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女皇だった時から憧れていた馬車であるキャブリオレに乗れるのは、シェーラにとってワクワクするくらい嬉しいこと。
(……でも、二人乗りの馬車に、二人で乗って出かけるってことは)
その二人が、家族ではない未婚の男女であれば、まず誰に聞いても、それは“デート”だと言われるだろう。
この期に及んで、シェーラは迷う。
(だって、バランディさんなのよ? 悪徳商会の会長で……実年齢は四十五――――ううん、もう四十六歳になったのかしら? で……今まで、顔を合わせても言い争いか、嫌味しか言わなかったような)
バランディと会う時のシェーラの用件と言えば、たいていはバランディ商会の無茶な注文をなんとか減らさせようとする交渉だ。
ならば言い争いになるのは、仕方ないこと。
(それに、私は、昨日シシルに聞かされるまでは、バランディさんに嫌われているとばかり思っていたんだもの)
あまりに想定外すぎて、聞かされた直後に忘れてしまったくらい、寝耳に水なバランディの好意。
今更、自分がバランディとデートをするような関係になれるなんて、シェーラにはとても思えなかった。
(……絶対、無理だわ)
二の足を踏んでいれば――――突如シェーラは、浮遊感に襲われる。
「キャッ!」
その原因は、言わずもがななバランディで、彼女の迷いを見て取った男は強硬手段に出たのだ。
つまり、問答無用でシェーラを抱き上げ、馬車の助手席に放り込んだのだった。
「な! 何を!?」
この時ほど、シェーラは、自分の小柄な体型を恨んだことはない。
まるで子供みたいにあっさり抱き上げられた彼女は、皇気を使って抵抗する余裕もなく、助手席に座らされてしまった。
その後、長身を素早く翻したバランディが、ヒラリと軽快な動作でシェーラの隣の御者席に収まる。
軽く鞭を一閃。
合図をされた黒毛馬が走り出し、馬車は動きはじめた。
あまりの早業に呆然とするシェーラの耳に、カラカラカラという車輪の回る音が聞こえてくる。
「ちょっ! ちょっと! バランディさん!!」
「そんなに大きな声を出すな。馬が驚いて暴れたら危ないだろう?」
正論で注意され、シェーラは仕方なく黙りこんだ。
(もうっ! もうっ! もうっ!!)
憤懣やるかたなく、隣で馬車を操る男を睨む。
通った鼻筋に、形のよい薄い唇。少し真剣な表情で前を向くバランディの横顔は、むかっ腹が立つほどに――――カッコイイ。
「あんまり熱い目で見つめないでくれ。……手元が狂うだろう?」
お道化たように言われて、シェーラはたちまち頬を熱くした。
「誰がっ!? あなたを見つめてなんているもんですか!!」
怒鳴りつければ、バランディは上機嫌に笑う。
風が、男の黒髪をなびかせて、馬車は軽快に走り続けた。
バランディに見惚れてしまいそうになったシェーラは、慌てて前を向く。
(あ、憧れのキャブリオレに乗っているから! だから、ドキドキしているだけよ!)
先ほどから感じている胸の高鳴りに、そんな理由を自分でつけた。
風はシェーラの茶色の髪をも弄び、シェーラは片手で頭を押さえる。
周囲の景色は、建物の多い町中から徐々に緑の多い郊外へと移り変わっていった。
青い空を雲が流れ、鳥たちが現れては消えていく。
「……どこへ向かっているんですか?」
やがて、返答次第では飛び降りる気満々で、シェーラはたずねた。
(このくらいの早さなら、皇気を使えば無傷で降りられるわよね? 人通りの多い町中だと迷惑だけど、たぶんここなら大丈夫だわ)
一度はバランディと出かけるつもりになったシェーラだが……なかなか治まらない自分の胸の高鳴りに居心地が悪くなったのだ。
逃げるならこのタイミングしかない――――そう思う。
しかし――――
「東だ。……ゲンの船が最近多く見られると噂の川があるからな。そこに向かっている」
バランディの返事を聞いたシェーラは、飛び降りるために少し浮かせ腰を……ストンと下ろした。
シェーラの関心をガンガンと煽る目的地に、逃げようという思いが急速に消えていく。
そんな彼女の様子を片目で確認したバランディは、クツクツと笑った。
「なによ?」
「いや、なんでもない」
なんでもないと言いながら、バランディは上機嫌に笑い続ける。
(案外、笑い上戸なのね。でも、どう考えたって私を笑っているんでしょうし……なんとか笑いを止めたいわ)
シェーラは、何かバランディの気を逸らす話題がないかと考える。
(……あ、そうだわ!)
「バランディさん。シシルのことだけど――――」
思いついたのは、間諜かもしれない少年のこと。
(どこからどう見ても怪しいとは思えないんだけど……伝えるだけは伝えておいた方がいいわよね?)
ところが、シェーラから「シシル」という名を聞いたバランディは、彼女が何か言う前に「大丈夫だ」と答えてくる。
「やっぱり、昨日シシルを連れ回したのは、あいつを怪しいと思ったからか。……だが、あいつだけはそんな心配はいらない。――――あいつは、死にかけていたところを俺とフレディが偶然拾った奴だからな」
バランディは、そう言った。




