第八章 血の海に揺蕩う彼岸花
「やっば…刀が負けそうだな…」
「ちょっと欠けてる…」
鬼神に向かっていった子憂と真は、思い切り振り上げた刀をとんでもない力で跳ね返され、頭を抱えていた。
このままじゃ鬼神に傷一つ作れやしない、と思ったのだろう、二人の顔に焦りの色が見え出める。
「なんだ、そんなもんか?特別な人の子連れてんだ、少しは楽しめるかと思ったが…これじゃあ話になんねぇな」
「…っ!」
ダメだ、完全にナメられている。
私は先程からずっと強い妖力を放ち続けている妖力札を懐に仕舞い、自らの刀を握りしめた。
(この刀にも妖力札の妖力が少し移ってる…)
妖力札と近い距離にあったからか、刀も不思議と淡い光を放っている。
(子憂と真の刀にも、麗生さんの妖力が少し残ってるから、多分鬼神に当たればちゃんと効くかも…!)
最も弱点にはこの懐の妖力札をぶち当てなければならないが。
「侑都、これ本当に勝てんのか…?」
不安そうに問いかける真に、「少し弱らせてくれたら大丈夫だから」と小声で伝えると、そっと二人の刀に妖力札を当てた。
途端に刀は淡く光り出す。
「…?なんだその札は」
「いえ、何でも…ただのお札です」
こそこそと隠れてやったつもりだったが、やはり目に入っていたのか、鬼神が不思議そうに首を傾げて問うたが、何事も無かったように私はすっと札を再び懐へと仕舞った。
「お、なんかいけそう」
真は淡く光る刀をまじまじと見た後、鬼神に斬りかかった。
その光る刀を凝視していたためか、刀を持つ腕をだらんと下に下げていた鬼神は、咄嗟に左手で真の刀を掴む。
…抜き身の刃を素手で掴んだのだ、その手のひらからダラダラと血が流れた。
「げっ、冷た…っ!?」
その血が刀を伝って手に付いた真は、その血の冷たさに驚き、後ずさった。
それを見ていた鬼神は突然吹き出し、ひとしきり笑った後、
「そりゃあいっぺん死んでっからなぁ。体温も血の温度もなくて当たり前だ」
と当然のことのように言い放った。
(…そうだ、鬼神様だけじゃなくあやかし全員、一回死んでるんだった…)
確かに鬼神も九尾の番も、犬神も青行燈もみんな死んだように肌が青白かった。
それに一度、豆狸から説明を受けていたではないか。忘れていたわけではないが、少し薄れかかっていた情報が脳内で新たにその色を濃くした。
「って、そんなことに驚いてる場合じゃないな」
子憂はハッとして刀を握り直すと、持ち前のジャンプ力でまだクスクスと笑っている鬼神に刃を立てた。
しかし──
「…っ!?」
「っとあぶねぇ」
すっと躱され、子憂はそのまま床に手をついた。
まだまだ、と鬼神のほうへ振り返ったが…目の前には血の滴したたる刀の切っ先が。
私は思わず目を背けた。
だって…子憂や真が酷い目に遭うのは嫌だ。
「…殺るなら殺れよ」
どうしよう、と焦っていた私の耳に入ってきた子憂の低い声は、今まで聞いたことのないような声音だった。
「いい度胸じゃねぇか」
「あぁ……って、え?な、なんだその眼……?」
子憂が急にハッとしたように言ったその言葉に恐る恐るそちらを見ると、それまでただの冷たい紅の色をしていた鬼神の眼が変わっていた。
白目の部分は黒く染まり、紅の瞳には同心円状の金色の輪が。
そして右目のすぐ下には紫の逆三角形の模様が大中小と三つ、左目のすぐ下には赤い縦長の逆三角形の模様が、右目のものと同じように付いている。
(……!?あ、あれ…)
「妙妖怨滅眼……!?」
「ん、よく知ってるな」
「侑都、それって……?」
「妙妖怨滅眼っていうのは、妙妖眼っていう強い妖力を有するあやかしが開眼できる眼と、怨令眼っていう邪神だけが開眼できる眼が合わさったもの……のはず」
「大正解だな。付け足すならばこの眼は今のところ現世隠世含め俺しか開眼していない」
鼻で笑いながらそう言った鬼神が刀をおろす。
真が私を庇うように立ち、子憂は鬼神と向かい合って刀を構えた。
ギラつく鬼神の渦巻いた眼が恐い。
───でもきっと。
(子憂の体力や運動神経の良さなら…)
鬼神とやり合えないこともないと思う。
「その眼がどんなに恐ろしいものでも。子憂も俺も、侑都を守るためなら、死ぬことなんて怖くないんだぜ」
