Case2 少女誘拐事件
彩芽から教室で受け取った前回の事件の解決料を落とさないか心配しながら、私はいつものように龍ヶ崎探偵事務所へと赴いていた。スクールカバンの中の封筒には十万ほど入っており、こんな大金をあっさりと昼休みに借りていた本を返すように渡して来た彩芽の行動には、相変わらず驚かされるなぁとか考えていた。まぁ私の時と比べると事件の規模はかなり小さいので、これでも安い方なのだけど。あの時に渡された請求書の額は、文字通り『桁』が違った。
何にせよ、これで『騒霊犬事件』に関しては、事後処理も含めて完全に終了した。彩芽邸の破壊やら不法侵入やら、そういった法的な話は先生の実家が圧力を掛けて何とかしてくれたらしい。……仕事の不始末を親に頼んでいる辺り、つくづく先生は駄目人間なんだと感じる。そういったことも、まぁ今さら過ぎる話なのだけど。
「さて」
駅のすぐ近くにありながらも、裏通りに面している為にどこか寂れた印象があるビルに入り、エレベーターに乗って六階に上がった。私のバイト先である『龍ヶ崎探偵事務所』と書かれたプレートが掛かった扉を開けようとして、ふと中から話し声が聞こえてくることに気付いて動きを止めた。どうやら先生が誰かと話しているようだ。
「? お客さんかな?」
珍しいこともあるものだ。私がいない時は基本的にサボっている先生だけど、ちゃんと知らないところで働いているだなんて、少し感動してしまう。
だとしたら邪魔してはいけないと思い、私は音を立てないように静かに扉を開けて、事務所に足を踏み入れた。そして声が聞こえてくる応接室の様子を伺うと――
「お、おお! 冬コミの新作がこんなに……!」
「ショップに委託されてねぇ掘り出し物も山ほどあるからな。ほれ、これとか暦さんの好みじゃね?」
「ふむふむ……相変わらず東○のエロ同人は触手ものの宝庫だね」
「まぁあらゆる性癖の坩堝とも言えるな。こっちは例大祭のだが……何だ、フタナリ○ンポレスリングって。いや使えるから揃えてるけど」
「十巻超えたら、もうそれは、そういうジャンルだよ。って、そっちはクジッラ○ス先生の単行本?」
「あぁ、これは後輩の結婚祝いに渡す予定だから、悪いが譲れないぜ」
「ロリは範囲外だから構わないけど……随分とハイセンスなご祝儀だね……」
――そこには、やたら薄くて大きなエロ漫画を、机一杯に拡げて楽しげに会談する、変態二人組がいた。
「何やってんだお前らぁ―――ッッ!!」
私は怒りのあまり、卓袱台を思いっきり引っくり返すのであった。宙を舞うエロ漫画、驚愕にソファーから転がり落ちる成人男性二名。
「ちょ、ちょ、ま、待って、羽衣ちゃん! お客さん、お客さんだから、この人!」
「はぁ!? どう見ても先生のオタ友達でしょ!?」
「いや、確かにそうだけど! でも同時にお客さんなんだよ! 君がこの前、宮ヶ瀬さんをお客さんとして連れてきたのと一緒!」
「一緒にすんな!」
「ごめんよぉ!」
私の一喝に震え上がりながら、先生は涙目で謝罪をした。
いいや駄目だ、許さない。やはり鳩尾に一発を加えるべきだろうとかと思案した瞬間、「ちょっと待ったぁ!」という、やたら響く大声を上げた人物がいた。先生と先程まで変態サミットを開催していた男が飛び上がり、私の前にまで歩み寄る。
「暦先生が言っていることに間違いはねぇよ。俺は客だぜ? 歓待すべき依頼人だ」
「じゃあ、この夥しいエロ漫画は一体?」
「お土産だ。何せ東京からやって来たんだからな、同人誌を持参するのはオタクの嗜みという奴だよ」
「……はぁ」
死ぬ程どうでも良い話だった。
男は先生より幾分か年下で、二十代前半ほど位の青年であった。パーカーの上にジャケットを身に着け、下はジーパンというラフな格好。髪の毛は自然にセットしており、先生より不潔感はなかった。
「……で、そのご客人が、どういった御用件ですか?」
私が嫌々ながらも質問すると、彼は後頭部を掻いて苦笑する。
「まぁ言っちゃえば事件解決の依頼だな――霊能探偵、龍ヶ崎暦さん宛てに、な」
「――ッ」
その言葉に私は冷や水を浴びせられた気分になった。『霊能探偵』、先生のその肩書を知っているということは、つまり、この人物も世界の裏側をしている。
「あぁ、申し遅れた。俺は和泉探偵事務所所属の探偵、刊坂広忌だ」
戦慄して顔が強張る私とは相対的に、快活そうな笑みを浮かべ、彼は言った。
「現在、東京で起こっている連続少女誘拐事件――この解決を、俺は依頼しに来たんだよ」
○
まぁ、そんなこんながあって色々と落ち着いた結果、いつも通りソファーに先生と依頼人である刊坂さんが机を挟んで対面に座り、依頼内容の詳細を話し出した。
「ニュースで散々流れているから知っていると思うが、東京では今四、五歳の女の子が行方不明になる事件が、立て続けに四件起こっている」
「あぁ……何か警察は同一犯による誘拐なんじゃないかって調べているそうですね」
確かに今朝のニュースでやっていたが、まぁ遠くで起こった事件なので、それほど気にも留めていなかった。
「そうなの? 全然知らない」
「先生はもうちょっと世間に興味を持ってください。……それで、その事件が何なんです?」
先生が寝耳に水みたいな貌をして驚いているのを軽く流して促すと、刊坂さんは憔悴したような貌で溜息を吐いた。
「それがさぁ……最初に行方不明になった女の子は、もう姿を消してから一週間も経っている。警察はまだ、足取りも何も掴めていないと報道されている……藁をも掴む気持ちだったんだろうなぁ……」
ははは、と何もかも諦め切ったような擦れた声で笑い、刊坂さんはガックリと肩を落とす。
「――被害者の両親から、俺んところに娘を取り戻してほしいって依頼が来てしまった訳だ」
