第118部分
「お嬢様、お喜び下さい。どうやら当たりの様です」
二人がその足を速め始めて少し経った頃、ふとタチバナが口にする。その声が心なしか、いつもよりも弾んでいる様な気がする。アイシスにはそう感じられたが、それが事実なのか、それとも自身が持つ背景となる情報による思い込みなのかは分からなかった。
「それは良かったわ。まあ、私には全く分からないけど、貴方が言うならそうなんでしょう」
そのタチバナの言葉に対し、アイシスが即座に答える。先程タチバナが言っていた「草木が生えていない」という事さえ、アイシスには未だに何の事やらという具合であった。だが、タチバナがそう言っているという事は、アイシスにとっては自身の視覚で捉える情報と同等かそれ以上に信用出来るものだった。
そのアイシスの声は普段より弾んでおり、タチバナは明確に主の喜びを察する事が出来た。それは漸く昼食の目途が立った為だろう。そうタチバナは判断したが、それが本当に正しいのかは分からなかった。自身は他人が論理的にどう考えているかを推察する事に長けている。そうタチバナは自負していたが、他人の心情についてを理解する事は難しいと考えていた。殊に喜び等の正の感情に関しては、自分はその感覚そのものさえ知らない。そうタチバナは思っていた。
「……はい。こうしている間にも徐々に近付いておりますが、間違いないと思われます。後は実際に魚が居るかどうかですが、こればかりは近くまで行かなければ分かりませんね」
ああ、そうか。実際に川があったとしても、魚が居るかどうかはまた別か。タチバナの言葉を聞いたアイシスはそう思ったが、それと同時に気付いた事もあった。タチバナは魚が居るかどうかだけを気にしているという事は、実際に魚が居れば確実に確保出来ると思っているという事だろう。現状では網や釣り具等は持ち合わせていないにもかかわらず、流石の自信である。その頼もしさに、アイシスのタチバナに対する信頼は更に増すのだった。
「きっと居るわよ、ちゃんと食べられる魚がね。……もし居なくても、まあ干し肉を使えば良いでしょう。それが底を尽きたとしても、別に主食さえあれば生きてはいけるわよ」
そうして自らが絶対的な信頼を置くタチバナに対し、自身が出来る事は精神的な配慮くらいしかない。彼我の能力の差からそう考えているアイシスは、出来るだけ楽観的な言葉を選んで口にする。だが本人にとって幸いであるのは、それが自身の本心と殆ど剥離の無いものであるという事と、それこそが最も自身に不足しているものであると、タチバナが考えているという事である。
「……そうですね。それでは余計な憂慮は止め、このまま先を急ぐと致しましょう」
「ええ」
そのアイシスの返答を最後に、二人はまた黙って歩を進めていく。そう時間が経たぬうちに、アイシスはタチバナの言っていた「草木が生えていない場所がある」という意味を漸く理解する。こうして近付いてみれば、確かに緑が薄い部分がある気がする。そんな事をアイシスが思ってからまた少し歩いた頃だった。
水の流れらしきものを漸く視界に捉えたアイシスが、思わず口を開く。
「どうやら着いたようだけど、思ったよりずっと浅いというか何というか。こんな所で魚なんて採れるのかしら?」
それが想像していたよりもあまりに規模の小さいものだった為、先程の思いは何処へやら、アイシスは思った事をどんどんと口にしてしまう。だがそれは、どちらかと言えば都会と言える街に生まれ、所謂アウトドアの経験もあまり無いままに生きていた少女としては、仕方の無い感想だと言えるだろう。
「いえ。実際に見た事が無いのであればそう思われるのも仕方が無いですが、これは中々に期待が出来る川だと言えるでしょう。早速何匹か確保致しますので、少々剣を……と言いたい所ですが、なるべく新鮮な状態で調理する為にも、先ずは他の準備をすると致しましょうか」
そんなアイシスとは対照的な意見をタチバナが口にすると、それを聞いたアイシスは即座に自らの認識を改める。だが、その際のタチバナの様子には若干の違和感を覚えていた。普段から常に冷静なタチバナだが、この時には何だか少し気が逸っている様な気がした。それ程に魚を食べるのが楽しみなのだろうか。実際にそうであるかは分からなかったが、アイシスはタチバナの可愛い所をまた見付けられた気がして嬉しさが込み上げてくるのだった。
「それでは、お嬢様は今回も薪拾いをお願い致します。川の付近では落ちている枝も湿っておりますので、少し離れた所で探して頂いた方がよろしいでしょう。ですが、あまりに離れる様な事は――」
「分かっているわ。それじゃあ、行って来るわね」
タチバナの言葉を遮ってそう言うと、アイシスは来た道を少し戻る様に歩き出す。人の事を可愛いなどと思っていたが、既にこれまでの昼食よりも遅い時間帯になっており、アイシス自身もいい加減に空腹が限界に近付いているのだった。