最初の事件 補遺
「暦くん……ちょっと良いかしら」
それは龍ヶ崎暦と七月羽衣が上八代邸を出る少し前、羽衣がお手洗いに行ったタイミングを狙って、上八代花楓は暦に対して小さな声で話しかけた。
「何ですか、おばさん」
着慣れないスーツの皺を気にしながらも、花楓の様子に何かを感じたらしく、暦は声のトーンを落として応える。
「研太郎を虐めていたっていう、あの子……甲斐絢子ちゃんっていったかしら」
「……ええ」
自分の息子を自殺に追い込んだ女を「ちゃん」付けする辺り、この人の神経も凄いなぁと若干引きながらも、暦も相槌を打った。
「この前――ウチに謝りに来たのよ。『ごめんなさい』『研太郎くんが死ぬまで追い込んだのは、私です』って……」
「――」
無言――暦は呆気にとられ、呆然と花楓の言葉を聞き届けるしかなかった。
彼の認識では天地がひっくり返っても有り得ない話であった。それほどに甲斐絢子は、自身の行動に絶対的自信と自負を持っている人物であった。
「……はッ」
数秒の間沈黙した後、暦は引き攣ったような笑みを浮かべた。
「何かの……間違いでしょう? それでなければ嫌がらせの類だ。あの売女が……男を操って他者の破滅させることが趣味である奴が、十年やそこらで変わるはずないですよ」
「変わった……ううん、私もそう思っていたのだけど……あの子にも、ちょっと事情があるみたいで」
「事情?」
「絢子ちゃんはね、変わったんじゃなくて――変えてもらったんだって」
そう言って、花楓は一枚のチラシを取り出して暦に渡した。怪訝そうに受け取って、それを眺める。
「その……何とかの会っていうのに入ったら、今までの自分の行動を悔い改めたいって思ったそうよ。……ねぇ、暦くんはどう思う? 私はちょっと怪しいかなぁって……」
不安そうに俯く花楓の言葉を、既に暦は聞いていなかった。
「――――そんな、馬鹿な」
目を見開き、額に汗を浮かび、チラシを持つ暦の手が震える。
チラシに描かれているのは、多くの人が集うセミナーの様子であった。どうやらキリスト教関係の組織らしく、十字架をあしらった装飾のある教会が背景にある。
組織名は『マサンの栄光の会』。
その名の上に象られたシンボルは、林檎に絡み付く蛇。
暦にとって、それは忘れられない邪悪の象徴。
「……おばさん、ひょっとして誘われたんですか?」
「え? えぇ……良ければ話だけでもどうですかって、絢子ちゃんがこのチラシを置いていって……」
「絶対に駄目です」
暦は有無を言わさぬ重苦しい声で言い放ち、そのチラシを丸めてポケットの中に入れた。
「絶対に駄目です。関わってはいけない、下手すれば殺されますよ」
「……ッ」
「彼等は――」
絶句する花楓に、暦は淡々と告げる。
「『世界救済』の狂気に取り憑かれ、十数人の少女を殺した最悪の殺人集団――『聖ビルゼン教会』の、正統なる後継者です」
○
「……ったく、新興宗教ってのは怖いねぇ」
会場より聞こえてくる狂気の合唱に、刊坂広忌は顔を顰めて壁に寄り掛かった。片耳にイヤホン、そして身に着けた薄手のコートの中には録音機材を忍び込ませている。
彼は調査の為に『マサンの栄光の会』の集会場に潜り込んでいたのだ。
「よくもまぁ、こんな場所が分かったわね。下手すれば【八咫烏】ですら掴んでない情報よ」
そんな刊坂の隣に立つのは、長い黒髪の女性。パーカーの上着にジーンズというラフな、まるで『コンビニに行ったついでにやって来ました』とでも言わんばかりの格好だ。
「ははっ、俺もまさか誘拐事件について調べてたら、ここにぶち当たるとは思わなかったぜ。……折出ゆめちゃんの母親が、こんな珍妙な会の重鎮にまでなっていたとはな」
広忌は唇の端を歪ませ、嫌悪感を滲ませた表情で吐き捨てる。
「ふざけやがって。自分のガキを見殺しにした奴が、今度は反省してテロ組織に与しているだって? いやぁ、恐れ入るとはこのことだ。社会に対して害を生み出す以外の行動が取れんのかね、あの女は」
広忌の激情を感じ取りながら、黒髪の女性は腕を組みながら首肯した。
「そして問題なのは、そういうゴミ屑が大勢いることよ。性別年齢国籍に関係なく、『マサンの栄光の会』は社会のゴミを収集して、とんでもないゴミ屋敷になってしまった訳だわ」
「勘弁してほしいもんだ」
怒りに震える手を握りしめながら、広忌は天井を見上げる。蛍光灯の人工的な光に、一度目を閉じた。
「……まぁ良い。今日のところはここで撤退だ。これ以上のことは、所長に判断してもらうとするか」
「えぇ、そうね」
かつてショッキングな連続殺人事件を巻き起こして有名になった『聖ビルゼン教会』の、正統なる後継団体――『マサンの栄光の会』。その巧妙に隠蔽されていた集会会場を発見した現状だけでも、彼等にとっては手に余る事態である。
故に一時的にこの場を脱し、外部に連絡を取る。それは判断として正しく、広忌は口惜しそうな貌をしながらも、踵を返して歩き出そうとした――その時。
