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魔王降臨事変 補遺



 ガタンガタンと揺れる列車。

 次々と入れ替わる景色。最初の方は町並みが広がっていたが、幾つかトンネルを抜けると田んぼと山川の方が多くなっていく。

県内でも知名度は低い私鉄の始発に乗り込んだ私は、事務所から持ち出した魔法具を詰め込んだリュックサックを足元に置き、窓際から流れ行く景色を眺めていた。

(何か、貰った切符も見せずに普通に乗れちゃったけど、本当にこの列車で先生の故郷に行けるのかなぁ)

 ど田舎の一両編成の列車で、乗車客も三人しかいないけど……それでも、妖怪達の住む魔境に一般人が入れる訳がない。

しかも降車する駅の一覧には、当然ながら『龍跋村』は載っていないのだが――ひょっとして、あの黒髪の女に騙されたのではないだろうかと疑念が湧いてくる。

(まぁ……だとしても、先生の手がかりはない以上、信じて行くしかない……っ!)

 ぎゅっとリュックサックを握り締め、私は覚悟を新たにするのだが――、



『次は終点、※※。※※。東海道▼▼線は、お乗り換えです』

『終点の※※では車内での運賃精算はしませんので、切符、運賃、整理券は、駅員にお渡し下さい――』



「……あれ?」

 普通に終点に到着してしまった。やっぱり騙されたのかと思って列車から飛び出て、外にいる駅員さんに恐る恐る切符を見せてみる。

「あ、あの~、私、この『龍跋駅』って駅に行きたいんですが――」

「え? あ、あぁ――」

 もう六十歳も超えていていそうな高齢の駅員さんは、私が見せた切符を見て目を細め、それから声を潜めて言う。

「あぁ、席に戻りなさい、お姉さん。すぐに出発してしまうから――この時間を逃せば、龍跋村には行けないよ?」

「え、あ、あ――っ」

 今にも動き始めようとする列車に慌てて飛び乗った瞬間、車内アナウンスが鳴り響く。



『この列車は、龍跋行きです』

『危険物の持ち込みは禁止されています』

『また――』



『ここから先へ立ち入る者に、命の保証はありません』



「……っ!?」

 機械的なアナウンスに背筋が凍りつく。

 だが列車の扉は閉め始まり、今まさに逃げ場が閉ざされようとしていた。



『まもなく、龍跋行きが発車します』

『ドアにご注意ください』



私の僅かな迷いを断ち切るように、発車のベルが鳴り響く。ガタン、ガタン、ガタガタガタ! と列車は揺れ、動き出した。既に終点を迎えた線路に先などない列車は、私一人だけを乗せて折り返し出発する。

「ちょ――な、に、これ――っ!?」

 次の駅を示す案内板は文字化けを起こし、列車は本来ではあり得ない急スピードで走り出す。当然ながら激しく揺れる車内で、私は咄嗟につり革を掴んだ瞬間だった。

 暗闇に包まれる車内。たぶんトンネルに入ったんだと思って顔を上げた瞬間――目があった。

 窓の外に広がる暗闇と、目があったのだ。

「あ」

 何かがいる。

 目が、目が、血走った目が暗闇から列車の中にいる私を睨みつけていた。

「あ、な、――なに!? 何なの!?」

 先程のアナウンスが脳裏によぎり、私はリュックサックの中から数枚の霊符を取り出すのだが――、



 ケタケタ。



 ――耳元で何かが嗤った。



 トオリャンセ。

 トオリャンセ。

 ココハドコノホソミチジャ?

 テンジンサマノホソミチジャ。



「……なッ! 何が……何が可笑しいの!?」

 ケタケタとけたたましく嗤い声が車内に響き渡り、車体がグラグラと揺れる。

 無数の眼球は窓から覗き込み、私を睥睨している。

(これは霊――!? いや、違う! 今まで会った霊に実体は無かった! 強い思念で現実に影響を及ぼせる怨念でも、それは魂だけの存在だった――だけどもこいつらは――ッ!)

 実体がある。

 肉体を持っている。

 トンネルの中を走る列車の周りに纏わり付き、私に向かって悪意を剥き出しにしている。

(まさか、これが――『妖怪』! 龍ヶ崎家が戦後保存し続けてきたっていう、迷信から生まれた化け物達!)

 先生から聞いたことがある。

 龍ヶ崎の一族の使命――それは、妖怪と呼ばれる超自然的な生命体を守護し、継承することにあるんだと。

 本来、霊能探偵・龍ヶ崎暦が振るう霊能力は、妖怪達を守る為の魔術なんだと。

(それが出来ずに逃げ出した自分は、龍ヶ崎家の落ちこぼれだって、先生は言っていた――)



 チットトオシテクダシャンセ?

 ゴヨウノナイモノトオシャセヌ。



「!?」

 ぐわんッ! と激しく車両が揺れ、私はリュックサックを抱き締めながら横転してしまう。

「痛ッ! ――ッ、ぁ、あぁ……ッ!」



 ケタケタケタケタケタッ!

 ケタケタケタケタケタッ!



 痛みに顔をしかめた私に嘲笑が飛び交う。

(馬鹿にしやがってぇ……ッ!)

 ジェリーの件も然り、ゆめちゃんの件も然り、仰木さんの件も然り――人ならず悪霊と成り果ててしまった彼ら彼女らは、強い思いを抱いて現世に留まっていた。醜い姿となりながらも、その渇望を糧に必死に抗っていた。

 だけど、こいつらは違う。

 発生した時からそういう生き物で、思いなんてなくて、渇望なんてなくて、こうして慌てふためく人間を嘲笑するだけの存在なんだ。



 ケタケタ。

 ケタケタ。

 ケタ――、



 私を嘲笑うような声が静まった。理由は至極簡単なことで――わたしは窓ガラスに向かって一枚の霊符を投擲したからだ。

「おん・しゅっちり・きゃらろは・うん・けん・そわかぁ!」

 先生から教わった呪文――大威徳明王の真言を受けた霊符は淡く輝き、バチンッと紫電が迸る。

 パリィンッ、と呆気ない音と共に窓ガラスが破砕し、霊符が放つ眩い光に無数の眼球が見開く。



 ■■■■ッ!

 ■■ッ、■■■―――ッッ!!



 鼓膜が破れそうな大絶叫が響き渡り、窓ガラスがガタガタと震え、ヒビが駆け巡る。



 アァ!

 アァ!

 アア■■■――ァッ、アア■■ァ――ッ!



「ちょ、嘘でしょ――ッ!?」

 霊符によって妖怪達は苦しみながらも、ガン! ガン! と窓ガラスを叩いて壊そうと押し寄せている。

「ひッ」

 パリンッ、と床に散らばったガラスの破片。車体は右に左に揺れ動き、私は尻もちをついたままリュックサックに手を突っ込んだ。

(霊符は確かに効いているんだから、追加で使えばこいつらを倒せる――先生に会うためにも、こんなところで死ぬわけにはいかないッ)

 パリィンッ! という激しい音と共に窓ガラスが破裂し、黒い影から伸びた無数の腕が襲い来る。

(間に合った!)

「おん・しゅっちり・きゃろは――」

 再び真言を唱えて、私が霊符を投擲しようとした、その時だった。



『本日もご利用ありがとうございました』

『次は最終点、龍跋です』

『人間のお客様におかれましては、お命に気をつけて行ってらっしゃいませ』

『ご乗車ありがとうございました』



 ピンポンパンポーン、と軽快なアナウンスと共に列車が減速していく。窓ガラスの孔から這い出ていた黒い影はしゅるしゅると収束し、車外へと放出されていった。



 トオリャンセ。

 トオリャンセ。



「――ッ!」

 不気味な声は遠ざかり、真っ黒だった景色が瞬く間に晴れていく。その先に広がっていたのは、広大な山々と、その隙間に流れる川――長閑な、田舎の風景。

「助かった……の?」

 ぺたん、と脱力し、私は額に浮かんだ汗を制服の裾で拭う。

 誰もいない無人駅のホームに列車が到着する。

 ぱっと見た感じありふれた田舎の駅だけど、駅員も含めて人影が一切ない。当然ながら列車の運転手の姿も消えている。

「……ッ」

 ただホームに掲げられた『龍跋駅』という名前が、ここが先生の故郷であると保証してくれており、私は投げ飛ばそうとしていた霊符をリュックサックに入れて、開いた扉から飛び出た時である。



 イキハヨイヨイ、カエリハコワイ。



 声が。

 じわり、響く。



 コワイナガラモ。

 トオリャンセ。



「――ッ!」

 ふっと耳朶に触れた不気味な声に、私は反射的に振り返る。しかし龍跋駅のホームに私を連れてきた列車の姿は影も形もなく、ただ山々に掘られたトンネルへと続く線路が延々と続いているだけであった。





 東京都港区にある芸術大ホール。

 狂った教祖の元に集まった哀れな信者達の手により、地下三階層まで構築された、魔王を降臨させる為の祭壇。

 多くの亡者達は霊能探偵の力によって打ち祓われたのだが、一度は大バビロン――『旧約聖書』に記された悪徳の都を顕現させた魔術式『大いなる獣』の影響は色濃く、「霊長零落」の権能が完全消滅するまでは破壊することも出来ない、完全立ち入り禁止エリアとなっていた。

 そんな瓦礫の山となった夢のあとに、スーツ姿の男が一人立ち入っている。

「ふぅ……全く、これだけ清め祓いを続けても、神性が無ければ立ち入ることも出来ぬとは……しかし、私一人では調査も捗らんぞ」

 スーツ姿の男――宮内庁参事官にして障神局局長である安曇阿雁は、ぶつぶつと草臥れた様子で悪態を吐きながらも、晴明紋と道満紋が刻まれた手袋で瓦礫を掴み取る。

(やはり、どれだけ清め祓いを行おうと、霊障は残っている……この事変にて使われた怨念の正体――三木東間とは何だったのだ……?)

