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第127部分

 だが、アイシスの予測とは裏腹に、タチバナはその質問に即答する事は出来なかった。自身を基準に考えれば、アイシスの質問には肯定の答えを返す事になる。そうタチバナは考えていたが、自身の肉体が特別である事は本人も理解していた。


 タチバナは生来の強靭な肉体を訓練によって更に強化してきた過去を持っており、それは胃腸も例外ではなかった。その為、汚染度に明確な問題がある場合を除き、タチバナはそう言った水の安全性等を気にした事は無かった。それ故に、タチバナはそういった野外での生存の為の知識をあまり重要視して記憶していなかったのである。


 無論、安全である事を確信出来ないのであれば、アイシスの質問には否と答えれば済む事はタチバナも理解している。だが、ある程度確かな根拠も無く主の質問に答えを返す事は、タチバナの従者としての誇りに障る事だった。その為にタチバナは必死で過去の記憶を辿り、該当する知識を呼び起こそうとしていた。


「……そうですね。川には様々な生物が棲息しており、その水にはそれらの死骸や糞が含まれているので直接の飲用には向かない……という話を目にした事がございます。無論、含まれると言ってもそれらは微量なので、洗い物や洗濯等に使う分には問題はありません。飲用としても、早急に飲料水を確保すべき状況であれば飲む事も止むを得ないという程度だとは思われます。とはいえ、その水筒の中身がある程度残っているのであれば、次の湧水を見付けるまで待つ方が得策かもしれません」


 幸いにも該当する記憶を探し当てる事に成功したタチバナは、自身の持つ他の知識と比較する事でその整合性を確かめてからアイシスの問いに答える。タチバナにとっては更に幸いな事に、それら全ての工程を経てもなお、アイシスは回答までを待たされたと感じてはいなかった。


「成程ね、ありがとう。そういう事なら、此処での補給はしない事にしておきましょう。それじゃあ、今度こそ行って来るわ。邪魔をして悪かったわね」


「いえ、どうかお気になさらず。お気を付けて行ってらっしゃいませ」


 そう言ったアイシスはタチバナの返事を聞くと、タチバナの居る位置よりも上流側を目指して歩き出す。実の所を言えば、死骸や糞が含まれるという下りを聞いた事で、アイシスは川での洗い物等に若干の抵抗感が芽生えていた。とはいえ、それが目に見える様な影響を生まない程に微量である事も、少女の居た世界の様な、塩素を用いた清潔な水道等がこの地には存在しない事も、アイシスは十分に承知していた。


 直接的な言葉を耳にした為に、それが気になってしまっているだけである。自らそれを理解しているアイシスは、気分を変える為にも目の前の景色に目を向ける。眼前を流れる川の水は美しく澄んでおり、タチバナの言葉を聞いていなければ飲用にしても全く問題が無い様に思える程であった。


 タチバナの話が無ければ、これを飲んでお腹を壊してしまっていたかもしれない。そう考えれば、タチバナには感謝をすべきである。アイシス自身も心からそう思ってはいたが、その言い方には苦言を呈したい気持ちが無い訳でもなかった。だが同時に、その歯に衣着せぬ様な物言いにタチバナらしさを感じ、アイシスは嬉しさに似た感情が湧き上がるのを感じていた。


 そのように様々な感情が自身の中で渦巻くのを人知れず感じていたアイシスだったが、ふとある事を思い出す。


「そう言えば、こういう川では……」


 そう呟きながら、アイシスは川沿いにある石の片側を持ち上げてその下を覗く。


「うえっ、何よこの虫」


 その直後、アイシスは渋い顔をして呟く。石の下で見付かったのは、アイシスが期待していたものとは違う生き物だった。それは独特な形をした川虫の類であったが、アイシスには得体の知れないものとしか認識されなかった。それを潰してしまわぬ様にそっと石を戻すと、アイシスは恐る恐る次の石を持ち上げる。すると、そこには探していた生物が隠れていた。


「あ、本当に居た。ちょこちょこ動いて可愛いわね」


 突如自らが潜んでいた場所の天井が消え、大慌てで走り始めたのは橙色をした小さな蟹だった。それを見たアイシスは、先程の虫の時とは随分と異なった感想を口にする。人によっては似た様なものと評される事もある両者であったが、アイシスの感性ではそこに大きな差がある様だった。


 洗い物をしながらも適宜アイシスを目で追っていたタチバナは、主の行動を見てその意図を考えていた。そう言えば、この様な川で捕れる沢蟹というものは、油で揚げると美味いらしい。という話を何処かで聞いた気がするが、アイシスもそれを知っていたのだろうか。だが、先程昼食を取ったばかりの筈だが、量が足りなかったのだろうか。もしそうならば、言って貰えれば良いのだが。そんな事を考えながらも、タチバナは先に目の前の業務を片付ける事にするのだった。


 持ち上げた石が倒れてしまわぬ様に手で押さえながら、横向きに走る蟹を目で追っていたアイシスだったが、その蟹は直ぐに別の石の下に隠れてしまう。


「あら、残念。可愛かったのに」


 そう言いながら石をそっと戻すアイシスの頭からは、タチバナの言葉から生じた先程の抵抗感は既に消えているのだった。

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