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シェーラ・カミュは、ごくごく普通の少女だ。
父は町の市場で働く人夫で、母は食堂の下働き。
兄弟は弟が二人で妹が一人。
当然暮らしは貧しいが、賑やかで楽しい日々を過ごしている。
(毎日お腹いっぱい食べられるような生活じゃないけれど……野菜くずが少し浮いているくらいのスープの方が、王宮の濃厚で金箔の浮いているスープよりあっさりしていて美味しいのよね。何より毒見も入らず、できたて熱々を食べられるのが最高だわ!)
女皇時代の王宮では、温かい食べ物なんて食べたことがなかった。
(それに、暗殺の警戒をする必要もなくチビたちと雑魚寝できるのも嬉しいわ。皇宮のベッドは、大きくて豪華でフカフカだったけど、カーテンの周囲には常に警備の騎士が四人も付きっきりで立っているんだもの。なかなか寝付けなかったわ)
あの状況でぐっすり安眠などできるはずもない。
(女皇時代はそれが当たり前で、自分の境遇を不自由だなんて思ってもみなかったんだけれど――――)
女皇だった時の彼女に、そんな余裕はなかった。
毎日を必死に生きのび、どうすれば無事に弟に皇位を譲れるかと、そればかりを考えていたのだ。
(父皇帝陛下が早くに崩御されて、私は幼い弟が成長するまでの繋ぎの女皇だったから)
女皇だった時の彼女の名は、ヴァレンティナ・クリシュティア・ヴェラ・レーベンスブラウ。
歴史の教科書には、現皇帝の一代前に皇国を三十年ほど治めた人物として載っている。
ヴァレンティナが女皇にならなかったならば、皇位は父とは腹違いの叔父が継ぎ、そのまま叔父の子孫が皇統となっていただろう。
(叔父上も、もう少し身辺に気をつけられる方なら、別に皇位を継いでいただいても良かったのだけれど――――)
叔父の欠点は数多いが、中でも最たるものが自分の妻に骨抜きにされているところだった。
おかげで叔父の権力のほとんどは叔父の妻が握っており、いいように尻に敷かれて操られていた。
(ご自分の子だと信じている者たちが、妻の不義の末にできた子だということを、どうしてお気づきになれなかったのかしら?)
皇国の皇帝一族には特別な血が流れている。
なんでも遥かな昔に神々に愛された血統なのだそうで、皇族は普通の人々よりはるかに長い寿命を持っていた。
(父皇帝陛下のように不慮の死をされてはその寿命も役には立たないけれど、長寿を活かし豊富な知識と経験を得て、より良く人々を治めることこそが皇帝の仕事なのだもの。だから叔父上の血を引かぬ名前ばかりの従弟に、私は皇位を譲れなかったのよ)
自分たちの一族とは明らかに成長スピードが違う叔父の子供たちに、何故か叔父は不審を抱かなかった。それどころか、それを神々の恩寵だと言い張り、女皇となっていた姪に皇位を譲るよう迫ってきたのだ。
(さすがに、たかが四十歳で前髪が後退し禿げてきた時には真実にお気づきになったけれど)
叔父が妻の不義に気づくまでの間、叔父の妻は、表裏双方から手を回してヴァレンティナを亡き者にせんと画策していた。
それを撃退し、無事に弟に皇位を譲るべく彼女は奮闘していたのだ。
おかげで前世では、結婚も出来なかった。
(ヴァレンティナが結婚して子供が出来たら、皇位継承問題がますますややこしくなっちゃうもの)
叔父だけではなく誰もが皇帝の権力と財産を虎視眈々と狙っていた前世。
余計な火種は少しでも減らさなければならないものであり、彼女自身が火種を増やすわけにはいかなかった。
それは皇位を弟に譲った後も同様だ。
繋ぎとはいえ一時でも皇帝となっていたヴァレンティナの直系には皇位継承権が生じる。
このため女皇を退いた後もヴァレンティナが結婚することはなかった。
(……だから、私は今世こそ普通に結婚して自分の家庭を築きたいのよ!)
今世のシェーラの一番の目標は、結婚だ。
しかし何故なのか、彼女の婚活はいつも失敗続き。
(ホントにいいところまではいくのよね。お付き合いしていい雰囲気になって、いよいよプロポーズされるかしらって思うと必ずフラれるって……いったいどうなっているの?)
考えても、考えても、理由はわからない。
「でもネバーギブアップよね! 挫けてなるもんですか! 絶対に結婚するわよ!!」
意気込んでシェーラが叫んだ途端――――周囲からブーッと吹き出す音が多数聞こえた。
次いで耐えきれない笑い声が上がる。
「もう、シェーラったら、私たちを笑い死にさせる気?」
「眉間にしわを寄せて難しい顔をしていたかと思えば、その叫びだもの」
「いやだ。面白すぎる!」
「シェーラ最高!」
先ほどの少女たちがお腹を抱えて笑っていた。
ここはシェーラの働く織物工場の現場。
仕事をしながら考え込んでいたシェーラは、最後の最後に願望を声に出して叫んでしまったのだった。
「皆さん仕事中ですよ! 私語は慎みなさい!」
そんな女工たちに、すかさず工場の現場主任から叱責の言葉が飛んできた。
「そしてシェーラ。――――あなたの結婚願望が強いのは周知の事実です。今更強調しないように! あまりがっつくと男性は逃げていきますよ」
「えぇぇ~! そんなぁ!」
シェーラの悲痛な声に、再び堪えきれない笑い声がおきる。
これが、今世のシェーラの現状だった。