 海神の子孫である彼の瞳に宿る霊視力は、瓦礫にこびりついた悪霊の手跡を捉えており、その強い呪詛の元となった力に思慮を巡らせていたのだが――

「……」

 ――ふと、瓦礫を地面に下ろす。

 そしてポリポリと白髪交じりの頭を掻き、「はぁ」とため息を吐いた。



「おい。一応ここは、部外者以外は立ち入り禁止になっているんだが?」



 誰もいない、虚空に投げかけた言葉。

 だけどガシャッ、と瓦礫を踏み締める音が響き、崩落したビル壁の隙間から人影が現れる。

「おや――気付かれてしまいましたか。気配は消していたつもりなのですが」

 ふわり、揺れる紫のストラ。

 黒いキャソックを身に纏う長身痩躯の青年は、特に悪びれた様子もなく肩を竦めた。

「……錦織騎士団長。魔王降臨事変は終わったというのに、周囲を探るのは止めていただきたい。本件は【八咫烏】の勅命より私達へ一任されている」

「ははは、そうは言われても、俺達にも仕事が残っていますから」

 にこにこと爽やかに笑いながら、カエルム・ヘルバ騎士団の団長・錦織唯一は歩みを進め、かつてバビロンの大淫婦が降臨した祭壇の跡地を見上げる。

「仕事? 三木東間が纏っていた『拒絶聖装』の残骸なら引き渡しただろう? あぁ、それとも大淫婦を呼び起こした『大いなる獣』の魔術式を探しているのか?」

「はは、アレイスター・クロウリーの遺産は、あの悪霊達と供に七星剣によって討ち滅ぼされてしまいましたからね……俺達が知りたいのは、その構成要素の方ですよ」

 阿雁の隣に立った唯一はしゃがみ込み、足元に転がる瓦礫――つい先程阿雁が地面に下ろした物と同じ瓦礫を手に取った。

 瓦礫を見つめる唯一の左目には十字架が宿っており、その霊視力により阿雁と同じく悪霊が残した霊障が確認出来た。

「三木東間は如何にして、こういった悪霊達――報われぬ人々の魂を集めて、地獄の釜を開こうとしていたのか……非常に興味深い。法王庁からも今後の対策の為、詳しく調査せよと命令が下っています」

 この世は神の庭である。

 主の威光は遍く地上を照らし、迷える子羊を救うのだ。

 だからこそ――神の従僕を自任する錦織唯一は、この疑問を解消せざるを得ない。



「何故――これだけの悲劇が、これだけの報われぬ魂が、……この世界にはあるのでしょうか」



 ぽつり、と零すような言葉。

 そんな唯一に、阿雁は「さて、何故だろうな」と嘆息混じりの吐息を漏らした。

「あの霊能探偵なら、その辺は詳しいかもしれないがな」

「あ、そうです、それもありました!」

 ぽん、と唯一は思い出したように手を叩く。

「龍ヶ崎! そう、龍ヶ崎暦さんは地元である龍跋村へと帰ったらしいじゃないですか。詳しく話を聞きたいので行き方を教えてもらえませんか?」

「止めておけ。あそこは妖怪という摩訶不思議な存在を保護する為にマヨヒガ……つまり、外界と拒絶した異空間と化している。入り込むことは不可能ではないが――妖怪の跋扈する異界から生きては帰れぬぞ」

「……さて、怪物の類でしたら、主の威光を以って打ち払うのが俺達の使命ですが――」

 ぴくりと動く唯一の右腕――そこに神の子の遺体を貫いた聖槍の模写が縫い込まれていた。

「分かりませんねぇ。妖怪に俺の聖槍が通用するのか……そもそも、妖怪とは倒すべき敵なのか」

 魔女、人狼、吸血鬼、そして悪魔――神が定めた寿命に抗い、神の領域を食い荒らす怪物達は、神の敵として闇へ葬ってきた。

 だが、妖怪という存在は、どう定義して良いものかと首を傾げる唯一に、阿雁は「はは……」と乾いた笑みを浮かべる。

「いや、騎士団長――神罰の代行者であり断行者である貴方達が手をかける必要など、全くありません」

「何故、そう言い切れるのですか?」

「……まぁ簡単な話さ」

 朝日に照らされ、影が消えていく瓦礫の山。

 不思議そうに首を傾げる狂信者に、海神の裔である男は何でもないように話し始めるのであった。





「すごー……い」

 無人の駅から踊り出た私は思わず、目の前に広がる景色に感嘆の声を上げてしまった。

 すでに冬の足音が聞こえてくる山々は赤く色づき始め、澄んだ空には千々とした雲が浮かんでいる。駅から伸びる一本道の左右には、稲刈りが終わった田んぼが一面に広がっていた。

「凄い――田舎ッ!」

 山、川、田んぼ!

 視界に映る全てが綺麗で、頬を撫でる冷たい風も吸い込む空気も気持ちが良い。現代文明の影は鳴りを潜め、生き物本来の息吹を全身で感じられる。

(とは言っても……困ったな。テキトーにその辺を歩く住人から先生の情報を聞き出そうと思っていたのに……)

 これだけ自然が溢れているといっても、駅があれば田んぼもあるんだ。どこかに人間くらいはいるだろうと思って、私は舗装されていない道を歩き出す。

「……」

 一歩、一歩、慣れない畦道を革靴で踏み締め、広い秋空を見上げながら、私は考える。

 龍跋村という場所の意味。

 ここは先生の実家があり、当然人間が住んでいるはず――だが、同時に妖怪とか呼ばれる化け物も潜んでいるのだ。



 イキハヨイヨイ、カエリハコワイ。



 あの電車で遭遇した妖怪が最後に残した声が、私の脳裏で繰り返される。額に浮かんだ冷や汗を拭って、私が顔を上げた時だった。

「……ん?」

 ぱっと目が合う――いつの間にか、向こう側から歩いてくる、作業着姿の腰の曲がったお婆ちゃんの姿があった。

「あれ。 あんた、この辺じゃ見ない制服だけど……村の外から来た人かい?」

「え、あ……は、はい。実は、浜松の方から人探しに……」

 怪訝そうに私の顔をジロジロと見てくるお婆ちゃんに対してしどろもどろになりながらも、何とかここに来た目的を伝える。すると、「あれ、まあ」と気の抜けたような声を漏らしながら、頭巾を被った老婆は相好を崩す。

「今どき珍しいねぇ……一体誰を探しに来たの? この村は狭いから、名前を言ってもらえば分かるかもしらんよ」

「りゅ、龍ヶ崎――という、人です」

「? 龍ヶ崎?」

 人の良さそうなお婆ちゃんは、私の言葉に首を傾げる。あれ? 有名な家じゃないの? と困惑する私に、お婆ちゃんは台詞を続けた。

「いやねぇ、ここいらは龍ヶ崎さんが多くて、それだけじゃ分かんないの。名前はなんていうの?」

「……」

 僅かに躊躇う。

 先生は、居心地が悪くなってこの村を出奔したらしい。だからこそ、地元での評判は悪くても不思議ではない。

(コミュ障だからな、あの人……こういう田舎での人間関係なんてまともに築けるか怪しい……)

 しかし手がかりが一切ない以上、こうして親切に声を掛けてくれたお婆ちゃんを頼る他なく、私は逡巡の後に答えた。

「龍ヶ崎……暦、という人です」

「こよ、み……?」

 お婆ちゃんは私の言葉に目を細め、シワだらけの両手をぽん、と叩く。

「ああ! 丁さんとこの暦くん! つい最近帰ってきたっていう、あの子かい!?」

「は、はい。たぶん……」

「あぁ、あの子の家は五芒の屋敷っていう……えーっと、この道をまっすぐに行ってねぇ、突き当たったとこで右に行って、橋を渡って少し登った先のとこだよ」

「……」

 スラスラと先生の住まいを口にするお婆さん。やっぱり先生の家は、この村では有名らしい。

(何にしても、手がかりゲット! 助かった……)

「ありがとうございます、わざわざ教えていただいて」

「いーの、いーの。にしても、暦くんとは外で知り合ったの? あの子、すっごい昔に村を飛び出てから、とんと話を聞かなかったけど……」

 ニコニコと笑いながら、お婆ちゃんはゆっくりと手を差し出す。細い手首とシワシワな指は小刻みに揺れており、長年の苦労が伺えた。

(こんな田舎なんだし、やっぱり農作業とか大変なんだろうなぁ)

 とか、そんな風に考えさせる細い右腕が――ガシッ、と、私の左腕を掴み取った。



「外から人間を連れ込むなんて、本当に何を考えイルノカねェ」



 おぞましい声が耳元まで裂けた凶悪な口から溢れ、柔和そうなお婆ちゃんの顔は真っ赤に染まっていく。

「――ッ!?」

 がっしり掴まれた腕は力強く離れない、離れない、離れない!

「人間――人間人間人間ッ! ケタケタケタケタッ!」

 はらりと脱げた頭巾の下からは針金のように逆だった髪の毛と、一本の角。

 それはまるで昔話に登場する、人食いの鬼のようだった。

「よ、妖怪――ッ!?」

「妖怪?」

 ケタケタと狂ったように嗤い、嗤い、嗤う老婆の声は、電車の中で聞いた悍ましき気配と全く同じだった。

「妖怪、アンタラガ畏レタ妖怪! アンタラガ切リ捨テタ妖怪! 人間、アァ、あァ、ああァああッ! 久方ブリノ人間――ッ!」

「――ッ!」

 ギリギリと手首を捻り切らんばかりに握り締め、哄笑を撒き散らす鬼の如き化け物は爛々と瞳を耀かせて生臭い吐息を漏らす。



「随分ト、美味ソうジャなイカァ……」






 とある地方都市を走り抜ける、黒塗りの高級車。

 後部座席にふんぞり返った男はスーツを着崩し、ネクタイを隣の座席に放り捨てながら溜息を吐き、鳴動するスマホを手に取る。

『コトアヤ。「魔王降臨事変」の解決、まことにおめでとう。我らが主に歯向かう背信者を誅殺いただいたことに感謝する』

「過分な評価に身振いしちゃうねぇ……ローマ法王庁のお偉いさんが直電かましてくるとか勘弁してくれよ」

『はっはっはっ、君だって相応の血と身分の持ち主だろうよ』

 チッ、と面倒臭そうに舌打ちをした宮内庁長官、藤浪言綾は背もたれに体重を預けながら庁車の天井を眺める。

『にしても、魔王降臨……地獄の底から暁の魔王そのものを呼び出そうとは、随分と気宇壮大な話だ。ふふッ、太平天国もそうだが、我が主の教えはアジアに行くとねじ曲がっておかしな方向に行ってしまうのは何故なんだろうな』

