第113部分
「そうね……って忘れていたわ。タチバナ、これをお願い」
タチバナの言に従って水場への移動を開始しようとしたアイシスだったが、寸前で大切な事を思い出す。身に付けたポーチの一つから白いリボンを取り出すと、そう言いながらそれをタチバナの方へと差し出す。
「……かしこまりました。それでは、そこの石にお掛け下さい」
そう言われる事を内心で待っていたタチバナは、少しの間を空けてから返事をしてアイシスの背後へと移動する。「忘れていた」という主の言葉は、タチバナが少しだけ抱えていた不安を、ものの見事に解消させたのだった。
タチバナが言い終える前には既に座っていたアイシスの頭頂部に、タチバナからの贈り物である白いリボンが、今日も贈り主の手によって付けられる。自らの頭部に何か物足りない感覚を覚えていたアイシスであったが、漸くいつもの調子を取り戻せた気がした。
「これでよろしいでしょう。……良くお似合いだと思います」
「ありがとう。やっぱり、これが無いと締まらないわね」
アイシスの髪を梳かし、リボンを結び終えたタチバナが作業の完了を報告すると、アイシスは礼を言って立ち上がる。やはり余計な一言であったか。アイシスの淡白な反応にタチバナはその様な事を思ったが、アイシスの満面の笑みが目に入るとその考えを改めるのだった。
「それじゃあ、今度こそ水場の方へ移動しましょう」
自らの分の荷物をタチバナから受け取ると、アイシスがそう言ってライト達のテントよりやや右側の前方を指差して歩き出す。タチバナに急に褒められた事による自身の頬の紅潮を、アイシスはあまり見せていたくはなかった。
「はい。ですが、私にはその前にする事がございます。お嬢様は、先に水場の方へお向かいになって下さい」
「えっ、ちょ……」
そう言うと、タチバナはどんどんとライト達のテントの方へ歩を進めて行く。タチバナはライト達とはあまり関わりたくないのでは。そう思っていたアイシスはその行動に不意を突かれるが、直ぐにその意図を察する。そしてほんの一瞬何かを考えた後、タチバナの後をついて行く。
タチバナがライト達のテントの傍に近付くと、先ずライトがそれに気付く。何か用か、と声を掛けようとするが、直ぐにその意図を察してその言葉を呑み込む。エイミーは既にテントの内部へと姿を消しており、ユキは何をするでもなくテントの入り口の前に立っていた。
タチバナの方もライト達に何かを話し掛けるでもなく、真っ直ぐに小鬼の死体へと歩み寄ると、その額に刺さっていたナイフを引き抜いた。
「あ、あの……」
その直後、タチバナの背後からユキが遠慮がちに声を掛ける。その前のユキの移動に気付いたアイシスは、少し離れた場所で足を止めてその様子を見守る事にする。それはライトも同様であったが、両者ともユキの意図までは把握していなかった。あの寡黙で大人しいユキが、同じく寡黙なタチバナに何の用だろう。その様な、概ね同じ思いを抱えながら、アイシス達はユキの言葉の先を待つ。
「……何の御用でしょうか」
それと似た様な思いを持っていたタチバナが、ナイフの血を素早く拭い、それを鞘に納めてから振り向いてそう問い掛ける。人によっては冷淡に聞こえる様な口調ではあったが、タチバナ本人としては純粋にその要件を尋ねただけである。
「ひっ。いえ、ちが……」
その口調とタチバナが持つ鋭い気配、そして本人の臆病な性格が合わさり、ユキは言葉を詰まらせる。自らを前にしてのその怯え様に、タチバナは嫌という程見覚えがあった。だが、自身が特に危害を加える気も無い相手であり、かつ自ら話し掛けて来た相手にそうされては、タチバナも困る事しか出来なかった。
「あ、あの! エイミーちゃんを助けてくれて、どうもありがとうございました!」
ユキは早口でそう言って頭を下げると、タチバナの返事も待たずに走り去り、テントの中へと消えて行った。想定外の言葉に、同じく想定外の行動。これまでの人生に於いて、自身がこれ程までに不意を突かれ、瞬時の反応が出来なかった事があっただろうか。取り残されたタチバナは、そんな事を考えていた。
「……遅ればせながら、僕からもお礼を言わせて下さい。あなた方に対して数々の失礼な振る舞いをしたにもかかわらず、エイミーを助けてくれてありがとうございました」
テントの前から移動していたライトも、改めてタチバナに礼を述べて頭を下げる。
「……いえ、どうかお気になさらず。お嬢様の従者として、お客様を危険な目に遭わせる訳には参りませんので。……先程の方にも、そうお伝え下さい」
「ご謙遜を。ですが、彼女にもそうお伝えしておきます。お引き留めして申し訳ありませんでした。それでは良い旅を。アイシスも、幸運を祈っているよ」
タチバナの言葉をライトは謙遜として捉えたが、本人としては純然たる事実を述べたつもりだった。自身はアイシスの従者として当然の務めを果たしたに過ぎず、礼を言われる筋合いなど無いと本気で思っていた。
だが、それは正しい認識なのだろうか。自身が他人とは異なる感性を持つ事を知るタチバナはそう思うと、能力的にはあり得ない事ではあるが、逆の立場を想像してみる事にする。アイシスの命を、他の誰かの手で救われる様な事が起きたならば……。それがどの様な意図によって行われたにせよ、自分はその相手に礼を言う事になるだろう。タチバナがそう思った時だった。
「お陰で助かったわ。……ありがとう」
同じ空間内のユキの耳にも届かない、本人としては独り言のつもりであるエイミーの言葉がタチバナの耳に届く。自分達を良くは思っていなかったであろう相手が、誰にも聞こえていないと思って言った言葉。それにより、タチバナは自身が直前にした認識の変更が正しい事を確信するのだった。