第104部分
そうして横になって目を閉じてはみたものの、アイシスは中々眠りに入る事が出来なかった。一昨日の様に急な不安に襲われたという訳ではなかったが、先程自らがしてしまった余計な思考の影響で、脳裏に何やら映像が浮かんできてしまっていた。
それは思わず自身の顔を抱え、足をバタバタと動かしたくなる様なものであったが、タチバナが同じ空間にいる以上それは難しかった。とはいえ、このままでは永久に眠る事など出来ない。そう判断したアイシスは、一度瞼を開ける。
すると、テントの床の中心に置かれた蝋燭の炎が自然とアイシスの目に入る。微かな空気の流れによって揺らめくそれは、アイシスにはとても神秘的なものに見えた。人類は、火を手にした事で文明を発達させた。その様な、昔何処かで見聞きした壮大な話を、少女は不意に思い浮かべていた。
ぼんやりとした頭の中で人類の文明を徐々に発展させながら、少女は蝋燭の炎を眺めていた。その耳に入るのは、テントによって減衰された、未だ正体不明の虫の声のみ。その様な状況で、アイシスの身体と頭の緊張は自然と解けていく。文明の発展も緩やかになり、やがて産業革命に差し掛かるという頃だった。アイシスの瞼が自然と閉じられ、その意識も闇へと沈んでいった。
それを静かに見守っていたタチバナは、アイシスが眠りに落ちた事を気配で察する。人が眠りに落ちた時、多くの場合それは直ぐに深い眠りになる。それをタチバナは過去の経験から知っていた。だが、その後の眠りの深さの変化は、人や状況によって千差万別と言っても良い。であれば、主を起こさずに自身も就寝の準備をする為には、今は絶好の機会であった。
だが、タチバナは未だ動かなかった。未だアイシスは眠りに落ちた直後であり、深い眠りに到達していない可能性がある。また、多くの場合に眠りが深くなる時間が経ったとしても、今回もその通りになるとは限らない。そう考えたタチバナは、主の眠りを万が一にも妨げてしまわぬ為に、慎重にアイシスの様子を窺っていた。
仮にアイシスの眠りが浅かったとしても、タチバナであれば殆ど音を立てずに必要な用事を全て終える事が出来、結果としてアイシスが目を覚ます事は無い可能性が高い。タチバナ本人もそう考えてはいたが、アイシスにとって僅かでも不都合となり得る事を、タチバナは決してしたくなかった。
その様な思いから、眠っているアイシスをじっと観察していたタチバナであったが、やがて主が深い眠りに就いている事を確信する。それと同時に先ずは衣服を素早く脱ぎ、それを畳んで脇に置くと、身体を濡れた布で素早く拭いていく。仕込んだナイフの鞘は、衣服ではなくタチバナの身体の方に付いていたが、身体を拭く際にもタチバナがそれらを外す事は無かった。冒険の最中に自身の戦力を削ぐ様な事は、タチバナの行動原理に於いてはあり得る事ではなかった。
そうして身体を拭き終えると、タチバナはカチューシャを取って床に置いた衣服の上にそっと乗せる。それらは自分がアイシスのメイドである為の、大切な……。ふとその様な事を考えた時、タチバナは自らの思考に驚きを隠せなかった。自身が何かに抽象的な意義を持たせる事も、そしてそれを大切に思う事も、かつての自分からは考えられない事だった。
無論、タチバナは今まで何も大切に思った事が無いという訳ではない。例えば、今身に付けているナイフも、タチバナは元から大切には思っている。だが、それはあくまで自らやアイシスの身を守り、また敵を討つ為の道具として大切だという意味であった。しかし、先程自身が思った大切さは、それとは明らかに違っていた。
そしてナイフの事を考えた時、タチバナは自身の腰の重みに気付く。それはつい先日、ノーラの鍛冶屋で手に入れた逸品だった。ノーラ……初めて私を友と呼んだ人。そうしてノーラの顔を思い浮かべた時、その脳裏にはもう一人の顔が浮かんでくる。
黒星。それはつい先程、ともすれば自らの手でその生命を絶つ事にもなり得た相手であり、そして自分達の行く手を阻んできた敵でもあった。ノーラは兎も角、何故その顔が今脳裏に浮かんできたのかは、タチバナには分からなかった。
だが、聡明なタチバナであればその推測をする事は出来る。初めての友としてノーラの顔を思い浮かべ、その直後に黒星の顔が思い浮かんだという事は……。当然ながら、タチバナはその答え自体には直ぐに辿り着く。だが、その結論を素直に受け入れる事が出来るかは別だった。
私は黒星を、友として認識している。それはタチバナにとって、この場で思考してきたどの事よりも、ある意味では驚くべき事実であった。だが、少なくともアイシスは、黒星との会話の際に楽しかったと言っていた。そして私も、あの戦いは悪いものではなかったと思う。
そこまで考えた所で、タチバナは漸く気付く。ああ、自分は変わったのだと。此処までにした思考は、かつての自分からは考えられない様な事ばかりだが、それが悪い変化だとは思えなかった。そして、そのきっかけはどう考えてもアイシスであった。感謝という、それもかつては抱き得なかった思いを心の中で浮かべつつ、タチバナは改めて主への忠誠を誓うのだった。