「太平天国は大陸の方の話だから、本邦には関係ねぇんだが……まぁ、あんた達の神の教えは、八百万の神々を信仰する俺達には馴染まねぇのかもしれねぇな」

 多くの神々を奉る多神教である日本という国は、唯一の主を崇める一神教の普及率が極めて低い。閉鎖的な島国の中で神道と仏教が混ざり合い醸成された宗教観は、一神教を拒みはしないが、一神教に染まることもないのだ。

『そうそう、君達の国はおかしい。おかしいんだ。昔からイエズス会の連中が手を焼いたのもよく分かる。万物に等しく神が宿るなど、狂気の発想としか言いようがない』

「……その『神』ってのは、明治の頃に翻訳の都合上そう呼称されただけから、あんた達の崇める『神』と同一視されても困るんだがなぁ……」

 ぽりぽりと頬を掻き、言綾は億劫そうに生温い息を吐き出す。

「神道に於ける『神』ってのは、西洋で言うところのスピリット……まぁ強引な言い方をすりゃ精霊の一種だ。俺達はシャーマニズムに近い思考を以って、精霊の力を行使している。――そして神道は、俺達に力を与える数多くの精霊たち全てを信仰している訳だ」

『シャーマニズム……自然への信仰か』

 電話の向こうでは、少し考え込むような間があった。

 世界人口の三分の一を締める超巨大宗教の中枢に鎮座する男にも、自分の信じる『神』とは別の『神』を奉じる考えに興味はあるようだった。

『確かに自然とは時に人間を超越し、恵みを与え、試練を与える……神聖視するのも大いに分かる。だが……本当に君達は、路傍に転がる石さえも神である信仰するのかね?』

「そこに神たり得る理由があり、そして皆が信じるのなら路傍の石も神様だし……まぁ、理由も信仰もなくたって、別の存在として奉られる場合もあるわな」

『? 別の存在?』

「神として扱われなくても、妖怪って呼ばれる別の存在として扱われる場合もある」

 つまらなそうに、窓の外に広がる地方都市の町並みを眺めながら、言綾はうそぶく。

「何でもかんでも神として崇める価値観が、『神として信じるほどじゃないけど、なーんか不思議だなぁ』くらいの感覚で生み出してしまった怪物達のことさ」

 科学全盛のこの時代、日本国内でも妖怪は絶滅危惧種であり、とある地域で隔離して保護しているような現状である。神になるほど信仰はされず、されど非科学的であるが故に駆逐される、悲しき存在を想いながら言綾は唇を歪ませる。

『ふむ……万物は信仰を得て神と成り、信仰を得られなった場合は妖怪という怪物に成る……極東の信仰は奇々怪々だな』

「ははッ、そりゃお互い様って話だろ。新教だの正教だの色々と分派して世界中に飛び散りやがって」

『――新教(プロテスタント)正教(オーソドックス)も、全て我らから派生した紛い物だよ、コトアヤ』

「そりゃ失敬」

 少しだけ怒気の孕んだ言葉に謝罪しながらも、藤浪言綾は何かに気付いたように、視線を窓の外へと向けて鼻を鳴らす。

「ふん。まぁ何にしても、三木東間は教祖としては恐ろしい存在だったよ。日本の風土に合わないキリスト教を基盤とした教えを――こうも根付かせやがった」

『ん?』

 電話越しから怪訝そうな声が漏れた刹那、キキィッ! と耳をつんざくようなブレーキ音を立てて黒塗りの高級車が急停止した。

「ちょ、長官……ッ!」

「分かっている――、動くなよ」

 上擦った声で叫ぶ運転手に落ち着いた声で制止し、言綾は――国道を完全にバリケードで封鎖した白い作務衣のような服を身に着けた十数名の若い男女達を、鋭い視線で睨めつける。

『どうした? ははッ、さては――かの異端者共の残党狩りの最中という訳か?』

「……あぁ、忙しい身なんで、この辺で失礼するぜ」

『そうか。では、またいずれ。出来ればこれが、最後の通話になると願っているよ――藤浪大中臣言綾卿』

「あぁ、そりゃあそうさ、それが一番だぜ――ロレンツォ・ヴィオーラ猊下」

 ヴァチカンの最高顧問である枢機卿の一人にして、ローマ法王庁国務省第六課異端審問局局長との通話を終えた言綾が、スマホをスーツの内ポケットに仕舞った、その時であった。



 ブォン! という轟音と供に吹き飛んできた『止まれ』の道路標識が、黒塗りの高級車に勢いよく突き刺さった。



「うぉ!?」

 咄嗟に運転手の襟を掴んで車から飛び出た言綾は、しかし顔を上げた瞬間頬を引きつらせる。



「 しんそうごく 」

「 しんそうごく 」

「 しんそうごく 」

「 いましめたもう 」

「 あおがある 」



 公然と国道を閉鎖した作務衣姿の若者達は虚ろな瞳でブツブツと呟きながら、道路標識や看板、果ては巨大な瓦礫を握り締めて言綾を睨んでいるのだ。

「ひッ、ちょ、長官! これが、人間を材料にして蠱毒を行ったという……ッ!? しかし、これは――」

「あぁ、隠れキリシタンが屋祓いの際に詠唱するオラショ――俺達で言うところの祓詞! あの『魔王降臨事変』で『マサンの栄光の会』の狂信者共が、散々口にしていたのを聞いたぜ! つまり――」



「 いずっぽではらいたもう 」

「 あんめーぞッ! 」


 言綾の台詞を遮るように詠唱を続け、各々が手にした標識、看板、瓦礫、――無造作に選ばれた、ただ『人を殺せそうな物』が、何の武器も持たない人間に向かって一斉に投擲された――のだが。

「――随分とお粗末な攻撃だね」

 スパァンッ、と小気味の良い音と共に、標識が、看板が、瓦礫が、まるで発泡スチロールのような気軽さで切断され、バラバラになって散っていく。

「ヒュウッ、流石だねぇ……期待の新人。助かったぜ」

 どこか茶化すように言綾が話しかけるのは、いつの間にか目の間に立っていたスーツ姿の青年。左目を眼帯で隠し、残る右目は爛々と赤く輝いている。

 そして彼の右手には、一振りの日本刀がにぎられていた。

「長官……今の、ご自身で何とか防げたでしょう」

「ん? まぁそうなんだが、この運転手くんを庇いながらじゃ、少々な」

 あわあわと白目を剥いて泡を吹く部下を地面に下ろし、言綾はわざとらしく肩を竦める。

「――ったく、『ティアティラ』が刻まれたコイツ等の本尊は、すんなり破壊させてはくれないらしいな」

「……まぁ、彼らの神そのものでしょうからね」

 ブツブツと――まるで機械音声のような声で、あの『魔王降臨』に際して集まった『マサンの栄光の会』の信者達のようにオラショを詠唱する若者達を眺めながら、天国朏句人は『狐月』を構えた。



 狂った教祖・三木東間は魔王を降臨させる為の魔術式『大いなる獣』を使用した際、日本全国に魔術を仕掛け、列島を覆うような形で超巨大な魔法陣を形成していた。全国に飛び散っていった信者達は、推定七箇所に特殊な魔術式を刻んでいたと考えられている。

 現在判明し、既に破壊が済んでいるのが三箇所。

 とある学校の地下、地鎮祭の際に埋められた鎮物には『らおできあ』と刻まれていた。

 とある教会の司教座、祭壇の裏には『Pergamon』と刻まれていた。

 とある寺院の本堂、仏像の額には『須御留奈』と刻まれていた。

 全ては『ヨハネの黙示録』に語られる、終末の直前に兆しが届けられる教会の名前であり――残りの四教会、『エフェソス』『ティアティラ』『サルデス』『フィラデルフィア』の所在は不明なままだった。

 今回、警視庁特務神霊班の協力によって、この街を拠点として活動する真言密教系の新興宗教『阿房宗』の本尊である即身仏によって死んだ教祖のミイラに『ティアティラ』が刻まれていることが判明した。

 故に言綾は朏句人を伴って調査に訪れたのだが、この規模の信者達がバリケードで国道を閉鎖しているとは夢にも思っていなかったのである。



「……今までの日本人の宗教観じゃ救えない連中が、こんだけ増えちまったってことか」

「え?」

 怪訝そうな貌をする朏句人に「何でもねぇよ」と呟いて、言綾は前を見据える。

 既にその場で瓦礫や看板を持ち上げた信者達は、据わった瞳で今にも侵入者を睨んでいた。

 だが、そこに殺気などない。

 ただ疲れ切ったようなやつれた貌で、彼等は縋るように見つめているのだ。

「新人。……なるだけ、峰打ち。もしくは急所を外せ。国民への被害は最小限で済ませたい」

「……了解、です」

 その指示に、朏句人は少しだけ安堵の表情を浮かべた時、彼の耳元に繋げたイヤホンに雑音と共に通信が入った。

『あー、あー、聞こえてるっすかぁ、後輩くん。その国道沿いに展開されている結界なんすけどぉ……わたしの神性で解除出来ると思ったら、ちょっと「マサンの栄光の会」の術式が入り混んでて難航中っす……いや、ほんと訳分かんねぇっすわこれ……』

「了解です。こっちは可能な限り大暴れしてきますよ、石上さん」

『えぇ、結界が解除され次第、対策班の本隊を直接GO!するっすよ~。いや長官を陽動に使う狂った計画、最高に痺れるっすね』

 ウキウキと楽しそうな声色の美散は「その通信、こっちに入ってんぞ」と言綾に突っ込まれ、『ぴぎッ』と蛙の断末魔のような声を上げて通信を切る。

「ま、まぁ一定の神性が無いと、結界内に侵入も出来ませんの……えっと、長官に直接お越しいただくしかないというのが現状でありまして、えっと……」

「随分と先輩思いだな、新人。気にしてないから、集中しろよ」

「――ッ」

 あせあせと美散のフォローしていた朏句人は、再び妖刀『狐月』を構え直し、地面を蹴り飛ばした。



「 いずっぽではらいたもう 」

「 あんめーぞッ! 」



 再びオラショを唱え終えた信者達が、武器を投擲する寸前に斬りかかり、その圧倒的な剣技によって無力化していく。

 だが、どれだけ朏句人が斬り掛かろうが、狂信者達は臆することなく戦い続ける。神の力を持った剣戟を、防ぐ手段なんてあるはずもないのに。




 三木東間の零した救世の種は無数に芽吹き、今日もまた無数に狩られていく。

 この世界に悲劇が尽きない限り、彼らの戦いに終わりはないのだ。





 慌ててリュックサックを開けようと動いた腕は、歪な化け物の腕で取り押さえられる。

「陰陽師の猿真似かァイ?」

(霊符のことがバレてる!?)