「……いや、ちょっと待って」
話を聞きながらメモを取っていた先生は、青褪めた貌をして刊坂さんの話に割って入った。
「刊坂くん、僕を頼って来てくれたことは純粋に嬉しいし、いっぱい同人誌を貰えたのはありがたいけど……人間の起こした普通の事件を解決するのは、流石に警察に任せた方が良いと思うよ? 少なくとも僕に、警察以上の捜索能力はない。行方不明になった女の子を捜してほしいと言われても困るね」
申し訳なさそうに先生は曖昧な笑みを浮かべ、頬を掻く。警察でも見つけられなかった行方不明の女の子を発見出来れば、この事務所の名も全国に広まるんだろうけど、先生にそんな能力はないからこその零細事務所なのだ。
千載一遇のチャンスであるが、しかしこの一件に関してはお断りするという先生の判断は、間違いのないように思えた。やる気の有無に関わらず、相手に期待を抱かせて裏切るよりは良い。
話し合うまでもなく、この依頼は受けるべきじゃない。珍しく先生と私の心の内が一致したが、しかしそれは刊坂さんの「いや? 暦さんに頼みたいのはそれじゃねぇよ?」という予想外の言葉で翻った。
「と言うかだな……行方不明の女の子の居場所、そんなものはとっくに調べがついてんだよ」
「へ?」
「はい?」
先生と私は同じようなタイミングで素っ頓狂な声を上げ、首を傾げた。
「行方不明になった女の子の家は東京と言えど、世田谷、江戸川、板橋に荒川と、様々な場所に散ってんだ。犯人が同じだとしたら、それらの地点を結び付けて調査すれば、どうやっても証拠は出て来る。事実、俺が調べりゃ、簡単に出て来たぜ? 半日もありゃ、今、女の子達がどこにいるのか一目瞭然だ。目撃者も多く、防犯カメラにも映っている」
「そ、それなら警察が足取りも掴めていないのは、どうしてなんですか?」
私が思わず訊くと、刊坂さんは「待っていました」とばかりに、口元に嫌な笑みを浮かべた。
「それは嘘だ」
「へ?」
「警察だってもう、女の子達の行方を知っている。でも保護出来ない。だってその理由を、公然に説明出来ないんだから」
「――なるほど、ね」
刊坂さんの話に、先生はようやく相槌を打った。肩を竦め、面倒臭そうに脱力する。……私は先生の反応で、何となく話の流れを掴めた。
「流石は刊坂くん、名探偵だね。誘拐された被害者の居場所も、犯人の正体も、何もかも導き出し終えているのか」
「はっ、皮肉も極まれりだ。幾ら推理が出来たって、解決出来なきゃ意味がねぇ。――あぁ、そうだ。話を本題に戻そうじゃねぇか」
刊坂さんは姿勢を正し、真っ直ぐな視線を先生に向ける。そこにどこか、憧憬のような色が含まれているのは、私の勘違いだろうか。
「今回の事件――『少女誘拐事件』の犯人である、上級地縛霊の退治。そして霊に拐かされて囚われた少女達の解放――それを霊能探偵・龍ヶ崎暦先生に依頼したい」
そう言って、刊坂さんはソファーの横に置いていたリュックサックの中から、ドサッと勢いよく資料の束を机の上に叩きつけた。刊坂さんに言われ、先生と私は順々に資料を読んでいく。
そこに書かれていたのは、今回の『少女誘拐事件』の被害に遭った少女達の各プロフィールに、その少女達が東京都台東区のスーパーやコンビニの防犯カメラに映っていること――そしてその近辺のアパートの一室でかつて起きた、児童虐待死事件についての概要。
「ひどい」
資料を机に置いて私は、真っ先にそう言った。台東区の浅草で起こった……もう十年も前の児童虐待死事件は、それほど惨いものだった。正直、本題である行方不明事件よりも、よっぽどインパクトがある。
「折出ゆめ、当時五歳。母の再婚相手である血の繋がらない父親から、日常的に虐待を受けた末、死亡。死因は餓死。死体は近くの山に遺棄されていた。遺体は五歳児とは思えないほど未発達であり、常にろくな食事も摂らせてもらえていなかったと思われる……ねぇ」
先生は書類を一気に読み上げると、お茶を啜って生温かい溜息を吐く。折出ゆめちゃんが受けたという虐待はそれだけはなく、ゴルフクラブで何度も殴られ、遺体の頭蓋骨や鎖骨は酷く歪み、左目は壊死していたという。
「それで、刊坂くん――この『ゆめちゃん』が、今回の少女誘拐事件の犯人ってことで、間違いはないみたいだね」
「あぁ、間違いねぇ……何せ俺は、この目で見たからな。折出ゆめちゃんの、幽霊を」
ソファーの背もたれに体重を預け、刊坂さんは天井の照明を眩しそうに見上げながら語る。
「防犯カメラの情報、そして聞き込み調査によって、行方不明になった少女達は一人で、件のアパートに入って行ったことまで判明した。結果としてそのアパートは警察によって全ての部屋を一斉に捜査されたが……少女達の姿は影も形もねぇってなもんで、警察も早々にアパートへの調査を切り上げちまった訳だな……そこで、俺も調べた訳だ。アパートの、例の虐待事件があった二〇五号室をな」
「……そこで、警察にも見つけられなかったモノを見つけたってことですね」
「あぁ、その通りだ」
顔は天を仰いだままだけど、刊坂さんは視線だけを私へと向ける。軽薄な調子で語るけれど、彼の唇はいびつに歪んでいた。
「ゆめちゃんが日常的に生活していた押入れの中は何も無かった……無かったはずなのに、俺はふと思って呼んじまったんだよな……『ゆめちゃん』って」
返事が聞こえた、と刊坂さんは震える声で言った。
ぴたり、と冷たい感触が、刊坂さんの手を掴んだのだと。
そこには押入れの闇の中で、薄汚れたワンピースを身に着けた、全身痣だらけで片目が壊死した少女が、もう片方の目で刊坂さんを見て、笑ったのだという。
――こんにちは。あなたも、おともだちになってくれるの?
