の中には、当然ながら恋バナ等という文化は存在しない。その為、タチバナがいくらその聡明な頭脳を回転させようとも、正解に辿り着く事は無かった。
「……それは、どういう意味でのご質問でしょうか」
それ故に、タチバナはその意図を仕方なく本人に尋ねる事にする。自身の事を本気でアイシスが知りたいというのであれば、それが何についてであろうと、敢えて隠す理由などタチバナには無かった。だが、今回の件については、そもそもそれを知る事の意味がタチバナには分からない為、タチバナはその意図を確かめる事が先決だと考えたのだった。
「どういうって? 恋バナよ、恋バナ。私達の様なうら若き乙女がこうして共に夜を過ごす時は、そういう話をするものなのよ」
どういう意味と尋ねられても、寧ろタチバナの質問の意図の方が分からない。そうとでも言いたげな様子でアイシスが答えるが、内容の恥ずかしさと夢が叶う事への期待によるテンションにより、やや早口になってしまっていた。
そのアイシスの返答を聞き届け、タチバナは再度その頭脳を全力で回転させていた。コイバナ、という単語にタチバナは聞き覚えが無かったが、アイシスはそれをさも当然であるかの様に口にしていた。という事は、それを安易に聞き返してしまっては、主を失望させてしまうかもしれない。そう考えたタチバナは、全力でその未知の単語の意味を推測していた。
「……そういうものなのですね。ですが、私にはそういった相手はおりません。というよりも、そもそも私は異性に対して何らかの興味を抱いた事が一度も無いのですが。そういうお嬢様の方は如何でしょうか?」
その手の知識については非常に疎い為に少々の時間を要したものの、音の響きから単語の意味を推測する事は、タチバナの頭脳であればそう難しい事ではなかった。文脈からもその推測が間違いないと確信したタチバナは、アイシスの問いに正直に答えつつも自然な流れでアイシスへと訊き返す。
しまった。自身にまで問いを返されると思っていなかったアイシスは、自らの軽率な行いを軽く後悔する。無論、問い自体にはタチバナと同様に、正直な答えを返せば良いだけの話ではある。だが、そこから波及して過去にアイシスが出会った異性の名でも出されては、ぼろを出さずにいる事は難しいだろうと少女には思われたのだった。
「……私も貴方と同じよ。そもそも、男性というものに、さして興味を持てないのよね」
とはいえ、自らの問いに恐らくは偽りなく答えてくれたであろうタチバナに、偽りや誤魔化しの答えを返す事など出来ない。そう考えたアイシスは飾らずに正直な答えを返す。
そうか。恋バナというものは、一人でもそれをしている人間が居なければ成り立たないのか。そんな事に気付かされる事になった、少女にとって初めての恋バナは、夢見ていたものとはかけ離れたものであった。だが、曲がりなりにも夢が叶った満足感もあり、アイシスは悪い気分はしていないのであった。