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第103部分

 衣服を脱ぎ終えたアイシスは、タチバナが用意してくれた濡れた布を使って身体を拭き始める。考えてみれば、最低でも三日は風呂に入っておらず、ここ二日は身体を拭いてすらいなかった。流石にそろそろお風呂に入りたい。仮にも十代の乙女であるアイシスがそう思うのも仕方が無い事だが、その割には自身の身体がそれ程汚れている様には感じなかった。


 異世界だから身体の仕組みが少し違うのか、それとも、汗がにおうのは菌の所為だとか言うから菌類等の微生物の差か。或いは、衣服に何かしらの加護があるという様な事をタチバナが言っていたし、その手の魔法的な効果か。アイシスはそんな事を考えるが、現状では答えが出ない事は明白である為、それを直ぐに打ち切る。だが、理由は兎も角としても、清潔さが思っていたよりも保たれている事は、アイシスにとって心底有難い事だった。


 そうして身体を拭き終えたアイシスは、自身が目覚めた時に身に付けていたネグリジェ……厳密にはそれに近い衣服に着替える。その衣服も、意識してみると何だか良い匂いがする気がした。香水の類かな。アイシスはそう考えたが、元の世界のそれの様な強い匂いとは異なり、何だか優しい匂いの様に感じられた。まあ、これもその要因を考える必要は無いだろう。アイシスはそう判断して再び思考を打ち切る。


 だが、冒険者として生きて行く上での懸念の一つだと考えていた、風呂に入れない事による汚れやにおいという問題が、想定よりは遥かに軽微である。それはアイシスにとって、棚から牡丹餅とも言える嬉しい誤算であった。


 そうして懸念が一つ取り払われた事でアイシスの気分は軽くなり、思考がより鮮明になった気がした。そしてその鮮明になった思考は、アイシスに一つの事を気付かせる。タチバナが身体を拭いたりするのは、どうするのか。一昨日は旅立ち初日故の緊張や強い眠気により気付かず、昨日はそもそも意識を失ったままであった。今夜落ち着いて眠れる状況になった事で、アイシスは漸くその事に気付いたのだった。


 恐らく、一昨日は自身が寝ている間に済ませたのだろう。昨日もそれと同様か、いや、責任感の強いタチバナであれば、主がそれを出来ないのに……と考えるかもしれない。それと殆ど同様の理由で、私が外に出ている間に……と言っても恐らく固辞するだろう。だが、私が居る状態でそれをして貰うというのは、自分がタチバナに外して貰っている以上はどうかと思う。


 そんな思考を辿った結果、アイシスは一昨日と同様の方法を取って貰うしかないという結論を出す。だがそうすれば、必然的に自身が眠るまでの間を待たせる事になる上、睡眠時間もタチバナの方が短くなる。それ故に些か抵抗はあるが、恐らく本人もそのつもりであるし、先程長い睡眠を必要としないとも言っていた。その様な思考を辿り、アイシスは先の結論に従う事にする。そして、それがタチバナ本人の意向でもあるならば、わざわざ言葉にする必要も無かった。


「着替え終わったわ。お待たせしちゃったかしら」


 アイシスが外で待機しているタチバナに声を掛ける。今日は眠るまで一緒に居て欲しいとは頼んでいないのだから、自分が寝るまではタチバナが此処に入る理由は無いかもしれない。だが、夜は冷えると言っていた従者を、いつまでも寒空の下に出して行くわけにもいかない。タチバナならば、きっとその思いを汲んでくれるだろう。そんな事を考えながらの言葉だった。


「いえ。それでは、お邪魔致します」


 そう言って、タチバナもテントの中に足を踏み入れる。状況的に、まるで寝室に招き入れている様だ。そんな余計な事を考えてしまい、アイシスはその頬を激しく紅潮させる。幸いな事に、蝋燭の灯りのみを光源とする空間ではそれは目立たなかった。だが、思考のリソースに余裕がある事が常に良い事とは限らない。そんな事をアイシスは思っていた。


「……貴方も一緒に寝るのかしら?」


 自身の余計な思考を誤魔化す為に、アイシスがそう尋ねる。明言はしていないものの、それはタチバナが自身よりも後に眠る事になってしまう事を気にしての言葉だった。その問いにタチバナは即答はせず、何かを考える様な間を少し空けてから口を開く。


「……いえ。先程、私は長時間の睡眠を必要としない体質だと申し上げましたが、逆を言えば、私は長時間眠る事が出来ないのです。故に、私は丁度良い頃合いで休ませて頂きますので、お嬢様はお気になさらずお休みになって下さい」


 自身の分の毛布の辺りに腰を下ろしたタチバナが答える。その言葉が事実なのか、それとも主を気遣うものかはアイシスには分からなかった。だが、タチバナがそう言うのであれば、アイシスにそれを信じないという選択肢は無かった。それはつまり、もしタチバナが偽りを述べたとしても、アイシスがそれを知る事は無いという事である。だが、アイシスにとって信じるという事はそういうものであった。


「分かったわ。それじゃあ、お休みなさい」


 そう言うと、アイシスは横になって毛布に包まる。


「お休みなさいませ、お嬢様」


 タチバナもそれに応えるが、こちらは姿勢を変えぬまま、眠りに就くアイシスをただ見守っていた。自身がこれまでに述べた、通常では考えられないような事実。それを容易く信じるアイシスに対し、タチバナは本人にとっては不可思議な感情を抱いていた。その正体は未だに掴めないままだったが、分かっている事もあった。この素直な主に対し、偽りを述べてはいけない。タチバナはそれを改めて自身に誓うのだった。

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