 老婆の姿は鬼と化して、ケタケタと私を嗤いながら舌なめずりをする――まるで、私の肉体を味わおうとするかのように。

「ひィッ!」

 背筋に駆け抜ける怖気に身が竦んだ私は鬼の腕を振り払い、咄嗟に走り出した。

「ケタケタ! ケタケタケタケタ! 逃ゲタ逃ゲタ、人間が逃げタッ!」

(怖いッ、怖い怖い怖いッ! 何あれ――何なのあの化け物はッ!)

 もっと恐ろしくて、もっと大きな悪霊とも対峙したこともある――だけど、あれは違う。あれは、妖怪は、幽霊とは根本的に違う。

 恨みによる殺意ではない。

(私を――ただの、食料として見ていた!)

「はッ! はッ! はッ! はッ!」

 最後の哄笑の後から足音もなく、追いかけてくる様子もないけど、私は息を切らして宛もなく舗装されていない悪路を逃げ惑う。

何がなんだか分からなくて、生理的嫌悪感に背中を押された私は、方向も何も分からず走り続けていると、田んぼ道を抜けた先に一軒の民家が目に入った。

「――ッ」

(先生の、家――?)

 あの老婆が言っていた位置ではないのは分かっていたが、老婆の正体が妖怪であったことから信憑性も薄い。

(せ、先生じゃなくても、普通の人だったら助けてくれるかも!)

「す、すみませんッ!」

 チャイムもない――築五十年は過ぎているであろう古い平屋の家のドアをノックして叫ぶと、「はぁい、何ですかぁ?」と呑気な老翁の声と共にガラガラと扉が開いた。

「え、えっと、突然ごめんなさい、そ、そこで――こ、怖い、――お、鬼に襲われて――」

 出てきたのが先生じゃないことにがっかりしながらも、柔和そうなお爺ちゃんに慌てて事情を説明する。普通の人間だったら異常者扱いかもしれないが、龍跋村に済んでいる住人だったら妖怪について知っている可能性だってはずだ。

「お、鬼? 嬢ちゃん、鬼に追われて逃げてきたのかい?」

「は、はいッ、そうなんです……た、ただのお婆ちゃんかと思ったら、突然角が生えて!」

「そうか、そうか、それは大変だったねぇ。その鬼は――」

 心配そうに私の肩に手を置く老翁――その柔らかな声に昂ぶっていた心臓が安堵で落ちつていくのが分かった。

 だが、その手の感触には、何か違和感があって。

 老翁は私の肩ではなく――背負っているリュックサックの肩紐を掴むように、握り締めていて。



「その鬼は――こォんナ顔だっタカぁいいい?」



 心配そうに私を覗き込む血走った眼球。

 紛れもなく私のリュックサックの肩紐を握っていたのは、さっき私を襲うとしていた鬼であり――全てに気付いた時には遅かった。

「ひィッ!」

 咄嗟に身を捩って逃れようとした瞬間、鬼は歪な腕で私のリュックサックを剥ぎ取って、そのゴツゴツとした足で「ふん!」と踏み潰した。

「あ」

 その中には、事務所から持ち出した霊符がたくさん入っており――それさえあれば、私だけでも何とか戦えると考えて、この村を訪れたのだ。

「キャハハッ、可笑しイ、可笑シい、これが無きャ、なァーンも出来ナイ? 人間! 人間! 人間の癖に! 陰陽師の猿真似! 猿芝居! ケタケタケタ!」

「あ、や――ッ」

(怖い――怖い怖い怖い! 逃げなきゃッ!!)

 狂ったように嗤いながらリュックサックを踏み潰す鬼を尻目に、私は家から飛び出でようとした時だった。

 じっと。

 玄関のガラスに浮かび上がった眼球が、眼球が、眼球が眼球が眼球が眼球が眼球が血走った眼球が黄ばんだ眼球が色その薄い眼球が眼球が眼球が私を睨みつけていたのだ。

「――あ、ひッ!? あああああッッ!?」

 マス目に浮かび上がった無数の眼球は、どこにも行かせまいと言わんばかりに私を一斉に睨みつける。

(あの列車の窓から見ていた目!)



 ケタケタ。

 ケタケタ。



 その嗤い声が脳裏を駆け巡り、立ちすくんでしまった私は、すぐさま次の異変に気づく――革靴を伝って太腿に纏わりつく、柔らかな感覚。

「ひッ、こ、これ――手ぇ!?」

 土間から伸びてくる柔らかくて暖かな、赤ちゃんのような腕が私の脚に絡み付いているのだ。

「は、放せ! 放してッ!」

(まずいッ、まずいまずいまずいッ!)

 どれだけ足を蹴り上げようと、赤ちゃんのような腕は執拗にしがみつき、私の脚を拘束する。

(霊符もない! 私に魔術は使えない! このままじゃ、逃げられ――)

「――逃がさナいよ、思い上ガり」

 ぞくり。

 耳朶に触れた言葉に怖気が走り、竦んだ私の首筋がゴツゴツとした鬼の手によって掴まれた。

「あ、あぎイいいッッ!」

(痛いッ! 首が折れて――ッ!!)

 頚椎をへし折ろうとする鬼の腕を振り払おうとも、万力のような剛腕から逃れることは出来ず、スカートの中にまで入り込み太腿が縛り付ける赤子の手で拘束され、伸ばした手の先には醜悪な無数の眼球がじっと私を見ている。

 哀れな私を。

 先生と一緒にいたから、何だか強くなれた気がして――先生に会おうと、この魔境の足を踏み入れた情けない人間の姿を。

「がぁ、や――めッ、なんで、うぎッ!」

「ケタケタケタケタケタ! 久方ぶリノ人間! 馬鹿な人間! 阿呆ナ人間! イキハヨイヨイ、カエリハコワイ……言ったノになァ……しっかり言ッたの二なぁ……言ったノに入っテ来たんだかラ、仕方ないよなァ!?」

「あぎッ!?」

 ぶち、ぶちぶち! と何かが千切れる音が脳内で響き渡り、視界がじわじわと薄れていく。

 覚悟したはずだった。

 先生の知り合いだって名乗った女の人から切符を受けた時から。

 いや、本当はもっと前から死ぬ覚悟なんて出来ていたはずなのに。

(死にたくない……ッ、私は、生きて……ッ)

 痛みの感触すら薄れていき、段々と考えることすらできなくて、だけど歯を食い縛って目を見開き、俯いていた顔を上げた――その時だった。



 ガラッ! と勢いよく、玄関のドアが開け放たれた。



「あ」



 そこには――そこには、一人の男が立っていた。

 ボサボサの頭。長身痩躯、だけど猫背で、着流しの着物は着崩れしており、だらしない。



「はッ、はッ、朱の盆、目目連、赤手児……君達は本当に、全く……全くもう……ッ」



 ここまで全力で走ってきたのだろう。

 びっしょりと汗をかいた男は肩で息をしながら溜息を吐き、七枚の霊符を取り出し投擲する。

「朱の盆、君だけは丁寧にお仕置きだ――金神七殺(こんじんななさつ)、急々如律令ッ!」

 聞き慣れた呪文の詠唱と共に七枚の霊符は淡く光り輝き、舞い踊る。私の首をへし折ろうとしていた鬼は絶叫を上げながら吹き飛んで、屋敷の襖を破壊しながら奥の方へと転がっていった。

「あ……ッ、が、はぁ……ッ!?」

 腰の走る激痛――ふっと拘束が解かれた私は土間に崩れ落ちる。

 だけど痛みはない。

 倒れそうになった私の腕を、か細くて情けなくて……でも、暖かな手が掴んでくれたからだ。



「『全くもう』は君もだよ……羽衣ちゃん」



 額に滲んだ汗を拭って。

 優しそうに、困ったように笑う声、吐息、ぬくもり。



「せん……せい……ッ」



 あの事件から三ヶ月。

 あの地獄から三ヶ月。



 私は龍ヶ崎先生と、再会したのだった。





 超自然的概念生命体保護特別区域――妖怪の楽園/異能の苗床――龍跋村。そう聞けば如何にも恐ろしく、如何にも妖怪変化がそこかしこに蠢く魔境然とした場所であると誰も考えるだろうが――そこに住むのは人間である。

 人間が住む屋敷があり、人間が耕す田畑があり、人間が引いた道路があり、基本的に龍跋村は人間の為に設計されている。

 龍ヶ崎家によって形作られたこの村は、あくまで人間による支配が前提によって存在しており――特に、龍ヶ崎家の中でも強力な退魔の魔術を扱える家柄は特別な立場にあった。

 その筆頭が龍ヶ崎五芒家。

 本家に連なる御三家の一つであり、霊能探偵・龍ヶ崎暦の生家であった。



「こ、暦様――こんなところにいらっしゃったんですか!?」

「ん?」

 ぼうっと。

 龍ヶ崎家五芒家の所有する巨大な屋敷の縁側に腰掛け、呆然と秋の空を眺めていた暦の元に、割烹着を身に着けた女中の一人が走り寄る。

「ああ、迦具夜……ごめんね。ちょっと、外の空気が吸いたくなって」

「そ、それは結構なんですけど、部屋から出る時には一声掛けてくださいよぉ」

 おろおろと、半ば泣きそうな貌で暦に詰め寄る女中――中谷迦具夜。ほぼ同年齢のはずの彼女が放つ、どこか幼い雰囲気に暦は思わず目を逸らす。

(……思い出したくない、けど)

