表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/31

Case1 騒霊犬事件

「小説家になろう」初投稿です

拙い文章ですが、よろしくお願い致します。

「――先生、事件ですッ!」

 私は喉が張り裂けんばかりに叫びながら、事務所の扉をこじ開けた。電気はついており鍵も掛かってなかったことから中に誰かがいると思っていたけど、私の言葉への反応は一切ない。

 私は顔をしかめ、念のために応接室や給湯室を覗いてみたが、やはり誰もいない。というか昨日私が掃除してから何者かが触れた形跡すら皆無だった。

「……まさか」

 まさか、まさかだ。

 私は高校の授業が終わってから、こちらに直行している。時間は十七時を少し超えたくらい。そしてこの龍ヶ崎探偵事務所は十九時まで開いているはずだ。

 だからこの時間に誰も居ないなんてことは有り得ない話であって、つまりこの状況が指し示すのは……ッ!

「――先生! まーたサボってるんですかぁ!?」

 私は勢いよく事務所の奥にある『所長室』というプレートが掛かった扉を開け放つ。

 埃の臭いが私の鼻孔の奥をくすぐる。むわっとした人工の暖気は、制服の上にコートとマフラーを着込んだ私には厳しい。

「先生! 龍ヶ(りゅうがさき)先生ッ!」

 辺りに散らばった無駄にデカい十八禁ゲームの箱やら積まれた漫画タワーやらを避けながら、私はこの所長室の主に呼びかける。だが反応はない。何故なら彼は今、コタツに身をうずめ、イヤホンで耳を塞いで画面を凝視しながらマウスをカチカチと連打しているからだ。

 画面に映っているのは……漫画っぽいイラストの女の子が裸にされ、気持ち悪い色をしたウネウネとした物に色んな穴を突っ込まれている映像であった。まぁ性癖なんて人それぞれ、どんな変態であろうと私は「きもいなぁ」と思うだけで問題はない。

 だが業務時間中にそんなゴミみたいな変態ゲームで遊んでいるというのは、控えめに言って糞野郎としか言いようがないだろう。

「ん?」

 あれだけ叫ぼうと気付かれなかった私の存在であったが、背後にまで立てば流石に勘付いたのだろうか。先生はマウスから指を放し、怪訝そうな貌で見上げた。コタツに入って胡坐をかいて座っているこの人が見上げれば、当然ながら立っている私と目が合うのである。

「……」

「……」

「……やぁ羽衣(うい)ちゃん。学校お疲れ様。今日もバイトよろしくね」

 しばしの沈黙の後、にへらっと笑ってご挨拶をしてくれた私の雇い主――龍ヶ崎暦(こよみ)先生の後頭部に、私は渾身の拳を叩き込むのであった。



「ねぇねぇ羽衣ちゃん。おかしくない? 人がエロゲーやってる最中に入って来て、いきなり鉄拳制裁っておかしくない?」

「仕事サボってエロゲーやってる先生の頭の方がよっぽどおかしいですよ」

「それもそうかぁ」

 この事務所の片隅に設けられた洗面所にしてボサボサの頭を掻きながら、先生は電動シェーバーで無精髭を剃っていく。その言動に覇気は微塵も感じられず、何でこんな昼行燈の元で働かなきゃいけないのだろうかと、私は心の奥から嘆息した。

 まぁ借金がある以上、仕方のないことだ。呪うべきは、かつての自分の愚かさである。

「どう、羽衣ちゃん。剃れてる?」

「……まぁ、うん……剃れては、いますかね……」

 洗面台から振り返った先生の顎をじっと見てみると、まだ剃り残しが結構ある……が、これ以上を求めるのも酷だろう。

「じゃあ後は寝癖も直してくださいね。替えの服はここに置いておくんで、着たら応接室に来てください」

「寝癖は別によくない? これくらい」

「私の友人と会うのに、そのスズメの巣みたいな頭で出て来ることが許されるとでも思うのですか?」

「……そ、そーだね」

 本当は今すぐ風呂に入って来いと言いたい気持ちを抑えながら私が睨みつけると、先生はすごすごと引き下がる。黒いジャージ姿の先生が覚束ない手つきで棚の中をガサゴソと漁り、寝癖直し用のスプレーを取り出すその姿は、私物を取り出したと言うより泥棒が金目の物を発見したかのようであった。

 さて、と白いシャツとジーパン、靴下を取り出して机の上に置き、ハンガーを付けたままニットベストを椅子の背もたれに引っ掛ける。まぁ服装はこんな物で良いだろう。細身で身長の高い先生は、ちゃんとした格好をすればちゃんと見えるのだ。

「じゃあ私、依頼者を事務所に入れてきますので。書類に目を通したらすぐに来てください」

「? 外で待たせてるの? 別に応接室で待っていてもらっても良かったのに」

ホームレスみたいな格好した変態が出没するかもしれない部屋に友人を入れられる訳がないから事務所の前で待っていてもらったのだが。つまり先生、貴方の所為なのですが。

「……はぁ。まぁ、そうですけど」

 このまま下らない会話で友人を待たせてもいけないので、私がテキトーな相槌を入れて洗面所を後にしようとした瞬間、「あ、ちょっと待って」と先生に呼び止められる。

「ん? 何ですか?」

「その君の友人が相談したいって言っている話はさ、間違いなく僕の専門分野なんだね?」

「うーん……間違いなくって言われたら自信はないけれど……」

 今まで緩み切っていた先生の雰囲気が、一瞬だけ鋭くなった。口元こそだらしない笑みを浮かべたままだが、定まっていなかった視線は私を射抜く。

 私にはそういった特別な能力はない。だから断言は出来ないけれど……。

「でも話を聞く限り、それっぽい雰囲気はあります……私の時と、似たような」

「はは、まぁ前みたいに依頼者の勘違いだったってオチは勘弁だからね」

「私としては、勘違いだった方が楽なんですけどね」

 私は苦笑して、すぐに洗面所から出て行った。普段のだらけた変態である先生の時には親しみやすさがあるんだけど、仕事スイッチが入った先生はどうにも話しづらい。まぁオンオフがしっかりとした人なのだ、龍ヶ崎暦先生は。

「……ごめんね、待たせて。随分寒かったでしょ」

 事務所から出て、私は廊下で待っていてくれていた友人である彩芽(あやめ)に、開口一番謝罪した。厚手のコートにマフラーを巻き、ニット帽に手袋と完全防備の彼女は「大丈夫、気にしないでください」と朗らかに笑う。

宮ヶ(みやがせ)彩芽。私と同じ高校に通う友人であり、今回の事件の依頼者でもある。

「取り敢えず、入って入って。汚くて狭い所だけど暖房は効いてるし」

「汚いってそんな……でも、そうね……思ったより部屋は狭いかもしれません」

 どこか不思議そうに事務所内を眺める彩芽。玄関から上がって僅かに歩くと、すぐにそこは応接室になる。他の部屋は先生の居住スペースか怪しげな薬草やら本やらが入った倉庫になっており、彩芽の言う通り駅前ビルの五階フロアをまるまる借りているのに対してお客さんが入れるスペースはかなり狭い。

 まぁ職員なんて先生と私、後は臨時で手伝ってくれる先生の親戚が数名といった具合の零細事務所なのだ。お客が同時に二人も来ることなんてほぼ皆無なので、それでも問題なく回っている(財政は回っていない)。

「えっと……取り敢えずソファーに座って、テキトーにくつろいでいて。暑かったら、コートとか脱いでその辺のハンガーに掛けておいてね」

「はい、そうさせていただきますわ」

 彩芽は丁寧な所作でお辞儀をして、ニット帽を脱いだ。ウェーブのかかった栗色の長い髪がふわっと広がり、どことなく上品な雰囲気で満たされる。この安っぽい事務所には完全に不似合いだ。家がお金持ちなだけあって、何でもない動きでさえも、私達のような庶民とは一線を画する何かがある……ような気がする。

 そんなことを考えながら給湯室でお茶を煎れて応接室に戻ろうとしたら、ちょうど着替えを済ませた先生と遭遇する。ちゃんと私が用意したベストとジーパンを着ており、腕には筆記用具と数枚の書類が挟まったバインダーを抱えていた。……猫背なのと表情が眠そうなのが気になるけど、まぁ先生としてはちゃんとしている方だろう。

