第108部分
「……はい。以前に一度お会いしたのですが、どうやら覚えてはいらっしゃらない様ですね。まあ、その時は私が自己紹介した訳ではありませんでしたので、無理もないかとは存じますが」
とはいえ、流石にそろそろ沈黙が長くはないか。そうアイシスが思った頃、漸くタチバナが言葉を返す。表面上は丁寧な言葉遣いであり、表情も普段とは変わらなかったが、何処か棘を感じる様な言葉だとアイシスには感じられた。
「……そうでしたか、それは失礼しました。もうご存じとは思いますが、僕はライト・ウィーバー。啓示により選ばれた勇者です」
タチバナの指摘は事実だった様であり、ライトは素直に謝罪をした後、改めて自己紹介をする。無論、本来のアイシスは知っていただろうが、少女はそこで初めてライトのフルネームを知る。だが、少女はそれにさしたる興味を持つ事は無かった。
「……何でライトがあんなメイドなんかに謝らなきゃいけないのよ」
エイミーが再び小声で呟く。その声はすぐ隣に寄って来ていたユキと、ライトを挟んで更に遠くにいたタチバナの耳にだけ届いていた。それを聞いたユキはおろおろとしていたが、タチバナは特に反応を示さなかった。更に言えば、タチバナはライトの言葉に対しても、反応を示していなかった。
「……タチバナと申します。アイシスお嬢様の従者をしております」
先程と同様に暫しの間を置いてから、タチバナが答える。口調も表情も普段のままではあったが、やはり何か様子が違っているとアイシスには思えた。
「はい。よろしくお願いします、タチバナさん。……それで、アイシス。君達を探していた訳なんだけど……」
だが、ライトはそれを気にする様子も見せずにタチバナに挨拶を返すと、アイシス達の許に訪れた理由を話し始める。先程までは笑顔も交じっていたその表情をやや曇らせながら。その変化からして、あまり良い話では無さそうね。アイシスはそう思ったが、ともあれ漸くその理由が聞けると、静かにその話に耳を傾けるのだった。
「君達も既に知っていると思うけど、先日、僕らの前にある魔族が突然現れたんだ。僕らは果敢に立ち向かったが、その魔族の力は強大で、僕らでは及ばなかった。幸いにも誰かが命を落とす事は無かったけど、三人掛かりで戦ったにもかかわらず、ただ一人の魔族に敗れたという事は、僕らにとってはとても……衝撃的な出来事だった」
悔しそうに表情を歪ませながら、ライトが事の顛末を話す。それを聞きながら、アイシスは思っていた。その魔族って黒星の事よね。まあ、本人とタチバナの話を聴いた限りでは、殆ど事故みたいなもので仕方が無いとは思うけど、そんな事は本人達には知る由も無いか。
そして、ライトからやや後方の木に寄り掛かったまま、アイシス達の方には近寄らずにいたエイミーは、歯を食いしばって更に悔しそうな表情を浮かべていた。その隣のユキも、視線を下げて落ち込む様子を見せていた。
「だが、突然の事に戸惑いながらも、今度会ったらこうは行かないぞ。そう思って僕らは先に進んでいたんだ。でも昨夜、その魔族が突然僕らの前に再び姿を現した。当然、僕らは直ぐに臨戦態勢に入ったけど、その魔族はそれを制すると、さも楽しそうに笑いながら話し始めた。そう、君達との出会い、そして戦いの事を」
そう言いながら、ライトの視線はタチバナの方を向いていた。実際に黒星と戦ったのはタチバナであるのだから、当然の事である。だが当のタチバナは、ライトと視線を合わせようともせず、ライトの話を聞いているのかも定かではない様子であった。
「そこで僕らは聞いたんだ。僕らが三人掛かりでも及ばなかったあの魔族と、タチバナさんはたった一人で引き分けにまで持ち込んだという事を。そして、アイシス……君が、何か強大な力を隠しているという事も」
そこまでを聞けば、ライトの目的はアイシスにも大方の予想は出来ていた。だが、放って置けば相手が教えてくれる事を、わざわざ予測する必要も無い。そう考えたアイシスは、ただ黙って先を促す。
「……ここまで話せば、既に僕が此処に来た目的は分かっていると思う。だから単刀直入に言おう。アイシス、そしてタチバナさん。どうかこの勇者ライトに、再び力を貸してくれないか」
そう言ってライトが頭を下げる。それを見てエイミーは面白くなさそうに舌打ちをし、ユキはエイミーとライトの方を交互に見ておろおろとしている。その言葉の内容はアイシスの予想通りではあったが、それでも衝撃的な言葉ではあった。だがその瞬間、アイシスの興味はそれらには無かった。
ライトが言い終えた瞬間、アイシスはタチバナの方から何やら強烈な気配を感じ、思わずそちらを振り向いていた。だが、タチバナは普段通りの表情を浮かべて静かに佇んでいた。何か言葉を発する事も無く、変わった動作をしている訳でもない。にもかかわらず、アイシスは初めて、タチバナの感情をはっきりと感じる事が出来た。
タチバナが怒っている。無論、少女は今までにタチバナのその様な姿を見た事がある訳でもなく、自身の生涯に於いても、その様な感情を殆ど抱いた事が無い。にもかかわらず、そう思えてしまう。タチバナの様子は普段と変わらない様に見えたが、それ程の何かをアイシスはその姿から感じ取っていた。