 あの夜、屋敷を飛び出した。

 周囲の人々が気を使って掛けてくれた言葉すらまともに聞けず、自分勝手な我が儘で逃げ出した。

 龍ヶ崎暦は、忘れられない。

 忘れることなんて、出来ないんだ。

「――あぁ、次から気を付けるよ」

 縁側に座った暦は微笑む。

 その貌は優しくて、その声は暖かくて――「だけど、だけど」と迦具夜は、心の裡で首を横に振る。



 龍ヶ崎暦の帰還は、村中で話題になった。

 三郎ヶ谷で土蜘蛛に襲われて死んだと思われていた少年が、村から抜け出し外界で暮らしていることは、随分と前から【八咫烏】を介して判明していたし、龍ヶ崎本家は霊能探偵として活動する彼に魔法具を支給するなどして、幾分かの支援は行っていた。

 だが、どんな理由があろうとも、一度でも龍跋村から外に出た人間が、再び帰ってくることなんて考えもしなかったのだ。



「……暦様」

「?」

 一度、目の前からいなくなってしまった人。

 土蜘蛛に襲われ、今にも殺されてしまいそうな暦を見上げ、まだ少女だった迦具夜は何も出来なかった。

ただ泣き声を上げながら屋敷に帰り、皆に事の顛末を伝えるだけしか出来なかった。

「いやッ、え、―っと……その、お外での生活が長かったようで……この村での生活は、少々退屈ではございませんか?」

 何かを取り繕うように絞り出した迦具夜の台詞に対し、暦は「あー、うん」と少し安堵した様子で頬を掻く。

「スマホもPCもなくて、身体も満足に動かせないからね……まぁ、こういう風に日がなのんびりするのも悪くはないさ」

「……」

「そう……スマホを手放して考えるようになったんだよ。何で僕は、掛け持ちしているソシャゲのデイリーミッションを消化する為に、毎日追われるように生活していたんだろうって……」

「暦様……?」

 その台詞の意味はさっぱり分からない迦具夜だったが、何となく「外の世界は毎日大変なんだろうな」と思いを馳せながら暦の背中を撫でる。

「それにしても、暦様が帰ってくるなんて驚きました……嬉しいです」

「ははは……魔術の使い過ぎでぶっ倒れたから、強制送還させられた感じなんだけどね」

「例えそうだとしても、わたしはあなたがここに居て……い、生きていてくれるのが、何よりも……」

 何よりも嬉しい。

 あの日、あの夜に失せてしまった大切な何かが、今もこうして息づいている。

 迦具夜は、ただそれだけで胸が張り裂けそうになり、唇を噛みながら暦の袖を掴んだ。

「…………」

 その今にも泣き出しそうな迦具夜の貌に息を呑み、暦が何かを言おうとした、その時だった。



 かーん、かーん、かーん、かーん。



 遠くから響く踏切の警告音に気付いた暦と迦具夜は、二人で目を見合わせ、怪訝な表情を浮かべる。

「珍しいね。扶桑グループの人達でも来る予定?」

「いえ、そのような話は聞いておりませんが……」

 外界と隔絶された魔境、龍跋村。

 しかし完全に外の文化や技術を拒絶してしまうのは得策ではないので、特定の業者は裏ルートで龍跋村へと入ることが可能になっている。

 だが、それはほんの一握り、龍跋村を作った初代村長の関係者の数社のみに限られている。故に一年でも数回しか、龍跋村には踏切の音は鳴ったりしない。

「……あー、ひょっとして……来ちゃったかぁ。」

 耳を澄まして音を聞いていた暦は「十束ちゃんも律儀な子だね」と呟き、その貌が少しだけ綻ぶ。

 それはどこか呆れたような――だけど、嬉しさの籠もった、何とも言えないちぐはぐな貌で――、

「あ、こ、暦様!? どこに!? 駄目ですよ、まだ治ってもいないのに!」

 どっこいしょ、と年寄じみた掛け声を上げて立ち上がり、暦は緩慢な動きで歩き出す。

「あー……外で知り合った、大切な人が村に来てくれたみたいなんだ。でも、あの子は妖怪のこととか詳しく知らないだろうから……僕が、迎えに行かなきゃ心配だ」

「だ、だったらわたしがッ!」

「それじゃ意味がない……っていうか、迦具夜は妖怪を止められないだろう?」

 必死に食い下がろうとする迦具夜に対し、暦はだらしなく笑って言う。

 それは迦具夜の聞きたかった言葉であり、

叶うなら暦が言いたかった言葉であった。



「今度は、ちゃんと帰ってくるから」



 そうして暦は着流しのまま雪駄で地面を蹴り、屋敷から飛び出していくのであった。





「うごッ、げほッ、こ、暦様ッ、これは手酷い……ッ。私達が何ヲしたと言うのデすか……!?」

 屋敷の玄関から先生の霊符で吹っ飛ばされ、奥にある囲炉裏に頭から突っ込んだままの鬼が、じたばたともがき苦しみ悲痛な叫びを上げている。

「いや、何をしたって……この子の首を、完全に折ろうとしていなかったか……?」

「滅相もなイ! 私達は妖怪ラしく――こノ少女を驚かシて! もてなシテいたでハアりませンかァ!」

 ガバァッ、と囲炉裏から顔を出したのは、真っ赤な顔に立派な角を生やした、先程まで私を殺そうとしていた恐ろしい赤鬼そのものなんだけど……なんか先生の霊符でやられてからは、めっきり恐ろしさが失われていた。

「……はぁ。また見え見えの嘘を。これだから妖怪は。あぁ、羽衣ちゃん。気にしなくても良いよ。こいつらは、こういう奴らだから」

「と、そう言われても……私を殺そうとしていたのは、本当なんですよね」

「あぁ、あわよくば、君を殺そうとした――こいつの名は妖怪・朱の盆。人間に化けて人間を驚かす。人間を騙して人間を殺す。厄介な奴だが――」

 北斗七星が刻まれた短刀を先生が投擲すると、ストンと鬼の頬を掠めて畳に突き刺さる。

「…………いやー……ほンと、ホんとに殺すつもリなんてェ……なかったンでシュヨぉ……暦様ぁ……」

 頬に走った僅かな切り傷から黒い血を流しながら、歪な笑みを浮かべながらヘコヘコと頭を下げる鬼――朱の盆。私を殺そうとしていた時の迫真の威勢は、一体全体どこに消えてしまったと言うのだろうか。

「このように、龍ヶ崎の魔術に掛かれば一瞬で調伏出来る。この手の恐怖を煽るタイプの妖怪は、自身を恐れない存在に対してはめっぽう弱いのさ」

 完全に脱力した様子で肩を竦め、ブルブルと震える鬼を呆れた様子で見下ろしていた先生は、ふっと私の方へと振り返る。

「それで……久しぶりだね、羽衣ちゃん。君が無事な様子で嬉しいよ」

「あ――ッ、そ、それは、そうなんですけど! 先生!」

 極限の緊張状態から回復した私だったけど、再会の喜びに浸っていて忘れていた。

 私がこの村へと訪れた理由。

 こんな怖い目に遭っても先生と会いたかった理由。

 だけど、その言葉を口にする前に、私が叫んだ台詞は別のものだった。

「先生は! どうして帰っちゃったんですか!? 何で!? 私に何も言わず、私を一人にして……ッ!」

 違う。

 そんなことを言いたかった訳じゃない。

 そんなことを訊きたかった訳じゃない。

「あー……えっと、それは……」

 つい飛び出た私の問いかけに対し、先生は困ったように笑って、そして――



「げふッ」



 と。

 身体をくの字に曲げ、口から血液を吐き出した。

「――え?」

「げふッ、がッ、あッ、羽衣ちゃん……ッ!」

 膝から崩れ落ちた先生は、ひゅーひゅーと変な呼吸をしながら、げぇげぇと血液を吐き出して畳を赤く染めていく。

「せ、先生! どうして……何で!?」

「わ、悪いけど、ぐ、うぅ……ッ! この、れ、霊符を、僕に使って――ッ」

 訳が分からなくても、先生の身体に尋常ならざる何かが起こっていることが分かり、先生が懐から出した霊符を手に取ろうとした、その時だった。



「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」



 朗々と響く、薬師如来の真言。

 散々、先生と共に事件を解決してきた私だから分かる――それはあらゆる怪我や病を癒す、医王仏を示す真言だ。

「ったく、いい加減にしてくれよ、アニキ。カグヤに言われて来てみれば、このザマか」

 その真言を言い放った女性は上下ジャージ姿で、髪の毛はボサボサで寝癖だらけであり、イライラと隠そうともせず両手の指は丸めて近づけ、親指を立てる『薬師如来』の印を結んでいた。

(あ、アニキ……?)

 その発言と、だらしない格好から何となく全てを察してしまいそうになるが、色々と展開が急過ぎる。脳が理解を拒み、破裂しそうになっていた。

「ま、まぁ、そうだねぇ、悪かったよ、襲。謝る。謝るから、そこにいる子を五芒の屋敷にまで連れて行ってくれないか?」

 今まで吐血していた先生は落ち着いた様子で女性を見上げ――先生から『襲』と呼ばれた女は、「はあああああ」と大きな溜息を吐き出した。

「おいおい、外の連中を接遇したことなんて、一条家の連中くらいしかねぇぞ? オレに出来る訳ねぇだろ」

「まぁそう言わず……本当に申し訳ないけど、頼むよ」

「……」

 がっくりと倒れ込みそうな先生の腕を掴んだジャージ姿の女性は、私を値踏みにするように冷めた瞳で睥睨する。そして、ポリポリと頭を掻きながら心底面倒臭そうに告げた。

「あー……アンタ、このバカアニキの客なんだって? じゃあしょうがねぇから招待してやるよ、我が家に」

「は――あ、えーっと……」

 招待、とか急に言われても困るのだけど、そんな私の困惑を感じ取ったように彼女は言った。

「オレの名前は龍ヶ崎襲。龍ヶ崎御三家の一つ、五芒家の当主で……」

 そこで少し言い淀み、だけど絞り出すように彼女は言い放った。

「……そこで情けなく伸びている龍ヶ崎暦の、妹だ」





「妖怪とは人間の恐怖心が生み出したもの。しかし暗闇を恐れる人間は、文明の発達に応じて減少し続けている」

 燦々と照りつける太陽を眩しそうに見上げながら、海神の末裔である男は背後に立つ狂信者へと語る。

「神へと到れる信仰心を得ず――ただいたずらに人々を驚かす妖怪の居場所は、もはや人間社会に存在しない。彼等は本来、高度経済成長と共に絶滅する運命にあったのだ」

「……それを救ったのが、龍ヶ崎の一族ということですか?」

「あぁ、その通りだよ、錦織騎士団長殿」

 はぁ、と呆れたように嘆息しながら、阿雁は振り返る。

 何かを見定めるように、眼光を鋭く輝かせる唯一に迎えって、忠告じみた口ぶりで伝える。

「一時は神として奉られたが零落した妖怪、人々の恨みつらみを背負った妖怪、強大な力を持つ妖怪は龍跋村に数多くいる――だが、如何に大妖怪として恐れられようと、時代の変遷によって消えていくことが確定した、哀れな陽炎に過ぎない……君達がわざわざ手を下さずとも、勝手に自滅していくとも」

