第136部分
「……まあ、そういう事になるかしらね? 他に良い言葉も思い付かないし。そうだとすれば、従者である人間が主にお礼を言われて『どういたしまして』と答えるのは、確かに妙だと感じるわね」
タチバナの言葉によって我に返ったアイシスが、納得した様子でそれに答える。その言葉から、アイシスが先程とは異なり、今回は自身の言葉の内容が耳に入っていた事をタチバナは察する。どうやら、アイシスの思考が暴走する際、時によってその深さには差がある様だと、タチバナは冷静に分析する。従者としてその補助をする為にも、主の情報は多いに越した事はない。そう考えていたタチバナではあるが、無論、本人が知られたくない事まで暴くつもり等は毛頭無かった。
「ご納得して頂けて何よりです。ところでお嬢様、未だ食事を終えてからそれ程時間は経っておりませんが、本日はもうお休みになりますか?」
アイシスが一応の納得を示した事を機会とし、タチバナが話題の転換を試みる。またアイシスが思考を暴走させては面倒だ、という理由が全く無い訳ではなかったが、この話題を続ける事はアイシスにとっても無益だとタチバナには感じられた為であった。だが、アイシスと同様に対人の交流の経験に乏しいタチバナには、この様な事務的な質問をする事しか出来なかった。
そのタチバナの言葉を受け、アイシスは少し考える。自身の感覚では何やら随分と沢山の出来事があった気がするが、タチバナが言うからには実時間はそれ程経っていないのだろう。夕食を取った後、具体的にどの程度の時間を置けば良いのかまでは覚えていない。だがそう言われてみれば、確かに夕食の消化は未だ終わっていない様な気がする。
「……いえ。確かに寝ちゃうには少し早い様な気がするから、未だ起きている事にするわ。とは言え、特にする事が無いのよね」
アイシスがそうは言うが、実際の所は色々と話をして互いの事を知る良い機会である事は承知していた。だが、互いにとって所謂地雷となる話題が多すぎる事も、少女は十分に理解していた。自身の過去については言わずもがなであるが、アイシスの過去についても自身は知る由も無い為、そこに言及されてしまってはならない。タチバナの過去についても、本人がそれをあまり語りたくないであろう事は、対人の交流の経験に乏しい少女でも既に気付いていた。
「かしこまりました。する事が無い件については……申し訳ございません。準備をしていた際には、食後には直ぐに眠るものだと考えておりましたので」
アイシスの発言に対し、タチバナが自身の不手際を謝罪する。が、無論アイシスはその様な言葉を求めていた訳ではない。自身の言葉の軽率さを悔やみつつ、どう返すべきかを悩みながらもアイシスは口を開く。
「いえ、そんな事を言ったら、私はその時にテント内でどうするかなんて全然考えていなかったし、そもそも準備の殆どは貴方に丸投げしてしまっていたじゃない。そういう訳で、全くもって貴方の責任ではないんだから気にしないで頂戴。それと、本当はする事が無い訳ではないのよ。折角こうして二人で居るのだから、何かお話でもすれば良いじゃない」
やや慌てた様子でアイシスが早口に言う。タチバナの謝罪が不要だと証明する為とはいえ、こう言ってしまえば最早この後の会話を避ける事は出来ない。無論、タチバナと会話をする事自体はアイシスにとって悪い事ではなく、寧ろ望む所である。だが、先述の通り避けるべき話題が多すぎる事や、自身とタチバナがそれを得意としていないという事実は、アイシスに自身の発言を僅かだが後悔させたのだった。
二人の会話自体はこれまでにいくらでもしてきた訳なのに、何をそんなに気にするのかという話ではあるだろう。だが、自然な流れでの会話ではなく、それ自体を目的とした会話となれば、アイシスにとっては殆ど未知数のものと言って良かった。
そして、それはタチバナにとっても同様……いやそれ以上と言って良い事だった。タチバナにとって会話とは、基本的に必要事項の伝達や意思の確認等の為に行うものであった。それで時間を潰したり、それ自体を目的にする等という事は、タチバナには考えもつかない事だった。
「……それでは、テント内でする事が無いという件については互いに不問にするという事に致しましょう。それは良いのですが、お話をすると仰られましても……その、何か話題等はございますか?」
だが、アイシスがそう言うのであれば、タチバナにはそれを否定するという選択肢は無かった。アイシスがタチバナの技量や忠誠を疑う事が無い様に、タチバナもまたアイシスの言葉を疑う気は無いのであった。とはいえ、タチバナにはその様な会話を自分から始める事は出来ず、本意ではないが話題の提供はアイシスに頼らざるを得なかった。
その事について苦慮するという点ではアイシスも同様ではあったが、こうして話題の決定権が自らに戻って来た事はアイシスにとっては幸運でもあった。もし、タチバナが「そう言えば昔お屋敷でこんな事がありましたよね」等と言い出していたら、その時点で少女としては詰んでいただろう。