Case6 悪魔憑き事件 下
そして夜が明けて、次の日が訪れる。千種聖霊修道院へと異端殲滅機関カエルム・ヘルバ騎士団が訪れる、約束の前日。時刻は昼過ぎ、件の天使像がある礼拝堂へ、数名の人々が集まっていた。
霊能探偵・龍ヶ崎暦とその助手・七月羽衣。探偵・刊坂広忌、司祭・呉内亜久太と院長である武蔵島孝輔。計五名。
「さて、皆さん。ご多忙の中お集まりいただき、ありがとうございます。……まぁ時間もありませんので、単刀直入に申し上げましょう」
椅子に座った四人の前へ立ち、暦は芝居がかった様子で語り始め、懐から北斗七星が刻まれた短刀を取り出した。
「此度の悪魔憑き事件。――色々と前兆はあったにせよ、直接的な被害者は安間奏太くんですね。彼の死の裏には悪魔が関与している。僕はそのような推察を呉内司祭より聞きました」
ひらひらと七星剣を揺らす暦を、一同は凝視している。霊能探偵の推理を、固唾を呑んで見守っているのだ。
「……なるほど、実際に前日まで奏太くんと喧嘩していた森揚羽くんのカバンの中から『召喚紋』の破片が出て来たとなれば、その説は十分に有り得る。では森揚羽くんが黒魔術を行使したのか? ……有り得ない話ではないけど、仮説としては弱い。悪魔の召喚には高度な術式が要求される。犯人は別にいる訳だ……さて、それは……」
にやり、と、口元に似会わない笑みを浮かべ、暦は七星剣の剣先を、一人の男へと向ける。
信じられないとばかりに目を剥く彼へと向けて、大仰に、わざとらしく、霊能探偵は告げた。
「呉内司祭。犯人は――貴方です」
○
「な……ッ」
その言葉に驚愕し、真っ先に声を上げたのは勿論、呉内さんだった。
「待ってください! わたしが? 黒魔術を!? どうしてそんなことが……ッ!」
「そ、そうです! 彼が犯人であるとしたら、それはおかしい!」
驚きの余りに声を荒げる呉内さんを弁護しようと、武蔵島さんは立ち上がった。
「呉内くんにはアリバイがあります! 奏太くんと揚羽くんが喧嘩したあの日、彼は夜遅くまで残ってこの礼拝堂でお祈りをしていました! その後も、私と一緒に寮に戻っています……ッ! どこにも悪魔を召喚するような余裕はありません!」
「……なるほど」
矢継ぎ早に放たれる武蔵島院長さんの弁護に、先生は圧される様子もなく淡々と頷いた。院長さんの迫力も相当なものだけど、流石に先生がビビるってことはなさそうだ。
「その祈りは誰かと一緒に行っていたのですか? どうなんです?」
「……え」
先生の追及に、院長さんは押し黙ってしまった。すぐさま呉内さんも立ち上がり、堂々と先生の瞳を見て宣言する。
「一人です――わたしはこの礼拝堂で、一人で奏太くんと揚羽くんが、もう喧嘩がすることがないよう祈っていました」
「そうですか――じゃあ、そのアリバイは崩れる。何故なら――」
そこまで話した瞬間、私は隣に座っている刊坂さんへと目配せした。頷いて立ち上がり、彼は足早にみんなの前に出る。そして床に敷いてある絨毯の裾に手をかけ、「よぉっと!」と力を込めて、それを思いっきり捲り上げた。
「――ッ」
「な……こ、これは……ッ!?」
絨毯に隠されていた、木製の床。そこには赤黒い色で複雑な文様の魔法陣が描かれていた。形はあの『召喚紋』に酷似している。
「――悪魔召喚の儀式は、この礼拝堂にて毎夜行われていたのですから」
「そ、そんな……ッ」
愕然とした様子で立ち上がり、呉内さんは床に刻まれた魔法陣を見下ろす。
「あぁ、呉内司祭。貴方が使役した悪魔の名前も調べはついています」
先生は懐より、二枚に紙片を取り出す。一枚は呉内さん自身が持っていた物。もう一つは刊坂さんが子ども達から手に入れた物。
「断片的に手に入れた物ですが、『L』『B』『E』――この三つのスペルを持つ悪魔は、『悪魔召喚書』に記されたソロモン七十二柱の中には二柱しか存在しない。BELETH、もしくはBELIALの二柱です」
先生は魔法陣の上に立つ呉内さんの横へと歩み寄り、その顔をじっと見つめながら話を続ける。
「しかしベレトは暴走自体で召喚されるとされ、南東の方角へ三角形の魔法陣を描き結界を張らないと契約は結べないらしい……見る限り、そういった文様はないみたいですね」
だとすれば――この場に居る誰もが、礼拝堂の中央に置かれた天使の像を見上げる。
ベリアル。先生の話を聞く限り、かつて天使だったものの、後に神様を裏切り堕天使となった悪魔らしいのだが――その姿は、かつての美しい天使のままだと伝わっているという。
「ねぇ、呉内さん――貴方は夜の礼拝堂で、本当に神への祈りを捧げていたのですか? それとも――」
先生の冷ややかな視線。短剣の切っ先が呉内さんの額へと向けられる。やっぱり仕事モードに入った先生は怖い。
だけど呉内さんは、俯いた顔を上げて、真っ直ぐに先生を睨み返した。
「いいえ――わたしが信じる神は、ただ一人。天にまします我等が偉大なる父、御一人! 悪魔に捧げる信仰など持ち合わせていませんッ!」
裂帛の絶叫と共に宣言する呉内さん。その表情には、昨日事務所で晒した情けない様子など、微塵もない。
「あーぁ、この期に及んで何言ってんだろうなぁ。どんなに弁解したって、嘘っぽくなるだけなのによ。……まぁ、それはそれとして――」
茶化すように笑って、刊坂さんは地面を蹴った。勢いよく疾走し――呉内さんを横切って、私の背後へ滑り込む。
