第114部分
「ええ、ありがとう。それじゃあ、縁があったらまた会いましょう、勇者様」
アイシスはそう言って手を軽く振ると、改めて水場の方へと歩き出す。タチバナは何も言わずに頭を下げると、アイシスの後を追う。それらの背中を見送りながら、ライトは思っていた。この短期間でも、人は変われば変わるものなのだな、と。
そうしてライト達と別れたアイシス達であったが、水場からそこまで離れた所にテントを張った訳ではなかった為、早々に水場へと辿り着く。今度も水場には先客が居たが、それは小鬼の様な危険で醜悪な者ではなかった。
「あ、可愛い!」
そう言ってアイシスが駆け寄ると同時にその場を去ったのは、二匹の栗鼠だった。栗鼠達は水場の淵に立って器用に水を飲んでいたが、自身より遥かに大きな生物が自らの許に接近して来ては、遁走するのは生物として当然の事であった。無論、それはアイシスも理解してはいた。だが、生まれて初めて直に見た栗鼠のあまりの可愛らしさに、少女は自らの童心を抑え切れなかったのであった。
「あ、逃げちゃった。……まあ、それはそうよね」
アイシスが残念そうに呟く。主のその一連の動きを見たタチバナは何も言わず、ただ大きく息を一つ吐く。そのまま歩を進めてアイシスに追い付くと、荷物を地面に置いてから口を開く。
「それでは、先ずはお嬢様からお水を補給なさって下さい。その後は私が用事を済ませてしまいますので、お嬢様は付近の散策等をなさるのも良いでしょう」
そうしてタチバナが口にした言葉は何気ないものであったが、それが直前の自身の行動を受けてのものである事にはアイシスも気付いていた。
「ええ、ありがとう。悪いけど、私の荷物も置いていっちゃうわね」
その気遣いへの感謝を素直に述べると、アイシスは自身の水筒を濯いで水を補給する。タチバナの気遣いに報いる最良の方法は、その意を汲んで自分がしたい事をする事である。そう思ったアイシスは、それを最大限に楽しむ為に、邪魔な荷物をタチバナに任せる事にする。
「いえ。此方もそう長くは掛からないと思いますが、どうぞお楽しみになって来て下さい」
アイシスの言動から自身の気遣いが伝わった事を確認したタチバナは、そう言って主を送り出す。自身には今一つ理解が出来ない感覚ではあるが、先程の行動から見てもアイシスが栗鼠に強い興味を持っていた事は明白である。であるならば、自身の仕事の待ち時間位はそれに使うのも良いだろう。そう考えたタチバナはその人生で初めて、意図的に少しだけ効率を落として仕事をする事にするのだった。
「それじゃあ、ちょっと行って来るわね」
そうタチバナに言い残し、アイシスは先程栗鼠が走り去った方へゆっくりと歩き出す。そう簡単にもう一度栗鼠が見付かるだろうか。それは両者に共通した考えではあったが、アイシスにとってはどちらでも良い事だった。この世界で目覚めて以降、少女はあまりにも様々な事を味わって来た。そんな少女にとっては、こうして可愛いものを求めて自由に動ける時間そのものが貴重な息抜きであり、旅の目的の一つでもあるのだった。
「茂みに入られてしまっていたら、探し様が無いわね」
そう小声で呟きながら、アイシスは辺りの地面を見渡す。その最中には昨日小鬼を討伐した際の血痕等も目に入ったが、アイシスはそれを見なかった事にした。その後もタチバナから離れ過ぎない範囲で地面を凝視しながら歩いていたが、見付かったのは良く分からない昆虫位であった。
これはまさに、砂漠に落としたコンタクトレンズを探す様なものなのでは。そうアイシスが気付くのに、多くの時間は掛からなかった。中腰で下を見て歩いていた為に少々疲れを覚えた身体をぐっと伸ばすと、アイシスはふと一つの事を思い出す。
栗鼠と言えば、良く木の枝に乗っている姿を描かれていた気がする。そう考えたアイシスは、視線を上げて樹木の枝を探す事にする。今度は首が痛くなりそう、等と思いながらも、足元と木々の枝々を交互に見ながら注意深く辺りを探し回る。そうして暫しの時が経った頃だった。
「あ――」
自身の驚きの声を自らの手で抑えながらアイシスが見たのは、とある木の枝に二匹で向かい合う栗鼠だった。結構な高さの枝であった為に、アイシスにはその姿がとても小さくしか映らなかったが、それでもアイシスは叫んでしまいそうな程の感動を覚えていた。
無論、その殆どは栗鼠を見付ける事が出来たという事と、その可愛さによるものであった。だが、こうして自由に身体を動かして目標を達成するという事は、少女にとって長い間出来なかった事でもある。その様な事情がこの感動を強めている事も、紛れもない事実であった。
暫しの間アイシスはその栗鼠達を眺めていたが、やがて何かに気付いたのか、栗鼠達はまた何処かへ走り去っていった。「あら、行っちゃったわ」そう呟いてアイシスは残念がるが、今度はその行き先を探したりはしなかった。
「お帰りなさいませ。その様子では、どうやら栗鼠を見付ける事が出来た様ですね」
「ええ、ついていたみたいね」
アイシスが水場へ戻ると、既に出発の準備を万端に整えていたタチバナがそう言って主を迎える。そんなに分かりやすい表情をしていたかしら。そんな事を思いながら気の無さそうな返事をするアイシスだったが、その顔には心中を看破されても仕方が無い笑顔を浮かべていた。