「入ってよしですよ、先生」

「……はは、そりゃどうも」

 私が許可を出すと、先生は緩い笑みを口元に浮かべて応接室に入っていった。私もそれに続いて、机の上にお茶を並べていく。

「――さて、君が依頼人の宮ヶ瀬彩芽さんかい?」

 応接室のソファーに腰かけて、書類を眺めながら先生は開口一番そう言った。彩芽は「は、はいッ」と緊張気味な声で応え、姿勢をさっと正す。

「取り敢えず羽衣ちゃ……あぁ、いや、七月(ふみづき)さんから話は聞いていると思うけど、改めて自己紹介させてもらおうかな。僕の名前は龍ヶ崎暦」

 先生は彩芽に対して自らの職業を告げる。

 その非常識かつ、荒唐無稽な。

「探偵――主に幽霊やら妖怪やら呪いやらといった超常現象を専門とする、霊能探偵だよ」

 どうぞ、よろしく。いつもの緩い表情で笑う先生に対して、彩芽の表情は一層厳しく引き締まるのであった。



 龍ヶ崎暦。男性。三十二歳。独身。迷子のペット捜索や浮気調査などを生業とする探偵事務所の所長。

 先生が表向きにしている自らの素性と言えば、これくらいだ。これは嘘じゃない。嘘じゃないけれど――圧倒的に足りない。

 ペット捜索や浮気調査なども依頼されれば請け負うが、彼の元に舞い込む依頼の殆どは、そういった〝常識〟の範疇から逸脱している。

 黄昏刻(たそがれどき)を闊歩する悪鬼羅刹と魑魅魍魎。

 (まこと)しやかに語られる都市伝説とまじないの(ことば)

 龍ヶ崎探偵事務所の仕事の大半は、そういった超常現象を解決する事だ。かく言う私も心霊事件に巻き込まれ、それを先生に助けてもらった過去がある。……まさかその時に必要な依頼費が払い切れず、半年が経った今もこの事務所で働くことになるとは夢にも思わなかったけれど。

 そして彩芽が持ち込んだ事件も、そういった類のものであった。

「――犬の、鳴き声がするのです」

 私が出したお茶を少しだけ口に含み、彩芽は覚悟を決めたような面持ちで語り出した。既に話を聞いていた私も、改めて耳を傾ける。

「我が家では今、ペットを飼ってはないので有り得ない話なのですが……半年ほど前から夜な夜な、家の中で犬が吠えるんです。『わん! わん!』と。しかも最近では、朝起きたら家の至るところに獣の毛のようなもの散らばっているのです」

「はぁ……犬」

 先生は怪訝そうに眉を顰めて書類に何かを記入し、彩芽の目をじっと見つめた。

「それはご自宅に野良犬が入り込んでいるだけ……だとか、そういった可能性は?」

「わたくしも家族も、最初は皆そう思いました……でも、我が家の防犯カメラを見ても、どこにも、どこにも! 映っていないのです! 犬なんて、どこにも……」

「……ふむ」

 額に汗をにじませ、彩芽は自分の家に起きた怪奇現象を説明する。家に監視カメラがあるとか凄いなぁと思いながらも、やはりこの彩芽の身に降りかかっているのは心霊現象だと思った。

 犬の鳴き声が聞こえてくるだけなら、何らかの勘違いの可能性もあるだろう。しかし動物の毛が突然家の中に現れるのは、どう考えてもおかしい。

 それに――彩芽から感じる、嫌な雰囲気。

 私の五感にこびり付いた、霊的存在の気配。

「犬の幽霊が夜中の宮ヶ瀬家に現れている……詰まる所、そういうお話か」

 くるくるとボールペンを指の先で弄びながら、先生はじっと彩芽ちゃんを見つめる。何かを伺い、また疑うように。

「はい……実害もないので、最初は不思議がっていただけでしたが……それが何ヶ月も続くと、家族もお手伝いさんの皆さんも気味悪がってしまい……警察の方に相談しても、相手にしてもらえず……」

「そこで友人である七月さんに相談したら、ここを紹介されたって訳ねぇ」

 ちらり、と先生はこちらを一瞥し、僅かな微笑を口元に浮かべる。それに気付かないふりをして、私は「はいい、まぁ大体そんな感じです」と相槌を打った。

「ふむふむ、まぁ大まかな事件の概要は理解した。まだ霊的な存在が関わっているとは断定できないけど、しかし僕が調査するに足りる条件は揃っているみたいだね……だから宮ヶ瀬さん、まずは最初に大切な質問をさせてもらうよ」

「っ」

 先生の言葉の端に嫌なものを感じる。いつものだらけた雰囲気が剥がれ、その下にある仕事スイッチの入った冷たく鋭利な霊能探偵としての本性。

 あれ、ひょっとしてこいつ、とんでもないこと言う気なんじゃ? と私が勘付いた時に既に、先生が口を開いてその質問を始めてしまっていた。



「宮ヶ瀬さん――君は、犬を殺した事がないかな?」



「……ッ」

 彩芽の表情が、先生の言葉に強張る。そりゃそうだ、初対面の人間に対して、そんな失礼な質問有り得ない。

「な」

 何を言っているんですか! ――そんな風に叫ぼうとした私の口元を、先生は「まあまあ」と左の掌で制する。

「これは大事な話だ。人間だろうが動物だろうが、霊になって出て来る理由なんてものは、恨み辛みに関する事と相場が決まっている。だからこの一点だけは、どうあっても明確にしなきゃいけないんだ」

「~~~~ッ」

 納得は出来ずに歯噛みするが、しかし先生の言い分は分かる。分かってしまう。

 幽霊だとか化け物だかとか妖怪だとか、そういった〝夜〟の住民達は、転じて言えば〝死の世界〟の住民達だ。

 居てはならないモノ、在ってはならないモノ。

 輪廻の外側に漂うモノ。あの世に辿り着けぬモノ。

 そんな連中が生者へ害をなす動機として最も分かり易いのが『かつて殺された』というものだ。

 それを私は知っている。

 私の五感が、忘れることを許さない。

 絶対に自分を殺した相手を殺してやる――そんな怨念を、身を以って受け止めた記憶を捨てることなんて、私自身が許さないのだから。

 だけど、いくら何でもその質問は不躾じゃないだろうか。従業員の友人を何だと思っているんだ。

見てみれば彩芽は目を丸くして固まっている。先生のド失礼な質問に呆れ果ててしまったのか……と冷や汗をかくが、どうも様子が違った。

「わたくしが……犬を、ですか……? そ、そんな……そんなこと、ありません……っ」

 普段から凛として何事にも動じない彩芽らしくなく、歯切れが悪くて明らかに狼狽していることが分かる。

「ははぁ」

 そんな彩芽を見た先生は分かり易いなぁと言わんばかりに頷いて、わざとらしく肩を竦め「だよねぇ、失礼致しました」と謝って頭を下げた。

「だけどこの事件、『宮ヶ瀬さんに殺された恨みのある犬の幽霊が夜な夜な現れている』というのが真相でないのだとしたら、話は一気に難しくなる。犬の幽霊……いや、その霊的被害の原因が幽霊と断定することすら出来ない。本格的な調査と、それに見合った料金が発生する……さて、君はどうする?」

「……どうするって、言われましても……」

「本当に、この事件を解決してしまって、よろしいのですか? ――そう、僕は貴女に質問しているんだ」

 敢えて強調するように先生は言う。しっかりと彩芽の瞳を見据えて、ふざけた様子なんて微塵もない口調で。

 先生の「犬を殺した事があるのか」という質問に対して、彩芽は明らかに狼狽していた。まるで取り繕うように「殺したことはない」と答えた。

 彩芽は何か、自身に不都合なことを隠している。

「……彩芽。今からでも、依頼取り消そうか?」

 私の言葉に彩芽は肩を弾ませ、目を丸くしてこちらを見つめる。

「羽衣さん……で、でも。これは……このお話は……」

「気が乗らないんだったらキャンセルはOKだよ。相談までは無料(ただ)だしね」

「……」

 ぎゅっと目を閉じて、彩芽は怯えたように肩を震わせる。だけどすぐさま私と先生の方へと真っ直ぐな視線を向け、はっきりと言った。

「羽衣さん、お気遣いありがとうございます。だけど……えぇ、それでもわたくしは……正式に、この事件の依頼をお願い申し上げますわ」

「……そっか」

 彩芽の宣言に複雑な気持ちになるが、これ以上、私の方から言えることはない。言うべきことはない。背負うのも向き合うのも、全ては彼女が選んだ道なのだから。

「はてさて、色々と訳アリな話みたいだけど、取り敢えず依頼をしてもらえるという流れで良いのかな?」

「はい」

 先生の質問に彩芽は答える。その声色や表情から怯えや戸惑いは薄まり、はっきりとした決意の色が窺えた。

「へぇ……これはまた面倒な……あぁ何でもないよ、何でもない。依頼を正確に受けたところで、もう一つ質問をさせてもらおうか」

 辟易した様子で溜息を吐いて、先生は湯呑を机上に置いて話し出す。

「……何ですか?」

「さっき犬を殺した事はないと言っていたけど……それじゃあ、犬を飼った事はない?」




「名前はジェリー。幼稚園の頃、親にねだって買ってもらった、雌のゴールデンレトリバー。宮ヶ瀬さんが中学二年の頃に死亡……ねぇ」

 ソファーに寝っ転がり、先生はペラペラと私が纏めた書類を眺めていた。確認している内容は主に、彩芽が昔飼っていたジェリーという犬についてらしい。

「まさか先生、彩芽がジェリーを殺したとでも言いたいんですか?」

 彩芽が帰った後、頭を掻きながらブツブツと呟く先生に向かって、私は机を拭きながら問い掛けた。言葉に含まれた私の嫌悪を察知したのか、先生は書類から目を放してこちらを一瞥する。