「――おい、おっさん。何しようとした?」
刊坂さんは、気付けば私の背後に立っていた武蔵島院長の右手首を握り、その手を思いっきり宙へと掲げた。彼の指には、一枚の紙片が挟まっている。
不可思議な文様と三つのアルファベット『L』『I』『A』。紛れもなく、私達がまだ入手していない『召喚紋』の断片だった。
「ひぃ……ッ」
刊坂さんに手首を捻り上げられ、情けない悲鳴を上げる武蔵島院長。だが、そんなものは演技だろう。
「――さて、すみません、呉内司祭。茶番に付き合ってもらってしまって」
にっこりと笑った先生は目を丸くして状況についていけない呉内さんをよそに、刊坂さんに拘束された武蔵島院長を見据える。
「ははは。仕掛けてくるなら、ここだと思っていましたよ。この場に『召喚紋』が揃い、全ての人間の注目が呉内司祭へと向かっている瞬間――さぁ、洗いざらい吐いてもらいます、武蔵島司教――いや」
短刀の切っ先は既に呉内さんから離れており――刃は倒すべき真犯人へと向けられていた。
「秘密結社『地獄の業火』の生き残り――薄汚い黒魔術師さん」
○
●
千種聖霊修道院に関係者一同が集まる、その三時間前。私は先生が泊まったホテルの部屋へと訪れていた。
『ふむ……「地獄の業火」の一件をもう一度洗ってみたが、確かに関係者の中に一人だけ「抹消」が出来ず「行方不明」という状態で処理された人間がいるな』
先生のスマホの画面には、ビデオ通話によって東京にいる安曇さんが映し出されている。
「先生、『地獄の業火』の一件って何ですか?」
「あぁ、羽衣ちゃんには言ってなかったね。かつてカエルム・ヘルバ騎士団によって、被害者も加害者も纏めて殺されたっていう、黒魔術集団のことだよ」
「あー……あの呉内さんが言っていた……」
昨日のことなのに、情報量が多い所為で記憶が曖昧だ。しかし胸糞悪い事この上ないので、何となくは憶えている。
「そう、それ。だけどその事件、実際は【八咫烏】と宮内庁の手に寄って、完全に抹消されたらしいんだ。だから部外者が、その事件について知っていること自体おかしいって話だよ」
「……んん?」
ぐちゃぐちゃとした記憶を探る。話を聞いたのは呉内さんだけど……だけど呉内さん自身も、その話を院長さんに聞いたと言っていたような気がした。
「じゃ、じゃあ……刊坂さんが回収した『召喚紋』を、呉内さんから貰ったって言う話は……やっぱり、そういうことなんですね?」
「まぁ、言わされたんだろうな」
私の言葉に対して、先程部屋にやってきたばかりの刊坂さんが、ベッドに寝転びながら答える。
「あれを持っていた少年、すっごく怯えながら答えてたからよ。脅されていた可能性は十分ある。呉内って奴に罪を被せるような工作だろうよ」
「……」
頬が軽く引き攣る。軽快にパズルのピースが集まって行き、一つの絵画を示していく。
『――千種聖霊修道院の院長、武蔵島孝輔とやらは間違いなく、あの事件で行方不明になっていた人物だろうな。素性を変え、カトリック教会へと潜り込んだという訳だ』
「珍しいですね、宮内庁はともかく【八咫烏】がそんなミスをするなんて」
『「黄金の夜明け団」や、その背後に「神殿を築きし者共」があったことは確実だろう。そこまで来ると、流石に手出しも出来ん』
安曇さんは小さな溜息を吐き出し、画面越しにこちらを鋭く睨む。
『まぁ、その事件の犯人は、そういった手合いの人間だ。手強いと言うより、悪辣と言った方が良いな。ゆめ気を付けろ。油断をしていると、足元を掬われるぞ』
●
○
「痛ッ!」
首筋から飛び出る血液を抑えながら、刊坂広忌が床へ倒れ伏す。気付いた時には武蔵島院長の手には、血に濡れたナイフが握られていた。
「刊坂さんッ!?」
「ぐッ! ――お、俺は大丈夫だ……あいつを!」
羽衣の叫びに返しながら、広忌が首元を抑えながら見据える先。右手には血染めのナイフを、左手には『召喚紋』の断片を握った武蔵島院長が、天使像の前に立っている。
「あ、あぁ、……これは仕方ない……仕方のない、ことなのです……」
彼の両手は震え、刃に着いた血液がビチャビチャと辺りへと散らばる。その姿は己の所業を恐れているようだった。
「はひ……ッ、だって、だって、こうしなきゃ、皆殺されてしまうのです……だから――」
彼は懐から取り出した銀色の指輪を、左手の中指へと嵌める。そこにはソロモン王の神権を示す、六芒星が刻まれていた。
「――ナウマク・サマンダ・バザラダン・カンッ!」
彼の動きを止めるべく暦が霊符を放つ。――同時に修道院の床に張り巡らされた魔法陣が、武蔵島の掲げた指輪に呼応して青白く輝いた。霊符は勢いよく溢れ出る光のカーテンにより、軽快に弾き飛ばされる。
「――く、反旧教式の結界か……ッ!」
歯噛みする暦――、結界。黒魔術を行う際に、悪魔の侵食を防ぐ為に使われる基礎魔術である。しかし始めから修道院の床に刻まれた無数の魔法陣より幾重にも展開される多重複合結界は、基礎魔術の範疇を遥かに逸脱していた。もはや次元レベルの空間断層が、黒魔術師・武蔵島孝輔の周囲を覆っている。
その光景を見るや否や暦は地面を蹴り飛ばし、北斗七星が刻まれた短刀で斬り掛かった。
「急々如律令!」
淡い光を帯びた刃を、武蔵島は結界により造作もなく防ぐ。だが暦は「ぐ、ぎぎぎッ!」と力を込め続けた。魔力と魔力の衝突により、二人の間に極彩色の火花が飛び散る。