「そんなものですか――おかしな話ですねぇ、いずれ消えゆく妖怪を、後生大事に保存するだなんて」

「まぁ、日本国内でも龍ヶ崎一族は変わり種として知られているよ。保有する力が強すぎて、誰も手出しをしようともしないがな」

 相槌を打ちながらも、阿雁は内心とは別の台詞を述べるに留めた。

 最後の審判の後に訪れる、永遠の幸福――神の王国を信じる唯一に、移りゆく自然を尊び、いずれ消えゆく命だからこそ大切する考え方を説いても仕方のないことだからである。

 そんな妖怪にまつわる会話が一段落した瞬間を狙うように、ヴヴヴ! と鳴動音が鳴り響いた。

「ん? おっと、失礼します」

 キャソックの内ポケットより携帯電話を取り出した唯一は、穏やかな声色で「はい」「えぇ」「手はず通り、よろしくお願い致します」と対応し、軽妙な手付きで通話を終えた。

「あぁ、安曇さん、申し訳ありません……どうやら『ブラッティ・メアリー隊』の面々が、『エフェソス』の居場所を突き止めたみたいでして……すぐに合流して参ります」

「あぁ、どうぞ……援軍が必要とあらば、遠慮なく言ってくれ」

「援軍?」

 キョトンと目を見開く唯一。

 現在、宮内庁は『魔王降臨事変』の事後処理の為に戦力を分散させており、長官が自ら現場に出向き、祭壇跡地には安曇阿雁一人で調査をしなければならないような人手不足である。

 それでも、この国の安寧を裏から守り続けてきた者として、海の向こうから訪れた神を奉じる彼等を助けることに躊躇いなどなかったのだが――、



「いや、異教徒の助けは別に要りませんが?」



 笑顔で取り付く島もなく断られた阿雁は、「そうか」と嘆息混じりで呟く。

 結局のところ、先般の『魔王降臨事変』に於いて、彼等は目的が合致したが故に手を貸したに過ぎない。

 何の感慨もなくその場を後にした狂信者を黒い背中を眺めながら、阿雁は「悲劇が尽きないのも道理か」と肩を竦める。

 そう、今もこうして世界に諍いの種子は蒔かれ、悲劇は芽吹きの時を今か今かと指を咥えて待ち侘びている。

「……いつになったら帰ってくるのか、あの霊能探偵は」

 安曇阿雁は考える。

 かつてライヘンバッハの滝に落ちた名探偵の帰還を読者が望んだように、暗澹たる世であればあるほど、悲劇が錯綜する混沌とした世であればあるほど、人々は願うのだろう。望むのだろう。

 事件を華麗に解き明かす、探偵を。





 あの老婆に化けていた朱の盆という妖怪は嘘を吐いていた訳ではなく、本当に言われた通り橋を渡って少し登った先に先生の家はあった。

 鬱蒼と茂る木々の中、どぉん! と大迫力な和風な木造の屋敷。……なんか、私の語彙では説明が出来る限界だけど、「金持ちの家!」って感じがありありと浮かび上がっていた。

 割烹着姿の女性……二十代後半くらいの、綺麗な女の人に連れてこられた応接用らしい洋間にて、私は先生の妹を名乗る女性と相対していた。

「おう、待たせて悪いな。ジャージ姿で対応しようとしたら、流石にオヤジから怒られてな」

 ボサボサだった短い黒髪は整えられ、服装は白衣白袴に変わった先生の妹――龍ヶ崎襲さんは、「よっこいっしょ」とおっさん臭い掛け声を上げながら、高級そうな椅子に腰掛けた。

「い、いえ……こちらこそ、申し訳ありません。突然村に来て、迷惑を……」

「んー? あの妖怪共か? 気にすんな、気にすんな。日常茶飯事だから」

 だはは、と笑いながら、女中の人が出してくれたお茶をがぶ飲みする先生の妹。先生の、妹……? この人が……?

 整った顔立ちや細身な感じは先生と似ているが、その豪快な所作からDNAの繋がりを全く感じない。いや、色々と雑なのは共通しているのだろうか……。

「七月羽衣ちゃん……で良かったか? あっちじゃバカアニキが世話掛けたみたいだな、悪かったぜ」

「い、いえ……私は助けられていただけで――」

 そう否定しながらも、私の脳裏に走馬灯の如く駆け巡る記憶、先生と私が過ごした日々。




【人がエロゲーやってる最中に入って来て、いきなり鉄拳制裁っておかしくない?】


【相変わらず東○のエロ同人は触手ものの宝庫だね】


【ちょうど良かった。僕はちょっと漫画を買ってくるから、留守番よろしくね】


【ある円盤の初回限定盤の特典に付いてきた物を、僕なりに魔術加工したんだよ】


【今日は龍ヶ崎探偵事務所、臨時休業です!(よく分からない萌えアニメのキャラが親指を立てているスタンプ)】


決闘(デュエル)やってんじゃないよッ!】




「いや、ちょっとお世話していたような……そんな、気もします……」

「だろー? しょうがねぇヤツだよ、全く」

 たはは、と呆れたように笑う妹さんに弁明出来ない記憶が、脳内にぐるぐると回る。いや『聖ビルゼン教会』に救ってもらった記憶とか、研太郎さんとの友情の話とか、色々と素敵なエピソードもあった気がするのに、どうして私の記憶領域を締めているのは、こんなしょうもない発言ばかりなんだ?

「アニキは昔から根暗でさ。オレや、村の皆ともそりが合わなくて……結局、家出しちゃったんだが」

 手にした湯呑をゆらゆら揺らしながら、どこか気怠げな瞳を私に向ける襲さん。

「そ、そうだったんですね」

「あぁ。だからこそ、後になって驚いたんだよ。あのバカアニキが街に出て霊能探偵なんて名乗って……アンタみたいな助手と一緒に、世のため人のために事件を解決しているなんてな」

「……」

 少しガサツな物言いをする人だけど、その優しい瞳と嬉しそうな声色が、決して兄である先生を嫌っている訳ではないと伝えている。

「……襲さん」

 昔から実家と折り合いの悪かったと聞いていたから、その辺がどうやら杞憂であったと分かった以上、私は口を開かざるを得なかった。

「先生は――暦先生は、『魔王降臨事変』でも私を助けてくれました。多くの人々が獣に堕ちていくのを防ぎました。先生はこの村から出てから、いっぱい人助けをした立派な人です」

 だから――だから私は、私の願いを述べる。

 誠心誠意、目の前の襲さんの瞳を見据えながら。

「私は先生と一緒に、まだ人助けをしたい――霊能探偵・龍ヶ崎暦先生と一緒に、まだまだ人助けをしたいんです……でも、先生は何故――どうして、この村に――?」

「あー……」

 ポリポリと、気まずそうに頭を掻いた襲さんは湯呑を置き、重苦しい吐息を吐き出す。

「オレだってアニキが不在中に当主を継いだ身としては、色々と気にするところもある訳だけど……まぁ端的に言っちゃえばだな?」

 そして私の目をじっと見返しながら、真剣な面持ちで私の問に答えた。

「悪いが、アニキを村から出す訳にはいかねぇ――霊能探偵は廃業だ」





「……襲から、聞いたんだろ?」

 屋敷の離れに設けられた、狭い和室。

 母屋から回廊で繋がってはいるものの、何人かの女中の人が出入りするあちらと比べると、その部屋は余りにも静まり切っていた。

「はい。全部、妹さんから聞きました」

「……はは、情けないね。魔力もないのに、身の丈に合わない大魔術を行使した代償ってことかな」

 布団から上半身を起こした先生――あぁ、さっき会った時には気付かなかったけど、頬は痩せこけ顔色も悪く、着崩れた襦袢からのぞく胸元はガリガリだった。

 先生は『魔王降臨事変』の最後――三木東間が蒐集した報われぬ魂達を調伏する為に、『七星・破敵剣』を用いた大魔術を発動した。その際、体内の魔術器官であるエーテル回路が損傷し、生命エネルギーがほとんど枯渇した状態であった為、救助に来た龍ヶ崎家の百鬼夜行に引き取られ、この屋敷で治療を受けているらしい。

「抜けてしまった魔力は、どうもこうもって妖怪が処方している薬と、この土地の地脈から汲み取れる分で補っているけど……はは、こんな状態じゃ村から出た瞬間に、ぶっ倒れちゃうよ」

 情けない笑顔で微笑む先生の笑顔が痛々しい。

「私を、助けるために……」

「君が責任を感じる必要はないさ。……ろくに魔力を持っていない僕が、霊能探偵として活動してきたこと自体がおかしなことだったんだ。魔法具頼りで魔術を使ってきたツケが回ってきた、それだけなんだ」

 だから、もう街に戻ることは出来ない。

 霊能探偵として働くことは出来ない。

 痛々しいほど痩せた先生のぎこちない笑みが、そう言っていた。

「でも……もうろくに魔術も使えない身体のはずなのに、先生は私を助けてくれました……今日だって……魔術を使うだけで倒れちゃうくらいなのに……本当は、本当はあの街へ――」

「そりゃ、帰りたいさ。だけど、まともに魔術が使えるようになるまで、あと何十年かかることか……」

「……ッ」

 ただひたすら、自分の意志を押し殺して穏やかに笑う先生に、掛ける言葉すら見つからず歯噛みする。

「結局、他人を助けるだなんて、僕には出過ぎた真似だったんだろうなぁ」

「そんなこと、ないです……先生は色んな悪霊と戦ってきたじゃないですか」

 その過程で、成仏出来ない悪霊だっていた。

 それを「仕方ないこと」と割り切らず、悩み続けたこの人の愚直さを、苦しみ続けたこの人の優しさを、私は知っている。

「……羽衣ちゃん。君は僕にとっては出来過ぎた助手だった。その上、こんな辺鄙な村にまで追いかけてきてくれて――ありがとう。僕に与えられる報酬としては、それで充分過ぎる」

 やめてほしい。

 これじゃ、まるで今生の別れだ。

「せ……先生は、霊能探偵を辞めちゃうんですか……? もう一緒に事件を解決したりは出来ないんですか?」

「復帰を諦めた訳じゃない。だけど、その時期が未定だってだけさ。だから、羽衣ちゃん。もう知っているとは思うけど君の借金は――」

 分かっている。とっくに私の借金は無効になっていることくらい分かっている。分かっているけど!