 そして口元に、薄らとした笑みを浮かべた。

「君は、どう思う?」

「……へ?」

「宮ヶ瀬彩芽さんの友人として、君は彼女がペットを殺すような人間に見えるかって話だよ」

 どこか揶揄(からか)うような先生の言葉にムッとしたが、しかし目に見えた挑発に乗るのは癪なので平静を装って「さぁ?」と曖昧な返事をした。

「私がどう思っていたって、過去のことは分からないじゃないですか」

「ははは。それはそうなんだけど、君は宮ヶ瀬さんの身を案じてこの事務所を紹介したんだよね? それだけの友情を抱いている君の所感は参考になる筈だ。だから何度でも訊くさ、人でなしだろうと言われても、僕は探偵なんだから」

「……」

 苦虫を噛み潰したよう貌になっていることが、自分でも分かった。こんな酷い質問に対してまともに取り合うことすら嫌なのだが、ここで意地を張っていては事件の解決には辿り着けない。

「彩芽は動物を殺したりする子じゃありませんよ」

 私が友達と思って、本当は関わりたくないこの事務所に連れてきたほど心配している相手なんだ。

「お金持ちの子だから少し世間知らずで、抜けている所もありますが、他の何かに苦痛を与えて喜ぶような人間では断じてありません」

 それが私の所感だった。

 高校に上がってから初めて出来た友達であり、今に至るまで仲良くしてきた大切な人だ。常に気配りが出来て、自分の為ではなく誰かの為に怒れる心優しいお嬢様。

 きっと生い立ちや育ちから、私とは見えている景色が違うのかもしれない。それでも互いに背を伸ばし、膝を折り、一緒に仲良くやってきた。

 そんな子がペットの犬を殺した?

 部屋に入ってきた蜘蛛や蚊すら殺せない彼女が?

 流石に失笑する他ない。

「ふぅん……これはキマシタワーの予感……」

「なにニヤニヤしているんですか、気持ち悪い」

 だらしない笑みを浮かべる先生に対して私は一蹴するが、しかし先程まで入っていた仕事スイッチがオフになり、だらけた通常モードに切り替わったことに心の底で安堵した。

「まぁ何にせよ、現地調査は必要不可欠だね。全く面倒な仕事だ……僕には積まれた新作ゲームと録画した今季のアニメを消化するのに大忙しなんだけどねぇ……はぁ」

 やれやれ、と肩を竦めて深い溜息を吐く先生。溜息を吐きたいのはこちらの方なんだけど、まぁ請け負った以上は真面目に働くだろうと考えて黙っておく。

「で、その現地調査っていうのには、いつ行くんですか?」

「あぁ……うん。それは、早ければ早い方が良いな。この手の事件は、後回しにすればするほど大きなしっぺ返しがあるのが定番だ」

「早く終わらせてゲームやりたいだけでしょ」

「当然。今すぐこの面倒な仕事を終わらせて見ていないイベCGを回収する作業に没頭したいんだよ僕は」

 必死な形相でそういうこと言われると、この人は霊能力がなくなった瞬間ニートへと変わり果てるのだろうという事が想像出来てしまって、少し切なかった。

「と言う訳で羽衣ちゃん、一つ良いかい?」

 資料を机の上に置いて、先生は立ち上がった。本当に億劫そうな挙動で、緩慢な動作でハンガーに掛けてあった黒いロングコートの襟を掴む。

「宮ヶ瀬さんの家の場所、教えてよ」





 わたくしは例の探偵事務所から自宅に帰ってきて真っ先にしたことは、ベッドの下にしまっていた古いアルバムを見返すことでした。わたくしは、生まれた時点からの自分の姿を目で追っていくのです。

赤ちゃんの頃、お母様に抱かれたわたくし、幼稚園に入ったばかりのわたくし……そして、その時に買ってもらった、ゴールデンレトリバーのジェリー。白くて、ふさふさした毛並みの愛らしい仔犬。

 公園の砂場、避暑地の河原、食事中に至るまで、幼稚園児のわたくしの傍らには、常にジェリーがいます。『まて』『おて』『おすわり』『はうす』……偉そうに色んな指示を出すわたくしの言葉に、ジェリーは嬉しそうに従ってくれていました。

 微かに震える指で、わたくしはページをめくります。わたくしは小学校に上がって、習い事のピアノを始めました。コンクールで表彰されるわたくし、アンサンブルで皆さまと一緒に演奏するわたくし……他にも、小学校のお友達とピクニックに行ったわたくし、運動会で元気に走るわたくし……あぁ、楽しい思い出が、当時の光景を見るだけで次から次へと溢れてくるのです。

 だけど――その写真(おもいで)の中に、ジェリーの姿はありませんでした。小学生になった辺りを境に、気付けばあの白くて可愛らしい愛犬の姿は、どこにも映らなくなっていたのです。

 ジェリーが亡くなったのは、わたくしが中学二年生の頃。わたくしが小学生だった頃にも、ずっとこの家にもいました。

ちゃんと、いたはずなのです。

幼いわたくしが「あの子がほしい」とペットショップでお父様にねだった瞬間から、ずっと、ずっと、ずっと。

 わん!

 毎夜のように、その鳴き声はわたくしの鼓膜を揺らします。

 わん!

        わん!

     わん!

              わん!

「ジェリー……ごめん、ごめんなさい……」

 溢れ出そうになる涙を、歯を食い縛って必死でこらえます。

わたくしは許されない。

 きっとジェリーは、わたくしを憎んでいるのでしょう。





「なるほど、如何にもな高級住宅だ……一月の家賃だけでどれほどのガチャが回せるんだろう……」

 時刻は既に夜八時を回り、郊外に建てられた彩芽の家の周囲はひっそりとしていた。人通りも全くなく、存在するのは先生と私だけである。

 にしても先生、頭の中はゲームとアニメしかないのだろうか。今言っていたガチャって言うのも、移動中にスマホでしていたゲームの課金行為だろう。

「家賃も何も、土地代も含めて全て支払い済みだそうですよ?」

「マジで!?」

「マジです」

「はえー……」

 先生の反応も無理はない。彩芽の家の周囲には垣根と柵によって囲まれているが、その隙間から見える和風モダンな木造建築と、庭に敷き詰められた白い砂利と大きな池――その光景は日本庭園さながらだ。

「ふむ……流石はお金持ちだ。セキュリティーも万全みたいだねぇ」

 先生は顎に親指を押し当てながら、溜息交じりに呟く。その言葉の通り、ざっと見渡しただけで防犯カメラが五、六台はある。私が気付かないようなところにも、この数倍は設置されているに違いない。

「これだけ防犯カメラ設置されていれば、外から誰かが侵入することは不可能そうですね」

「ん? あぁ、防犯カメラ。いや、それもそうなんだけど、この家のセキュリティーはそれだけじゃないよ、羽衣ちゃん。この家は魔術によって守られている」

「はい?」

 ――魔術。実生活の上では全く以って聞き馴染みのない言葉に、私は目が点になった。先生はそんな私を見て、面倒そうに頭皮をガリガリと掻いて「……んー」と悩ましそうな声を上げる。

「風水、って言った方が良いかな。ほら、例えば『家のリビングに黄色いモノを置けば金運がアップする』と、その手の話。聞いたことない?」

「あ、あぁ。それならありますよ。昔そういうのに嵌っていた友人とか、結構いましたし」

 中学時代を思い出すと、タロットとか星座占いとか何とか、そういうオカルトチックなものが流行っていたような気がする。風水もやけに詳しい友達が何人かいた記憶があった。

「風水が一般人にそういう扱いをされていると僕が知ったのは『どう森』だ」

「一端ゲームのことは話題から外しましょうよ……で、その風水が、何なんですか」

 五分以上マジメな話が出来ないのかこの人は、と呆れながら促すと、先生はゆっくりと宮ヶ瀬邸の玄関の正面を指さした。

「まず正面玄関は東南。風水学に於いて、〝良い気〟が入って来る方位だね。逆に〝悪い気〟が入って来る北東には、裏玄関や窓を含めた外界と繋がるような部分が一切ない」

「……え、あ、あぁ……まぁ確かに」

「北には大きな山、東に水路、西に僕達が立っている国道という立地。そして家から見て南側、庭の中に池が作られている。四神相応思想に基づく『山川道澤説』っていう、風水の基本的な考え方だよ」

