第135部分
ある程度冷静さを取り戻したとはいえ……いや、冷静さを取り戻したからこそ、アイシスには着替えを迅速に行う事が難しかった。先程まで自身がしていた妄想を思い出すと顔から火る程に恥ずかしく、心臓も自らが信じられない程に速く脈打っていた。それが正確な動作を妨げる理由の一つであったが、後の一つはより深刻かつ避けられないものだった。
これからその妄想の相手であるタチバナと、この狭い空間で一晩を共にする事になる。それはアイシスにとって、あまりに刺激の強い出来事であった。無論、アイシスには実際に何かをするつもりは無く、タチバナにもそれが無い事も理解していた。だが、先の妄想の内容が尾を引いている影響で、アイシスは手の震えを止める事が出来ずにいた。
とはいえ、当然ながらタチバナを朝まで外に居させる等という訳にはいかず、またその時間は短い程に良い事も明白である。その事を十分に理解しているアイシスは精神力を振り絞り、手の震えを抑えて冒険用の衣服を脱ぐと、素早く身体を拭いてネグリジェへと着替える。その際に再びあらぬ想像をしてしまいそうになるが、奥歯を強く噛み締める事でそれを抑えるのだった。
「……着替えは済んだから、入って来ても良いわよ」
何でもない風を装ってアイシスがそう言うが、実際には声が少し上ずっていた上に、口にする前には二度の深呼吸を必要としたのだった。
「……失礼致します」
アイシスの発言から少々の間を置いてそう言うと、タチバナはテントの内部へと足を踏み入れる。その際にタチバナ自身とアイシスの靴を内部に仕舞うのを見て、アイシスは漸く自身がそれを脱ぎ捨ててしまっていた事に気付く。
「あ、靴、脱ぎ捨てちゃってたのね。ありがとう、タチバナ」
妙な羞恥や緊張を感じている中でも、アイシスはその言葉を素直に口に出す事が出来た。何気ない事ではあったが、その事はアイシスの気分を少し楽にさせたのであった。
「いえ、当然の事でございますので」
アイシスが述べた礼に対し、タチバナが短く答える。それだけの事ではあったが、それはいつものタチバナであり、アイシスに妄想の中のタチバナとの剥離に気付かせるのに十分であった。それにより、アイシスは漸く普段通りの自分を概ね取り戻したのだった。
「まあ、それはそうだけど。だからと言ってお礼をしないのも何か違わないかしら?」
自身が妄想していた様な事よりも、今はタチバナとのこういった他愛無い会話の方が楽しい。その事に気付いたアイシスは、あまり深く考えずに思ったままの事を口に出す。
「……それはその通りかもしれませんが、従者が主の礼を素直に受け取る事も、それはそれで如何なものかと思われますが」
そのアイシスの言葉に対し、タチバナが言葉を返す。言っている事は尤もではあったが、それはタチバナにしてはひどく珍しい、口答えとも取れる返答であった。だが、それを受けた当のアイシスの中では、例によって喜びが湧き上がっていた。会話を望む自身の意図を汲んでの事であれ、従者としての完璧な振る舞いを放棄したのであれ、タチバナの行動はアイシスにとって甚だ嬉しい事なのであった。
「いや、まあ、それもそうね。というより、お礼を言われた時ってそういう風にしか返せないわよね。『どういたしまして』だって、元はそうやって謙遜する言葉だし。というか、お礼を素直に受け取る時ってどう言えば良いのかしら? いや、そんな事を言いだしたら、そもそもありがとうという言葉だって元を辿れば有難いという意味で……」
だが、その返答をしている内にアイシスの思考はあらぬ方向へと脱線して行く。語源がどうの等と考え出してしまえば、最終的には碌に話す事も出来なくなってしまうのだが、この時のアイシスはそれに気付いていなかった。
「お嬢様、落ち着いて下さい。語源は兎も角、お礼を素直に受け取るのであれば『どういたしまして』で良いのではないでしょうか」
そのアイシスの様子を見かねたタチバナが声を掛ける。アイシスがこの様に思考を暴走させるという事は、かつては無かった事である。最近になって突然その頻度が上がった理由がタチバナには分からなかったが、本人はそれを知る必要さえ感じていなかった。現実にアイシスがそうなっているのであれば、自身はそれに適宜対応すれば良い。それがタチバナの考えであった。
この様に、少女が時にその思考を暴走させがちなのは、長い期間を病室で独り過ごしていた事が影響している。様々な事を考えたり思い付いたりしても、それを話す相手が居ない。そのような環境では、それらの思考は自らで処理する外なかったが、少女の発想力はいつしかそれを処理する力を超えてしまったのだった。
だが、少女はその自らの癖をおかしい事だとは思っていない。他人の思考を覗く事が出来ない以上は万人にとって共通する事だが、少女にとっては自身の思考こそが基準であり、誰しも似た様な所があるものだと考えていた。少女にとって問題なのはその内容や、それを表に出してしまうかどうかのみなのであった。