Case3 最初の事件
「あぁ羽衣ちゃん、ちょうど良かった。僕はちょっと漫画を買ってくるから、留守番よろしくね」
そう言って先生は、私と入れ替わる形で事務所を出て行った。今日は学校も休みなので朝一番で出社した私は、ぽかんと口を開けて立ち尽くしてしまう。
念の為に時計を見ると、針は午前九時半を過ぎた頃合。
営業時間中だ。営業時間中だ!!
「……いや、それよりも」
営業時間中に先生が失踪するのは日常茶飯事なので、もはや気にすることでもない。いや気にした方が良いに決まっている案件なのだが、それはさておき、今回は普段と違った点がある。
先生の服装が、きっちりとしたスーツであった。髪の毛も整っており、ここまで来るとトレードマークと呼んで良いのかもしれないと諦めていた寝癖も、綺麗さっぱり無くなっていた。
ちょっと本屋さんに漫画を買いに行く、という風体では断じてない――ッ!
「むむむ」
私は顎に指を当て、眉を顰める。
あの先生の姿は、明らかに尋常ではない。私がこの事務所で働き出して以来の、一大事件だ。
そう、これは一大事件であるのだから、これは仕方のないことだ……そう自分に言い聞かせて、私は事務室から一枚のプレートを持って来て、扉に取り付けた。
「さて……追いつけるかな」
呟き、『臨時休業』と掲げられた扉に背を向けて、私は走り出すのであった。
○
エレベーターに乗ってビルから飛び出ると、先生の後ろ姿をすぐさま捕捉する事が出来た。地下連絡通路に下って行き、バスターミナルへと向かっていったので、私もその後に続く。先生は常にスマホを横にしてゲームをしているので、距離を取りながら同じバスに乗っていれば、全く気付かない様子であった。イヤホンを耳に付けて気持ち悪い位に指が動いているので、おそらく音ゲーをやっているのだろう。
「……ふむ」
それにしても先生は一体全体どういう理由で、あんな立派な格好で出掛けたのだろうか。漫画を買いに行くなんて理由は偽造されたものなんだろうけど、あの人がスーツを着て外出する用事が思いつかない。
ここは一つ、探偵事務所に勤務する者として推理してみるとしよう。先生は『スーツを着て、しっかりと身嗜みを整えている』、そして『私に嘘を吐いて営業時間中に出かけたので、おそらく私に知られたくない』……これらの要項が満たされる、先生の用事とは?
「……」
眉間を指で摘んで目を閉じ、暗闇の中であれやこれやと思案する。私がどれだけ言って聞かせても、ろくに寝癖を直そうとすらしなかった先生だ。それ相応の大きな理由のはず……と、そこまで考えが及べば、答えはおのずと一つに纏まった。
「彼女が、出来たとか?」
小声で呟いてみて、その荒唐無稽さと意味不明さに笑いそうになってしまった。あの常に財布が空っぽで、二次元世界の女性にしか興味がない変態を好きになる女性なんているはずもない。
あぁ、本当に有り得ない話だ。
……有り得ない、話だと思うけど。
行き当たってしまった可能性に、私は再び思考の海に潜り込んだ。確かに先生は甲斐性無しの引き籠りニート予備軍だけど、身長も高く細身で顔も悪くない。ルックスさえ良ければそれで良いという人もいるだろう。だとしたら先生にもチャンスはあるかもしれない。
「いやいや」
決めつけるのは早計だと、私は頭を横に振る。あんな全日本ダメ人間選手権第一位に選ばれそうな男に彼女が出来るなんて、天変地異も良いところだ。
それに先生は刊坂さんによる『少女誘拐事件』の依頼を完遂して以来、どこか落ち込んでいる様子であった。そんな先生を見て、私もちょっぴり心配していたのである。だというのに、私の知らない所で女と遊んでいたとしたら、万死に値するとかいうレベルではない。
「ほんと、有り得ないけど」
自分に言い聞かせるように呟く。あぁもしも万が一、億が一にでもそんなことがあったなら、私は先生を磔獄門の刑に処さざるを得ないだろう。
○
先生に気付かれないように一時間ほどバスに揺られていると、市内とは言えかなり遠くまで来てしまった。駅前と比べると田舎ではあるが、しかし私の実家よりは随分と発展した都心部だ。そこで先生はバスを降りたので、私も慌てて追いかける。相変わらず先生はスマホの画面から視線を外さないので、尾行を続ける私の存在に気付かないようだ。正直見ていると車に轢かれそうで危ないので、後で叱らないといけない。
「むぅ」
バスから降りた先生の行き先は、私に渋い声を絞り出させるようなものだった。
まずコンビニに寄って、炭酸ジュースとプリンを買った。まぁそこまでは良い。続いて訪れた場所は……花屋さんであった。先生はそこで、シンプルな花束を購入。
身嗜みを整え、スイーツと花束を用意するような、私に秘密の用事。
「む、むむむむ」
私の推理の根拠となる状況証拠が、次々と揃ってしまっているじゃないか。そんな訳がないと表面上は否定しながらも、じゃあ他にどんな用事が考えられるのだろうか、と自分に反論してしまう。
まぁ、そんなことを考えながらも、私は住宅街に入って行く先生を、変わらず追跡する。電柱の裏から監視していると、先生は如何にも中流家庭といった家の前に立ち、チャイムを押した。扉を開けて出て来るのは、そこの家の奥さんであろう、六十代ほどの女性であった。
「……?」
距離があるので会話は聞こえて来ないが、二人共楽しそうに話している。しばらくすると先生は花束を、恥ずかしそうに奥さんへと手渡した。
「????」
頭の中に疑問符が踊る。
しかし先程の推理と照らし合わせ、私は驚愕の結論に達してしまった。
まさかあのマダムが……先生の彼女!?
「!?」
何てことだ……明らかに年上過ぎるのも問題だが、もっと言えば、それは不倫じゃないか。如何に先生が変態と言えど、そういう一線だけは超えてないと信じていたのに……何としてでも先生を、人の道へと戻さないと!
先生! と叫んで走り出しそうとして、そこで「はっ」となって思い直す。
確かに不倫は良くない。しかし……このままだと一生童貞引き籠りニートを貫いてしまいそうな先生が、初めて興味を持った現実の女性が、あのマダムだとしたらどうだろう……無理に二人を引き離してしまったら、先生がまともな社会人になるチャンスが永遠に失われてしまうのではないだろうか。
「……あーッ」
頭を抱え、電柱の裏でうずくまる。私は一体、どういう行動をとれば良いのだろう――分からない、分からない!
