第105部分
少なくとも業務上は、という前置きを入れた上でだが、不要な思考を終えたタチバナは次に何をするべきかを考える。とはいえ、アイシスを起こす訳にはいかないという現状では可能な事は限られていた。武器の手入れやトレーニング等は、音を立てる恐れがある為にすべきではない。出来る事と言えば、先程と同様に何かを考える事くらいであった。
少しの間考えた結果、タチバナはいっそ眠ってしまう事にする。下手に考え事をすれば、また先程の様にろくでもない思考に発展してしまう可能性がある。そして何よりも、そもそも現状では何か考えるべき事がある訳ではない。そう考えたタチバナは右手を強く振り、その風圧で蝋燭の火を消す。
冒険に於いては、事前に様々な状況を考慮し、準備をして置く事は非常に大切である。だが、一度旅立って以降は、遭遇した出来事にはどの道手持ちの札で対処をするしかない。下手に先々の危険を想像する事は、却って実際に起きた事態への対処を遅らせてしまう。少なくともタチバナはそう考えており、それ故に此処での思考はあまり意味を為さぬのであった。
だが、いざ睡眠を取ろうとなった時、タチバナには些か迷いが生じた。少し考えた後、タチバナは毛布を手に取り、それを自らに掛けながら床に横たわる。恐らくは自分が先に目覚める事になるのだから、別にそうせずともアイシスに知られる事は無い。そうは考えながらも、タチバナはアイシスの命令を守る事にした。そして、自らの意思でそう出来るタチバナは、直ぐに眠りへと入るのであった。
全てが曖昧な漠然とした意識の中、少女は不思議な光景を見ていた。石槍を持った髭の濃い半裸の男性が獣を追いかけ、その人が身に着けたものと似た材質の衣服を着た女性が集団で何かを拾っている。と思えば、青銅らしき剣を片手に持った若い男が、何やらポーズを決め始める。そんな意味不明な光景が続くも、少女がそれを疑問に思う事は無かった。ただぼんやりと、少女はそれらを眺め続ける。
赤毛の馬に乗った大男が鉄製の見慣れない武器を振り回し、多くの兵が整然と並んで弓を構える。かと思えば、甲冑を身に纏った武士が太刀を片手に兵を鼓舞する。その後も、全身鎧に身を包む騎士が馬上槍を手に騎馬と共に突撃をしたり、妙な構えで二刀を構える男が鎖鎌を振り回す男と対峙したりする光景を、少女は何を思うでもなくぼうっと眺めていた。
そしてテンガロンハットを被った男が回転式の拳銃を撃った時、その音が鳴り響くと同時に少女は目を覚ます。その夢の影響か、目覚めたアイシスは肩を竦めていた。寝惚けながらもその身体を伸ばすと、アイシスはその目を開く。これまでと同様に、テントの生地越しの朝日がアイシスを照らしていた。
アイシスは欠伸を一つすると、自身の思考が鮮明になった気がした。ううん、と声を漏らしながら身体を起こすと、テントの中には既に自分しか居ない事が分かった。私より後に寝た筈なのに、相変わらず早起きね。そんな事を考えながら立ち上がると、アイシスはそれがすんなりと行える事に軽い感動を覚える。いつかはそれが当たり前になるであろうが、それを嬉しいと思えるうちは思っておこう。アイシスはそう思った。
外に出なくちゃ、タチバナに会いたい。そう思って素早く着替え終えた時、アイシスは自身の喉の渇きに気付く。おはようを言う時に、変な声が出てしまったら恥ずかしい。そう思ったアイシスはポーチから水筒を取り出すと、一杯の水を一息で飲み干す。大した保温性能だ。その水が未だ若干の冷たさを保っている気がして、アイシスはそんな事を思った。
水筒を仕舞い、後でタチバナに付けて貰おうとリボンをポーチに収めたアイシスがテントの入り口を開けると、やはり外との明るさの差に眩さを覚えた。その感覚自体が快いという訳ではなかったが、それを感じられる事が少女には未だとても嬉しかった。
「おはようございます、お嬢様」
アイシスの目が慣れるよりも早く、タチバナがアイシスに声を掛ける。
「おはよう、タチバナ」
その結果、アイシスはタチバナを視認しないまま挨拶を返す。やがて目が慣れてくると、既に用意されていた朝食用の果実と共に、メイド姿のいつものタチバナが目に入る。ああ、こうして大切な人と朝の挨拶をし合える。それはなんて素晴らしい事なのだろう。そんな感動的な思考を、アイシスの腹の虫が無情にも打ち切らせた。
「……それでは、早速朝食を召し上がられますか?」
些かの間を置いて、タチバナが尋ねる。
「……ええ、お願い」
それに対し、頬を赤くしたアイシスも少しの間を置いてからそう答える。こんな何気ない、ともすれば恥ずかしいだけのやり取りでさえ、アイシスにはとても幸せな時間に感じられた。そして、それを幸せと感じられる事が嬉しかった。
「かしこまりました。それでは少々お待ち下さい」
タチバナはそう言いながら濡れた布をアイシスに手渡すと、ナイフを取り出して果物を剥き始める。穏やかな陽気を楽しみながら、待っていれば朝食が用意される。ややどうかとは思うが、それもまた幸せな事だろう。受け取った布で手を拭きながら、アイシスはそんな事を考えていた。