その背後には、さっきまで影も形もなかったはずの少女が、何人も横たわっていていた。
○
今日はもう遅いということで、刊坂さんは事務所に泊まっていくことになった。そこで夕食はどうしようかと話した結果、
「今月は課金し過ぎと新作エロゲが重なったので、僕に手持ちはないよ」
「同人ショップ巡りと新幹線代で、俺の財布は瀕死だ。一円でも使えば東京に帰れん」
という成人男性二名のポンコツっぷりが凄まじく、仕方なく私が事務所の冷蔵庫に余っていた材料で夕食を作ることになった。まぁ私の料理スキルなんてタカが知れているので、チャーハンと豚キムチを用意して、後は先生の実家から送られてきた日本酒を出して、それっぽい夕餉としてもらった。いや探偵のバイトで料理しなきゃいけない時点でおかしいでしょ。
そして事件のあれやこれやを話しながら、三人で一緒に夕食会をしていた訳だが、酒に酔った二名がオタトークを始めたので、私は制服の上にエプロンを身に着け、空になった皿を回収して給湯室で洗っていた。……真面目な話を長時間続けることは互いに辛いらしい。まぁ今回の事件はいつもより重めの話なので、あまり暗い雰囲気でいられるよりはマシだけれど。
「うーい、ごちそうさん」
資料で知ってしまった事件のことが頭から離れず、重い気持ちのままお皿をスポンジで洗っていると、給湯室にほろ酔い状態の刊坂さんが入ってきた。日本酒が入った盃を手にしている。
「あれ、もうお話は終わったんですか?」
「いやぁ、暦先生が寝ちまってな。あの人ほんとに弱いな」
はははっ……と、どこか幼い笑みを浮かべ、刊坂さんは壁に背中を預けてお酒を啜る。
「にしても、上手い飯をありがとな、羽衣さん。特にチャーハンが良かったぜ」
「あぁ、先生がガーリック系の味付け好きなんで、今回もそうしましたが、お口に合ったのなら幸いです」
前に竜田揚げを作ってあげた時に買ったフライドガーリックが残っていたので、味付けに迷う必要がなくて助かった。
「ほう、暦先生の好みも把握済みとは……可愛いらしい女子高生を通い妻に……、先生には後ほど天誅を加えねばな……くっくっくっ」
お茶らけた口調で、刊坂さんはわざとらしい邪悪な笑みを浮かべる。全然怖くない。
「そういうんじゃないですよ、刊坂さん。まぁちょっと前に命を救ってもらっているんで、義理を通しているみたいなもんです」
「ふーん……まぁ、話は聞いているよ、今さら根掘り葉掘り聞くことでもねぇ」
そう言って、刊坂さんはぐいっと盃に残ったお酒を飲み干した。ふぅ、と気持ち良さそうに息を吐いて、盃を置く。
もはやこの人を、単なる『先生のオタク友達』とは考えられない。一般人にしては世界の裏側を知り過ぎている。
「あの事件のこともご存じなんですね……何者なんですか? 刊坂さん」
「ん? 何者かって問われれば一般人としか答えようがねぇーぜ? 特別な血筋も、特別な異能力も皆無」
ひっく、と吃逆をしながら、刊坂さんは覚束ない口ぶりで話し出す。
「ま、俺の友人に龍ヶ崎家の奴がいてな、それで暦先生を紹介してもらった訳だ。それ以来、無能力者の俺が解決出来ない事件は、こうやって先生に依頼しに来てんだよ」
人の縁ってのは不思議なもんだよなー、と楽しそうに刊坂さんは微笑む。しかしこの人の言うことは尤もで、私も不思議な縁の元、この探偵事務所で働いている。
そういった意味で、刊坂さんは私と似ているのかもしれない。
「しかしねぇ、あの人見知りする暦先生が、こんな可愛らしい娘を助手にねぇ……合縁奇縁とは良く言ったもんだ」
「……可愛らしい、というのは止めてほしいんですが」
酔っぱらっているから、先程から刊坂さんの言葉にセクハラの臭いが漂っている。まぁある程度の齢を重ねれば、男性はそういうものだと理解しているけれど、イラッとした感情は拭えるものではない。
「……あ、あぁ、悪かった。女性の扱いには慣れてねぇんだよ。すまんな……」
「いや、そこまで謝られる程のことでは……」
本当に申し訳なさそうに俯かれると、それはそれで困惑するのであった。この人、何かチャラそうな言動の割には、あんまり女性経験とか無いのかな……って言うか、オタクで変態だしな……むしろ無い方が自然なのかな……とか考え込んでいると、刊坂さんは体勢を立て直し、私の方を優しそうな瞳で見た。
「……ま、先生が寝ている間に羽衣さんとは話しておきたかったのさ。はは、何だ……安心したぜ。ちゃんと暦先生にも、味方になってくれる奴がいたんだな」
「……は、はぁ。味方と言えば、味方ですけど」