「……うぅ、私は一体どうすれば……」
「とりあえず、女子高生が道端でして良い格好じゃないよ」
「それもそうですね……」
確かにそうだと思って、私は立ち上がった。スカートは膝で抑えていたけど、少しはしたなかったかもしれない。
立ち上がって、私は背後から声を掛けてきた先生の方を見た。
「………………って、先生!? どうして!?」
急激に頭へと血が上る、先生が目の前に立っている! あの不倫相手の女性と共に!
「『どうして!?』は、圧倒的に僕の台詞だと思うんだけどなぁ。どうしたの、羽衣ちゃん。こんなところにまでつけてきて」
「――ッ」
呆れたように眉を顰め、先生は嘆息する。スーツを着て、小奇麗に身嗜みを整えた先生の姿は別人のそれだったけど、怠そうな様子を見るとあぁ先生だなぁと納得するんだけど今はそういう問題ではなく、私の尾行が完全にバレていたという点だ!
「えっと、あの、その……先生……ッ!」
「?」
私の狼狽した姿に困惑し、首を傾げる先生。その余裕な態度に、カチンときた。そっちだって不貞の現場を抑えられてピンチな癖に!
だったら、この場で正々堂々と糾弾してやる。
「その女の人、誰なんですか!!」
「同級生のお母さんだけど?」
「……」
「……」
「同級生のお母さん……って、言いますと?」
「僕が高校の時の、友達のお母さん」
「……」
「……」
友達のお母さんだった。
○
「こんにちは。……えっと、暦くんの事務所で働いているっていう……七月さん、でよろしかったかしら?」
「あ、はい。七月です」
タートルネックの上にエプロンを身に着けた初老の女性――先生の学友のお母さんは、戸惑ったような表情のまま、ぺこりと頭を下げた。私も急いで頭を下げる。
「ふふ、可愛らしい子ね。私は上八代です。暦くんは学生時代、ウチの息子と仲良くしてくれていてね……いつまで経っても、この日には毎年我が家に顔を出してくれるのよ」
「は、はぁ……」
上八代さんが柔和な笑みを浮かべながら龍ヶ崎先生を『暦くん』呼びするのに絶大なる違和感を覚えるが、それはさておき、謎は深まったばかりで答えが出てこない。どうやら不倫とかそういうのじゃないので安心したけれど、それならどうして先生は私に嘘を言って事務所を出て行き、スーツ姿で花束とスイーツ持参で学友の家を訪れたのだろうか。
「……あー、羽衣ちゃん。ひょっとして、僕のこの格好が不可解?」
「まぁ、それと漫画買いに行くって嘘吐いていたのとか、諸々ですが」
「ははは。あー、ごめん、ごめん。そうだったね。ちゃんとした理由を言うのは恥ずかしくてさ」
頭を掻きながら、先生は情けない笑みを浮かべる。
「だけど、せっかくの機会だ。おばさん、羽衣ちゃんも一緒で良いですか?」
「えぇ、大歓迎よ。こんな可愛い子も一緒なら、研太郎も喜ぶでしょう」
ふふ、と上品に笑う上八代さん。なるほど、その研太郎という人が、先生の高校時代の友達という訳か。
「という事で羽衣ちゃんにも研太郎の奴に会ってもらおうかと思うんだけど、どうかな? 会えば羽衣ちゃんが抱いている疑問が、全て晴れると思うんだけど」
先生の友人と聞くと、真っ先に思い浮かべるのは最近事務所を訪れたばかりの刊坂さんだ。
「……やっぱりその人も、オタクなんですか?」
「勿論。あぁ、でも羽衣ちゃんが会っても、不快にはならないと思うなぁ」
「まぁ、それなら良いですけど」
先生の言葉はあまり信用出来ないけれど、ここまで来て真相も知らないまま帰るのは癪だったので、私は渋々と首肯した。すると先生は、にっこりと笑う。
「あぁ、それじゃあ……早速会いに行こう」
――だけど、その笑顔はどこか寂しそうで、とても友達の元に遊びに行くような表情ではないような、そんな気がした。
その後、先生と上八代さんと一緒に十五分ほど歩いていき、私達は遂に目的地である研太郎さんの元へと辿り着いた。それと同時に、私は全てを理解する。
花束は元より、お母さんの手で研太郎さんに渡すつもりだったのだろう。コンビニで買ったプリンと炭酸ジュースは、彼の好物だったのかもしれない。
「……やぁ、研太郎。一年ぶりだね」
住宅街の外れにある霊園。
先生が話しかけた墓石には、『上八代家之墓』と刻まれていた。
「先生……これって……」
「あぁ。そういうことだよ」
先生は私の言葉に応えながらも、膝を折って線香を供え、合掌する。その表情からふざけた様子も、だらけた様子も、何もない。先生は真摯に、瞳を閉じて私の知らない上八代研太郎という人に思いを巡らせていた。
「さて」
数秒か、数分か……どこか居心地が悪い時間が終わり、先生は私に微笑む。
「羽衣ちゃん、少しだけ昔話に付き合ってくれるかい?」
「昔話……それは、高校時代のですか?」
「あぁ。是非とも君には聞いてほしい」
先生は――龍ヶ崎暦先生は、私が見たことのない、まるで秋の空のように澄んだ貌で言う。
「きっとあれは、霊能探偵・龍ヶ崎暦にとっての――『最初の事件』だったんだ」
○
●
昼前に起きてベッドから転がり落ちて、そのまま机に向かってパソコンを起動させる。昨夜は遅くまでネット掲示板でアニメの実況をしていたので頭が重いが、しかし何の支障もない。おれの書き込みにコメントが幾つかあったので、一つ一つ返信をすることにした。このスレッドが落ちる前に出来るだけのやりとりをしたい。おれにとって他者との繋がりなど、ネット上にしか存在しないのだから。
それにしても、今期は魔法少女ものが随分と人気を博しているようだ。リリカル何とかというアニメのスレなんか異常に伸びている。エロゲーが原作なんだかスピンオフなんだかよく分からないアニメだから食わず嫌いしていたけれど、ここまでスレが賑わっているのなら視聴してみようと思う、一応ビデオに録画していた筈だ。
「……ふぅ」
日課である掲示板の巡回が終わり、背もたれに体重を預けて天井を見上げる。そういえば電気を点けていないな、と気付いて俺は部屋に灯りを燈した。
カーテンによって閉め切られた部屋に、人工的な光が満ちていく。親から与えられた小遣いで何とか買い集めた漫画が本棚に数冊と、据置ゲームのカセットが乱雑に散らばっている。オタクの物欲というのは凄まじく、当然ならこの程度のコレクションでおれが満足出来る訳もない。だけど……学校にも行かず引きこもり、バイトすらしないおれが、これ以上お小遣いを貰える筈もなかった。
我が城の脆弱さと我が身の惨めさに辟易する。しかし親に扶養されている身分で、個人のパソコンを持てているだけ、十分におれは幸福なのだろう。
だっておれの世界は、このパソコンのモニターの中にある。キーボードを叩けば、無数の人と繋がれる。
外に出る必要なんてない。
誰かと関わる必要なんてない。
おれの世界は、この小さな部屋に完結する。
――完結する、はずだった。
コンコン、と扉をノックする音。母さんだろうか……いや、あの人がわざわざノックするとは思えない。だったら誰だ?