「む、無駄、無駄ですよ……この修道院は、私の魔術要塞です。貴方は、私の臓腑の中で戦っているに、過ぎないのです……ッ」
「――ッ」
暦は短刀に魔力を込めながら、コートの内側から切り札である独鈷杵を取り出す――その刹那を、黒魔術師は見逃さない。
「我は主に背きし者《Ednecca mengi 》。悪霊よ《mengi》、その悪徳により我が敵を灼き尽くすべし《sie ni siroma iut te》!」
呪文――聖句を反転させただけの簡潔な物。しかし彼の魔術要塞たる修道院内では、それは人間一人など容易く殺害する高密度の呪詛と成る。
孝輔の超高速詠唱を受け、六芒星が刻まれた銀の指輪が眩く輝くのと同時、暦の肩から腰に掛けて血液が噴き上がった。
「――ッ、が、ァ!?」
全身から炎が上がったかのような、凄惨な情景。彼は七星剣と独鈷杵を前方に放り棄てながら、よろよろと後退する。魔術的な摩擦によって結界に亀裂が走り、七星剣のみは隙間を縫うようにして孝輔の足元に落ちて地面に突き刺さるが、肝心の担い手は魔術を行使することも出来ず、ぐしゃっと無様な音を立てて倒れ伏した。
「せ、先生ぇッ!?」
少女の悲痛な叫び――それを聞き届け、孝輔は口元に醜悪な笑みを浮かべる。まるで何かを思い出したように。
「は、はは……ッ! れ、霊能探偵! これが!?」
哄笑を高らかに上げながらも、孝輔の表情に自信や慢心はない。何かを恐れるように、眼球は忙しなく蠢く。
「さ、さて……邪魔者はいなくなりました。儀式を執り行いましょう」
昂った感情を抑えるように胸を両腕で掻き抱き、武蔵島孝輔は振り返る。その先には呉内亜久太が呆然と立ち尽くしていた。
何があったのか、分からない。
眼前に広がった魔術による戦闘を、一介のクリスチャンである彼は、正しく認識出来ない。
ただ――自分が今まで信じて来た上司が、主の奇跡を玩弄する異端者であるという事実だけが、亜久太の感情を占める全てである。
かつての上司、武蔵島院長は言う。
かつてのように、優しい笑みを浮かべながら。
「さぁ、呉内くん。悪魔との契約、その対価を払う時が訪れました。――出でよ《Spiritus》、罪業へと誘う悪霊よ《sutirips rotaerc iniev》」
呪文の詠唱と共に孝輔は完成された『召喚紋』を術式中央部に投げ付け、修道院内部へと刻まれた魔法陣が起動する。
眩い光が螺旋を描きながら二人の周囲を包み込む。まるで極光に編まれたドームであった。
「……?」
そして亜久太は、不可思議な違和感を覚えて、自らの足元を見つめた。
魔法陣が描かれた地面に一条の亀裂が走る。地割れの隙間に溢れる暗闇には、血走った大きな眼球が浮かび上がっていた。
○
強過ぎる――それが私の率直な感想だった。目の前で血飛沫を上げながら倒れる先生の姿を見て、そう思う他なかった。
最初に立てた計画では、呉内さんを犯人に仕立て上げ、真犯人である武蔵島院長のボロを出させる、というものだった。しかし結果はどうだろう、刊坂さんは膝を突いて息を整えるのがやっとで、先生は血溜まりの中に沈んでいる。
私達は黒魔術師としての武蔵島さんの力を、侮っていたのかもしれない。
呪文の詠唱と共に、呉内さんと武蔵島さんが立っていた場所を覆い隠すかのように光が埋め尽くしていく。素人目に見ても、明らかな大規模魔術の行使であった。
「――待ってください! 生贄!? 呉内さんが!?」
「……ッ!」
私の絶叫に対し、武房島さんはびくっと肩を震わせ、ゆっくりとこちらへと視線を向ける。それまるで、叱られるのを怖がる子どものようだ。
「あ、あぁ……七月さん、まだそんな威勢良く、喋れるのですね……」
「対価ってどういうことなんですか!? 悪魔を召喚して使っていたのは貴方でしょう!?」
私の詰問に対し、武蔵島さんは目を見開いた。その瞳孔が開き切った眼球が、あちらこちらに動き回る。肩を震わし、両腕で自分の身体を掻き抱き、噛み締めるようにか細い声で零した。
「……違います」
否定の言葉。
額に汗を浮かべ、狼狽した様子で彼は宣う。
「違います、違います、違うのです! 私ではない、私ではない、私ではない悪魔を呼び出したのは私ではない悪魔と契約を交わしたのは私ではない奏太くんを殺したのは私ではない!」
武蔵島さんは狂ったようにまくし立て、立ち尽くしたままの呉内さんへと人差指を向ける。
「彼だ!
彼がこの魔法陣の上で!
悪魔の像へと向かって!
祈ったのだ! 」
絶叫――血走った瞳を呉内さんへと向けて、狂った黒魔術師は心優しい司祭を裁こうと、高らかに声を上げて糾弾する。
「揚羽くんと奏太くん――二人が喧嘩を止めて、仲良くなってほしいと!!」
「え」
意味も分からず、呉内さんは口をぽかんとする。その反応は痛いほど分かる。私だって開いた口が塞がらない。
「君の願いは、ちゃーんとベリアル様が叶えて下さった。二人の喧嘩は終わって、今や揚羽くんは奏太くんと喧嘩したことを後悔している……おめでとう、呉内くん。君が悪魔に捧げた願いは、確かに成就した」
呉内さんは、揚羽くんと奏太くん――二人の幸せを願って、喧嘩を止めてほしいと神様へと願ったのだ。それを――悪魔への願いに切り替えさせ、奏太くんが交通事故で死ぬことによって二人の喧嘩を終結させるという、本末転倒なやり方で叶えた――そんなの、どう考えたっておかしい! 筋が通らない!
