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「マ! ――――ママ!」
なんてことを言い出すのだと、シェーラは焦る。
あの感動を返せ! と、叫びたい。
「承知しました。全力を尽くしましょう」
焦るシェーラの腕を掴んだまま、バランディはシェーラの母に礼儀正しく頭を下げた。
「なっ! バランディさん!?」
逃がさないとでも言うようにバランディの手には力が入る。
シェーラは、正直困った。
痛いとか、手が振り払えないとか――――そういう理由ではない。この程度の拘束、皇気を少し使えばシェーラは難なく外せる。叩きのめすことだって――――簡単だろう。
しかし……家族の前で、それはできなかった。
シェーラは、もう一度家族を見る。
複雑そうな顔をして「家族か……」と、呟く父。
「ずっと一緒、ずっと一緒」と、繰り返すレクス。
パミュと末弟は、相変わらず食べるのに大忙し。
母に至っては――――ニコニコと笑ってサムズアップしている。
四面楚歌とは、このことだろう。
どうにもできず立ち尽くすシェーラの腕を、バランディがグイッと引いた。
「行くぞ」
簡潔な言葉は聞き間違いようもないものだ。
「なっ? ……ちょっと、引っ張らないで!」
シェーラの抗議など気にした風もなく、バランディは歩きだした。
「頑張ってねぇ~」
暢気な母の声援に、もう一度律儀に軽く頭を下げた男は、シェーラを連れたまま外へと向かう。
引っ張られながら――――シェーラは考えた。
(……言いなりになるのは癪だけど、いったん、家から出たほうがいいわよね?)
あの家族の中では、バランディへの反撃はままならない。
そう判断したシェーラは、とりあえず大人しく着いて行くことにした。
そして、家から一歩出た瞬間に、彼の腕を振り払う。
「もう! いったいどういうつもりなんですか? 私、今日はこれから仕事ですから! どこにも行きませんよ!」
そう叫んだ。
呆気なく腕を外されたバランディは、少し驚いた顔をしたが、逃げるわけではなく食って掛かってくるシェーラを見て、ニヤリと笑う。
「大丈夫だ。今日は、お前の仕事は休みだからな。俺がそうなるように手配した」
「……なっ?! どういう意味?」
思いもよらぬことを言われたシェーラは、勢いよくバランディに詰め寄った。
当然二人の距離はますます近づき、バランディは笑みを深くする。
「キャビン織物工場には、今頃フレディが最新式の力織機を運び入れているはずだ。今日は、機械の説明と試運転で一日終わるだろう。だが、安心しろ。その力織機を使えば、今までの半分の時間で三倍の製品ができるようになる。今日の仕事の遅れくらい、あっという間に取り返せるさ」
バランディの説明に、シェーラは目を丸くした。
「新しい力織機?」
「ああ、そうだ。……とりあえず三台、うちの商会の資金援助で入れ替えることにした。後は様子を見ながら段階的に更新だ。――――入れ替えの件は、お前のところの社長も承知している。……ああ、余計な心配はいらないぞ。資金をうちが持つ条件として、従業員を削減するなと言ってある。労働時間に余裕が出るのなら、ひとりひとりの仕事を見直し負担を軽くしろともな。資金を出さずに収入が上がるのだから、賃金カットは筋が通らないだろうと“脅し”――――伝えてもある」
スラスラスラと語られるバランディの言葉に、シェーラは言葉も出ない。
「………………なんで?」
それでもようやく声を振り絞れば、バランディはフッと笑った。
「今のおまえの勤務形態じゃ、なかなかデートもできないからな。休日にまともに休めたのも、昨日が久しぶりなんだろう? ……本当は、そんな忙しい織物工場なんか辞めてほしいんだが………お前は『うん』と言わないだろうからな」
顔を間近でのぞきこまれて――――シェーラは、ようやく自分がバランディと大接近していることに気がついた。
慌てて飛び退けば、バランディは、ククッとおかしそうに笑う。
「俺が欲しいのは、ありのままのお前だ」
言われた言葉に……シェーラは呆然とした。
「ありのままの?」
「ああ、そうだ。――――行くぞ」
そう言うとバランディは、勝手に歩き出す。
シェーラがついてくるかどうかも確かめず先を行く男の背中を、彼女は睨みつけた。
(私は行かないって言っているのに……このまま逃げてやろうかしら?)
少なくとも付いて行く義理はないだろう。
――――考えて、シェーラは……バランディの後を追った。
狭い石畳に響くカツカツという余裕を感じさせる男の靴音と、それに追う自分のコツコツという足早な靴音が、いやに大きく聞こえる。
(――――だって、新しい力織機のことが気になるし……それにそうよ! これから仕事に行くにしても、絶対遅刻だから、バランディさんに言い訳してもらわなきゃならないんだもの)
だから決して自分は、バランディの言葉に従っているわけではない。
一生懸命後を追いかけているなんて……絶対違う!
そうシェーラは思う。
路地を抜けて大通りに出ても、バランディは足を止めなかった。
そのまま道路に停まっている小さな馬車に近づいていく。
一頭立ての二輪馬車はキャブリオレと呼ばれる最近流行の馬車だ。黒いツヤツヤとした毛並みの大きな馬と黒い車体、白い幌が、シックでカッコイイ。
(小回りが利きそうないい馬車よね? 皇族用の馬車は、乗り心地は良くても大き過ぎて不便な面があったから。こういう馬車に気軽に乗るのは憧れだったわ)
じっくり馬車を見ていれば、後部の立ち台に立つ男に見覚えがあることに気づいた。
(え? あれは確か……バランディさんのところの人じゃない?)
商会に最初に行った時に、シェーラの淹れたお茶を感激して飲んだ一人だった気がする。長年バランディに従っている古株だったはず。
彼女の思った通りだったようで、立ち台の男は、バランディを見ると馬車から降りてきてピシッと頭を下げた。
「ボス。異常ありませんでした!」
「ああ。ご苦労だったな。帰っていいぞ」
彼らの言葉のやりとりから察するに、男はバランディがシェーラの家にいる間、馬車の番をしていたようである。
このキャブリオレは、バランディの馬車なのだろう。
バランディに鞭を渡した男は、シェーラの方を見て嬉しそうに笑った。
「一緒に出かけられるんですね。……よかったです! 本当に!!」
――――何故か、すごく喜ばれている。
「いいから。さっさと帰れ!」
「はい! ボス、頑張ってください!!」
男は満面の笑みでそう言うと、去っていった。
いったい何を頑張れと、バランディを応援していたのだろう?
バランディは、忌々しそうに舌打ちをしたが、気を取り直すように髪をかき上げシェーラの方を向いた。
鞭を持っていない方の手を伸ばしてくる。
「乗れ、行くぞ」
どうやらシェーラは、バランディと、この馬車に乗って出かけるようだった。