「――おやおや、まだ集会は終わっていないのに、どちらに行かれるですか?」
「……ッ」
そんな無機質な言葉。
広忌の後頭部には、銃口が付きつけられていた。
○
宮ヶ瀬彩芽は一人、リビングのソファーに座って考え込んでいた。ジェリーの一件があり頭の中は色んな情報と感情で溢れ、自分だけでは整理がつかない有り様である。
その上、出張から帰ってきた父親の様子がおかしいのだ。自宅の一階が吹き晒しになった状態になっていれば、驚くのが当然だろう。世帯主が留守をしている間に家を預かっていた母や彩芽に怒り散らすことだって、あって然るべきなのもしれない。
しかし彼女の父の様子はその真逆――長い東京出張から帰り、我が家の惨憺たる有様を目の当たりにした父親は特別反応することもなく、ただ淡々と業者に修理してもらうよう手配した。彩芽や、その母親に対して、「何故こんなことになったのか」と問うことすらなかったのである。
彼は優しい人柄だ。だが異常を異常と認識出来ない人間でもないはずだ。
「明らかに……おかしいですわ」
彼女は頬杖を突き、独り言ちる。
父親は出張から帰って以来、基本的に自分の書斎に籠って出て来ない。出社や食事の際や出て来るが、それらが済むと、すぐさま書斎に引っ込んでしまう。
「また霊能探偵さんに……いいや、駄目です」
弱い自分がまた他者に頼ろうとすることに、彩芽は首を横に振った。あの大切な友達も霊能探偵にも、散々お世話になってしまった。これ以上、頼る訳にはいかない。
「はぁ」
しかし自力で考えても何かが分かるはずもなく、彩芽は溜息を吐いてガックリと頭を落とすのであった。
○
『報告』
『三木東間の復活を確認。身体状態には幾分かの変化が見られるが、おそらく肉体を構成する第五元素と魂に内在する悪霊に類する存在の影響と推察される』
『現状に於いて、「マサンの栄光の会」から「聖ビルゼン教会」ほどの脅威はないと思われる。「聖ビルゼン教会」のような統一意思が「マサンの栄光の会」から見られない。はっきりとした教義はなく、信者達の統率もとれていない』
『公安はおろか《八咫烏》すらも、彼等を危険視している様子ではない。「マサンの栄光の会」が喧伝する〝じゅすふぇる〟の降臨――即ち日本文化と集合を果たした異端信仰――〝カクレキリシタン〟世界に於ける魔王ルシファーに該当する神性が発現する可能性は、極めて低い』
『ただ懸念事項として、彼の手には聖遺物の模写がある』
『それは我々としては看過出来ない』
『「マサンの栄光の会」自体は取るに足らない弱小の新興宗教に過ぎないが、三木東間が現実に蘇ったとなれば、話は全くの別物になる』
『三木東間は死して蘇った』
『聖骸布の模写である「願い祈る果ての聖骸布(Sanctus Shroud)」の力であることは明白であろう』
『彼は諸人に「奇跡」を実演してみせたのである』
『神の子の真似事ではあり、おままごとのような児戯ではあるが、迷える子羊には効果があったようだ』
『健全ある精神を持つ者であれば、彼の言の葉が持つ魔力に魅了されることはないだろう』
『弱っている者』
『迷っている者』
『そういった者達の心の隙を、三木東間は突く』
『油断は出来ない』
『彼が弱き者共を率いて、この国を大いなる背徳の都にせしめる可能性は、決してゼロではないのだ』
『例え魔王の顕現が成されずとも、信者達を騙す手段など幾らでも存在する』
『そして……如何に低い可能性であっても、成就してしまっては取り返しがつかない』
『かつて、「聖ビルゼン教会」が少女達を無惨に殺害したのを、我々は未然に防げなかったのだから』
『同じ轍を踏むことは出来ない』
『故に捜査は今まで通り続行する』
『以上、報告を終了』
『神と子と聖霊の御名に於いて』
『AMEN』
○
書斎に戻り、椅子に腰かけ、顔を覆って彼は考える。
自分のすべきことは何だろう。
自分の為すべきは、何だろう。
いや思考することか? 思考することすら今までしなかったことなのに、どうして今さらになって?
何故、何故、何故って、何故?
机の上に飾られた写真を眺める。もう十年も前に旅行に行った時のものだ。自分と妻、そして今は亡き飼い犬を抱きながら朗らかに笑う娘。
あぁ、何だろう。頭が重い。視界が狭い。
大切なものがある。
大事なものがある。
それらを守りたいと思うのは、当然のことだ。
――だったらすべきことは決まったものだ。
脳裏に初老の男の声が響く。
どうして? 何故? 手段はそれしかないのか?
僅かに残った理性は拒もうとするが、それらは雑念の中に埋もれ、押し潰される。
――だったら言うべき言葉は決まったものだ。
「……は」
耳鳴りが酷い。
あぁ、だけど、これで解放される。
煩悶する苦痛から解放される。
だから言うのだ。
まじないのことばを。
「はれるや、はれるや……」
恍惚とした表情で、宮ヶ瀬木桧は呟く。
その左手は、机の上に飾られていた大切な家族の写真を、しっかりと握り締めていた。