 ペラペラと、興味のなさそうな口ぶりで先生は説明する。霊能探偵を名乗っているだけはある知識だけど、あいにく先生はそういった蘊蓄を語るのは好きではない。

「要は四方向に聖獣を象徴するシンボルを配置することによって、外界から『魔』だとか『厄』だとか、そういった存在の侵入を防ぐ魔術的セキュリティー。それが、この宮ヶ瀬宅には張られている訳だ」

「……この家を作ったのは、魔術師だった。という事でしょうか?」

 魔術師――これも日常生活では聞き馴染みのない言葉だ。だけどそういった存在も、この社会の裏側に存在することを、私はもう知ってしまっている。

 もしや彩芽も、裏ではそういった世界に関係があって、そういう衝撃の事実が明るみに出てしまったという話なのだろうか。それは、ちょっと寂しい。友達から信用されていなかった、ということなのだから。

「んー? 半分正解、半分不正解、かな」

 勝手な想像で半ば落ち込んでいた私を尻目に、先生は能天気な調子で答える。

「この家を建てたのは、普通の大工さんだろう。裏社会のことなんて、微塵も知らないさ。『入り口を北東(きもん)に設置しない』、『周囲の土地に相応しい家を造る』――どれもこれも、普通の大工なら意識せずに行使している魔術だ。最近では気にせず建てられているモノも多いらしいけど、基本的に日本の家屋っていうのは風水を基盤とした魔術的セキュリティーによって守られている」

「日本の大工さんは、みんな魔術師ってことですか?」

「考えようによってはねぇ。だから、それは問題ない。宮ヶ瀬宅は魔術的なセキュリティーによって守られている。あぁ、相当腕の良い大工が建てたんだろうね。僕が一見した限りだけど、風水によって張られた魔除けの結界は、傷一つない。一度たりとも外部からの干渉を受けてつけていないんだろう」

「……」

 先生の言葉に、違和感を覚えた。

 私の目にはただの和風豪邸な彩芽の家だけど、先生からしてみれば、魔除けのバリアみたいなものが張られ、完全に守られているらしい。

――では何故、夜な夜な犬の幽霊が出る?

「あ」

 その答えに至った瞬間、私の背筋に嫌な汗が伝って流れ落ちるのを感じた。私の表情から察したのか、先生は「ま、簡単なことだよ」と肩を竦める。

「もし本当に幽霊犬がこの家に現れるのだとしたら……結界に損傷が存在しないことから、間違いなく外部ではなく内部で発生した霊だと断定出来る。そして、今のところ生まれて死ぬまでこの家で過ごしたことのある犬というのは、宮ヶ瀬彩芽さんの愛犬『ジェリー』ただ一匹だ」

「やっぱり、犯人……犯犬? は、ジェリーってことで、確定なんですかね」

 まぁ言われるまでもなく、容疑者(容疑犬?)はジェリー位しかいかなかったから妥当な結論ではあるのだけど、こうやって先生が話していると真実味が溢れてくる。

「一応、『低級動物霊が迷い込んでいる』『狗神憑きのような霊犬を使役できる魔術師が絡んでいる』とか考慮していたんだけどね……これだけの結界に低級動物霊は入り込めないし、魔術師の仕業だったとしても結界に何らかの損傷が見られるはず。まぁだから、十中八九はジェリーの仕業なんでしょ」

 雑な感じで結論付ける先生。やる気が感じられないというか、覇気がないというか……。

「先生、何か手を抜いていませんか? 早く帰ってゲームやりたいからと言って、テキトーに済ませるのは駄目ですよ。仕事なんだから、真面目に働いてください」

「…………早く帰ってゲームやりたいのは事実なんだけど……あぁ、まぁ、うーん……」

 腕を組んで、唇の端を歪ませる先生。何か私に伝えたくないことでもあるのだろうか。働きたくないけど、サボる口実が見つからない……といった様子ではなさそうだ。

「――ジェリーの幽霊が、夜な夜な聞こえる犬の鳴き声の正体だった場合」

 先生は意を決したように目を閉じて、腕を組みながら語り出す。

「何故ジェリーは幽霊になってまで、吠え続けているんだろうね」

「何故って……あ、あぁ」

 そこまで言われてしまえば、流石に私も気付く。ずっと先生が懸念していた点であり、疑念を抱いていた点でもあるのだろう。

『宮ヶ瀬彩芽がジェリーを殺害したのではないか?』

 私は有り得ないと断言出来る。彩芽はそんなことしないって信じている。

 だけど同時に、人間の感情は一時の激情によって歪んでしまうことも、また知っているのだ。

 彩芽は私達に、何かを隠している。

 信じたいけど疑ってしまいそうな、そんな心のささくれがチクチクと痛む。

「……何にせよ、決めつけてしまうには早計だ。宮ヶ瀬さんの話だと、霊が出るまでしばらく時間がある。調査をしようか」

「そう、ですね」

 犬の鳴き声が聞こえてくるのは、主に深夜らしい。完全に日は落ちているけど、今ようやく夜九時に届こうかという時刻だ。まだしばらく時間的な猶予はある。

「しかし先生。調査と言っても、科学的、魔術的なセキュリティーが万全なこの家を、どうやって調査するんですか? 彩芽には秘密で調査するんですよね?」

 何故先生が突発的に事務所を飛び出たのかというと、そういうことらしい。『彼女も何か隠しているらしいから、まぁこっちもこっそりと調べされていただこうかな』というのは先生の言葉だ。まぁ、その辺に言及されると私も返す言葉がない。

だけどこの探偵事務所で働き始めてから半年間、こんな風にこっそりと調査をしたことはないんだけど、先生はどうするつもりなんだろう。

「……あのね、羽衣ちゃん。幾ら何でも僕を舐め過ぎなんじゃないかい?」

 私の心配を他所に、頬を掻きながら苦笑する先生。

「黄昏刻を闊歩する悪鬼羅刹と魑魅魍魎。実しやかに語られる都市伝説とまじないの詞。それらを悉く調伏するのが霊能探偵――要は僕だって、魔術師の端くれだ」

 肩を竦めながらも、先生はコートの下から奇妙な文字が墨で書かれた長方形のお札を一枚取り出した。霊符――先生が霊能探偵として活動する為に不可欠な、霊能力の源だ。

「その霊符は、どんな効果のある霊符でしたっけ?」

 元を辿れば陰陽術の一種だという先生の霊符、色んな効果があってどれがどれなのか、私は全く覚えていない。

「羽衣ちゃんに披露するのは初めてだったっけ? まぁ見ていてよ――オン・マリシエイ・ソワカ」

 霊符を自らの額に当て、不思議な呪文を唱える。すると先生の身体はスゥー……と背景と同化して、夜の闇の中に消えていった。

「……消えていった!?」

 目の前で起こったことを認識してから理解に及ぶまでにタイムラグがあり、私は一拍置いてから素っ頓狂な声を上げてしまった。

「先生!? え、えぇ!?」

 本当に影も形もなく、さながら透明人間のように忽然と姿を消してしまった先生に、私は驚きのあまり周辺を見渡す。しかし視界に入るのは宮ヶ瀬家の豪邸に、稲を刈り終わった田んぼの景色だけだ。先生の姿などどこにもない。ひょっとして仕事から逃げ出した!? と不安になった瞬間、目の前の景色が仄かに歪み、最初からその場に立っていたのかのように、先生がぬっと出現した。「きゃ!」とらしくもない悲鳴を上げ、私は驚きの余り後ずさる。

「と、まぁこういう事も、僕の霊能力なら出来る訳だ」

「……」

 イエーイ、羽衣ちゃん見てるー? と霊符を額から外し、無表情で指でピースサインをつくる先生。だが、びっくりして私は反応を返すことすら出来ない。心臓がバクバクいっている。