「もしもーし、上八代君。遊びに来たんだけど」
若い男の声。おれと同い年くらいの奴か? ……しかし記憶している限り、こんな知り合いはいない。だけど二階にあるおれの部屋の前に上がって来たとしたら、母さんはこいつを家の中にまで招き入れたのだろう。
だとすれば、この声の主は、おれの高校の同級生か!?
「――ッ!」
その結論に至った瞬間、おれの全身を悪寒が襲う。胃袋を下の方から搾り上げるような嘔吐感と、心臓の不規則な鼓動。ベッド上の毛布に潜り込み、震える全身を包み込んだ。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ」
呼吸が整わない。ノイズ交じりの記憶が、脳髄を駆け巡る。
思い出す。
思い出す思い出す思い出す。
春の日に殴られた痛み。
夏の日に閉じ込められた倉庫の温度。
秋の日に持って帰ったずぶ濡れのカバンの重さ。
冬の日に舐めた便器の味。
思い出して思い返して思い想って思い直す度に、ひび割れた記憶から黒い無数の腕が湧き出し、おれの心に絡み付いて蝕み、侵し続ける。
拒絶、しないと。
ここはおれの城だ。
この狭い空間が、おれの全てだ。
「――出て行け」
必死に絞り出した言葉は、余りにも弱々しいものだった。それでもおれは歯を食い縛り、痙攣する喉を震わせる。
「ここは、おれの場所だ……出て行けッ!」
無音。扉の向こうからは何の返事もない。おれの無様な抵抗に呆れているのか、それとも諦めようとしているのかは、おれには分からない。侵略者が、他者が何を考えているかなんて、おれに分かりようがない。
それでも死守しないと。
ここが失われてしまったら、おれに居場所はないのだから。
「……」
緊迫した無音の時間が続く。扉の向こうにリアクションはない。だけど誰かがいるような、そんな気配はした。
そして幾許かの後、扉の向こうに立っているのであろう男は「■■■■■」と、何かを言い放った、その刹那のことである。
ドォン! という轟音が鳴り響き、扉が吹っ飛んだ。
「――は」
眼前の光景に唖然とする。
我が城を守る唯一に対して最硬の城門――おれの部屋の扉が爆音と埃と共に、文字通り木端微塵に吹き飛んだのだ。
爆弾? 強盗? テロリスト? ……戦慄と共に、不穏な単語が脳内を乱舞する。母さんは何をしている? 侵入者の正体はおれが想像しているよりも、数億倍ヤバい存在なのではないか――と、呆然と硝煙の中を歩く人物に目をやると――意外にもおれの想像が的中していることが分かった。
おれが通っていた高校の制服であるブレザーを着た、一人の男。髪の毛はボサボサで片目が隠れ、シャツもよれよれでネクタイもしていない。一目で出不精な人物だと分かる。
「んー……あぁ、どうも初めまして、上八代くん。僕は君のクラスメイトの、龍ヶ崎暦だ」
頭をガサガサ掻きながら、彼は何が何やら分からず呆然とするおれへ、ぺこりと頭を下げた。そして面倒臭そうな貌で、おれの表情を伺いながら遠慮がちに、こう告げる。
「申し訳ないんだけど、僕と友達になってくれない?」
●
○
「はぁー」
私は上八代さんが出してくれたコーヒーを飲みながら、先生の昔話を聞いていた。場所は上八代邸のリビングで、お菓子や飲み物やら出して頂いて、大変恐縮といった具合である。
「転校してきた初日に、担任に頼まれちゃってね……。僕の素性を知っている先生だったのが運の尽きさ」
肩を竦めながら、先生は遠慮もせずポテトチップスをバリバリと頬張る。
「『研太郎くんが今も一人で寂しそうだから友達になってほしい』とか、勝手な話だよねぇ。ネットさえあれば引き籠っていたって一人じゃないって」
ははは、と乾いた笑みを浮かべ、先生はテッシュで指に着いたポテトの油を拭き取る。事務所に居る時よりも、動作が少し上品なのは何なんだろう。
「でも先生は、その『友達になる』って仕事を引き受けたんですよね?」
「あの時は親と喧嘩中で、実家からの支援を受けられなかった頃だからね。頼りにしていた外の大人だったから、受けざるを得なかったんだよ。魔術適性が高いってことで《八咫烏》からの援助は受けていたけど、それも微々たるものだったし」
先生は苦々しく口元を歪めて、どこか視線を遠くへと向ける。《八咫烏》とは先生のような魔術師を総括する組織らしいけど、霊能探偵として活動する今の先生であればともかく、魔術が使えるだけの高校生を積極的に助けることもしないのだろう。
「コーヒーのおかわりはいかが?」
――と、そんな不穏な界隈の話をしている私と先生の元へ、上八代さんがお盆を持ってキッチンから姿を現す。
「あ、お願いしまーす」
躊躇なく空のマグカップを差し出す先生。もっとこう、遠慮とか無いのか、と呆れてしまう。
「七月さんは、おかわりどう?」
「……えーっと」
普段であれば遠慮するところなのだが、先生の話はもう少し続きそうなのと、そもそも先生がおかわりを要求してしまっているので、断ることにさして意味もないような気もした。
「じゃあ……もう一杯だけ、お願いできますか?」
「えぇ、もちろん」
私がおずおずとカップを差し出すと、上八代さんはにっこりと笑みを浮かべて受け取ってくれた。そして心底嬉しそうな軽やかな足取りで、キッチンへと戻って行く。
「……で、どこまで話したっけ。――あぁ、そうだ、僕が研太郎と会った日の事だったね」
先生は相変わらず机上のお菓子類を物色しながらも、さながら世間話を再開するように話し出した。
私が知らない、先生の昔話。
気になる話ではあっても、どこか落ち着いて話を聞こうという気がしない。
何故なら――私は既に、上八代研太郎という人物の結末を、知ってしまっているのだから。
○
●
「まぁそういった事情で、僕は君と友達になるため、わざわざ扉を大破させてやってきた訳なんだ」
龍ヶ崎と名乗った同級生は無遠慮におれのベッドの上に座り、この部屋にやって来た経緯を説明した。
なるほど。あの担任、善意という暴力を以っておれを殺す腹積もりらしい。余計なお節介もここまで来ると、怒りを通り越して呆れてしまう。
『寂しそうだから友達になってほしい?』
何だ、それは。
何様だ、お前は。
悪気はないのだろう。むしろ善意なのだろう。
故に質が悪い。手に負えない。
「ははは……うちの担任、頭おかしいよね」
まるでおれの心を見透かしたように、龍ヶ崎は肩を竦める。派手に扉を爆破して登場したエキセントリックな奴であったが、話が分かる奴なのだろうか。どうやら『友達になってほしい』という担任の命令に従ってやってきただけで、別に本意ではないみたいだし。