「――そ、そんな、ぁ、あああああ、あああ!?」
驚愕とも憤怒ともつかぬ呉内さんの声が、すぐさま恐怖に塗り潰される。彼の足元の地面から亀裂が走り、真っ黒な炎が溢れ出したのだ。
「あ、あつ、ぃ、いいいいいいッ!」
呉内さんの身体が燃えている!
生きたまま、黒い炎でじりじりと!
「は、ははは! おお、これぞベリアル様の黒き業火! あめでとう! おめでとうございます、呉内くん! 貴方はあの方の駆る戦車の薪となるのです!」
「ひ、ぎぃ、いいい、ッ! あ、あつ、熱いぃッ!」
その熱量に耐え切れず身悶え、喉を掻き毟りながらのた打ち回る呉内さん。その抵抗とも呼べない抵抗を、亀裂から飛び出て来た腕が引きずり込もうとする。亀裂――おそらくその先は、地面の下なんかじゃないのだろう。見ているだけで分かる――この怖気は、この世のものなんかじゃない。立ち尽くし、拳を握って身体の震えを抑え付けるしか、今の私には出来ない。だけど――
「……ぎ、いや、だ……助け……て」
炎によって皮膚が炭化し始め、涙を流しながら私を縋るように見つめる呉内さんを見て、身体は自然と動いた。
何の意味もないかもしれない、だけど黙って見ていられるほど、私は出来た人間じゃない。私は地面を蹴り飛ばし、阻む光の壁へと全力の拳を叩き込もうとした瞬間、それを拒む声が、私の耳朶に触れた。
「――いや、羽衣ちゃん。自殺は勘弁してほしいな……」
「せ、先生……ッ!?」
力の無い声に立ち止まって振り向くと、ビシャビシャと血飛沫が飛び散る胸元を抑えた先生が、覚束ない足取りで立っていた。顔は青白く、瞳は力なく虚ろだ。
「ふ、ぅ……霊符をコートの内側に張っておいて助かった……いや、死ぬほど痛いけど死にはしないから安心してね、羽衣ちゃん」
あはは、と笑う先生だったけど、その背中に覇気は無く、全く頼りない。しかしもう、私にはどうしようもない事態であり、先生の力に頼るしかないのが悔しい。
「れ、霊能探偵……ッ、ま、まだ動け……いや、いーや!」
立ち上がった先生の姿に、孝輔さんは狼狽しながら首を横に振る。そして口元にぎこちない笑みを浮かべて、こちらを隅々まで舐めるように睥睨した。
「あ、貴方の魔術は、私の結界には通用しません……当然でしょう? この修道院は私が三十年かけて練り上げた、私の為の領域なのですから。そして生贄の儀式は発動しました――もはやベリアル様の意思を止める者はない!」
「あぁ、そうだね…………召喚魔術のデメリットを、貴方は実に上手く回避した」
口元に付着した血を拭いながら、先生は侮蔑の籠った視線を以って武蔵島さんを射抜く。
「悪魔の召喚及び契約には、必ず代償が発生する。しかし契約の主体を呉内さんに押し付け、あくまで自らは契約の補助のみに徹した。人間一人の魂を代償にした黒魔術、子ども一人を殺しただけじゃ足りないはず……カエルム・ヘルバ騎士団へと復讐するつもりだな?」
「……ッ!」
図星を突かれた――分かり易過ぎる、黒魔術師の表情。目を見開きダラダラと汗を流らしながら、しかしすぐさま口元に余裕を装った笑みを浮かべる。
「は、は、ははは、はははは! そうです、その通りです! あぁ、これは私が生涯をかけて用意した復讐劇!」
両手を広げ、演劇の如く仰々しく、大袈裟な所作で彼は言う。
「私は悪魔王ベリアルの権能を以って、カエルム・ヘルバ騎士団を壊滅させるッ!」
○
●
それまで武蔵島家は一般的な中流家庭であったと思う。サラリーマンの父と、パートの時以外は家にいる母。当時の社会情勢を鑑みるには、どこにだっている平凡な家庭であった。
そう――両親があの新興宗教『地獄の業火』に入るまでは、の話である。
『孝輔、あなたは神様に選ばれたのよ』
母親の言葉を、今でも覚えている。
そう言われて連れていかれた場所は古い修道院であったが――そこは本来の役割を果たしておらず、欲望の坩堝と化していた。数十名の男女が入り乱れて交わる乱交行為――参加者達の認識では、そういったものだったのだろう。しかしそれは黒ミサ・黒魔術としての側面を有していた。主催者は参加者に真の目的を隠していたのかもしれない。
まぁ、今となっては分からない。
あの時――あの祭壇に、神様から選ばれたという私と同い年ほどの少年少女が集められ――服を脱がされ代わる代わるに犯された。
痛い。怖い。痛い。怖い。
やめてと懇願する度に彼らは下卑た笑みを浮かべながら、私達を凌辱した。暫くすると十字架を無理矢理ねじ込まれた私達は祭壇に上げられ、流れ落ちる赤い血を悪魔に捧げられた。
そんなことが、何度もあった。
何度もあって、怖くて、怖かったけど、両親から逃げようとすれば、その先にどうやって生きていけば良いのか分からない。ただ私は、その地獄を甘受するしかなかった。
そんな毎日の中でも、同じような境遇の子の中で一人……少しだけ会話を交わした子がいた。
『……いつか、こんなこと終わらないかなぁ』
儀式がいつも通り終わって祭壇から降ろされた後、彼女はそんなことを呟いた。その楽観的な言葉に対し、私は可愛げもなく言ったのだ。
『終わったりしないよ……逃げない限り』
口元に溢れた白い液体を吐き出しながら、私は嘯く。そんな私を見て、彼女はまるで冗談じみた笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