「え、いや……何ですか、それ? 透明人間の術?」

「ははは。『隠形(おんぎょう)』っていう陰陽術由来の霊能力だよ。元は百鬼夜行に遭遇した時に隠れる為の術式なんだけど、こうやって透明人間にもなれちゃうんだ」

「はぁー……それは、凄いですね」

「でしょ? ちなみにこの『隠形』用の摩利支天(マリーチ)霊符、一枚で十五万円する」

「……」

「学生時代に女子更衣室を覗こうとしてマスターとした霊能力なのに、霊符の単価が高過ぎて使えないとか考慮しとらんよ」

「……それも、凄いですね」

 がっかりと肩を落とす先生だけど、がっかり度合としては私の方が幾分か高かった。やっていることは凄いはずなのに、動機がゴミ過ぎる。

 というか霊符ってそんなに高かったのか。世界の裏側で出回っている物だし、当然と言えば当然かもしれない。何か私の借金がとんでもない金額な理由が分かった気がする。

「何にせよ、この課金アイテムがあれば、宮ヶ瀬邸に忍び込むことも可能なのさ。さぁ行こう。さっさと行こう」

 ひょいひょい、と先生は左手を私の方へ向けて揺らす。その挙動に嫌な予感がした。

「……? まさかとは思いますが、手を繋げってことですか?」

「うん。だって羽衣ちゃんの分の霊符なんて、用意していないし」

 予算オーバーだし、と、さも当然のように言い放つ先生。

 身体が接触していれば霊符の効果が伝わるのだろう。それなら霊符が一枚でも済むし、経済的だという話だ。

「仕方ありませんね……ところで」

 しぶしぶ私は先生の掌を握り、思い出したように話し出す。

「この事件が終わったら、バイト先で『業務上必要なことだから』と言われ、手を繋ぐよう強要されたって労働局に言いに行って良いですか?」

 先生の顔色は急激に青白くなっていき、幾許か考えた後「借金、三割くらい免除しようか?」と情けない声で言い出すのであった。





「じゃあ彩芽ちゃん……私はもう寝るから。戸締りだけは確認よろしくね」

「ええ……おやすみなさい、お母様」

 疲れた貌で二階の寝室に上がっていくお母様も見送って、わたくしはリビングのソファーに体重を預け、じっとテレビ番組を見ていました。リモコンで何度か番組を変えますが、集中出来ずに電源を切ります。

「……」

 無音の時間が広いリビングを支配していました。わたくしの鼓膜にこびり付いたジェリーの鳴き声が聞こえそうな気がして、思わず耳を塞ぎます。

 何の音もしません。

 お母様は寝てしまいました。怪奇現象が続いている所為で、相当心が参ってしまっているようです。お父様は出張で東京に行っています。前は夜にもいたお手伝いさんは、昼間だけしか来なくなってしまいました。

 昔はあれだけ明るくて温かだったこの家に居ることが、とても虚しく感じます。

 だから、羽衣さんに紹介していただいた霊能探偵さんには、何としてもこの事件を解決してほしいと思います。暗くて寂しいこの家を、元に戻してほしいと、本気でわたくしは思っているのです。

 そう、それは本当に、本気で思っている――思っているはずなのに――


本当に、この事件を解決してしまって、よろしいのですか? 


 あの霊能探偵さんの言葉が、わたくしの心を締め付けます。あぁ、あの御方は、全て分かってあんな言葉をわたくしに投げ掛けたのでしょうか。いや、それともわたくしが、ジェリーを殺したと疑って……?

 ぐるぐると、わたくしの頭の中で、色んな感情が巡ります。こんなお粗末な脳味噌では、何の答えも出せないと分かっていても、心が思考を打ち切ってはくれません。

「……もう寝てしまいましょう」

まだ夜の十時を回った頃。早い気もしますが、起きていたって辛いだけなのですから。

そうと決めたわたくしは家中の鍵が締まっていることを確認し、電気を消しました。

今夜もジェリーの声は、聞こえるのでしょうか。

今夜もあの子は、わたくしを責めるのでしょうか。

「えぇ、えぇ、分かっている。分かっています」

 それは当然のこと、当たり前のこと。

 例えそれでもわたくしは、元の我が家を取り戻したいのです。





 彩芽から聞いていた通り、ジェリーのお墓というのは豪邸の裏手、大きな柳の木の下にあった。簡素な石が置かれ、線香と花が供えられている。線香が乗っている皿は新品同様で、柳の木も余り手入れがされていない。

 まるで、犬の幽霊が出るからと言って、急いで供養を始めたようだった。

「……そこにはもう、何も無い。全く無駄なことだよ」

 先生は呟いて、柳の木の後ろの石垣に、『白虎』と書かれた霊符を張り付けた。手を繋いでいることで、私は自然と引っ張られ、墓石から遠ざかる。

この庭に張られた霊符は、『青龍』『玄武』『朱雀』に続いて、四枚目だ。

「……さっきから張っている霊符は、何なんですか?」

 敢えて無視して訊くと、先生はほんの僅か逡巡した後、「結界だよ」と答えた。

「厄介事は面倒だからね。この庭の四方に四聖獣の霊符を張ることで、魔術的なセキュリティーの主導権を奪わせてもらった。これで霊は外に出ることは出来ないし、この家の外に何らかの悪影響を及ぼすこともない。この家は完全に外界と隔絶された異界になった」

 事もなげに話す先生。まぁこの辺は流石、霊能探偵なんだろう。これから霊と相対する可能性を考慮して、色んなアフターケアをしていた訳だ。

「ちなみにその霊符はお幾らで?」

「? 実家から送ってもらっているから、無料だよ」

 先生の実家――話でしか聞かないが、龍ヶ崎家の本家は霊能力者を輩出する名家で、一般人が立ち入れない山奥に存在するらしい。霊符を造る霊能力者もいるのだろう。

「あの姿を消す霊符は送ってもらえないんですか?」

「『暦に渡すと絶対に犯罪運用されるから絶対に送らねぇ』って言われちゃった……酷いよねぇ」

「グッジョブ以外の何物でもないじゃないですか」

 言われちゃった……じゃないよ、妥当だよ。

 そんな脱力感のある会話を交えながら、チラチラと柳の木の下に置かれた、ただの何の意味も持たない墓石に目をやる。話しづらいけど、これについて話を振らない訳にはいかないだろう。

「…………何も無いって、どういう意味ですか?」

「そのままの意味さ。魂も心も、そこにはない。ジェリーの亡骸――いや、抜け殻は、微生物と酸化によって分解されて土になった。正真正銘、その墓石は何の意味もない、路傍の石だ」

 繋いだ私の右手に、じわりと汗が滲む。私の心の裡は、先生にバレているのだろうか。

「じゃあジェリーは……成仏したんでしょうか?」

「そうだと良いねぇ」

 全く感情の籠っていない言葉。

 そうだ、墓の下にジェリーの魂は無い。心は無い。

 もしも、もしも成仏していないのであれば、この世の未練に縋って現世を留まっている筈だ。それは、どこ? 

ジェリーは家犬、散歩の時しか家の外には出なかったって彩芽からは聞いた。じゃあ答えは簡単だ。

その魂に刻まれた記憶が残っている場所。

「さーて、そろそろ時間だね」

 先生が右手に取り出したスマホの画面に視線をやると、ちょうど時刻は午後十一時五十分を過ぎた頃。普段であったら眠い時間なのに、目が冴えて仕方ない。

 あぁ、この感覚だ。

 霊感なんてない筈なのに、私は感じてしまった。

 ふと、私は宮ヶ瀬邸へと顔を向ける。

 家の中の灯りはとうに消え、郊外のこの家を照らすのは月明かりのみであった。





 わん!

 何度目でしょう。

 一匹の犬の鳴き声が、今夜もまた響き渡ります。

        わん!

    わん!

                    わん!

            わん!

 わん!

             わん!

                      わん!

         わん!

 騒々しく、何かを呼ぶように、その犬は吼え立て、わたくしを責め立てます。

 お前が見捨てたんだ。

 あんな笑顔を向けてくれたのに。

 全部嘘だった、嘘だった。

 飽きたら捨てられる、玩具だった。


 わんっ!!


うそつきっ!!


一際大きな犬の鳴き声の糾弾に、ベッドのシーツを破れんばかりに握り締め、わたくしは歯を食い縛ります。

 あぁ、そうだ、そうなのです。

 彼女にはわたくしを責める権利があります。

 わたくしは、それを受け入れる責任があります。

 それで彼女は満足なのでしょうか。

 全てを納得して、成仏してくれるのでしょうか。

 だったら……ひょっとして、この事件を解決させるのは、あの霊能探偵さんではないのでしょうか。

「――ッ」

 心臓が不規則な鼓動を繰り返し、肺が壊れてしまったように空気を吐き出します。

 それでも、全部わたくしの所為なんだから。

 羽衣さんを巻き込んでしまった自分の選択は、過ちでした。

 だから、だからわたくしは、ベッドから起き上がりました。暖房は効いている筈なのに寒くて、ワンピースのルームウェアの上にガウンを羽織ります。

 部屋を出ると、一階から聞こえてくる犬の鳴き声が、より一層強まりました。あぁ、きっとあの子は、そこにいるのでしょう。だって二階には上がらないよう、躾けましたから。

 躾けたなんて、彼女を捨てた自分には言う資格もありませんけど。

 震える身体を自分の両腕で抱き締めて、まず階段の電気を点けて一階に降りていきます。一歩、一歩、躊躇いながらも、何とか自分の弱気を押し殺して。

 吐く息は白く、何だか意識は朦朧としてきました。情けない限りです。この期に及んでわたくしは、怖いのです。その恨みを受け止めるのが、怖いのです。

「……」

 最後の一段を降りて、わたくしはスリッパを履いた足の裏をフローリングに恐る恐る着地させました。一階の電気を点けようとしたその瞬間、わたくしの背筋に刺すような怖気(おぞけ)が走りました。

「あ」

 そして、つい見てしまったのです。

 リビングのソファーの前、階段の仄かな明かりに照らされた、天井に頭が付きそうなほど巨大な犬の形をした何か。

「あ、ああ……っ」

 暗さでちゃんと見えない。

 だけど白くて、大きな身体。

 あんなに大きくなかった。あれではまるで狼か……いや流石に狼でも、四足歩行でわたくしの身長と同じくらい高いなんてことはないでしょう。

 それでも分かります、分かり切ったことです。

 あの化け物のような犬の正体が。

 そんなにわたくしが恨めしかったのでしょうか、そんなにわたくしが憎かったのでしょうか。

 わたくしがあなたを、そんな姿に変えてしまったのでしょうか。

 何の皮肉でしょうか――彼女はまるで『おすわり』をするような体勢で、わたくしを見ていたのでした。


「ジェリーッ!!」


 わぉおおおおおおおおおおおおおおんッッッッ!!!!