何よりも同級生というだけで、おれがまだ登校していた頃にいたアイツ等とは違う転校生というだけで、少しだけ安心出来た。確かにこんな奴、見たことはない。
「あぁ、頭がおかしいな。おれはこの世界から出るつもりはないし、現実の誰かと関わるつもりもない。……悪いが、帰ってくれ」
こいつも被害者なのだろうが、しかしこれ以上他者と話したくもない。吹き曝しになった出入り口を指さすと、龍ヶ崎は「ははは……いや帰りたいのは山々なんだけどさぁ」と心底疲れたように苦笑した。
「担任は、僕の扶養主みたいなものでね……君と友達にならないと、今晩から僕のご飯が消失する」
「…………」
絶句する。こいつ自分の命を人質にとられて、おれと友達になりにきたのか。
「そんな悲痛な話を、おれにされてもな」
「まぁそうだろうねぇ。色々と上八代くんの話は聞いているけど、友達なんて作りたくないってのが本音だろうし」
扉を爆破してやってきた侵略者が、何でこんなに物分かりが良いんだ。おれはこの龍ヶ崎という人物に対して、どういう感情を抱くべきなんだ。
「そういうことで提案なんだけど……上八代くん。君は僕と友達になる気はないよね?」
「ない」
即答する。こいつの境遇には同情せんでもないけど、おれの心は別の問題だ。現実に友達なんて要らない。
おれの返答が分かっていたように、龍ヶ崎「ん」と短く答えて首肯し、改めて話を切り出した。
「じゃあ……、友達のフリをしてくれないかい?」
「フリ?」
意味の分からない提案に、おれは眉をひそめる。
「うん、フリだよ。担任も君の母親も、どうやら僕を君の友達に宛てがいたいらしい。だけど君が友達になりたくないって言うんだから、友達のフリをしよう。僕は下校の途中で、この部屋に寄る。そして三十分ほど留まって、帰る。それだけ」
「はぁ」
何となく相槌を打ってしまったが、いや待ておかしいと龍ヶ崎の話を遮る。
「ちょっと待て。その話、おれに何のメリットがある」
「受けてくれれば、毎日君の部屋の扉が爆破されるというデメリットが無くなるよ」
真面目な貌をして、龍ヶ崎がしたことは脅迫だった。というか重火器とか持っているようには見えないけど、どうやっておれの部屋のドアを爆破したのだろうか。
「……まぁ悪い事はしないさ。友達が出来たと思えば、君の母親も少しは安心するだろうしね」
「ッ」
龍ヶ崎の物言いに、軽く舌打ちした。
母さんを引き合いに出されると、こちらも反論を取り下げざるを得ない。おれが引き籠って以来、あの人には散々迷惑をかけてしまっているのだ。
「……分かった。お前は来ても良いけど、会話とかは別にしないからな」
「はは、それで構わないよ」
にへら、と龍ヶ崎は情けなく相好を崩し、頷いた。
かくして、おれ一人で完結していた小さな部屋に、奇妙な訪問者が現れるようになった。
●
◆
痛みが痛みで塗り潰される。
血と吐瀉物と内臓の臭い。
混濁した視界とは別に、意識は明瞭だった。
死ぬ。
消える。
消えるのだ。
ここで自我は崩れ去り、精神は零れ落ち、魂は虚無へと変換される。
恐怖はない。
ようやく逃げ出せる。
この地獄から逃げ出せるのだ。
恐怖なんて、これっぽっちもない。
安堵で心は満ちていく。
あぁ――だけど、何だろう。
この風化していく心に残った染みは、何だろう。
何もなかった。
この世になんか、未練は何一つなかったのに、
自分は何が、欲しかったんだろう?
◆
●
「やぁ」
宣言した通り、龍ヶ崎は今日もおれの部屋を訪れた。無視するのは気分が悪いが、慣れ合う気にもなれないので「ん」と簡単に頷いて、外していたイヤホンを耳に戻した。
昨日は龍ヶ崎が帰った後、真っ先に母さんに追求をしたが、ビックリする位に無視された。知らぬ存ぜぬを決め込むつもりなのだろう。
仕方のないのでおれは扉を取り敢えずガムテープで補強し、今日も放課後の時間になって訪れた龍ヶ崎を出迎えたという訳である。
だが、ここまでだ。おれ達はあくまで『友達のフリ』を貫くだけであり、それ以上の接触は許可した覚えはない。
アニメの感想版の巡回を終えたおれは、何となく動画サイトを回っているところであった。にしても違法アップロード多いな、著作権的に大丈夫なのかこれ……いや、それを言ったらMAD動画はどうなるんだ? などと考えながら、いつものようにネットの海に潜っていると、マウスの横にスゥッと茶封筒が差し出された。振り返ると龍ヶ崎が口元に微笑を浮かべていたので、嫌々ながらイヤホンを耳から外す。
「……え、なに」
「お近づきの印……って訳じゃないけど、これから邪魔するから、まぁお土産くらい持って来ようかなって」
「……」
何だ、こいつ……まるで意味が分からん。そう思いながらも、おれは恐る恐る封筒を開ける。一体何が入っているのやら――と、僅かに覗いた写真に、おれは「ひ……ッ」と小さく悲鳴を上げてしまった。
それは、地獄のような記憶と共にあるもの。
諸悪の根源である、おれの同級生であった女の顔。
憤怒と焦燥と恐怖が同時に襲い掛かってくるが――その茶封筒に入っていた写真の全体像に、おれの思考は数秒ほど停止する。
「………………………」
普通にあのクラスメイトの中でも中心的人物であった甲斐絢子――本来であれば、彼女の写真を見た瞬間、おれは錯乱しながら嘔吐していたであろう。しかし写されていた場面が余りにも突飛で、驚きがトラウマすらも凌駕してしまった。
「お、おい……龍ヶ崎、お前――これは、何だ?」
「何だって、見れば分かるでしょ?」
にっこりと純粋な笑みを浮かべる龍ヶ崎。いや、純粋なはずがない。そんな奴が、こんな写真を持って来るはずもない。
そこに写されていたのは、どう見ても更衣室で、甲斐絢子は一糸まとわぬ全裸の状態であった。
「当然、今日の水泳の授業の後の、女子更衣室の盗撮写真さ」
「龍ヶ崎――ッ!」
ペチーンッ! と、封筒を龍ヶ崎の額に叩き付ける。しかし彼はどこ吹く風で「酷いなぁ」と言いながら、封筒の中から他にも写真を取り出し始めた。どれもこれもおれの同級生の写真で、例外なく更衣室で着替える瞬間をとらえたものだ。
「ほらほら、甲斐さんあれだけ威張っているのに、色んな部分が可愛らしいよ。他にもこの子は胸が大きくて……あ、この子は毛並みが良いよね」
「い、いや、お前! と、盗撮って!? どうやって!?」
床の上に並べられた写真は、まるで正面に立って撮影したかのように鮮明で、色んな部分がはっきりと見えてしまう。
「ははは、僕は透明人間になれる魔法使いなんだ」
「……ッ」
「冗談だよ、冗談。盗撮方法は企業秘密さ」
はっはっはっ、と朗らかに笑い、龍ヶ崎は盗撮写真を重ねて団扇のようにして扇ぐ。ヤバい! やっぱりヤバい奴だぞ、こいつ!