「要りません!!」

「――ッ」

 咄嗟に飛び出した私の絶叫に、先生は驚愕に目を丸くする。だけど躊躇うことなく、私は激情に任せて続けた。

 今も床に臥している先生の細い肩を掴み、情けなく、本当の気持ちを押し殺し続ける先生へと叫ぶ。

「今さら普通の生活なんて要りません! 私は、先生と一緒に事件を解決している中で、救われない魂がいっぱい! いっぱいあるのを知りました! 今も彼らは苦しんでいます!」

 例えば、人懐っこい犬。

 例えば、虐待された子ども。

 例えば、イジメを受けた少年。

 例えば、殺す事でしか生きられない殺人鬼。

 例えば、先生に恋をした生徒。

 例えば、子を愛した神父。

 例えば、――世界を救おうとした無邪気な誰か。

 救えた魂があった。

 救えなかった魂があった。

 向き合うことすら辛い事件ばかりだったけど、もう知らないふりは出来ない。私は私に成れなかった私達の死骸の山を踏み締め、踏み躙り、それでも忘れることなく進むと誓ったから。

 今もこの地球の何処かで苦しむ魂があり、成仏出来ずに悲劇を繰り返しているのなら、それは解決しなきゃ駄目なんだ。



【アニキは重症だ。ちょっと魔術を使っただけで血ィ吐きながらぶっ倒れちまう……治療を受けているが、いつ治るかは皆目分かんねェ】



 そうやって、あの応接間で妹さんから聞いた瞬間から考えていたこと。

 余りにも無謀で、馬鹿馬鹿しいけど、それでも私が欲することを成さなければ後悔する。

「……僕はもう、魔術が使えない。それなのに、どうしろと……?」

 呆れたように掠れたような笑みを浮かべる先生に向けて、私は高らかに宣言した。




「私が――新しい霊能探偵になります!」




「…………はい?」

「龍ヶ崎探偵事務所を私は存続させるんで……先生は治療に励んで! 早く魔術を使えるようになって帰ってきてください!」

 呆気にとられた先生をよそに、私は捲し立てるように続けた。

「所長の席は空けておきますので、その辺は安心してください」

「あー……そ、そりゃそりゃ……何? 僕に憧れちゃったりした?」

 今まで陰鬱な空気を醸していた緊張は拍子抜けしたように解け、先生は肩を揺らして軽口を叩く。

「いや、私が憧れているのは先生の仕事だけですよ?」

「酷いこと言うなぁ」

 そんな風に笑って、先生は見上げる。

 霊能探偵なんて出来る自信なんてない。今日だって妖怪に襲われて、なすすべもなくやられてしまった――かつて『聖母』だなんて祭り上げられた私だけど、その正体はただの女子高生だ。

 だけど、この世界の裏側を見てしまった私は、それを忘れて幸せになんてなれない。

「色々と大変な仕事だし、ひょっとしたら死ぬかもしれない――それでも出来るのかい?」

 試すように、私を見上げる先生が問いかける。

 きっと、先生は私に託したくはないだろう。最前線に立って、かつて親友を成仏させた時のように、霊能探偵を続けたいのだろう。

 だから不安でも、私はそんなことも言わずに、ただ伝える。

「えぇ――私は先生の事件簿をずっと作り続けてきたんですから。ちょっとくらい、知識も付けてきたんですよ?」

「……」

「だから、私に任せてください。そしていつの日か――」

 こんなことを軽率に、胸を張って言ってしまって良いのだろうか。何だか不安で泣きそうになるけど、それよりも消え入りそうなほど弱々しい先生に安心してほしくて、私は胸を張って先生に言い放つ。

 いつまでも、あなたを待っていると。

 私は精一杯の言葉で伝えるのであった。





「いつの日か……い、一緒に働きましょう……? ねぇ、先生」

「羽衣、ちゃん」

 助手として自分の側に置いた、もう既にいなくなった依頼人の子どもが、目を真っ赤にして涙を流しながら必死に問いかけてきた言葉に対し、暦は目を剥きながら逡巡する。

 助けなきゃいけない。もしも自分が倒れた時は、開放して普通の女の子として生きてもらおう――そんな風に考えていた暦にとって、羽衣の言葉はあまりにも突飛で、想定外であり、だからこそ暦の思念に雑音が交じる。

 本当に、託してしまって良いのだろうか。

 この子が霊能探偵として働くのを、自分は助けてあげることは出来ない――もしも悪霊との戦いの中で、命を落としたと後に聞いて、自分は後悔しないだろうか。あの七月松原という依頼人に、申し訳ないとは思わないのか。

 この道に、間違いはないだろうか。

「……」

 カラカラと乾いた喉。

 何かを言葉を発しようと口を開けた瞬間、脳裏に響く声。



『何を迷っている?』

『其の道が正しかったのか、間違っていたのか――其れを判断するのは君じゃないだろう?』



 暦がこの村に帰ってきてから、度々耳にする幻聴。

 それは、あの時とは違って明朗ではなくて、薄らぼんやりと響くばかりだ。

(あぁ――確かに僕も、もっと小さな頃に屋敷を飛び出したんだ)

 そんな幼さ故の無責任を、無理解を、無謀を、背中を押してくれた人がいたんだ。



『そうそう』

『忘れられてなくて、安心したよ』



 忘れられるはずもないご先祖の霊から茶々を入れられながら、暦は「あー……」とボサボサの頭を掻き毟る。

 七月羽衣は聖母として生み出され、後に大淫婦として『魔王降臨』の贄とされる予定だった――だけど、それとは別に、彼女は平凡な少女だ。探偵事務所で働く過程で多少の魔術と知識を得ているが、この世界の裏側で生きていくほど、魔術師としての成熟とはほど遠い。

 だけど、それは暦自身も通ってきた道で、

 あの日、暗くて寒い夜の山を降りて通った龍ヶ崎暦の踏破した道で、

 だから暦は、「ははッ」と苦笑し、口をへの字にして真剣な眼差しを向ける一人の少女を見上げる。




「羽衣ちゃん――僕の探偵事務所を、よろしく頼んだよ」




 この村から出ずとも、支援することは出来る。

 魔法具を貸すことも、助言することも出来る。

 これは突き放すことではなく、ただ巣立ちの時が来たのだと、暦は心の中で結論付けた。

 ――『魔王降臨事変』を以って、霊能探偵・龍ヶ崎暦の事件簿は終わりを遂げた。

 だけど世界には悲劇が満ち溢れている。

 今も怨嗟の声は止まず、誰かが救わなくてならない。

「は――はい! 頑張ります!」

 ふん! と鼻息荒く拳を握る羽衣。

 まだ幼さの残る顔立ちに、か細い肩――守ってあげたい気持ちは断ち切れない暦は「僕も復帰出来るように、早く身体治さないといけないな」と笑うのであった。





「羽衣様、こちらをどうぞ」

 先生の部屋から出た私の元に、割烹着を身に着けた女中さんが現れ、親切にも帰りの切符を渡してくれた……そう言えば、特別な切符で来たのにどうやって帰るつもりだったんだろうか、私は……。

「あ、ありがとうございます」

「遠路はるばるお越しいただき、本当はお食事も振る舞いたいところなのですが……」

「あー、いえいえ! お構いなく! 私は先生と会って話をしたかっただけですから!」

 そう、私の目的は先生と話すこと。

 話して、先生のことを聞いて――その上で、先生の代わりに霊能探偵になることを決めた。私は高校を卒業した後に開業する――今は、事務所の倉庫に入っている魔術の本を読み込んで勉強し、魔法具を先生みたいに使いこなせるように頑張らないといけない。

 一時も無駄には出来ないんだ。

「う、羽衣様、わたくしごとで恐縮なのですが、ひ、一つ質問をさせていただいても、よろ、よろしいでしょうか……?」

 おずおずと、歯切れの悪い台詞で私の顔色を伺うように問いかける女中さんに、私は「? 私に答えられることなら、何でも」と気軽に返事をしたが、彼女は口ごもりなかなか喋り出さない。

 年齢は二十代後半か三十代かだろうか――年上なのは確定なんだけど、身長は私よりも低くて童顔な女中さんは可愛らしい人だった。こんな人にお世話されているのなら、先生も幸せ者だろう。

「えっと……う、羽衣様は向こうでは、一緒に働いていらっしゃったんですよね……?」

「はい。一緒に……というか、私は助手というか、ただのお手伝いでしたけど」

 今はまだ肩を並んで事件を解決するようなことは出来ない、だがいつか先生と並んで戦ったりする日も来るんだろうか。

 来てほしいなぁ、とぼんやりと未来へ思いを馳せている私に対し、女中さんは顔を真っ赤にしながら一歩近づいた。



「こ――暦様と、れ、恋愛関係とか、そういうことは、あったのでしょうか……?」



「……はい?」

 聞き間違えだろうか。

 何か、ここまで前振りが一切なかった話題を叩きつけられ困惑するも、私をじっと見つめる女中さんの大真面目な表情が、絶対に答えを聞き出してやるという覇気を醸し出している。

「いや、全然そんな関係じゃなかったですよ。先生は、お父さんが亡くなってから私の面倒を見ていてくれたんです」

 義父であり、上司であり、あの地獄から救い出してくれた恩人であり……まぁ、私にとって先生はそんな感じで一言では言い表せない。

「……そ、そうなんですか…………良かったぁ……」

 ほっと胸を撫で下ろす女中さん。上気した頬、潤んだ瞳……これは、ひょっとして……ひょっとして!?