何かそう言われると違和感があるけど、これでも先生のスタンスには賛同している。あの人であったら、何だかんだ皆を救ってくれるのだという、信頼があるのも否定できない。
「先生はオタクで変態で引きこもりですが……まぁ、良い人ですから」
だから私は、素直に問いへ答える。すると刊坂さんは少し間を開け、口元に笑みを浮かべた。
「そこまで分かっていれば重畳だ。先生を信頼してやってくれ」
それだけ言って、刊坂さんは給湯室から出て行った。結局、あの人が何を言いたかったのか分からなかったけど、とにかく先生の友人であり、悪い人ではないということだけは何となく感じられたので、良しとしよう。
ふと時計を見ると、時刻は夜の八時を回っていた。私もそろそろ家に帰ろうと、エプロンを脱ぐのであった。
○
翌日。
何とか事務所の予算から移動費を捻り出し、私達は新幹線で東京に向かった。昨夜は酔い潰れていた先生だったけど、特に二日酔いとかはなく、むしろ朝早く起きて倉庫で何やら物色していた。その結果、先生の肩には大きなギターケースのような物が掛かっている。
「随分、重装備ですね」
「ははは……まぁ今回は相手が相手だ。霊感が一切ない刊坂くんでも姿を感知出来るほど強大な霊力を持っており、東京中から少女を浚うことが出来る上級地縛霊って話だからね。とっておきの霊具を持って行くよ」
「まぁ、それなら私も安心出来るんでありがたいです」
「ところでこれ、重くてね……代わりに背負ってくれないかな……」
というのが事務所を出る前に交わした、私と先生の会話である。ギターケースは今も当然のように先生の肩にかかっている。当然のようにと言うか当然だ。
新幹線で東京駅まで行き、そこから電車と地下鉄を乗り継ぎ、浅草駅で降りる。浅草に来たんだから雷門とか見てみたいなぁとか実はちょっぴり考えていたけど、先生と刊坂さんは露ほどの興味もないみたいで、バスに乗ってすぐさま例のアパートへと進んでいった。時間も余りないので、仕方ないけれど。
そして観光地から離れ、田舎者特有の『東京=都会』というイメージを真っ向から否定するような、閑散とした住宅街にぽつりと立った一軒のアパートの前に、私達は辿り着くのであった。
○
「さて、取り敢えず鍵を開けるか」
問題の二〇五号室の前に立ち、刊坂さんは鍵を取り出して扉を開ける。
「ちなみにそれは、どういった経緯で入手した合鍵で?」
「……羽衣さん、細かいことは気にしない方が長生き出来ると思うぜ?」
おい。
などという軽口を叩きながらも、私達はどこか緊張感を持ちながら、空き室の扉を開けた。鼻孔を突く埃とカビの香り、ボロボロのカーテンで光を遮断された窓……そして肌に纏わりつくような、嫌な雰囲気。
「先生」
「あぁ、羽衣ちゃんも感じたかい? 相当なサイズまで膨張した霊の気配だ」
隣に立っていた先生は目を細め、押し殺したような声で言う。
「断言しておくけど、この前のジェリーとは違う。純然たる殺意を以って、この部屋に霊が取り憑いている。流石だな、刊坂くん。君の推理通り上級地縛霊だ」
――地縛霊。
霊というのにも幾つかのパターンがある。害を為すか為さないかに関わらず、『ある一定の場所に憑依し、その地点を離れない』というのが、地縛霊と呼ばれる霊の条件だった……はずだ。たぶん『騒霊犬事件』のジェリーも地縛霊に分類される。動物霊か人霊か、低級か中級か上級か、みたいな別の区分もたくさんあるので、私はほとんど理解出来ていないのだけど。
「ふーん、霊感がある奴等ってのは、そんなことも分かんのか」
頭を掻きながら、刊坂さんは不思議そうに私達を見つめる。まぁ私の場合はかつての事件で霊的な存在を知覚し続けることによって『何となく』分かってしまうだけで、別に霊感がある訳ではない。
「何にしても、俺が視たのが幻覚の類じゃないってのが分かって安心したぜ。……じゃあ行方不明になった女の子達も、ここに居るんだな?」
「あぁ、おそらくね」
固い表情を崩さず、先生は靴も脱がずに玄関を上がった。急いで私と刊坂さんもそれに付いていく。
「二人は僕の後ろで……何かあったらさっき渡した霊符で援護よろしくね」
「……はい」
「おう、任せろ」
もはや先程までの緩い雰囲気はない。先生も刊坂さんも油断や冗談を表情から捨て去り、わき目もふらず問題の押し入れに向かう。
一拍遅れて、私もそれを追いかけようとした時、
くいっ、と、
私のスカートの裾を、誰かが掴んで引っ張った。
先生と刊坂さんは、先に進んでいる。
じゃあ誰が?
