第133部分
アイシスは自身の席である石の所まで歩いてそこに腰掛けると、黙ったままタチバナと同じ方角の空を見上げる。既に陽は完全に沈んでおり、その瞳に映るのは満天の星星が広がる夜空だった。完全に日没後であるにもかかわらず、ここまでの移動に於いて足元に困らない。それ程までに燦然と輝く星空は、何度見上げようともアイシスにとって感動の対象のままであった。
とはいえ、それは決して眩しいという訳ではなく、優しく淡い光でもある。何光年という途方もなく離れた場所からの光が、気が遠くなる程の年月を経て届き、真っ暗な筈の夜空をこうして優しく照らしている。そんな奇跡の様な出来事のお陰で、この幻想的な風景を今こうして美しいと感じられている。その様な詩人めいた考えが自然に浮かんでくると、アイシスにはこの世界そのものが、より素晴らしいものに感じられるのだった。
そして、大気汚染の影響が無いこの世界の澄んだ空では、星々のみならず、月もまた美しくその姿を夜空に浮かべていた。月そのものは元の世界でも普通に見られていた為、これまでは星々にばかり目を奪われていた少女であったが、星々による彩りもあってか、こうして眺める月は以前見たものよりもずっと美しく感じられた。
「月が――」
そこまで口に出した所で言葉を打ち切ると、アイシスは咳払いを数回繰り返す。当然ながら、アイシス本人としては見たままの感想をタチバナに伝えて感動を共有しようとしただけであり、そこに一切の他意は無かった。だがその言葉を口にしようとした瞬間、アイシスの脳裏にはかつて見聞きした、有名な作家の翻訳のエピソードが浮かんだのであった。
「お嬢様? 如何なされましたか?」
それは、“I love you” を日本語で訳す際に「月が綺麗ですね」とでも訳しておけと言い放った、というものであったが、そんな事は二重の意味で知る由の無いタチバナは、アイシスの突然の奇行に視線を下げるとその心身を案じて声を掛ける。
「いえ、大丈夫よ。それより、タチバナも夜空を眺めていたのね。どうかしら、綺麗でしょう?」
自らの失態でタチバナの自由な時間の邪魔をし、こうして無駄な心配まで掛けてしまった。それはアイシスにとって痛恨の極みとも言える事ではあったが、それを謝る事をタチバナが望まない事は分かっていた。せめて直ぐにでも視線を星空に戻して貰えるようにと、アイシスは話題をその事に変えるのだった。
そのアイシスの言葉を受け、タチバナは視線を再び夜空へと向ける。そして目に映る光景を一通り見渡すと、視線をアイシスに戻してから静かにその口を開く。
「……いえ。先程私が夜空を見上げていたのは、昨夜もお嬢様が仰っていたその言葉を受け、その感覚を理解する為でした。しかし、私にはその手の美的感覚が備わっていないのか、未だそれを綺麗だと感じるには到っていないのです。ご期待に沿うお答えを返せず申し訳ありません」
タチバナはそう答え、最終的には謝罪までしたのだが、それを聞いたアイシスの胸中には喜びの感情しか湧いていなかった。合理性の塊の様なタチバナが、自身の言葉を理解する為だけに、星空を眺めるという合理的ではない事をしてくれたという事。主である自らの言葉に同調するのではなく、期待に背いてでも偽りの無い言葉を返してくれた事。それらはアイシスにとって、自分の言葉に共感して貰う以上に嬉しい事なのであった。
「貴方も馬鹿ねえ。美的感覚なんて人それぞれなのだから、気にする必要なんてある訳が無いじゃない。それでも自分にそれが足りないと思うのなら、これから磨いて行けば良いだけの事よ」
アイシスはその喜びを言葉では表現せず、わざと少し棘のある言葉を選んでタチバナへと投げ掛ける。が、その際の表情から、大方の感情はタチバナには筒抜けなのであった。自身は期待に背く答えを返した筈なのに、何故アイシスはこうも喜んでいるのか。そう不思議に思うタチバナではあったが、現実にアイシスが喜んでいるのであれば、そんな事は些細な問題でしかなかった。
「……そうですね。流石はお嬢様、素晴らしいお考えございます」
そこでタチバナは一度言葉を切るが、その様子から未だ続く言葉がある事を何となく感じ取ったアイシスは、タチバナにしては珍しいと思いながらも黙ってそれを待つ。少々の時を沈黙が支配した後、タチバナがゆっくりと口を開く。
「……私の美的感覚が、お嬢様の言葉通り実際に磨かれて行けばの話ですが」
タチバナはそこでもう一度言葉を切る。業務に於いて必要なものや、論理的な思考に基づいたもの。基本的にそういった言葉しか話して来なかったタチバナにとって、今から伝えようとしている様な言葉を紡ぐ事は簡単ではなかった。先程よりも短い間を置いて、タチバナはもう一度口を開く。
「……いつかまたこうして同じ空を見上げ、共にそれを心から綺麗だと思う事が出来たなら。それは……きっと、素晴らしい事だと思うのです」