 思わず叫んだ、彼女の名前。

 それに応えるように遠吠えをして、ジェリーはわたくしに襲い掛かってくるのでした。





「――始まった」

 先生はそう呟くと、握っていた私の手を放して走り出した。私も何らかの異常事態を察知して、先生の後を追う。先生は中庭にまで躍り出て、窓ガラスに向かって刀身に北斗七星の刻印がなされたナイフを投擲した。

「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」

 先生の呪文を叫ぶと、ガラスに突き刺さったナイフは光り輝く。不可思議な波動によって強固なガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走り、ぱりぃん! という軽やかな音と共に破裂した。

 夜風によって閉め切られていたカーテンが広がり、リビングが完全に解放される。そこにはパジャマ姿の彩芽と――彼女に牙を向けようとした巨大な化け物がいた。

「先生ッ! 彩芽が!!」

「分かっているよ! オン・シュッチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソワカ!」

 私の叫ぶのと同時に、先生も呪文を唱えて霊符を化け物に投げ付ける。彩芽の右肩を化け物の前足が抉った瞬間、霊符が化け物の横っ腹に炸裂した。

 ぎゅぅ、うううッッ!!

 奇怪な悲鳴を上げながら犬の化け物が吹っ飛び、リビングを乗り越えて台所の壁に激突する。轟音が響き渡り、皿や調理器具が木端微塵に煙と共に舞い踊った。

「――彩芽ッ、大丈夫!?」

「この展開はちょっと想定外だぞ……ッ!?」

 私と先生が駆け寄ると、彩芽は抉られた右肩を左手で抑えながら、床に蹲っていた。左手の指の隙間からは、ダラダラと血が零れており、床を真っ赤に染めていた。

「はぁ、はぁ……羽衣さ……なん、で……?」

 肩で息をしながら、彩芽は苦悶歪んだ表情で私達を見上げた。白かったのであろうパジャマの右肩は赤く染まって、左手で覆われた指の隙間から覗く肉が痛々しい。

「説明は後だが、取り敢えず不法侵入した訳ではないとだけ言っておこう。一先ず宮ヶ瀬さんは僕と一緒に逃げるよ」

 紳士的に彩芽の手を取って大嘘をこく先生だったけど、その方針は正解だ。出血の量が尋常じゃない。早く治療しないと大変なことになる!

「で、でも、ジェリーに……わたくしは、まだ何も、償えて、いないのに……わたくしは、わたくしは……」

「彩芽、どうしちゃったの!? そんなことより傷の治療を受けて!」

 私は膝をついて彩芽の顔を見るが、その瞳は虚ろで、何の感情も映っていないようであった。

「霊障で心が追い詰められたか……強引に連れて行くしかなさそうだね、これは」

 先生は諦めたように息を吐き出し、左腕を引っ張って彩芽を無理矢理立たせる。そして私に対して、霊符を十枚ほど差し出してきた。

「はい?」

「ジェリーの相手はよろしくね、羽衣ちゃん。僕と同じように唱えて投げれば、自動で術が起動するようになっているからさ」

「はい?」

「いや、ほら、僕は宮ヶ瀬さんの治療をしなきゃいけないし。でも、あれを放っておく訳にはいかないでしょ?」

 私が言葉に威圧を込めると、先生は言い訳がましく弁明を始める。確かに今まで転がっていた化け物は立ち上がり始めようとしていた。心身ともに重症の彩芽のことを考えると、事は急を要する。

「先生と私の役割、普通は逆でしょう……もう今更ですが!」

「ははは、いや僕ってば運動苦手だし」

「……全く先生はどうしようもないですね、本当に」

 そう言って私は先生から霊符を受け取り、立ち上がった犬の化け物――ジェリーに相対した。黒い邪気を纏っており、ギラギラと光る大きな瞳で私を睥睨する。僅かに開いた口から窺える牙は、私の腕位の太さだった。

「私にあんな化け物を退治するなんて、出来るとは思えませんがね!」

「時間稼ぎだけで良い。宮ヶ瀬さんを治療したら、すぐに解決策を持って帰ってくるからさ。それまで、あの可哀想なワンちゃんと遊んでやってほしい」

 背後から聞こえる先生の言葉。

 あぁ全く以って、何でこんな仕事をしなきゃいけないのか。明日にでも止めてやりたいと思いながらも、私は先生から貰った霊符の中から一枚を取り出し、残りをスカートのポケットに入れる。

「信じていますよ、先生」

「僕もだよ、羽衣ちゃん」

 辟易しながら言葉を交わし、私は腹を括った。

 まぁ良いよ。

 この探偵事務所、結構こんな仕事ばっかりだしさ!





「――」

 わたくしは気付くと、脱衣所で倒れていました。何が何やら分からずに起き上がろうとすると、右肩の激痛が走りました。

「あ――ッ、う……」

 呻きながら見てみると、わたくしの右肩には不思議な文様と漢字が書かれたお札が張られています。これは一体何なんでしょう……?

「あー、だめだめ。薬師如来の霊符で止血はしたけど、あんまり激しく動くと痛いよ?」

 わたくしが困惑しているところに、お風呂場のドアを開けて一人の男性が現れました。コートを着込んでおり、ボサボサの髪に眠そうな表情。加えて衣服には所々に血液が付着し、また持っているタオルも赤く染まっています。パッと見たところ殺人鬼か何かとしか思えずに悲鳴を上げそうになりましたが、すぐにその人物が羽衣さんに紹介してもらった霊能探偵・龍ヶ崎暦さんであることを思い出しました。

 そして先程わたくしの身に、何があったのかも。

「お、お礼を申し上げますわ……助けてくださって、傷の手当てまでしてくださったのですね」

「依頼者の安全が第一だからね、探偵は」

「でも、どうやって我が家に――」

「さて、本題なんだけど」

 わたくしの話は完全に打ち切られてしまいましたが、状況が状況なので仕方のないことでしょう。探偵さんは赤く染まったタオルを浴槽へと投げ込み、膝を折ってわたくしと同じ目線になりました。

「今現在、我が探偵事務所の優秀な職員・七月羽衣が、この家に現れた怪異――そうだね、騒霊(ポルターガイスト)のような低級霊から進化した犬の動物霊――『騒霊犬』とでも呼ぼうか。これと戦っている」

「――ッ、羽衣さんが、ですか……ッ!?」

 確かにリビングの方から、時おり破壊音が聞こえ、家全体に何度も地震が来たように震えています。

「あ、あんな恐ろしいものと、戦っているだなんて……そんなの、だめです! 羽衣さんが死んでしまいます!」

「あぁ、死ぬだろうね」

 あっさりと目の前の男性は、わたくしの言葉を肯定しました。

「ついでに、もうこの騒ぎに気付いて一階に降りてくるだろう君の母親も死ぬだろう。父親は……出張中だっけ? それは運が良かった」

 人の命なんてどうでも良さ気なこの男の冷徹な言葉に、わたくしの心の芯が熱くなっていくのを感じます。

「じゃあ……どうするというのですか、あなたは? 一体、こんな所に何をしに来たというのですか?」

「勿論、事件の解決だよ。依頼されたからね」

 頭を掻きながら、自明の理のように探偵さん。

「簡単な話だ。君だよ、宮ヶ瀬彩芽ちゃん。あの『騒霊犬』が何を求めているか、飼い主である君なら分かるんじゃないかい?」

「……」

「それを与えれば彼女は成仏する。満足して、消えていく。君の友達と母親が殺されることもない」

 薄らと口元に笑みを浮かべ、優しい声色で彼はわたくしに告げます。その瞳はぞっとするほど美しくて、人間ではなく彫刻かと見紛うほどでした。

 そう言われてしまえば、もうそうなのだと頷くしかありません。結局のところ結末は同じです。疑惑であったものが真実であると突きつけられて、ただ納得するしかなくなっただけでした。