「あ」
反射的に振り向き、視線を下に向ける。
そこには一人の少女が立っており、私のスカートを握り締めている。写真で見た地縛霊と目される折出ゆめちゃん……じゃない。この子は確か、行方不明になっていた女の子の一人で……。
――こんにちは、おねえちゃん。
笑う。
笑うのだ。
ガリガリに痩せこけた頬に笑窪を浮かばせ、白く濁った眼球で私を見つめる。
心臓が鷲掴みにされるような、圧迫感。呼吸が狂い、全身から嫌な汗が流れ出す。
――おねえちゃんも、おともだちになってくれるの?
「おん・しゅっちり・きゃらろは・うん・けん・そわか!」
考えるまでもなく反射的に私は霊符を取り出し、少女の形をした何かに向けて叩きつけた。
○
アハハ!
アハハハハ!
アハハハハハハハ!
少女達の笑い声が響き渡る。
ドタドタと騒がしく床を蹴って、彼女達はどこからともなく現れる。
それは誘拐された少女達で、皆やつれてはいるものの、不気味なくらいに楽しそうであった。
私の放った霊符で倒れた少女なんて気にも止めず、四人の少女は手を繋ぎ、円になってくるくると回る。
「大丈夫かい、羽衣ちゃん!」
先生が慌ててこちらに戻ってくるけれど、その異常な光景に唖然とするしかない。
気付けばボロボロのカーテンは閉め切られ、外界の光は完全に遮断されていた。明滅する電球の元、私の眼前で死人のような顔をした少女達が円になって踊っている。
アハハハハ!
アハハハハ!
アハハハハ!
「な、何だこりゃあ……よく分からんが、やべぇんじゃねぇか、これ」
刊坂さんはその不気味な光景に顔をしかめ、冷や汗を流していた。
「確かにヤバい。だけど僕も迂闊だったね……逃げられない、この部屋は完全にここの地縛霊の支配下にある」
「け、結界って奴か!」
「そうだよ。魔術体系に沿わない、擬似的なものだけどね――急々如律令!」
先生は話しながらも、コートの内ポケットから北斗七星が刻まれたナイフを五本取り出し、押入れに向けて一斉に投擲する。それらは押入れの襖に突き刺さり、五芒星を描いて爆散した。
「全く……上級地縛霊なんてチャチなものじゃなかったね。これだけの人間を支配するだなんて、軽く神様に片足突っ込んでいるよ……ねぇ、ゆめちゃん」
アハハハハ! アハハハハ! アハハハ!
アハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハ!
アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!
楽しそうな笑い声……しかしそれは、もはや狂気でしかない。けたたましく響く子供達の哄笑の中、彼女は開かれた押入れで蹲っていた。
青白く痩せ細った手足、ガサガサの髪、腫れ上がった変色した左目、そしてこちらを見つめる胡乱な右目。
――こんにちは。あなたも、おともだちになってくれるの?
押入れの中から一歩も動かず、少女はそう言った。
親愛の籠った笑みだけど、どうしてもそれが痛々しい。
「いや、違うよ。ゆめちゃん……僕達はこの子達を返してもらいに来たんだ」
――かえしてもらいに?
先生の返事に地縛霊ゆめちゃんは、何を言っているのか理解出来ないとばかりに首を傾げた。
――なんで? ゆめのともだちを、だれに? どこに? こんなに、こんなにたのしいのに、なんで?
「この子達には、帰るおうちがあるんだ。お父さんとお母さんが、待っているんだ。だから、返してもらう」
――……。
ゆめちゃんは絶句し、目を丸くして先生を見つめる。しかし先生、この霊に対して挑発し過ぎなんじゃないだろうか。『帰るおうち』とか『お父さんとお母さん』とか、ゆめちゃんは耳にもしたくない言葉だろうに。彼女にとって家は苦痛を与えられる場所であり、両親は苦痛を与える人物でしかなかったのだから。
「もう皆、おうちに帰る時間なんだ。だから、さよならをちゃんとして」
――さよなら……?
先生の糾弾は続くと共に、ゆめちゃんの表情が強張って行く。カリカリと骨と皮しかないような指で、フケだらけの髪を掻き毟る。
――さよなら? だってわらってるよ? みんな、ゆめといっしょに、わらってる。ようちえんでみた、あのこたちみたいに、わらってた。わらってたのに、さよならしないといけないの? なんで? なんでなんでなんで? ずっといっしょにいたいのに、いちゃいけないの? いままでずっと、ひとりだったのに、ゆめはまたひとりにならなくちゃいけないの?
「あぁ、そうだ」
気付けば、狂ったような少女達の笑いは止まっていた。夢遊病者のように虚ろな瞳で虚空を眺め、呆然と立ち尽くしている。
――やだ……! やだやだやだやだ! さみしい! さみしいよぉ……! あゆみちゃんも、みくちゃんも、まさみちゃんも、かおるちゃんも、おとかちゃんも、ゆめのおともだちなの! ずっと、ここにいるんだから!!