『じゃあ……いつか、わたしを連れ出してね』
何て返したのかは覚えていない。ひょっとしたら何も言えなかったのかもしれない。
彼女と会話を交えたのは、これが最後だった。
数日後、私の地獄は唐突に終わりを迎えた。
『――汚らわしい』
黒いキャソックを身に着けた青年は数名の神父と引き連れて、修道院に火を放った。
『あぁ、何が「地獄の業火」でしょう。フランシス・ダッシュウッドが結成した「地獄の火クラブ」を真似したのでしょうが……幾ら何でもお粗末というもの。隠蔽も二流、集めた人間も二流、わざわざ私が出向く必要はありませんでした。……まったく異端審問局も、日本で何かある度にカエルム・ヘルバ騎士団を酷使するのは止めてくれませんかねぇ』
当時、燃え盛る炎の中で、その青年――カエルム・ヘルバ騎士団団長・漆天草が何を言っているかは理解出来なかった。ただ、その右手に握った巨大な紅蓮の槍で、いつか会話をした少女の腹を、串刺しにしている情景を、ただ震えながら見ていた。
だらん、と伸びた彼女の小さな腕と、ぼたぼたと零れ落ちる臓物。凄惨な光景に震え上がり、私は思わず逃げ出した。
『ん? あぁ、逃がしませんよ? 汚らわしい儀式に加担した存在は、硫黄と火を以って一切合切浄化せねば』
血に濡れた槍を構え、彼は追いかけて来る。だけど私は必死に走った。燃える修道院を、助けを求める傷ついた少年少女を無視して、倒れ伏した両親の亡骸を踏み躙って、私は逃げた。
そして出会ったのだ。
燃え盛る修道院の中に現れた黒尽くめの集団――魔術結社『黄金の夜明け団』に。
●
○
「私は悪魔王ベリアル様の権能を以って、カエルム・ヘルバ騎士団を壊滅させるッ! 彼はその為の贄――ベリアル様を現世へと召喚させる為の、捨石に過ぎません!」
――つまるところ、千種聖霊修道院に蔓延った悪魔憑き事件は、そもそも武蔵島院長がカエルム・ヘルバ騎士団を呼び寄せる為の自作自演であり、呉内さんはその願いを悪魔召喚に利用された上、悪魔の餌にされている、という訳だった。
呉内さんは全身を焼かれながら、亀裂の中へと吸い込まれていく。あぁ、話を聞いて分かった。あの地割れの先は地獄へと続いているのだ。
「さぁ、霊能探偵・龍ヶ崎暦。私の復讐を止められるものなら、止めてみてください……どうせ、この結界を破ることも出来ないのでしょう?」
「……まぁ、そうだな。事実、僕も虫の息だ。どうやら僕にはこの事件、解決できないらしい……」
「は、ははッ! そうでしょう、そうでしょう!」
先生の敗北宣言を受け、武蔵島さんは嗤った。その態度は癪に障るものであったが……しかしそれどころではない光景が私の目に映っており、リアクションをとる余裕すらない。
待って……あれ……まさか……?
「――羽衣ちゃん」
低く小さな声で呟き、先生は私の肩を叩いた。一瞬だけ向けられた視線は、黙っていろという意味だろう。
「えぇ、完敗です。この魔術式など見事なものですね、武蔵島さん。数十年のもの間耐え忍び、ひたすら復讐だけに邁進しただけはあります。どこかの魔術結社から手ほどきを受けたのですか?」
「え、えぇ……当然ながら、支援者はいますとも。利害の一致という奴でね。名前を明かす気はありませんが……」
先生の突然の殊勝な態度に対し、武蔵島さんは眉を顰める。だがその時点で先生の術中に嵌っていると言えるだろう。
だって、もう――。
「あぁ、武蔵島院長。貴方の復讐心は、理解出来ます。だからこそ僕はこう言いましょう」
先生は心底悲しそうな表情で、歯を食い縛りながら告げる。せめて――今から死に逝く彼を見送る為に。
「もしも復讐を遂げるつもりなら、貴方はその個人の怒りを以って完遂するべきだった――その大切な感情の行く末を他者へと預けた時点で、貴方の失敗は決定していたのです」
「……はい? 何を――なぁ!?」
先生の言葉に虚を突かれ、一瞬目を丸くした武蔵島さんが振り向いた時には、もう何もかも遅い。
先生がさっき無理矢理結界を貫通させて放り込んだ七星剣を、呉内さんは、ほとんど炭化した右手で握り締めていた。
「あぁ……父と、子と……聖霊の、御、名に、於いて……ッ」
もはや皮膚も肉も焼け、僅かに残った筋肉の繊維を動かして、彼は末期の誓いを口にする。
「主よ――どうか、照覧あれ……アァ、メン……ッ!!」
そして呉内さんは、自らの胸に深々と剣を突き立てた。
○
特別、信仰に篤いという訳では無かった。
だけどこの修道院へと司祭として入り、子ども達の面倒を見るのは楽しかった。きっと自分の生きる道は、ここなんだろうと、漠然と思っていた。
そう――何となく、積み重ねた人生だった。
だけど守りたいと思った。命を掛けても、子ども達の笑顔を取り戻したいと願った。
院長が悪魔憑き事件の犯人であり、最終的にわたしの身体を悪魔へと捧げようとしている。だったら取るべき行動は、ただ一つだった。
何となく積み重ねた人生。
何となく罪重ねてきた人生なんだ。
どうせ主の国へは行けまい。きっとわたしは地獄行きに決まっている。
重い瞼を開けると、目の前には北斗七星が刻まれた短刀が床に突き刺さっている。持ち主である霊能探偵の言葉を思い出し、心の中で苦笑した。
『――悪魔を打ち倒すのは、いつだって敬虔なる信徒の信仰心なのですから』