「あぁ……わたくしが、ジェリーに殺してもらえば、それで良いんですね……?」





「お、おん……、しゅっちり! きゃら、ろは!」

 取り出した霊符を構えてうろ覚えの呪文を唱え出すと、化け物が一直線に飛び掛かって来た。「怖ぁ!?」と素直な感想と共に地面を蹴っ飛ばし、真横に転がって攻撃を回避する。地面に身体がぶつかる瞬間、受け身を取って立ち上がった。目の前で粉塵と共にリビングの机が吹き飛び、化け物は湧き上がる煙の中でこちらを睨み付けている。

「……うん・けん・そわか!」

 少しだけ臆しながらも、私は残った呪文を唱え終えて霊符を投げ付ける。しかし先生のように上手くいかず、化け物は霊符を俊敏な動きで回避して、こちらに突進してきた。

「これ、使えないんですけどーッ!?」

 私は泣きそうになりながら駆け出し、敵の攻撃を避けながら最初に先生が割った、中庭と繋がっている窓へと向かう。

 既に戦いが始まってから、十分くらい経過している。ぜぇぜぇと息は切れ、もう全身の毛穴という毛穴から汗が溢れて止まらない。

 だが、その上で分かったことが二つある。一つは、この化け物は家の外へと出られない、という点だ。この犬の霊がジェリーだと仮定すれば、やはり生前の住処に縛られた、言わば地縛霊のような存在なのかもしれない。

「――ッ」

 だが、そんな大きな弱点を自覚していない訳がない。窓から出て行こうとする私の眼前を、犬の巨大な尻尾が襲い来る。

「おん・しゅっちり・きゃら、ろは!」

 私を通せんぼしてきた尻尾を屈んで避け、呪文を唱えながら霊符を取り出す。

「――うん・けん……そわか!」

 そして振り返って、大口を開けて飛び掛かってきた化け物に、霊符を叩き付けた。

 ぎゃう、うううッッッ!?

 オン・シュッチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソワカ。

 先生から一度聞いたことがあるけれど、これは大威徳明王という、怨霊を倒す御利益がある仏さまの力を引き出す呪文らしい。そんな便利な霊符も、残り三枚。ようやくまともに直撃させられた。

 金切り声を上げながら、化け物は黒い邪気を散らしながら床に転がる。それを確認した私は、前髪を濡らす汗を拭いながら、悲鳴を上げる膝に鞭を打ち中庭に飛び出た。

 戦っていて、分かったことはもう一つ。

 霊符の直撃を受けて、なおも立ち上がる化け物……しかしその大きさは、明らかに最初の頃より縮んでいた。最初は私と化け物の顔は同じくらいの高さにあったが、今やあの犬の顔は私の胸の辺りであった。

 化け物然とした邪気が霧散して縮んでいくにつれ、本来の白い毛並みが目立つ。あまり犬種には詳しくない私でもその姿から、ゴールデンレトリバーなんだろうなぁと推測できた。

「はぁ……ッ、はぁ……ッ、あっちも、消耗、しているって、訳……ッ」

 大暴れする肺を抑え付け、私は残った霊符を取り出す。中庭であれば先生の張った結界内で、なおかつ化け物が反撃できない安全圏から霊符を打ち込むことが出来る。まだ屋内のどこかに居るのであろう彩芽と先生が心配だが、化け物の注意は今、完全に私へと向いている。ここから何とか残った霊符をやりくりして、先生が来るまで時間を稼げば良いだろうと、私が考えた所だった。


「な、なに!? 何なの、これ! 何があったの!?」


 壁は抉れ、床は穴だらけ、天井は削れて、台所は大破。あぁ、確かに起きたら自分の家がそんなことになっているだなんて、驚くだろう、びっくりするだろう。授業参観の時に一度だけ見たことのあるパジャマ姿の妙齢の女性――彩芽の母親が起きて、一階に来てしまった。

「――しまっ」

 存在を忘れていた、というか、よく今まで寝ていられたと感心する間もなく、私は霊符を三枚とも取り出し、駆け出した。

「おん・しゅっちり・きゃらろは!」

 肺が悲鳴を上げる。それでも唱えなきゃ、間に合わない。彩芽のお母さんは、私よりもあの化け物の近くまで来てしまっている!

 ううう、ぐぅうううううううッ!!

「ひ、ひぃいいいい!! ば、化け物!?」

 案の定、あの犬の霊はその牙と爪の矛先を、彩芽のお母さんに変更する。

まずい! まずいまずいまずい!

「うん・けん・そわか!」

 呪文は唱え終えた。でも距離が遠くて、霊符が間に合わない。私が投げようとした瞬間、彩芽のお母さんの首元には、鋭い牙が突き立てられようとしていた。

 もう駄目だ――私は諦観に足が竦んだ、そんな時であった。


「ジェリーッ!!」


 凛とした声が、滅茶苦茶になったリビングに響いた。

 リビングから繋がる廊下から、転がるようにして彩芽が現れた。そして化け物の動きが、一瞬だけ止まる。

 そして彼女は告げた。

 この状況を何とかする、その言葉を。



「――『待て』ッ!!」



 それはさながら、飼い主がペットに命じるように。

 ごく当たり前のように、彩芽は言い放った。





「いや、全く違うんだけど」

「へ?」

 わたくしの表明した決意をあっさり否定され、呆けたような声を出してしまいました。え? 違うのですか? 

「いやいや、それが正解で、最適解だというのなら、僕達は君を助けたりしないよ……さっき『騒霊犬』に襲われていたのを見殺しにしていた」

「では……」

 ある、というのでしょうか。

 わたくしが殺されることなく、ジェリーが成仏できる。

 そんな方法が、本当に?

「……まぁ何と言うか、僕も一応『霊能探偵』を名乗っているから。推理をしたんだよね、この事件の原因と解決策」

「推理、ですか」

「あぁ、うん。取り敢えず推論は立った。仮定も出来た。後は一つ、最後のピースが揃えば僕の推理は完成する」

 探偵さんは胡坐をかいて、頬杖を突きました。そして呆れたような表情で、わたくしを見下ろすのです。

「じゃあ宮ヶ瀬さん。改めて質問タイムだよ。犬を殺したことは?」

「……ないですわ」

「犬に暴力を振るったことは?」

「……ないですわ」

 この辺は今日の夕方にも、あの探偵事務所で話したことです。今さらそんなことを聞いて、何があると言うのでしょうか。そんなわたくしの疑念を見透かしたように、探偵さんは続けました。

「じゃあ――ジェリーの世話は、ずっと君がしていたのかい?」

「……………………」

 躊躇う。

 言いたくありません。言いたないのだけれど、今さら隠したら、この人の言う推理は完成しないと言います。だったら言うしかないのでしょう。

「――いいえ。小学校に上がってからは、お手伝いさんが、主に」

「そうだよねぇ。小学生というと多感な時期で、色々なことに興味がある年頃だ。幼稚園児の頃に興味があったものが、卒園と共になくなってしまっても仕方ない」

 仕方ない――そんな言葉が言い訳になると言うのでしょうか。いや、断じてなりません。

「幼稚園の頃は父親にねだって買ってもらって、可愛がっていたジェリーを、小学校になってからは、無視するようになった。世話が煩わしい。散歩がめんどくさい。まぁ、大方そんなこと所かな」

「……は、はは。名推理じゃないですか」

 わたくしの口からは、自嘲めいた乾いた笑みが溢れて零れます。

 そう、わたくしはジェリーを無視していました。家に帰ったら寄って来るあの子を払い除け、習い事に行っていました。休日はお友達と遊んで、散歩にだって行きませんでした。

 あんなに好きだったのに。

 あんなに可愛がって、躾もしたのに。

 飽きたから捨てました。

 新しい物をいっぱい貰えたから、もう古い物は要らなかったのです。

「わたくしは、ジェリーを裏切ったのです。目新しい内だけ愛情を捧げるフリをして、その実、愛してなんかいなかった。あの子はわたくしを愛してくれたのに、わたくしはそれをゴミのように履き捨てた」

 恨むのは当然です。殺したいと思われて当然なのです。

「だから、ジェリーはあんな姿になってしまったのでしょう? ずっと、ずっとわたくしを殺したくて、あんな化け物に――」

「――違う」

 ぴしゃりと、探偵さんは否定しました。それから「ふぅ」と大きく嘆息しました。

「んー……『恨めしや』、なんて言って出て来る幽霊のイメージのせいで、誤解しているようだね。――人間だろうが犬だろうが、幽霊として魂が現世に留まっている理由は、『未練』があるからなんだ。それは恨みや憎しみだけとは限らない」

 どういう、意味なのでしょうか。

 わたくしに対する憎悪が理由でないのだとしたら、あの子は何故この世に留まり、何故あんな姿になってしまったというのでしょう。

「君はずっと、彼女を無視していた。それを彼女が恨んでいる? はははは、それでも君はあの子の飼い主かい? 確かに幽霊は長く現世に留まり続けると、その魂の在り方に歪みを含まざるを得なくなる……だけど、その本質だけは変わらないんだ」

