第134部分
その言葉を言い終えた時、タチバナは生まれて初めて羞恥という感情を覚えていた。一方のアイシスは、今まで自身が抱いていたタチバナのイメージを覆す様なその言葉に、驚きと感動のあまり完全に固まってしまう。それ故に暫しの間タチバナの言葉にアイシスが反応する事は無く、その為にタチバナが自身の言葉を少々後悔し始めた頃だった。
「……ええ! それはとても……いえ、最高に素晴らしい事だと私も思うわ! でも、だからと言って、無理に自分の感性を変えようだなんて思わないで良いのよ。私達には未だこれから、途方もない程の時間が残されているんだから。……その、勿論、貴方が私と居るのが嫌にならなければ、の話なのだけれど」
興奮を隠せぬ様子で、やや言葉に詰まりながらアイシスが言う。この時のアイシスは、頭の中の喜びという感情が許容量を超えてしまっており、冷静に言葉を組み立てる様な事は出来なくなっていた。
「お嬢様、それは愚問というものでございます。お嬢様がそれを望んで下さる限り、私がお嬢様の許を去る等という事はありません。ですから、どうかご安心下さい」
ともあれ、自身の言葉はどうやらアイシスを喜ばせる事が出来た様だ。そう判断した事で安心したタチバナの言葉は普段通りの淡々とした口調で紡がれていたが、そこにはタチバナの強い意思が込められていた。
一方、それを受けた側のアイシスは、完全に自身のキャパシティを超える程の感情が溢れ出してしまい、最早暴走する思考を抑える事が出来なくなっていた。
ええっと、勿論、今のはタチバナの従者としての言葉なのは分かっているのよ? でも、今のは完全にあれよね? 最早プロポーズ以外の何物でもない言葉よね? いえ、勿論そうではないのは分かっているのよ? でも、言葉自体の意味だけを考えたら、それはもう、完全にあれなのよ。いえ、勿論それは嬉しい事ではあるのだけど、ちょっと段階をすっ飛ばし過ぎというか、いえ、嫌な訳ではないのよ? ただ、あまりにも急というか何というか……。
そのアイシスの思考はあくまでも頭の中で行われたものであったが、その端々は言葉として表現されてしまっていた。それは極小声の呟きではあったが、タチバナの鋭い聴覚はそれらを明確に捉えていた。あくまでも思考の一端が言語化されていただけの為、タチバナはその全容を理解出来た訳ではなかったが、それでもアイシスの思考が正常ではない事は理解する事が出来た。
「……お嬢様。少し冷えて参りましたので、そろそろテントに入られては如何でしょうか」
それを考慮した結果、タチバナはアイシスに声を掛け、その思考に水を差す事を選ぶ。聞き取った言葉の断片から、アイシスはどうやら幸福な想像をしている事は分かっていたが、それを続けさせる事が何故かタチバナには憚られたのだった。
「……えっ? ど、どうしたのタチバナ、何かあったのかしら?」
その声によって我に返ったアイシスであったが、その脳内は未だ先程までの思考の余韻に浸っており、明瞭な思考が出来ているとは言い難かった。その顔面が未だに真っ赤に染まっている事からもタチバナはそれを察してはいたが、取り敢えずはアイシスが現実に戻って来た事に安堵する。
「いえ。少々冷えて参りましたので、そろそろテントに入られては如何でしょうか」
自らの助言が一度無下にされた事など気にもせず、タチバナがもう一度同じ言葉を繰り返す。どうやら、アイシスは自分よりも感情が豊かな分、時にそれによって思考が乱される事がある様だ。これまでのアイシスの言動からそう冷静に推測したタチバナだったが、それを改めるべきなどとは思わなかった。感情が豊かな事はアイシスの美点の一つであり、それが原因で何か問題が起きようとも、こうして自身がそれを解決すれば良い。そんな事をタチバナは考えていた。
「え……ええ、そうね。それじゃあ、私が先に入って着替えるから、ちょっと待っててね」
現実に戻って来た事で少々の冷静さを取り戻したとはいえ、先程まで自身がしていた思考の内容からタチバナの顔をまともに見る事が出来ないアイシスは、やや早口でそう言うとテントの入り口へと駆け込む。最早靴を内部に仕舞う事すら忘れているアイシスの様子に、何がそこまでアイシスを狂わせているのかと考えるタチバナであったが、その原因が自身の言葉にあるとは思ってもいなかった。
テントの内部は、今夜も蝋燭の灯りによって照らされていた。その穏やかな明かりはアイシスの精神を更に落ち着かせたが、テントの外に脱ぎ捨ててしまった靴の事を思い出させるには至らなかった。それでも、先程までとは雲泥の差とも言える冷静さを取り戻したアイシスは、自身のやるべき事をしっかりと理解出来ていた。
一方、テントの外に一人残されたタチバナは、アイシスの靴を取り敢えず揃えて地面に置いた後、先程のアイシスの変化の理由を考えていた。状況から考えれば、自身の言葉がそれを齎したのは間違いない。だが、その中のどの部分が、普段は聡明であるアイシスをあれ程までに惑わせていたのかは、同様に聡明であるタチバナにも分からなかった。