あぁ、そうなんだ。
流石は霊能探偵、名推理だ。
全身が燃えて、もう感覚なんて失せてしまったけど。
死ぬのは怖くて、泣きそうだけど。
「あぁ……父と、子と……聖霊の、御、名に、於いて……ッ」
それはまさに、神の子がゲツマセで死を畏れ――されども主の意思に従ったように、わたしもそれに倣おう。きっと神の子の後を追うことは出来ずとも、彼を信じた自らの心に従おう。
天上の主より賜った、この命。
悪魔なんぞに、
異端者風情に、
誰がくれてやるものか。
「主よ――どうか、照覧あれ……アァ、メン……ッ!!」
わたしは手に取った短刀を、力の限り自らの胸に差し込んだ。痛みはない。もはや感覚など、消え失せてしまった。
ふわり、身体が中に浮くような、そんな浮遊感に包まれる。辺りでは誰かが騒がしく叫んでいるようだが、すぐに鼓膜も眼球も燃え尽き、音も光も認識することが出来なくなった。
あぁ、それでも脳裏に残響するものは、きっとわたしが求めていたものなのだと、そう信じて――
わたしは悪魔に捧げられるはずだった自分の魂を、自らの手で燃やし尽くした。
○
「な、ぁああああんてことをおおおお――――ッッ!?」
自分の身体が黒き炎に包まれて消え行く寸前、自ら命を絶った呉内さん。その遺体は消し炭になりながらも、地獄に通じていた亀裂は閉じてしまい、どこに連れていかれることもなかった。
「天晴です、呉内司祭。貴方は聖隷の役目を果たした」
苦々しそうに先生は拳を握り締める。あぁ、やっぱりそういうことなのだろう。
契約の主体である呉内さんの命は、悪魔に捧げられず死んでしまった。 ……あの人の魂はきっと、この修道院に留まったんだ。大切な子ども達との思い出が残る、この場所に。
では、悪魔に支払われるべき代償は、誰が払うのだろうか。
「ひ、ひぃいいいいいい――――ッッッッ!?」
悲痛な叫びが上がる。
武蔵島さんの身体が、黒き焔によって勢いよく燃え上がったのだ。
○
まずい、まずいまずいまずいまずい!
自らの肉が焼かれる激痛に、武蔵島孝輔は思考を高速回転させる。まさか生贄として捧げたあの男が、その直前で自害するとは――自殺はキリスト教世界に於いて禁忌とされるからこそ、その状況を想定していなかった。
契約の主体である呉内亜久太より魂が受け取れなかった以上、悪魔は別の標的を見定める――即ち、悪魔の召喚を補助したとされる武蔵島孝輔だ。
「く……だったら、生贄を、再選定する!」
もはや適性を鑑みる余裕はない――結界の一番近くに立っていた、あの霊能探偵の助手とやらに向けて指輪の光を放つ。
「ベリアル様、どうか自分の命ではなく、あの少女のいの……なぁ!?」
しかし向けた光は少女の目前で霧散してしまい、周囲の魔法陣も起動しない。何故だ――思考が硬直した瞬間、後ろに立っていた霊能探偵が、彼女のスカートの腰紐の所にぶら下がっていたアクセサリーのような物を手に取った。黄色い布に包まれたそれは、『十号』と描かれている。
「……ッ!? じゅ、じゅう、ごう……! まさか……ッ」
「……狙うんだったら、死に損ないの僕でしたね。良かったよ、羽衣ちゃん。ちゃんとお守りを付けてくれていて」
わなわなと震えながら、情報を断片的に繋げていく黒魔術師。目を剥き、全身からダラダラと勢いよく汗が噴き出る。
「中に入っているのは『仏舎利』――ブッタの遺骨か!?」
「あぁ、その通りさ。僕が持つ最強の守り、龍ヶ崎家秘蔵の逸品。魔術程度は一ミリたりとも届かない……これで完全な詰みだ、黒魔術師・武蔵島孝輔」
「あ、ああああ、ああああああああ――――ッッ!!!!」
勢いよく燃え上がる業火を見下ろし、暦は冷たく吐き捨てる。鉄がねじ切れたような甲高い絶叫上げながら、孝輔は無様に転倒し、指輪を嵌めた左手を掲げた。
「まぁあああだぁああああだぁああああッッ!!」
指輪に刻まれた六芒星の輝きに呼応し、修道院中に張り巡らされた魔法陣が青白く光り、幾条にも重なり乱反射する。
「まさか術式を強引に反転させて、儀式を強制終了させるつもりか……ッ!?」
暦の見込みは正しい。かなり強引な手段であるが、そうすれば孝輔は全身の大火傷だけで済み、魂まで悪魔に取られることはない。傷は後ほど、魔術を以って治癒すれば良いだけだ。
「主よ(sed )、我を悪霊より救いたま――(libera nos a ma――)ッ!」
一刻も早くこの激痛から逃れる為に、孝輔が聖句を詠唱した、その瞬間である。
ザンッ! という余りにも軽やかな刺突音が、彼の鼓膜を揺らした。
「……えッ?」
呆然と孝輔は見上げる。今まで掲げていた左腕が――無い。消失、否、無理矢理抉り取られた。恐る恐る横を見ると、そこには修道院の壁へと磔にされた自分の腕が、ぶらんと垂れ下がって血を零している。
彼が張っていた複合結界を容易く貫通する、紅蓮の槍。何よりもその形状を忘れられる筈もない。
あの少女を、殺した槍。
「あ、あ、あああ、あの、槍はぁ、ああああ――ッ!!!!」
記憶が呼び戻される。あの何もかもが業火に包まれ、本当に恨むべき人間すらも灰燼に帰した、あの地獄よりも惨い地獄の情景を。
揺れる視界で探す――真っ先に目に入ったのは、携帯電話を持ったまま、口元の血液を拭って孝輔を睨みつける青年――霊能探偵の協力者であるという、刊坂広忌。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ!」