ゆめちゃんの喉を切り裂くような絶叫に合わせ、少女達は目を見開いた。血走った目で、私達を凝視する。
「ちょ、先生これは……っ!」
「羽衣ちゃん、時間稼ぎよろしく。そして刊坂くん、羽衣ちゃんを頼むよ」
「合点承知だ!」
私の言葉を無視して先生は駆け出し、刊坂さんは私達に向かって襲い掛かってきた少女のお腹を蹴り飛ばした。
「――ッ! こいつら身体は生きてんだよなぁ? やりづれぇ!」
「もし死んでいたら依頼主の親御さんに顔向けできませんよ!? えぇいっと!」
刊坂さんの股の下から滑り込んで来た女の子の腕を掴み、壁に向かってぶん投げる。しかしすぐさま立ち上がり、こちらに襲い掛かって来た。
「おぉ、流石は暦先生の助手だ。そして敵もゾンビみたいだな! 手加減しなきゃいけないのも面倒臭ぇ!」
「……ッ、先生は、どうするつもりなんですか!」
私は叫びながら探すと、先生はゆめちゃんの前でギターケースを開けて、中に入っていたモノを取り出していた。
それは――全長一メートル以上ある剣だった。
普段使っているナイフのように北斗七星が刻まれているが、他に南斗六星やら蛇の巻き付いた亀やらフェニックスみたいな不可思議な動物など、様々な刻印が複雑に描かれている。
「調伏するよ、その存在を魂ごと消し潰す。狂い果て、自我も失った霊は、もはや成仏は不可能だ――ゆめちゃん。おままごとは終わりにしよう」
――いやだ、いやだいやだいやだ!! まだみんなとあそんでいたい! はじめてなの! ゆめにわらってくれたともだち! みんな、だいじなともだちなのぉ!!
ゆめちゃんは泣きわめき、押入れの中から顔を出し、大きく開いた口からさらに顔が飛び出る。メキメキと骨が割れ、皮膚が裂けて血飛沫と共に、今度は三本の腕が触手の如く湧いて出て来た。
「――変生。もはや人間であったことすら忘れ、恨みつらみでこの世に留まり続けた霊のなれの果てか」
感情の宿らぬ冷たい口調で呟き、先生は必死に伸ばした彼女の腕を大剣にて切り払った。造作もなく、まるで飛んできた虫を払うかのように。
――ッ、うぎ、あ、ぎ、い、いたいっ!
「七星・破敵剣――陰陽道の粋を凝らして安倍晴明が鋳造した星剣だ。都を守護し、この世ならざるモノを遍く調伏する破邪の剣。……痛いよね、そりゃそうだ。君はもう――この世に居て良い存在じゃないんだから」
口の中から飛び出た顔と腕を切断され、見るも無惨な赤黒い肉塊を吐き出して、ゆめちゃんは涙を流す。だけど容赦なく先生は、そんな彼女の左胸に破敵剣を突き刺した。
――っ!? いたい、いたいぃよぉ! やだ! やだやだやだやだ!
「先生っ!」
身体が勝手に動いていた。
私達の目的は地縛霊を倒し、今も操られている少女達を助けることだ。
だけど、だけど……これは違う。
これじゃあ少女達を救うことが出来たって、ゆめちゃんが救われないじゃないか!
「危ねぇッ!」
走り出そうとした瞬間、刊坂さんに腕を引かれて顛倒した。その頭上を、カッターを握った少女の腕が通過する。
「オラッ!」
手刀でカッターを弾き飛ばし、少女の横腹を蹴り飛ばす刊坂さん。なおも這い蹲って進もうとした私の襟を掴んで、無理矢理立たせる。
「アホかお前は! ゆめちゃんはもう手遅れだ! 上級地縛霊って時点で成仏は難しかったが、あそこまで変生しちまったらもう百パーセント救えない! 先生の助手ならそれくらい分かってるだろ!?」
「……ッ」
それは、そうだ。
そんなことも何度か経験している。
でも心のどこかで願ってしまうのだ。
彩芽の時のように、皆を幸せにする決着がほしいと。
だから縋るように先生を見る。
先生はそれに気付いて、静かに首を横に振った。
○
「吾此天帝使者前使執持金刀、令滅不祥此刀非凡常之刀」
朗々とした呪文の詠唱。普段の先生が発する言葉とは別物のように重々しく、また美しい。振り上げた破敵剣の柄より光が走り、北斗七星を辿りながら剣先に向けて青白く輝いていく。
――な、なに!? きもち、わる、ィいいいいっ!!
ゆめちゃんは全身を痙攣させながら、両腕で自らを掻き抱く。先生が切り裂いた口元から、どす黒い血液と吐瀉物が混じった悍ましい液体を吐き出して、大粒の涙を瞳から零した。
痛いのだろう、苦しいのだろう。
その存在そのものが、否定されるのだから。
「百錬之鋩此刀一下、何鬼不走何病不愈」
ゆめちゃんの嗚咽と苦悶を直視しながらも、先生は口調を変えることすらせず、詠唱を続ける。
――い、ぎ、げぇ、げぇ、えええあああああああッ!!