「まぁせっかくだから、自分一人で楽しむつもりだった秘蔵の盗撮写真を、君にもおすそ分けしようと思ってね。どう、使える?」
使える?
使えるか、だと!?
こいつらは敵だ、悉く敵だ。男子を使っておれの腹を挨拶代わりに殴り、鞄を教科書ごとプールに投げ捨て、おれが便器に頭を突っ込まされる写真をばら撒いたような、糞女の代表格! 周囲の連中も同じようなもんだ、どいつもこいつもおれを馬鹿にして、騙して、貶めた産廃共だ!
――だけど、違う。
そもそも現実の女の、全てがゴミだ。
三次の女のなど惨事でしかなくて、二次の女こそが虹である。根本的に次元が違う。そもそも比較対象にすらなり得ない。
「ふん」
おれはその写真群を手で払い、思いっきり踏みつけ、踏み躙る。
「あぁ、これは気持ちいい。確かに使えるな」
「……」
見るだけで吐き気を催す女共の裸体を足蹴にするのは、とても胸がすく。こんなもので恨みは晴れないが、一時の慰めにはなるだろう。
「ふむ……お気に召さなかったかな。これでも君好みであろう子を選んで撮ってきたんだけど」
「節穴の極みだな。眼科に行ってこい」
「じゃあ、どんな子なら使えるんだい?」
龍ヶ崎はおれの行動に対して呆れとか嫌悪とか、そういった感情は全く表さず、不思議そうに問うてきた。
仕方のない奴だ、この無知な男へと伝えねばなるまい。
「ふん。次元が違うわ。平面こそ至高、現実の女なんてものは醜いだけだ」
そう言って立ち上がり、おれはベッドの下から段ボールを取り出して、秘蔵のお宝を解放した。
「おれの好みと言えば、こういうのを指す。よく覚えておけ」
「……ん? これは漫画? にしては薄いねぇ」
龍ヶ崎はしゃがみ込んで、段ボールの中に整頓された秘蔵の書物を物色する。彼が真っ先に手に取ったのは、最近アニメ化したばかりの漫画原作の同人誌だった。ロボットアニメかと思ったら百合アニメだったとかいう意味の分からないあれである。
ペラペラと頁をめくっていく龍ヶ崎。最初は怪訝そうな表情だったが、段々とその視線が輝いていく。
「……これは、なに? 設定とかよく分からないけど、シリーズもの?」
「原作の漫画があるからな、それはアマチュアの人が書いた二次創作だ」
「へぇ……その原作っていうのは……」
「全て揃っている、とは言っても二巻までしかないけどな。アニメ版も録画してあるぞ」
「……」
龍ヶ崎はじっとおれの方を見て、次は手に取った同人誌に視線を落とす。それから再びペラペラとページをめくり出した。すぐに読み終えてしまい、龍ヶ崎は同人誌を閉じた。そして綺羅星の如く輝く瞳で、おれを見て言った。
「……さっき、この作品のアニメを録画しているって言ったよね?」
●
○
「いやぁ、あれが僕のオタクとしての芽生えだったんだよねぇ」
「諸悪の根源じゃないですか、研太郎さん」
まるで尊い思い出だとでも言わんばかりの爽やかな先生の微笑みに、私は堪らず指摘した。
話を聞く限り、先生は上八代研太郎という人物に出会うまではアニメだとかゲームだとか、そういった趣味をお持ちではなかったらしい。先生の部屋を占拠する気持ち悪い様々な物は、悪友との出会いによって購入するようになってしまったということだ。
何てことだ。過去に戻って上八代研太郎を抹殺すべきなのではないだろうか……そんな風に思ったけど、そもそも過去の時点で摩利支天の霊符を使って透明人間になり盗撮する天性の糞野郎なので、まぁ過去を改竄しても先生がこういった大人に成り果てるのは確定しているのかもしれない。
「……あぁ、先生の性根も腐り切っているので、お似合いのご友人だった訳ですか」
「ははは。酷いことを言うねぇ、羽衣ちゃん」
冷や汗を掻きながら、先生は引き攣った笑みを浮かべる。別に酷いことを言いたい訳ではないのだが、現実問題として酷い二人組なのだから仕方ない。
「お待たせ」
なおも湧き出ようとした悪口を、上八代がキッチンからコーヒーをお盆に乗せて運んで出て来たので引っ込める。流石に死んだ息子の悪口を、母親に聞かせてしまう訳にはいかない。
「それにしても暦くん、随分と前のことを詳しく覚えているのね」
「まぁ僕が転校してから初めての友達になった奴ですからねぇ、印象深いですよ」
先生は本当に楽しそうな表情でマグカップを受け取り、熱いコーヒーを啜る。
先生が上八代研太郎という人物について語る時の表情は、本当に嬉しそうだった。ゲーム画面やアニメを見ている時だって、あんな微笑を浮かべることはない。
友達のフリとして始まった二人の関係――その結末はどうなるんだろうか。私はただそれが気になった。
何で先生は、そんな風に笑うことが出来るんだろう?