「あ、す、すみません。お客様に、こんな不躾な質問をしてしまって……」

「あぁ、いやそれは別に良いんですが……そ、その、女中さんは、村を出る前から先生と知り合いだったんですか?」

 私の質問に対し、女中さんは「はい……っ」と花が咲くような朗らかな笑みを浮かべた。

「わたしがこの屋敷で丁稚奉公していた頃から、存じ上げていました。暦様はご自身の霊力が少ないことを……龍ヶ崎五芒家の長男として酷く気になされ、一族の誰とも話さず心を閉ざされていたのですが、わたしのような只人には少しだけお喋りしてくださいました」

「先生……」

 やっぱり故郷でぼっちだったんだ。

「わたしは暦様の理解者でありたいと思って……でも、結局だめだったんです。あの人はあの夜、屋敷を飛び出して……外の世界で生きていると知ってからも、わたしには待つしか出来なかった……今も、どうして暦様が村から去ったのかも分からず仕舞いで……」

 単純に、この田舎という閉鎖空間で、能力がどうだの才能がどうだの言われたくなかっただけだと思うけど……なんか、その辺のことは敢えて告げなかったのは先生らしいと思った。

「村を出た理由とか、よく分かりませんが、まぁ先生のことですし、訊けば答えてくれるんじゃないですか?」

「そうでしょうか……わたしなんかが訊いても……」

「大丈夫ですよ、女中さんってたぶん、先生の好みですし」

「ふぇ!?」

 あからさまに動揺し、奇声を上げる女中さん……そう、先生の机に並んでいた薄いエロ漫画の表紙の、圧倒的な純朴そうな清純派黒髪率を考えれば、この方は凄く先生のタイプなんじゃないかなぁと思う。

「い、いやぁ……そんなぁ……わたしなんかじゃ、釣り合いが取れませんよ……あはは……」

 両手で熱くなった頬を抑えながら、女中さんはダラダラ汗を流して浮ついた言葉を弾ませる。反応が分かり易すぎて驚きだ。

(にしても先生……結構、村でも愛されているんだなぁ)

 ほんと、地元の龍跋村での話は地雷みたいな雰囲気出して、ほぼ詳細を先生から聞いたことはなかったけど、それも人見知りする先生の性格に由来することもあるだろう。妹の襲さんも、別に先生を嫌っている訳ではなさそうだし。

 帰ってきてほしいという願いと、この村に残ってほしいという矛盾が交錯し、私の胸の奥がじくじくと疼く。だが、少なくとも今は故郷に残ったままになっているいざこざを、解決してほしいような気持ちが強い。

「……何にしても、ネット環境もなさそうな龍跋村なら、先生も脱オタクして真っ当な人になれるかもなぁ」

「? あ、ネット環境ならありますよ?」

「あるの?」

 私の呟きに対する女中さんの回答は意外なもので、つい反応してしまう。

「えぇ、少し前までは現代文明が村内に入り込むのは、妖怪の存在を否定しかねないので村を覆っている結界で電波を弾いていたんですけど、最近は妖怪達から『ネットが使いたい!』『村全体で使えるWi-Fiが欲しい!』という一揆が起きたので、結界をぶち抜いて巨大な電波塔と基地局を扶桑さんに立ててもらったのです」

「はー……結界をぶち抜いて……?」

 それで良いのか? という疑問が脳裏によぎったものの、そういうものなのかと納得した、その時だった。




「ちょっと待てぇぇぇぇいいいっっっっ!!!!」




 スパァンッ!! と襖が開き、疲れ果て布団で寝ていたはずの先生が、鬼の形相で部屋から飛び出てきたのである。

「迦具夜! 今起きたんだけど! ネット環境があるって本当!? 本当なのかい!?」

「ひぇ!? え、え、は、はい。わたしもよく分かりませんが、インターネットが使えるようになると皆さん喜んでいました!」

「くそ! 何故、何故今になって……ああ、働なくても生活できる極太の実家! しかもネット完備なんて最高過ぎる……ちょっと迦具夜、僕のスマホとPCってどこにしまっておいたっけ!?」

「え、ちょ、暦様がお持ちしていた貴重品は、あちらの金庫に――」

 先生の剣幕に押され、迂闊にも道案内をしそうになった女中さん――迦具夜さんと呼ばれた女性の腕を、私は反射的に掴み取った。

「だ、駄目だ! 先生にネット環境を渡したら、完全に自堕落なニートに成り下がる! 絶対にスマホとPCを渡しちゃ駄目だ……ッ!」

「え、ええッ!?」

「そ、それは違うよ、羽衣ちゃん! ネットの海を漂うのは現代人としては当然の嗜みなんだ……好奇心の赴くまでに調べたい時に調べたいものが調べられるインターネットは、複雑化した現代を生き抜く為の情報が詰まっげほぉッッ!!」

「暦様ァ!?」

 どうせネットアイドルの配信やら掲示板の徘徊やらをしたいだけの先生が興奮しながら自己弁護をした結果、鼻と口から血を吹き出してぶっ倒れた。

「おッ、ごふッ! 僕のことは良い……そ、それより、スマホと、パソ……をくれ……ッ」

「そう、一度ネット環境を手にした先生は、こんな風に現実世界へ帰ることを拒み、ずっと画面を眺め続ける亡者と化してしまうのです」

「い、いや! それより治療……ど、どうもこうもせんせーッ! 来てくださーい! 暦様がーッ!」

 痩せこけた手足を必死でバタつかせ、「スマ……くれ……ログボ……アニ……チューバー生配信……」と譫言を呟いている。そんな先生の奇行に目を白黒させて、慌てふためき走り出す女中さん。

「ふふッ。なーんだ、先生。元気そうじゃないですか」

「げふッ、ぶべッ! げ、元気さ、元気……嬉しいこと言ってくれる女の子がこんなに、いっぱいいるんだからね……」

 血を吐きながらも、どこか誤魔化すように笑う先生――やっぱり私と女中さんの話を襖の向こうで聞いていたらしい。

 ずっと独り身でいるんだと思っていた先生にも、どうやら春が来るらしい。そちらにカマかけて、帰ってくるのを忘れてしまう……なんて、先生はそんな人じゃないとは思うけど。

 あぁ、そうだ。

 先生だって幸せになっていいんだ。

 誰だって幸せになりたい願い、私達は生きていく。

 達成出来るかどうかは分からないけど、それでも幸福を目指して生きていく。

 どれだけこの世界が醜悪で救い難くても、この獣道を人間は人間として生きていく。どれだけの罪を重ねたって、どれだけの悲しみを背負ったって。

 だからこそ、この世界には悲劇は満ちて――死んだって消えないような強い激情が、悪霊と為って生者に害を成す。幸せになりたくて、精一杯に生きた先に残った怨恨は容易く消える訳がない。

 だからこそ、この世界には霊能探偵が必要だ。

 黄昏刻(たそがれどき)を闊歩する悪鬼羅刹と魑魅魍魎。

 (まこと)しやかに語られる都市伝説とまじないの(ことば)

 全部、全部解決してやろう。

 誰かのためじゃなくて、私に成れなかった私のためでもなくて――外でもない私の為に。

 七月羽衣が願うまま、私は霊能探偵になるんだ。

「まー、肩肘張らずに頑張ってね、羽衣ちゃん。……困ったら電話ちょうだい……」

「えぇ……これからもよろしくお願いしますね、先生」

 情けなく血を吐いたまま力なく笑う先生に、私も笑い返す。

 こうして霊能探偵・龍ヶ崎暦の最後の事件はようやく終りを迎えるのであった。



 





 茹だるような熱気、蝉の鳴き声――人々の喧騒。

 僕は久しぶりに歩くコンクリートジャングルに満ちる汚い空気を吸い込み、荒れた呼気を整える。……駅から事務所って、こんなに遠かったっけ? とタクシーを取らなかったことに後悔以外の感情が浮かばなかった。

 五年のも歳月は街を変える――行政区の再編により地名すら変わっており、駅前の看板で数分ほど途方に暮れたものである。

 ――だからこそ、僕はとあるビルのエレベーターに乗り込み、その先に掲げられた『龍ヶ崎探偵事務所』という看板に安堵した。

 どうやら彼女のずっと待っているという言葉は、今も有効なようで――ともすれば臆してしまいそうな僕の背中を、五年前の約束が優しく押してくれる。

 チャイムを鳴らし、相も変わらず鍵のかかっていないとドアノブを捻ると、室内から「あー、お客さんですかー!? ちょっと待っててくださいね!」と切羽詰まった、女の人の声が聞こえてきた。

 僕は額に浮かんだ汗を拭いながら待っていると、応接室の方からドタバタと慌ただしい足音が響く。

「ごめんなさい! ちょっとお盆で帰ってきた先祖霊に紛れた悪霊が大量発生して、ほんと! ほんとに忙しくてですね! あ、ちゃんと依頼は引き受けますので、こちらへ――」

 そんな言い訳を早口で述べながら――あの頃と比べて伸びた長い黒髪を後ろで結び、どこかくたびれた風情のスーツを身に着けた女性が、僕の顔を見るなり絶句した。

「あー、そうだねぇ。お盆の時期は結構忙しかった……はは、ごめんね。僕もこんな暑い時期に来るんじゃなかったよ」

「せ――せんせ……ッ」

 大人びた彼女の貌が崩れ、幼い少女のような瞳から伝う涙。

 あぁ、僕にとって君は――大切な存在だ。

 友でもない。妻でもない。娘でもない。

 誰でもない君を、僕は助手にしたんだ。

 羽衣ちゃん。

 共に事件を解決した僕の助手は、君だけなんだから。

「……ところで相談があるんだけど、当然聞いてくれるよね?」

 今にも大泣きしてしまいそうな彼女に対し、僕は誤魔化すように笑った。

 そうしないと、僕まで泣いてしまいそうで。

 不幸で満ちていたあの村にも、僕を待っていた人がいた。

 不幸で満ちていたこの街にも、僕を待っていた人がいた。

 こんなにも、

 こんなにも、僕の心は満ち足りて。

 今まで享受してきた幸福を、今更のように噛み締めて。

 今だけは、この世界に満ちる怨嗟の声も振り切って。





「取り敢えず無職は嫌なんで、僕を雇ってくれないかな?」





 僕は冗談めかして笑い、未熟で幼い、でも立派に育った霊能探偵へと依頼をするのであった。








『霊能探偵・龍ヶ崎暦の事件簿』――完結。



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