第130部分
その後のアイシス達は落ち着いた速度で北西に歩き続け、気付けば西方の森林は先程よりも大分近くに見えていた。だが、着実に歩を進めてはいたものの、結局水源を見付ける事が出来ないままに日没の時が近付いて来ていた。
「……大分陽も傾いてきたし、そろそろ夕食やらの準備をしなきゃいけなそうね」
アイシスが穏やかな口調で言う。アイシスは特に負の感情を抱いていた訳ではなかったが、先程までのテンションとの落差により、タチバナにはそれが残念そうに呟いた様に聞こえた。
「……私の見通しが甘かったばかりに、お嬢様に――」
「いえ、本当に気にしていないから大丈夫よ。それは、未だ西の森に入れていない事を少し残念には思っているけれど、別にそれはタチバナのせいではないでしょう。寧ろ、一時的にでもあんなに元気が出せたのは貴方の言葉のお陰よ。ありがとう、タチバナ」
それ故に先程は見送った謝罪をしようとするタチバナを、文脈からそれを予測したアイシスが遮って話し出す。それぞれが自身の話を大切な事だと思った結果、アイシスが話した際には二人は見つめ合う格好になっていた。
アイシスとタチバナの仲は、当初よりも大分近くはなっていた。それは両者に共通する見解でもあったが、目を合わせる事に慣れてはいない事も共通していた。タチバナはそれによる若干の動揺を精神力で抑える事が出来ていたが、そもそもの動揺がより大きく、特別な訓練等も受けていないアイシスにはそうはいかなかった。
「……だからその事はもう気にしないで、早く夕食の準備を始めましょう。歩いていてテントを張るのに適した場所があったら直ぐに言って頂戴」
顔を真っ赤にして前を向いてから、アイシスが早口で捲し立てる。それを見ていたタチバナは、自身の胸の奥に未知の感覚が湧き上がるのを感じながら思っていた。互いが余所見をしていた今、障害物が目の前に現れなくて良かったと。
「……かしこまりました。そういう事でしたら、この辺りでも特に問題は無いかと思われます。私はテント等を準備致しますので、お嬢様は此度も薪拾いをお願いしてもよろしいでしょうか」
周囲を軽く見渡した後、タチバナが淡々とした口調で言う。付近に魔物や獣の気配は無く、適度に草木が茂っている為無駄に目立つ事も無い。偶然ではあるが、アイシスも随分と都合の良い場所でそれを言い出したものだとタチバナは思っていた。
「分かったわ、任せて頂戴」
茜色に染まった空の下、アイシスはタチバナの依頼を妙に元気良く受諾する。それはタチバナにとっては何気ない依頼であったが、当然の様に自身に仕事を任せてくれた事がアイシスにとってはとても嬉しい事なのであった。
コロコロと変わるアイシスの表情を不思議に思いながら、タチバナは颯爽と薪拾いに向かう主を見送った。この様な雑用を喜んでこなす等という事は、かつてのアイシスからは考えられない事であったが、タチバナはそれに疑念を抱いたりはしなかった。ただ、主のその変化は好ましいものなのだろうと思っていた。
タチバナに背を向けたアイシスは、真剣に地面を見渡しながら歩いていた。たかが薪を拾うだけの事ではあるが、タチバナに託された仕事であると思えば全く退屈などではなかった。更に、今日の昼食を経験した事でこの後の料理への期待も高まっているアイシスは、これまででも最高のモチベーションで薪を拾っていくのであった。
「お帰りなさいませ、お嬢様。ですが、未だ夕食の準備が済んでおりません。申し訳ありませんが、もう少々お待ち下さい」
その結果、アイシスは初めてタチバナの準備が終わる前に拠点に戻って来たのであった。無論、手を抜いた訳ではないので集めた薪には量、質共に問題は無い。
「あら、そうなの。まあ、気にしないで良いわよ。どうせ、火を点けてからの待ち時間は変わらないしね」
集めた木の枝と枯れ草をテントの付近に用意された竈の傍に置きながら、アイシスが答える。漸く自分の仕事も少し早くなったのかな。そう思ったアイシスであったが、冷静に考えれば、自身が薪を拾っているだけの間にこれだけの準備が済んでいる方がおかしかった。その事に気付いたアイシスであったが、それについては今後も気にしない事にするのだった。
「ありがとうございます。可能な限り急いでご用意致しますので、楽になさってお待ち下さい」
そう答えながらもタチバナが何やら調理している姿が、アイシスには気にならないと言えば嘘になった。だが、勝手な想像の可能性もあるが、タチバナはそれを、少なくとも積極的に見て欲しくはない筈である。今までの調理のタイミング等からそう考えていたアイシスは、空でも眺めて時間を潰す事にする。
夕焼けが夜に移り変わりつつある時にだけ見る事が出来る、何とも幻想的な色合いの空。アイシスはそれを眺めながら心底綺麗だと思ってはいたが、やはり意識は食事の方に引っ張られていた。この光景は旅立った初日に既に見ていた上に、つい先程に人生でも最高とも言える食事を味わったとはいえ、アイシスは自身に少しだけ呆れていた。
「私って、花より団子なタイプだったのね」
その呟きは調理の音や環境音に紛れ、タチバナの耳に届く事も無く風に流れていった。