○
●
「このアニメ、見ていて辛くないかい?」
「……そうだな」
話題だったので龍ヶ崎と一緒に録画したものを見てみたのだが、奴の方が先にギブアップしたのでビデオを停止した。大学のオタクサークルが舞台で、みんな仲良く楽しそうで……おぉ、面白いとかつまらないとか以前に、精神が拒絶してしまう設定だ。しかし勇者王の声がするガリヒョロオタクとか、それだけで視聴に値するだけに無念である。
テレビ画面が停止すると、龍ヶ崎は「そういえば研太郎」とスクールバックを漁り出す。
「借りていた軍曹さんの原作漫画を読んだんだが、驚いたよ。普通にエロいじゃん」
「アニメは子ども向けに改変されているからな。原作は普通に萌え漫画としてのクオリティも高いと思うぞ」
どちらが良いという話ではないけど、しかし子ども向けと思われて原作が敬遠されるのは間違っているとは思う。
「さて、おれの手元には最新十巻がある……ここに来て熱い展開が続く訳だが……分かっているな?」
「はいはい、交換だよね」
やれやれ、と肩を竦めて龍ヶ崎は、ビニール袋に入ったプリンと炭酸ジュースを差し出した。あぁ、これこれ。引き籠っているとはいえ、コンビニに行く位は出来ない訳じゃないが、そもそも買うだけの金が勿体ない。だったら龍ヶ崎に漫画のレンタル料として買って来てもらえば良いというおれの判断は、間違いではなかった。
こうしておれは、大好きなコンビニのプリンと炭酸ジュースを入手した訳である。デメリットしかないと思っていた異邦者――龍ヶ崎暦の襲撃。しかし彼をオタクサイドへと引き込み、上手く利用すればこちらにも旨味は出て来る。ゆくゆくは都内で開催されたイベントにも遠征してもらい、同人誌や限定グッズを買いに行ってもらうことにしよう。
おぉ、何と完璧な作戦だ。同人誌を一冊見せただけで即オチした龍ヶ崎のチョロさも要因の一つであるが、しかしおれの臨機応変な対応があってこそだろう。
「……」
だが――まぁ、何だろう。
無遠慮に座り込んで、嬉しそうにおれが貸した漫画を読み出す龍ヶ崎を見ていると、流石に違和感を覚える。幾らなんでも攻略が容易く行き過ぎなのではないだろうか。一般人からしたらオタク文化など異界の価値観にも等しいのだろうけど、しかし彼のリアクションは新鮮過ぎる。
「なぁ、龍ヶ崎」
「ん? なに?」
わくわくしながらページを捲る龍ヶ崎は、おれの方を見ることすらせず、感情の籠っていない返事をする。
「お前の実家って、ネット環境とかなかったのか? 流石にオタク文化を知らなさ過ぎるだろ」
「無かったよ」
「全く?」
「うん。山奥の奥の、そのまた奥にあった、地図にすら載っていないような村だったからね」
「あぁ……なるほど」
おれは静かに納得した。
オタク文化に対して拒絶感を持つ人間と言うのは大勢いて、ようやく周囲に認められてきたような風潮はあるものの、未だに偏見の目で見られることが多い。まぁ、色々あった訳だから、仕方のないのだろう。『ここに十万人の~』だとか、嘘か真か分からんけど、そんな風な言説が回っているだけでお察しだ。
だが龍ヶ崎暦というのは、良くも悪くもまっさらなのだろう。新品の白いタオルのようで、簡単に染まる。
「それは大層な地獄だな。ネット環境がないって……おれだったらとうの昔に自殺しているよ」
これは冗談でありながら冗談ではない。おれは引き籠りではあるものの、残念ながら孤独に耐えられるほど強い人間ではない。ネット掲示板や動画サイトでのコメントのやり取りなど……そういった現実とは隔絶した場所で誰かと交流しなければ、首を掻き切って死んでいただろう。
「……!」
そんなおれの言葉を聞いた龍ヶ崎は、驚いたような表情でこちらを見た。それから訝かしむような表情で、おれの瞳を飲み込む。
「……何だよ」
「いや……まぁ、確かに地獄だったなぁって、思い出してね。あそこに僕の居場所は無かった」
自嘲気味に笑って、龍ヶ崎はおれが貸した漫画の表紙を指先で撫でる。その表情は悲しみのようなものを帯びているような、そんな気がした。
「ここで研太郎が貸してくれた漫画読んでいる方が、数倍は楽しいよ」
「……楽しい、か」
おれは龍ヶ崎の言葉と表情に、息を飲んだ。
返す言葉が見つからない。喉が上手に動かない。
自分の感情が、分からない。
「なぁ、龍ヶ崎。何でお前、おれのこと、下の名前で呼ぶの?」
気付けば龍ヶ崎は、おれのことを「上八代」ではなく「研太郎」と呼んでいた。いつか理由を訊こうと思っていたが、一週間ほど訊くことが出来ずにいた。
「あぁ、友達なら下の名前で呼ばないといけないかなって思ってね」
「友達のフリ、だろ?」
「あぁ、友達のフリだ」
分かり切ったような確認。
素っ気ない龍ヶ崎の返答に、安堵する。
「まぁ君のお母さんも、君のことを『研太郎』と呼んだら喜んでいたからね。別に、特別な意味はないさ」
「……そうか。なら良い」
おれは短く言って、ベッドの上に沈み込んだ。何故か身体が怠い。全く力が入らない。
「……じゃあ、研太郎。僕は帰るね」
「ん」
互いに目を合わせず、別れの言葉を交わす。
扉が開いて、龍ヶ崎が部屋を出て行く音を聞いて、おれはようやく安心した。
脳内にモヤがかかったようで、思考が保てない。
矛盾している言動。
ネット環境があろうとなかろうと、おれはいつだって死にたくて、死にたくて――この世から消え去りたくて堪らない。
死にたくて、堪らなかった筈なのに、何故だろう?
分からない。分からないから考えることすら億劫になって、おれは龍ヶ崎が買って来たプリンに手を付けることすらせず、意識を夢の底へと落としていった。
●
◆
痛みには慣れているはずだった。
身体の痛みも、心の痛みも、気心が知れた友人のようなものだと、そう思っていた。
違う。
こんなものを、求めていた訳じゃない。
こんなはずじゃなかった。
嘘だ!
嫌だ!
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
だって、そうだろ!?
毎日のように殴られて! 吐いて! 罵声を浴びせられて! それでも、それでも!
――おれは、死にたくないッ!!
まだ生きていたい!
こんな結末は間違っている! 誤りだ! 誤植か何かだそうだろ神様ッ!!
だって、あんまりじゃないか。
こんな、誰にも看取られず、誰にも悼まれず、血液と内臓と吐瀉物をまき散らしてながら死ぬしかないなんて――そんなバッドエンドしかない物語なんて、おかしいだろ!!