孝輔は口を極限まで広げて空気を吸い込み、天井を見上げる。そこには荘厳なステンドグラスを破り、こちらを見下ろすキャソック姿の青年の姿があった。
「カエルム・ヘルバ騎士団んんんんんん――――ッッ!」
当時、あの騎士団に所属していた人物ではないことくらい、孝輔にも分かった。だがあの紅蓮の槍の担い手であれば、その殺意を向けるに値する。
「ふぅ……やれやれ、刊坂さんに呼ばれて来てみれば、まさかここまでの局面とは」
呆れたように笑って、カエルム・ヘルバ騎士団の現団長である錦織唯一は天井から飛び降りて、着地した。そして黒い炎に焼かれながら這い回る孝輔を、冷ややかな笑みを浮かべながら見下ろす。
「聞くところによると、貴方は俺の師である漆先生によって浄化され、鏖殺された筈の魔術結社の生き残りだそうですね……いや、良かった。ヴァチカンに朗報を持ち帰れそうです」
「……ッ」
彼の嘲笑の籠った言葉に対し、孝輔は鬼のような形相で睨みつける。だが、燃え盛る身体では立ち上がることは出来ない。魔術を行使していた指輪は、左腕ごと抉り取られた。
「は、はは……ッ」
怒りの表情を浮かべていた孝輔は、しかし軽やかな笑い声を漏らした。苦しそうな擦れた笑みだったが、それが彼なりの意地であったのだろう。
「カエ、ル……ム、ヘル……団……貴さ……のこ……は、『黄ご……明け……ん』に伝え……、ある。ただで、す……と思……」
「何です? あぁ、貴方を支援していた『黄金の夜明け団』の日本支部でしたら、今しがた俺の部下達が壊滅してきましたよ?」
ほら、と唯一の懐から取り出されたタブレットの液晶には、禍々しい儀式を執り行っていただろう教会に死体の山が築かれ、無数の十字架が突き刺さっている光景であった。
「…………は、はは」
末期の希望すら断たれ、どうしようもなく脱力した様子の孝輔の身体の下、床にぴしりと亀裂が走り、地獄の扉が再び開く。
「ははは、ははははは……ッ」
燃え尽きていく武蔵島孝輔の身体を、昏き闇より伸びる無数の腕が掴み、引きずり込んでいく。彼は抵抗すら出来ず、ただ力無く絶望に包まれながら堕ちていくのだ。
灰と化した憐れな黒魔術師の魂を受け取って、満足そうにぱたんと亀裂は閉じた。残ったのは光を失った魔法陣と――僅かに形が分かる――口元に満足気な笑みを浮かべた、呉内亜久太の遺体であった。
○
「まぁ……あれだ。何とか事態の収束には至ったな」
惨憺たる有様の修道院の中、能天気な刊坂さんの声が響いた。流石にその動作が、敢えて明るさを演出していることくらい分かった。この人だって喉を切られて、先生の霊符で回復したばかり。未だに痛みは残っているはずだ。
「おやおや、刊坂さん。電話で俺を呼んだだけの貴方が、どうして一番偉そうなんですか?」
「いやぁ!? この状況であんたを呼べる人間がこの場に居たってだけで、十分なファインプレーだと思うよぉ、俺は!」
キャソックを身に着けた眼帯の青年。長身痩躯のハッとするようなイケメンなのだが、驚くぐらいドキドキはしなかった。彼の正体は、既に察しがついているからだろう。
「……あぁ、お二人には自己紹介がまだでしたね」
反応に困って立ちっぱなしだった私と先生の前で、男はにっこりと笑って会釈した。
「俺の名前は錦織唯一。異端殲滅機関・カエルム・ヘルバ騎士団の団長――この悪魔憑き事件の解決を法王庁から任せられた者です。いやぁ、明日来るつもりだったんですけど、ちょっと予定が早まってしまいました」
「……ッ」
特に異常な所など見当たらない、普通の爽やかな青年といった具合の挨拶に、私は怖気が走った。
あの黒魔術師との最後の局面にて、この男が放った紅い槍が、あの結界を容易く破り去った様子を私は見てしまったのだ。ひょっとするとこの青年は、先生以上の魔術師なのだろうか。
「刊坂さんとは、任務でとある宗教施設に潜入していたところでばったり会いまして、それから仲良くやっています」
「いやぁ、俺も命を助けられちまったからなぁ」
がっはっはっ、と照れ臭そうに笑う刊坂さん。この人は何と言うか、鈍感そうで羨ましいな……。
「しかしねぇ、ヴァチカンも随分と分かり易い餌に引っ掛かったものです。『召喚紋』を子ども達の間に頒布したのは曖昧な呉内司祭の〝祈り〟の効力範囲を固定化させる目的であったが……情報を外部へ漏らす意図もあったと」
腰に手を当て、つまらなさそうに錦織さんは答え合わせをする。あぁ、なるほど。その点は先生も推理をしていなかったから分からず仕舞いであった部分だ。
「――錦織騎士団長、色々とつもる話はあるんだけど、一つだけこの場ではっきりさせたいことがある。……良いかな?」
「はい、何でしょうか」
感情を抑えた先生の言葉に、錦織さんは相好を崩した。物腰だけで言えば柔らかく、とても好印象なんだろう。
「この千種聖霊修道院の関係者や子ども達は浄化・粛清の対象となるか否か。それだけだ」
「……」
「僕は呉内司祭から、子ども達や修道院の関係者を守りたいと、そういう要請を受けてこの事件を引き受けた。……あぁ、そうだな。君達がその気なら、こっちにも考えがある」