痛みの余り奇怪な叫び声を上げながら、ゆめちゃんの両肩から、腹から、膝から、数十本にも渡る腕が溢れ出る。うねうねと繊毛のように蠢き、今も自らを打ち滅ぼそうとする先生へと襲い始めた。
だが、ほんの数秒遅い。
「千殃万邪皆伏死亡吾令刀下――天帝太上老君律令!」
詠唱が終わる。その星剣の輝きは、彼女が懸命に伸ばした無数の腕を瞬きの間に消し飛ばす。その刹那、私は思いっきり身を捩って刊坂さんの腕を振り払い、駆け出した。
――ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! ゆめ、いいこにするからぁ! いいこになるから! もういたいのいやぁあああああああああああああああ!
先生を、止めないと。
当たり前のように享受しなきゃいけない幸せが与えられず、苦痛と暗闇だけだった少女――その末期の願いすら、その死後の祈りすら、悪であると断ずることなんて、しちゃだめだ。
だって先生は――あんなに悲しそうな貌をしているじゃないか。
止めないといけない。あなたが背負おうとしている罪は、あなたが背負わなきゃいけない類にものじゃないって、教えてあげないといけないんだから!
「――ッ!」
だけど私の身体は少女達に掴まれ、もう一度床に転がった。鼻の頭を強打して、鼻血が弾け飛んで視界が赤く染まる。
そして私の想いが届くことなく、ゆめちゃんの嘆きが晴れることなく――先生は、刃を振り下ろした。
○
こうして、折出ゆめという少女の魂は天国に行くことも地獄に行くことも、ましてや転生して別の生を歩むことすら出来ず、ただ痛みと嘆きを抱きながら、この世界から消滅した。
○
東京で起こった少女誘拐事件は幕を下ろした。行方不明だった女の子達五名はみんな生きており、今は病院にて治療を受けているそうだ。一ヶ月の治療の末、比較的無事であった被害者の一人、春野音佳ちゃんは本日ようやく自分の家庭に戻ったようである。他の被害者の少女達も、しばらくしたら自身の親の元へと帰っていくのだろう。刊坂さんも方法はともかくとして、事件の解決に対してはきちんとお礼を言って、解決料も振り込んでくれた。
「……」
事務室でぼーっと先生がテレビを眺めている姿に、私は事件の顛末を纏めながら視線をやる。先生が暇な時は基本的にパソコンかスマホを弄っているので、テレビを見ているのは珍しい……もっともあの事件以来、その姿は希少でも何でもなくなったのだけれども。
突き詰めたところ――今回の事件は『虐待死した少女の地縛霊が、同い年の友達を求めて誘拐を繰り返していたので、問答無用でぶちのめした』という、どうしようもない結末でしかなかったのだ。
頬杖を突きながらテレビ画面を見つめる先生の表情は、硬くて暗い。ゲームをやっている時の楽しそうな、明るい感じは全然なかった。
〝安心したぜ。ちゃんと暦先生にも、味方になってくれる奴がいたんだな〟
〝先生を信頼してやってくれ〟
あの夜、刊坂さんが私に伝えた言葉を思い出す。
ゆめちゃんを成仏させるのではなく魂の完全消滅を以って調伏するという、あの時の先生の判断を責めることは出来ない。先生が『それしか手段がない』と考えたのだとしたら、本当にそれしか手段がなかったのだろう。もし、あそこでゆめちゃんの変生を止められたとしたとしても、どうすれば彼女の心を満たすことが出来るのだろうか。
あの大剣を持っていった時点で、先生はこの結末を覚悟していたのだろう。
「先生」
だから私は、心ここにあらずといった様子の先生に、意を決して話しかけた。
「先生は、この『少女誘拐事件』の結末……間違っていると思いますか」
「……どうして、そんな質問を?」
感情の起伏の薄い口調で、先生はゆっくりとこちらに笑いかけた。やっぱり元気がない。
「いや事件を纏めているので、先生の所感を聞きたいんです。この事件の結末は、確かに後味が悪かったものですけど……でも、誘拐の被害に遭った女の子達は助かりました……だから私は、間違っては、いないと思います」
「…………」
慰めの言葉……になるのだろうか。
分からない。でも、せめて私が肯定しなきゃいけない気がした。あの独りぼっちで生まれて独りぼっちで死ななければいけなかった少女に、何一つ出来なかった罪悪感を、先生一人に背負わせちゃいけない……そんな風に思ったのだ。
そんな風に――思い上がってしまった。
「羽衣ちゃん」
どこか眩しそうに先生は目を細め、告げる。
私の思い上がりをへし折る、最悪の一言を。
「この事件、まだ終わっていないよ」
「ッ!?」
ぞくりと、背中に冷や水を掛けられる。
何で? まだ何かあるの?