「……」
あぁ、ひょっとしたら。
おれは無数にあったら選択肢の中で、間違ったルートに迷い込んでしまったのかもしれない。
だったら、あぁ、そうだ。
ねぇ、神様。
おれの人生、良いこと一つもなかったよ。
痛くて苦しくて、泣いてばっかの人生だったんだ。
だから、せめて……最後に一回だけ、チャンスをくれないだろうか。
この結末は変わらないのかもしれない……それでも今度こそ、今度こそ、おれが取り零してしまった何かを、手に入れたいって、そう思うんだ。
◆
●
意識が覚醒し、おれは立ち上がった。まだ足が覚束なくて、転びそうになりながら部屋を出る。ふらふらと階段を下って、一階に足を踏み入れた。
階段を降りた瞬間、目に入るのは玄関。トイレやら外出の際に見ているはずの風景が、どこか懐かしい気がした。
「……」
喉が渇いた。
おれは台所に向かい、冷蔵庫を開ける。何か冷たい飲み物がないかと探すと、おれの好物の炭酸ジュースとプリンが入っていた。
食べようかな……でも龍ヶ崎から貰ったばっかりだったか……? いや、あれはいつの話だっただろうか。昨日だった気もするし、随分と昔の話だったような気もする。
思考が纏まらずに混乱していると、ちょうど台所に母さんが入って来た。
「……母さん、これ食べて良いやつ?」
一応、確認する。この二つを食べるのはこの家ではおれしかいないだろうが、勝手に食べるのも失礼だろう。
「……?」
母さんはおれの方を見るなり怪訝そうな貌をして――急いで冷蔵庫を締めた。それからおれの質問に答えることなく、リビングに帰って行く。
「…………え」
いや、何その反応。
無視か。
そうか、おれは、無視されたのか。
「…………そうか」
そりゃそうだ。
学校にも行かず、バイトもせず、ただ食費と電気代を吸い取り続ける寄生虫に、これ以上は何も与える気はないのだろう。
母さんが最後に、おれに話しかけたのはいつだったか。もう思い出せない。
何もかも。
「――ッ」
それでも耐え切れず――おれは走り出した。ドタドタと音を立て、勢いよく階段を上がって行く。
「!? 研太郎!? 研太郎!!」
流石に無視し切れなくなったのか、下の階から母さんの声が聞こえる。でも知ったことか、おれは寄生虫だ。宿主の事情なんて関係ない。
あぁ、何もかも関係ない。
「……」
自室の扉を開ける。舞い上がる埃と、カビの臭い。転がった漫画雑誌と、乱雑に置かれた所為で絡まったゲーム機のケーブル。
あぁ、やっぱりここだ。この場所だ。
おれに残されたのは、この部屋だけだ。
安定しない足取りで、おれは椅子に深く座り込んだ。背もたれに全体重を預け、PCを起動しようとしたが、手が震えて上手く電源ボタンが押せない。
あぁ、何だ? 母親に無視されたのがショックだったのか? おれの精神はそこまで脆弱か?
「は、はははは……」
意図せず笑みが漏れる。我が身が余りにも滑稽だったからだろう。
あぁ、そりゃ面白いだろう。面白いだろうさ。
何も映らぬモニターに映った自分の顔は、惨憺たる有様であった。だから、こんな無様な姿を誰かに見せる訳にはいかない。おれはおれとして、この小さな部屋の中で完結する。
だって、だって、だって。
もう笑われたくない。
指差されて、せせら笑われるのは、もう嫌だ。
誰も、おれを見ないでくれ。
そんなおれの願いすら踏み躙る音が、背後から聞こえた。
「――はははっ。どうしたんだい? 研太郎」
振り向く必要ない。
声さえ聞く必要なんて、なかったのかもしれない。
この部屋を訪れる人物は、一人しかいないのだから。
「酷い貌だねぇ、何かあった?」
嘲るような言葉に、おれの何かが事切れた。脱力し切った脚を奮い立たせ、立ち上がる。
「龍ヶ、崎ぃ」
おれは目の前に立つ能天気そうな笑みを浮かべる男に向かって、喉を絞り上げるように吠えた。
「お前なんかが、立ち入るな……っ。お前には分からない、分からない癖にぃ……っ」
あぁ駄目だ。瞳から涙が溢れて止まらない。
それだけも叫ぶんだ。
お前なんかに何が分かる。
お前なんかに何が分かる!
「お前なんか、とは辛辣だ。傷つきはしないが、感心しない物言いだよ」
余裕ぶった龍ヶ崎の態度が癪に障る。こいつはこういう奴だ。いつだって見透かしたように笑うんだ。こいつだって内心では、おれを見下しているんだ。
「黙れ……どっかに行け。とっとと消えろ。おれは母親にも、もう見捨てられた。担任の教師とやらも、どうせ見限る。お前がこの場に居る理由は、どこにもない」
「いーや、ある。あるに決まっている」
ヘラヘラと口元に笑みを浮かべ、龍ヶ崎はスクールバックの中ら、何かを取り出す。
それは、おれが貸した漫画だった。
「言われた通り熱い展開だったよ。ギャグ漫画で突然シリアスやった時の爆発力は、良くも悪くも強烈だね。しかも十巻だけは終わらず、十一巻にまでシリアスが続くと来た! ……これの感想を話さないことには、僕がこの場を離れる訳にはいかないなぁ」
「……っ」
何だ、こいつは。
この期に及んで、何を言っているのだ。
「な……何で、そんなの、ネットで幾らでも……」
「あぁ、その通り。扶養主に回線を引いてもらったからね。幾らでも掲示板で話せるさ。でもね……」
龍ヶ崎は告げる。
おれが最も言ってほしくない、その言葉を。
「僕は、君と話したいんだ」
「――ッ」
柔らかな笑み。嘘なんてどこにも感じない。
染み一つない、純粋で、自然な言葉。
返事が出来ない。全身が震える。
「本気か? 本気かよ、龍ヶ崎」
「本気も何も。面白い作品を読んだら、楽しく語り合うのがオタクだろ? まさか半年黙(ROM)ってろ、なんて言わないよね」
つい最近漫画やアニメを視始めたニワカが、2ちゃん用語を使って偉そうに言ってくる。
あぁ、でも、そうか。
お前が、そんな風に言うのなら――
――おれは、満足だ。
「あと、君のお母さんから預かり物だ。ほんとはお供えするつもりだったらしいけど、どうせなら直接持って行ってよ」
ひょいっと龍ヶ崎は、プリンと炭酸ジュースを渡してくる。きちんと冷えており、さっきまで冷蔵庫に入っていたことが分かった。
「……何だ、やっぱりおれのだったのか」
「本当に好きだよね、君」
「そうだ。三度の飯より……おれは、好きだったんだ」
母さんが買ってくれた大好物を、大切に胸に抱く。あちらに持って行くことが出来るのかは分からないが、もしもこの両手一杯に持って行けるのなら、ゲームや漫画より、おれはこっちが良い。