錦織さんを睨みつける先生の眼光は鋭い――全く、カエルム・ヘルバ騎士団を倒すのなんて無理無理と鼻で笑った先生の言葉だとは思えない。
きっと先生はこの結末を予期した上で、あの剣を結界の内部に放り込んだのだろうから、全て覚悟しているのだろう。
「んー……そうですねぇ」
そんな戦意丸出しの先生に対し、錦織さんはどこか煮え切れない態度で唸る。
「霊能探偵・龍ヶ崎暦さん……貴方、龍ヶ崎御三家の一つ、五芒の出身ですよね? って言うことは、貴方を敵に回すということは、龍ヶ崎家を敵に回すってことですよね? ……ね?」
「……え、あ、まぁ、うん」
笑顔の圧力に負けた先生が、釈然としない表情で頷いた。支援はしてもらっているとは言え、半分ほど出奔したままの実家が、それほど強い繋がりがあるとは断言出来なかったのだろうか。
「うーん、後はあれですかね。この修道院に組まれた魔術式は、極めて複雑かつ怪奇な形式を取られています。どうやら『悪魔召喚書』に基づく西洋魔術に加え、風水的な要素を噛ませることで、二次元的、三次元的な魔方陣を形成している、これは研究対象としての価値が高い、是非とも秘跡局へと管理を移して……と」
ブツブツと腕を組んだまま呟き、それから結論が出たらしく、パンと手を打った。
「――まぁ、上への報告はこんな感じで良いでしょう。聖水に寄る祝聖処理を行う必要はありますが、わざわざ関係者を殺戮する程のことじゃありません」
ニコニコと朗らかに笑いながら、彼はそんな返答を持ち出した。
「えっと……良いのかい? 異端は痕跡まで残さず絶滅させるのが、君達なんだろう?」
「ははは、まぁそうなんですね。先代ほど俺は原理主義ではありませんよ……それに」
軽やかに笑った錦織さんは脚を進め、床に引かれた麻布を見下ろす。その下には炭化し、ほとんど原型を残していない呉内さんの遺体がある。
「あぁ……そういう俺達ですから、死後地獄に行くことが確約されているんですよ。だって罪を犯していない人間も、関係者だったからって皆殺しにするような人間を、天上の主がお赦しになる筈もないでしょう?」
「……全て分かった上で……自らが主に選ばれないと分かっていて、それでも異端殲滅を掲げていると?」
「えぇ、天に宝を積みなさいと神の子は仰せになりましたが……しかし見返りを、救済を求めるのは真なる信仰ではありません。俺は死後に地獄に堕ちようとも、主の敵を打つ倒す一本の剣であり続けます。彼の行いは、それと少し、似ていました」
「あぁ……そういうことか」
先生は得心がいったとばかりに頷くが、しかし私には何が何だか分からない。頭に疑問符を浮かべていると、先生が解説してくれた。
「羽衣ちゃん。キリスト教ではね、自殺は禁忌なんだよ。寿命や病気で死んじゃうのは仕方のないことだけど、神様から貰った命を自分の意思で破棄することは、冒涜に他ならないからね」
「じゃあ……呉内さんは……」
「えぇ、間違いなく地獄行きでしょうね。自殺については色々と俺も考えさせる点があるのですが……少なくとも彼の行いは、敬虔なる信徒のそれでした。悪しき異端者の企みを挫く為に、自らが地獄に堕ちることも厭わなかったのです」
どこか慈しみを感じさせる表情で錦織さんは跪き、胸から下げた十字架に口づけをした。
あぁ、きっと彼はそれほどの覚悟で、自らの胸を穿ったのだろう。
何て強い人だったのだろう。
守りたかった。守るべきだった。
「はは……本当に、完敗だよ」
炎の残滓と、焼けた肉の臭いが充満する、荒れ果てた修道院に、先生の悔しそうな呟きが木霊するのであった。
○
こうして悪魔憑き事件は幕を下ろした。
呉内さんの依頼通り、修道院も子ども達も殺されることもなく、全ての謎は詳らかになったのだ。私は事件の顛末を、事件簿の作成の為にパソコンへ打ち込んでいく。
あれから一週間が経った今、修道院は無事に清められ、子ども達を再び受け入れ始めたらしい。呉内さんの葬儀も行われたそうだ……武蔵島院長は、別の国に異動になったと説明されたらしい。
こうして異常な事件も過去になり、日常は戻り始めたようである。
「……あぁ、先生。この前はありがとうございました」
ふと思い出して私が言うと、所長席でゲームをしていた先生は「ん? 何が?」と画面から目を放さずに返した。
「いや、これです、このお守りです。凄く助かりました」
私が先生から渡されていた、『十号』と描かれたお守り……一体何なのかは分からないけど、あの事件の最後で私の身を守ってくれた。
「あぁ。それは凄く効果が強いから、しばらく持っていた方が良いよ。これから色々と荒れそうだからねぇ」
「荒れそうって……?」
私の問い掛けに先生は目を細め、幾許かの逡巡の後に、こう答えた。
「羽衣ちゃん。この『悪魔憑き事件』の幕は下りたけど……厳密には、事件が解決したとは言えない。武蔵島孝輔の行った黒魔術は『黄金の夜明け団』っていう、西洋の魔術結社から支援されたものらしいんだけど……その魔術結社と接触したと思われる組織の名を、安曇さんから聞いたんだ」
「……?」
「その名は『マサンの栄光の会』――あぁ、君にはこう言った方が良いだろうね」
そして悪夢は再演する。
かの事件の始まりの号砲は、もう、とうの昔に上がっていたのだ。
「君を聖母として奉り、多くの少女達を惨殺した三木東間の率いる、新たなる魔術組織だ」
『悪魔憑き事件』――調査続行。