「事件が終わっていないって……どういうことなんですか!?」
「あぁ。霊は倒した。依頼は果たした。誘拐されていた少女達を解放した。……でもこの事件は続くんだ。僕の手ではどうしようもなく、ずっと、ずっと」
自虐的な笑みを口に張り付けて、先生は力のない声で語る。でも私には何が何だか分からない。原因である霊が消えた以上、何が起こるというのだろうか。
「……あぁ、思ったより早かったな。羽衣ちゃんもテレビを見て」
どこか諦観の籠った表情で、先生はテレビ画面を指さす。私はそれを見て、膝から崩れ落ちた。
○
一ヶ月の入院期間が終わり、久しぶりに自分の家に帰ってきた少女、春野音佳を待っていたのは、実の父親からの暴力であった。
「音佳ァ! テメェが誘拐なんてされたから、面倒なことになっちまったじゃねぇか!」
腹を蹴られて音佳は床に転がり、「けほ、けほッ」と噎せながら這い蹲る。
「ったく、食わせてもらってる身で随分と手を掛けさせやがて……なぁ!? 何か言うことはないんですか!?」
音佳の腹を足の裏で圧迫しながら、父親は支離滅裂な言動で実の娘を甚振る。頬は赤らみ右手には焼酎の入った一升瓶が握られ、彼は明らかに酩酊していた。
「……う、が……ぁっ」
苦悶に顔を歪ませながら、少女は歯を食い縛って痛みに耐える。拳を握り締め、額に嫌な汗を浮かべて……ただ、耐える。耐え続ける。その態度が父親の癪に障ったようだ。肩まで伸びた髪を乱雑に握り締め、思いっきり持ち上げた。
「迷惑かけてごめんなさい、私はこの家から一歩も出ません、だろうが。もう忘れたのか愚図。ほんとそういうとこ、アイツそっくりだよな」
「……ッ」
足が床を離れ、音佳は全体重を支える頭皮が激痛に悲鳴を上げた。
だけど少女は謝らない。
代わりに父親に向けて、こう伝える。
「やだ」
少女の実直な、拒絶の言葉。
そんな返答を想像すらしていなかった父親は、目を丸くして呆然とする。
「わたしは、かえる。ゆめちゃんのとこに、遊びに、いくっ!」
その時、父親の中にあった何かの線が、一本切れた。何の予備動作もなく、左手で握っていた一升瓶で、音佳の後頭部を力いっぱい殴打した。
「んだよその口のきき方はぁああああああああああああああああああああああああああああッッッッッッ!!」
今まで暴力を振るう時は、服の下に怪我が隠れるようにしていたというのに、思わぬ反抗に怒り狂い、下腹を、脚を、腕を……髪を掴まれ逃げられない音佳を何度も、何度も何度も殴打する。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ、クソ、バカにしやがってェ! テメェさえいなきゃ、オレは自由なんだよ!」
血走った目で額に向けて強打すると、一升瓶が鋭い音と共にひび割れ、弾け飛んだ。「チ」と舌打ちをして、父親は髪を放して娘の身体を放り捨てた。
「これくらいで勘弁してやる、そこで少し反省しろ。ったく、これだからガキは」
リビングの机の下に音佳を放置して、彼は煙草を吸おうとライターを探し始めた。もう既に彼の関心は、誘拐されて戻ってきた娘よりも、煙草に移っていたのである。
故に気付かなかったのだろう。
自分の娘が、既に呼吸をしていないことに。
○
テレビニュースで流れる事件。
それは誘拐事件の被害者であった少女の一人、春野音佳ちゃんが、実の父親の虐待によって死亡した状態で発見された、というものだった。
「――え?」
立っていられず膝から崩れ落ちた私は、訳も分からず素っ頓狂な声を上げる。
胸裏にあるのは「何故?」という感情。
「ねぇ、羽衣ちゃん。今回の事件の被害者ってさ、東京の中でも世田谷、江戸川、板橋に荒川と色んな地区から集められていたよね。……何でだと思う?」
「なん……でって」
理由なんて考えなかった。ただ、それだけのことが出来るのだから、地縛霊は上級なんだろうという話としか認識していなかった。
「たぶんね、ゆめちゃんは自分に似た境遇の女の子を捜して、集めたんだと思う。だから広範囲から選ばざるを得なかった」
「……そんな」
それじゃ、他の被害者の女の子達も、最後には同じ結末になるということじゃないか。
じゃあ――私達の行いは、何だったのか。
何の意味があったのか。
「刊坂くんに頼んで、警察や児童相談所に話は通してあったんだけど……児童福祉司は現状全く足りてないから、元の家庭に最終的に返されるケースがほとんど。まぁ遅かれ早かれ、こうなる訳だ」
「……」
「こうなるのが嫌なら、虐待される子ども達を誘拐して匿うしかないね……まぁ、現実的な手段じゃないよ」
不自然なほど饒舌な先生の言葉に返事も出来ず、私はうなだれる。
あぁ……そりゃ、先生も暗い貌をするはずだ。
こんなものは、どうしようもない。
もう最初から、どうしようもなかった話だったんだ。
「じゃあ、僕の方から訊きたんだけどさ、羽衣ちゃん」
ふと先生の言葉に、私は顔を上げた。先生はしゃがみ込んで、私の目をじっと見ていた。いつものようにだらしない笑みを浮かべていたが、その瞳には生気が全く感じられない、死人のようなものだった。
「僕のしたことは、間違っていたのかな」
○
殺人事件――それも子どもの虐待死があった一軒家だ。春野音佳が死亡し、その父親が逮捕されて出て行って以来、荒川区に建てられた木造の家は、新しい住民を迎え入れることもなかった。
そんな誰も住んでいないはずの住宅の前を、一人の少女が訪れた。彼女は特に迷う素振りもなく、いわくつき物件の前に立つ。
すると不思議なことに、扉がひとりでに開いた。少女は驚くことも不思議がることもせず、玄関から廊下に上がり、奥にあるリビングへと歩いていく。
そして少女は目撃した。
全身を殴打されて腫れ上がり、頭皮がずり落ちて髪の毛もない、少女の霊を。
――こんにちは。
少女は痛々しい外見とは裏腹に、まるでずっと欲しかった玩具が手に入ったかのように、嬉しそうに笑った。
――あなたも、おともだちになってくれるの?
『少女誘拐事件』――未解決。