「…………」

 あの醜く恐ろしい姿は、ずっと現世に存在した結果生じてしまった歪みなのだと、彼は言いました。あの姿はジェリーの本当の望みを表した形ではないのだと。

「あの子の願いは、君にしか果たせない。君が死んでしまえば、あの子は永遠に騒がしく吠え立てるだけの悪霊に成り果てる。償いや贖いを求めるんだったら、まずはそこから始めるんだよ、宮ヶ瀬彩芽さん」

出来るのでしょうか。

届くのでしょうか。

歪みに歪んで私の肩を抉った彼女に、私の言葉は届くのでしょうか。

「心配はご無用、君の代理がジェリーちゃんと遊んでくれている。比較的『元の姿』に近付いている筈だ。でも、最後は君だ。君の言葉だけが彼女を救える」

 気付けば探偵さんは、優しく微笑みかけていました。まるで『行っておいで』と背中を押してくれているようで、心がふっと軽くなりました。

「見事な推理です……ありがとうございました、探偵さん」

「いやいや、これも仕事だから」

 そんな言い訳をする探偵さんに苦笑しながらも、わたくしは立ち上がります。肩の痛みは随分となくなっており、意識しなければ何も感じません。

 わたくしはふらふらとよろけながらも歩き出し、脱衣所の扉を開けます。廊下を歩いていき、羽衣さんが今も戦っているリビングへと向かいました。

 ――そして目にしたのは、お母さまに飛び掛かろうとするジェリーの姿でした。

 あぁ、忘れていました。

 ジェリーは昔から、そういう悪戯が大好きだったのです。

「ジェリーッ!!」

 困ったわたくしは、ちゃんと覚えさせた筈なのに、どうしてそんなことすら忘れてしまっていたのでしょう。

 届かなくても、それでも良い。

 わたくしはあの子の飼い主なのですから、当然のことをするのです。



「――『待て』ッ!!」





 信じられない光景だった。

 あれだけ暴れ回り、破壊の限りを尽くしていた犬の化け物が、彩芽の言葉一つで動きを止めたのだ。

「ジェリー……『お座り』」

 腰を抜かして目を回したまま倒れ込む彩芽の母親と、入れ替わる変わる形で彩芽は化け物の前に歩み寄った。傷の影響か、彩芽の足取りは危うい。今にも倒れてしまいそうだ。

 そして犬の化け物は――彩芽の指示通り床に尻を付け、『お座り』のポーズを取る。そして最初と比べると縮んだとは言え、未だ巨大な犬の胸にぎゅっと彩芽は抱き付いた。

危ない――そう思った私の口元を、どこからか現れた先生が覆った。

「ご苦労様、羽衣ちゃん。もう大丈夫だよ、彼女は」

 彼女――とはどっちを指すのだろう。そんなことを考えながら、私は閉口した。よく分からないが先生の考え通り、事は進んだらしい。

「ごめんなさい。ごめんね、ジェリー……ずっと、ずっと待っていて、くれたんだね……ずっと、ずっと、こんな姿になってまで、わたしのことを……」

 くぅーん、と甘えた声で鳴き、犬の化け物……いや、ジェリーは彩芽の頬をペロペロと舐めた。

「は、はははっ、くすぐったい、くすぐったいよ……ほんと、ジェリーは悪戯が好きだね。昔から、ずっと」

 化け物であったジェリーの霊体は、じわじわと邪気を失っていく。身体もどんどん縮んでいく。そこまで来て、私が化け物と呼んでいたものの正体に気付いた。

『――それまで、あの可哀想なワンちゃんと遊んでやってほしい』

 先生の言葉を想起する。

 あぁ、何て話だ。ジェリーは最初から最後まで、私と遊んでいただけだったのだ。私の命がけの抵抗は、怨霊となっていた彼女にとって楽しい遊びに過ぎなかったのだ。

「じゃあジェリー、『お手』」

 今まで私が見たことのない幼い笑顔で、彩芽は右手を差し出した。霊符の力で治癒されているのだろうけど、まだ痛みは残留しているのか、僅かに指先が震えている。

 ジェリーはそんな彩芽の右掌の上に、自分の右の左前足を乗っけた。どこか誇らしげな一匹のゴールデンレトリバーの頭を、彩芽は瞳に涙を溜めながら撫でる。

「ちゃんと覚えていたんだね。えらい。……えらいよ、ジェリー」

 わん!

              わん!

    わん!

                   わん!

       わん!

 あれだけ恐怖を撒き散らしていた騒がしい犬の鳴き声が、優しい色に包まれながら響き渡る。疲れ切った私は尻餅をつき、目を閉じて柔らかな音色に身を委ねるであった。





 消えていきます。

 わたくしの胸から彼女の感触が――彼女の温もりが。

 手の平に感じるふさふさした毛並み、頬を舐めるざらざらとした舌べろ……わたくしを嬉しそうに見つめる、黒くて丸い瞳。

 ずっと後悔していました。

 あなたが死んだ、あの日から。

 幼いわたくしのしたことを、今のわたくしは許せません。どうして目先のことばかりを見て、こんなに自分を想ってくれる存在を蔑ろに出来たのでしょうか。

 でも、そんな後悔すらも、わたくしのエゴでした。

 自分は恨まれている、自分は許されない――自分を責めることに酔い痴れて、本当に向き合うべきものを見失っていたのです。

「ジェリー」

 わたくしが呼びかけると、あなたはこんなにも……こんなにも、嬉しそうに――

 今にも綻び、月明かりに蕩けていく中で、

 まるで自分の世界は、わたくしの胸の中だけだとでも言わんばかりに、わたくしだけを見つめて、


 わん!


 ――嬉しそうに、なくのです。


「ごめん、ごめんね……ありがとう、ジェリー……っ!」


 もう言う資格なんてないと思っていた言葉を伝えて、

わたくしは淡雪のように消えていくジェリーの身体を、力いっぱい抱き締めるのでした。





「要するに、ジェリーは宮ヶ瀬さんを恨んで幽霊になったのではなく、もう一度彼女に遊んでもらいたかったから幽霊なったって訳だ」

 先生は事務所のソファーに寝そべり、スマホを横にしてゲームをしながらそんなことを言った。

 事件から三日後。私は放課後事務所に来て、今回の事件の顛末を資料として纏めていた。

「殺意はなかったが、長期間現世に留まり続けた所為で、悪霊・怨霊の類に成りかけていたんだろうなぁ」

 なるほど、なるほど。私は頷きながらキーボードを叩き、この一件で分かったことを記していく。

「この場合、ジェリーはどういう分類の霊になるんですか?」

「低級動物霊だよ。想いが強かっただけで、狐狗狸(こっくりさん)とか、その辺と性質は同じだ」

「へー……あんなに強かったのに、そんな……ん?」

 先生の言葉に驚くが、そこで私はキーボードから指を放した。

「ちょっと待ってください? 先生……ジェリーが低級動物霊って事は――先生、あんな回りくどいことしなくても、自分の霊能力だけで退治出来たんじゃないですか!?」

 先生は今回に関しては霊符とナイフ位しか使っていなかったが、本当はもっと色んな不思議アイテムを持っていて、それは今も事務所の倉庫を圧迫している。その中には、こういった低級動物霊くらいなら一瞬で倒せる物もあった筈だ。

「……何のことやら」

 私の追及に、先生は冷や汗を掻きながらスマホで顔面を隠す。いや隠れていない。こちらから見えないのは目だけで、どう言い逃れしようか考えているのがまる分かりな落ち着かない口元が、全く隠れていない。

「全く……本当に、全く……」

 勢いで立ち上がってしまったが、脱力して私は椅子に座り直した。資料の作成を再開すると、先生が「あれ……怒ってない?」と、目を丸くしていた。

「……何で私が怒らなきゃいけないんですか」

「いや、今回は羽衣ちゃんには身体を張ってもらったし……一歩間違えたら死んでたかもだし……」

「はぁ」

 しどろもどろの先生に、私は大きく溜息を吐いた。

 何で私は、こんな情けない人間の元で働いているのだろうか。

 本当は力ずくで解決できた事件――それを、ちゃんと彩芽とジェリー、両方の心を救う方法で解決したのだ。わざわざ回りくどい方法で、自分のやりたいゲームを後回しにしてまで。

 ちゃんと、胸を張ってほしい。

「今回は大目に見てあげますよ」

「よ、良かったー」

 胸を撫で下ろす先生に、私はもう何度目から分からない嘆息をするのであった。

 あぁ、全く……私がこの職場を辞めるのは、一体いつになるんだろう。実は借金の残りなんて私はあまり気にしていない時点で、その時は随分と先になるだろうってことくらい分かってはいるのだけど。




『騒霊犬事件』――解決。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