「もう、限界かい?」
「元より限界ギリギリだったんだ……あぁ、でも良かった。これで良かった。欲しかった物は、全部手に入れた」
身体の感覚が無くなっていく。それは感覚ではなく、事実、おれの身体が消失することを意味するのだろう。
それで良かった。
バッドエンドの人生だったけど、それでも最後に救われた。
閉め切っていたはずの窓が開き、ひゅう、という風の音と共にカーテンが開かれる。暗く、じめじめしていたおれの部屋は、暁の色に染まった。
思い出す。
過去に耐え切れず、現実に押し潰され――あの窓を飛び降りた、その瞬間を。
燃え上がる夕日は、あの時のようだった。
ここで終わっても良い――だけど、おれは欲張りな性格らしく、今わの際の、さらにまた今わの際にまで、やりたいことが出来てしまった。
だからおれは、振り返る。
茜色に染まる部屋に立つ、たった一人の男に向けて伝える。
「なぁ、暦」
「何だい、研太郎」
色んなことが語りたい。ゲームの話もしたい。アニメの話もしたい。掲示板や動画サイトなど、ネット上には面白い場所が沢山あることも喋りたい。
それでも崩れ落ちていく口から零すことが出来るのは、ほんの僅か、ほんの一滴。
それでも伝わってほしくて、おれは精一杯に笑った。
「十一巻が出るの、楽しみだな」
こうして世界は、暁の輝きの中に消えていく。
嫌なことばっかりだった。
痛いことばっかりだった。
まぁそれでも、この一瞬だけは幸せだったんだと、そう思った。
●
○
「色々とお世話になりました」
私がそう言って深々と頭を下げると、上八代さんは「いえいえ……是非とも、またいらしてください」と上品に笑い返して見送ってくれた。
先生の話が終わって、私達は帰路についていた。
流石に上八代邸で深く突っ込めず追求出来なかったけど、色々と先生には訊きたいことがある。しかしどう切り出して良いものだか……と動きかねている感じだ。
「要するに、龍ヶ崎家の関係者だった高校時代の担任が、『引き籠りの息子が成仏出来ないみたいだから何とか出来ないでしょうか』という上八代母からされた相談を、僕に丸投げしたって話だったんだけど……伝わったかな」
「まぁ、その辺は、何となく分かりましたけど」
私の消化不良感を察したのか、先生が捕捉の説明をくれる。いや、そこもそうなんだけど、一番に訊きたいのはそうじゃない。
「羽衣ちゃん――僕はね」
私が言おうか言うまいか、ウジウジ悩んでいると、先生は立ち止まって話し出した。
「地縛霊になっていた研太郎を成仏させる為なんかじゃなくて、生活の為に依頼を受けた。その選択は、今も間違ってはいないと思っている。あの時は、ああするしかなかったんだから」
訥々と、淡々と。
感情を露わにしない……いや、敢えて抑え込むような口調で、先生は語る。
「でもね……ああやって働くことで友達が出来た。自分が読むことが出来ない漫画の続きを、楽しみだと、僕に笑ってくれるような、そんな友達が出来たんだ」
「はい……そうですね。きっと、それは素敵なことだと思います」
どうしようもなく駄目人間で、打算的で、救い難い二人だったけど、それでもその関係は間違ってはいなかったと、そう思う。
「だからこの霊能力を、誰かを救う為の仕事をしようって思ったんだ。実家じゃ無能だと罵られた僕の低レベルの魔術でも誰かを救えるのなら、僕はそれを全うしようってね」
誰かを救う為の仕事。
黄昏刻を闊歩する悪鬼羅刹と魑魅魍魎。
実しやかに語られる都市伝説とまじないの詞。
それらを悉く打ち倒し、依頼者を救う。
霊能探偵。
そんな風に言ってしまえば聞こえは良いけど、決して決して万能の存在じゃない。
虐待され続ける少女達の命を救うことも出来なかったように、取り零してしまう命は、いっぱいあるのだ。
「だから僕はそれを貫く。誰かに乞われて誰かを救う。それが霊能探偵・龍ヶ崎暦だ。複雑な社会問題とか知ったことかって感じ」
「……」
「例の誘拐事件の後、『僕のしたことは、間違っていたのかな』――そんな風に訊いたら、君は何も答えなかったよね……うん、それで良いんだと思う」
そうだった、あの時、私は何も答えられなかった。必死に考えても、答えなんて見つかるはずもなかった。
「ひょっとしたら、次も似たような結末かもしれない。でも、誰かを救えるかもしれない。結局のところ、それだけだよ。そして僕は、あの笑顔を覚えている限り変われないし、変わらない。……まぁ、何て言うか……」
大真面目に先生は語って……それから恥ずかしそうに視線を外して頬を掻いた。
「……という、決意表明……というやつ……かな?」
「かな? と言われてもですね……」
過去を明らかにして、仕事に対する情熱を語って……『らしくない』行動の数々に、先生のキャパシティーが限界を迎えたのだろう。
「でも意外でした。先生って、ちゃんと仕事に対するプライドとかパッションみたいなのがあったんですね」
「ははは。羽衣ちゃん、まるで僕が仕事に対して熱意がないと思っていたような言い方だね」
「熱意があるような仕事ぶりには、とてもじゃないが見えませんでしたが!?」
あれで熱意を示しているようなつもりだったのなら、社会を舐めているとしか言えなかった。
「えー、そうかなぁ」
と、先生は情けない表情でヘラヘラと笑う。何だか怒るのも馬鹿馬鹿しくて、脱力してしまった。研太郎さんもこんな感じで部屋に訪れるこの人を受け入れてしまったのだろうかと思い、少しだけ心の中で笑う。
「全く……さて、そろそろお昼ですけど、どうします?」
「……良ければ、羽衣ちゃんの手料理が食べたいな」
「仕方ないですね……じゃ、帰る前にスーパーで買い物をしましょうか」
そんな風に話しながら、私達は探偵事務所へと向かって歩き出す。
私はまだ、先生の元で働こうと思う。
借金返済のため――もちろん、それもある。だけど、それだけじゃない。
この世の中は悪意と理不尽で満ちている。
時に善意すらも、誰かに牙をむく時だってある。
そんな中で、誰かの笑顔のために働くことが間違いだなんて思えない。
例え失敗しても、取り零したとしても、救えなくても。
燃えるような暁の中で先生が抱いた感情は、誰かの為にありたいという願いは、きっと間違いなはずがないのだから。
『最初の事件』――解決。