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第128部分

「お帰りなさいませ、お嬢様」


 その後も蟹を眺める事を存分に楽しんだアイシスが荷物を置いた場所の近くまで戻ると、タチバナの声が出迎える。かつての経験から、アイシスはタチバナにその言葉を言われる度に特別な喜びを覚えていたが、それは今度も例外ではなかった。


「ただいま、タチバナ」


 とはいえ、その感情は前世に由来するものなのだから、むやみに表に出す必要は無い。そのような考えから、アイシスはあくまで普段通りの態度でそれに応じる。尤も、その感情は表情にも現れてしまっていたが。


「蟹を探されていた様に見受けられましたが、昼食の量が不足していたでしょうか? それならば、言って頂ければよろしかったのですが」


 タチバナはアイシスの表情の変化には気付いていたが、無論、その内心までを正確に読み取れる訳ではない。その為、タチバナは自身が先程見たアイシスの動き等からその表情の理由を推測した。その結果としてタチバナが導き出した答えは「アイシスは美味しそうな蟹を沢山見付ける事が出来て喜んでいる」というものだった。


「……あのねえタチバナ。貴方の中で、私はどれだけ食いしん坊という事になっているのかしら? あれはね、蟹の見た目や動きが可愛いから眺めていただけよ」


 珍しく……いや、出会って以来初めて、アイシスはタチバナに心底呆れながらそう言った。タチバナが多くの物事を合理性を重視して考えている事は理解していたが、それを他者、それも主である自身の行動にまで適用する程とはアイシスも思ってはいなかった。その考え方自体はタチバナの個性だと尊重はするものの、自身が妙に食いしん坊扱いされる事には納得がいかないアイシスなのであった。


 対するタチバナの方は、若干の困惑を以てアイシスの言葉を受け止めていた。先程の栗鼠の様な小動物であれば、それを眺めて楽しむという事も一応は理解する事が出来た。だが、蟹を可愛いと言って眺めるというアイシスの言動は、タチバナの感性から見ても、この世界での一般的な考え方からも理解し難いものだった。


 その様な背景があるとはいえ、自身の言葉で主の機嫌を損ねてしまったのは事実であり、それはタチバナにとっては痛恨の極みとも言える事だった。アイシスが本気で怒っているとはタチバナも思っていないが、たとえ僅かであっても、自身が原因でアイシスに不快な思いをして欲しくはなかった。


「……そうでしたか。それは大変失礼を致しました。……ではお嬢様、既に準備は完了しておりますが、直ぐにご出発なさいますか?」


 そうしてタチバナが選んだのは、素直な謝罪と迅速な話題の転換であった。アイシスとしても、タチバナのあまりの合理性に呆れてしまったというだけの事であり、特に不快に思ったという訳ではない。話題の転換にはやや強引さを感じたものの、こうして素直に謝られてしまえば、それ以上気にする必要は無かった。


「……そうね。此処での水の補給を見送った以上、なるべく早く新たな水源を見付けなきゃいけないから、直ぐにでも出発しましょう」


 アイシスは一度だけ首を横に振り、気を取り直してこれからの事に意識を向けてそう口にする。それを聞いたタチバナもその意図を汲み、意識を今とそれより先の事へと集中させる。この旅の目的地は遥か先であり、未だそこに近付く為の迂回の最中なのであった。


「かしこまりました。それでは、再び北上を開始すると致しましょう。此処から西方を見る限り、若干ではありますが森林の密度が下がってきていると思われます。早ければ本日中には、南下に転じられるかもしれません」


 そのタチバナの発言は、あくまで可能性の話であった。かつてのタチバナであれば、明言するには根拠が不十分であるとして発言を控えていただろう。にもかかわらず、タチバナが敢えてそれを口にしたのは、アイシスを元気付ける為だった。


 アイシスの情熱が衰えていると思った訳ではないが、目的地に向かう為とはいえ、自分達はそこから遠ざかり続けて既に四日目を数えている。ただでさえ慣れない冒険の旅をしているというのにそんな事を続けていては、アイシスが如何に強い意志を持っていても、多少なり精神に影響が出ている筈である。気丈に振る舞っていても、アイシスは自身とは違い、あくまで普通の少女なのだ。


 その様な考えからのタチバナの発言であったが、果たしてその効果は覿面であった。


「えっ、本当? 私には全然違いが分からないけど、貴方が言うならそうなんでしょう。それじゃあ、こうしちゃいられないわね。直ぐに出発するわよ!」


 高いテンションでそう捲し立てると、タチバナの返事も待たずにアイシスは荷物を持って歩き出す。まさか、これ程の効果が現れるとは。直ぐに自身の荷物を抱えてその後を追いながら、タチバナはそんな事を思っていた。


 タチバナは自身の身体能力や戦闘能力、つまり物理的な影響を与える力には絶対的と言っても良い程に自信を持っていた。その反面、言葉で人を鼓舞する様な、精神的な影響を及ぼす力が自身にあるとは思っていなかった。


 だが、気紛れに発してみたアイシスへの励ましが、こうも見事に効果を発揮している。それが自身の言葉の力なのか、或いはそれを受け取ったアイシス側の精神力が優れているのか。それは自身にも分からなかったが、どちらにせよ、タチバナは悪い気分ではなかった。

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