第115部分
「そうですね。栗鼠はそう珍しい動物ではありませんが、簡単に見付かるかと言えば話は別ですので、お嬢様は幸運であったと言えるかもしれません。……それでは、そろそろ出発すると致しましょうか?」
意図的に仕事の効率を落として尚、準備を終えてからも暫くの間アイシスを待っていたタチバナがそう尋ねる。主を急かすつもりは無いが、合理的に考えても出発が早ければ早い程良い事は間違いなかった。
「そうね。それじゃあ、もう出発しましょう。一応訊いて置くけれど、未だ北に行くのよね?」
アイシスはその提案を素直に受け入れ、荷物を拾うと主として改めて出発の号令を掛ける。その直後にふと浮かんだ疑問も、アイシスは特に躊躇ったりはせずにタチバナへと問い掛ける。その疑問の解はアイシス自身も何となく予想は出来ていたが、もう三日程は北上を続けている事や、目的地が南西方向な為に直線距離では離れ続けている事もあり、アイシスはそれを訊かずにはいられなかった。
「……そうですね、未だ西方に見える森林は足を踏み入れる事が難しい様に見えます。ですが、これまでの道中に経験してきた事を考えれば、これからの旅路でそれら以上の事件に遭遇する可能性は低いでしょう。ですので、きっと今日からは今まで以上に速やかに目的地へと近付く事が出来る筈です」
西側の遠方を観察しながら口を開いたタチバナが、アイシスを励ます様な言葉を口にする。根拠が全く無いという訳ではないが、不確かな情報を元に主を励ます等という事は、以前のタチバナでは考えられない言動であった。それはタチバナ自身の見解でもあり、アイシスも少し意外に思う様なものでもあった。
「……そうね、きっとそうよ。いえ、そうであると私が今決めたわ。さて、そうと決まればさっさと行きましょう!」
とはいえ、タチバナの励ましはアイシスにとって喜ばしい言葉以外の何物でもなかった。これまでにも幾度か見せたハイテンションを発揮し、アイシスは勢いで謎の言葉を発しながら歩き出す。それは自身の励ましとは比べ物にならない程に無根拠なものであり、タチバナは自身の言動について反省する事を馬鹿馬鹿しく思うのだった。
「……そうですね」
そう短く答えると、タチバナはすっと移動して先行するアイシスの右側へと並ぶ。こうして突然自身の隣に人が来る事にも随分と慣れ、アイシスは既にそれが当たり前の様に感じていた。そんな事が当たり前だと思えるのは、タチバナと一緒に過ごしているからだ。そう思うと、アイシスの胸にはまた喜びが溢れて来るのだった。
そうして胸の中に様々な正の感情を浮かべながら、アイシスはタチバナと共に荒地を北上していった。それは本日も穏やかな日差しを浴び、爽やかな風に吹かれての旅路であった。それらを肌で楽しみながら、アイシスは先程の自身の発言に真実味を覚えていた。こうも毎日良い天気に恵まれて、こうして平穏な……。そこまで考えた所で、アイシスは直前の自身の思考を撤回する。これまでの旅路は、平穏とは程遠いものであった、と。
とはいえ、本日の旅路がこれまでの所は平穏かつ順調なのは間違いなかった。魔物に遭遇する事も無く、迂回を余儀なくされる様な障害物に遭遇する事も無い。穏やかな陽気に包まれ、過ぎ行く景色の変化を何となく感じながら着実に歩を進める。今回と同じ程度の期間で区切れば、同様に順調な旅路であった事は幾度もあった。だが、それが久し振りだと感じる程に、アイシス達の旅路は濃密な事件と共にあったのであった。
その道中が平穏かつ順調なのは確かであったが、その間にアイシスとタチバナの間に会話らしい会話は無かった。両者共に少なからず互いの距離が縮まっているとは思っており、拠点等ではそれなりに自然な会話も出来ていた。だがこの様な歩行中には、両者それぞれの理由により、何かしらの事件でも無い限りは会話が行われる事はあまり無いのであった。
アイシスが会話をしない理由は単純だった。話題が無いのである。元より対人のコミュニケーションの経験が乏しい少女にとって、特に話題が無い状態での会話は至難の業であると言って良かった。互いを良く知るという意味では鉄板とも言える、過去の話題が両者にとってタブーである事も、その大きな理由の一つではあった。
タチバナの理由も単純ではあったが、アイシスのそれとは性質の違うものだった。タチバナは周囲の警戒に割く為の意識を、自らの意思では僅かでも他の事に使いたくはなかった。無論、アイシスから話し掛けられた場合は別である。主の疑問に答えたり話し相手になる事は、当然だがタチバナにとって警戒範囲を広く保つ事よりも大切な事だった。尤も、タチバナもアイシスと同様にコミュニケーションが不得手ではある為、アイシスと同様の理由も無い訳ではないのだが。
とはいえ、アイシスはもうその様な沈黙を重苦しく感じてはいなかった。タチバナが自ら積極的に話をする類の人間でない事は既に理解しているし、会話ならば休憩時等にいくらでもする事が出来る。そして何よりも、こうして隣を歩ける事自体がとても嬉しい。そう思うと、アイシスには寧ろこの沈黙が愛おしくすら感じられるのだった。