「最後の最後で侑都がちゃんと鬼神を殺せるように俺らが頑張るから…」
(子憂…真……)
視界が涙で歪む。急いで着物の袖で拭うと、私は二人に微笑み、
「子憂と真だけじゃなくて私も頑張るんだからね」
と言って、戦いの邪魔にならないよう少し下がった。
奥で震えて丸くなっている徳見が「頼む、この鬼を殺ってくれ…っ!!」と叫んだが、 鬼神の眼の中の輪が一度収縮し、ぐわっと広がったと思ったその時には、その顔の横すれすれに小刀を飛んでいた。
狙いを定めていた鬼神がふう、と息を吐くと、徳見は小さく悲鳴をあげて黙り込んだ。
「…お前ら随分と仲がいいんだな。まぁそれをぶっ壊すのが面白いんだが」
ニィッと口角を上げ、悪い笑みを浮かべながら鬼神はそう言うと、刀を上げることもせずにその禍々しい眼で子憂を見た。
「…まぁぶっ壊す手始めとして一つ教えてやろう」
「…?」
「蛟の水晶を持った人間は死んだ」
…それを言われて最初、何のことだかわからなかった。
だが、次第に思い当たる人物が私たちの脳裏に浮かび上がる。
「蛟の水晶…ゆ、優花…っ!?」
「あー、そんな名前だったっけなぁ?随分とうちのあやかしを散々な目に遭わせてくれたみてぇだが、俺の区の門番が殺した」
間違いない、優花だ…!
〝俺の区の門番〟ってことは…夏夜の区の門番、八岐大蛇…
まさか…光だけじゃなくて優花も殺されるなんて…っ!!
無性に腹が立ち、唇を噛んだ。
徐々に血の味がしてきたが、気にしない。
「…だいぶ腸煮えくり返ってるみたいだなぁ」
子憂と真も「くそ…っ」と刀を握る力を強める。
そんな私たちを見て、鬼神は満足そうに笑った。
(早いとこ殺らないと…人間だった頃に何があってこうなったかは知らないけど、こういう状況を見て笑うなんて酷い…っ!)
「侑都…俺、もう本当に死ぬ気でいくわ」
「…俺も。多分あんまり役に立たずに死んでくと思うけど、ちゃんと戦えるだけ戦うんだ、恨むなよ?」
二人はいつになく鋭い目つきで鬼神を睨みながら私にそう言う。
「…私だって、鬼神様を倒すよ。死にそうでも、何とかして守尋さんに貰ったこの妖力札を使って…殺る」
二人が死んでしまうのは、光や優花がいとも簡単にあっさり殺されてしまったのを見るに、もしかしたら、と想像できてしまうが…
それでも必死に戦うんだから。
「…覚悟は決まったようだな」
「あぁ、勿論だ」
「今からが本番だっつーの」
──人間だって何も出来ない無力な生き物なんかじゃない。
*
「…もう薬持ってないんですけど」
だいぶ多めに準備してきたのに、すぐ無くなってしまった。
「さすがにちょっとあげすぎたか…?」
「蛟様ぁ、この怪我治りませんかー!?」
いやだからもう無いってば。
「それが今薬切らしてるんですよ」
「ええ、そんなぁ…」
困ったものだ。次々と怪我したあやかしが私の元へやってくる。
…九尾の番に「歩く薬箱」と言われたことがあるが、ひょっとしたら本当にそうなのかもしれない。
「…あっ」
「どうかしました?薬あるんですか!?」
「いやそうじゃなくて」
どうしたものかと考え込んでいた矢先、割と役に立つ助っ人が現れた。
「あのー、姫魚さーん?」
「…?って、あら?蛟様じゃないですか」
フラッと現れた彼女は、桃水湖の人魚たちを束ねる人魚である姫魚。
普段は桃水湖で泳いでいるが、今は鰭もなく、普通のあやかし達と同じように歩いている。
(これは助かるなぁ…)
こういう時は治癒の妖力が使える彼女がとても頼りになるのだ。
「丁度よかった、少し力を借りたいんですよね」
「まあ!そんなことでしたらお安い御用ですよ、私にできることなら何なりと」
「…ちょっと、姫魚も蛟様も、あたいのこと忘れないでよー!ちゃんといるんだから!」
忘れられたと思ったのか、姫魚の後ろにいた座敷童子が頬を膨らませた。
「座敷童子もいれば安心ですね、姫魚さんがゆっくりと治療に専念できる手助けができそうだから」
「できそうじゃなくて、できるの!あとあたいにもさん付けしてよ〜!」
「それは断ります」
…いや、昔から知ってる座敷童子に今頃さん付けは明らかに変だろ…
「…あの、お話中あれなのですが…僕の話は一体どこへ…」
「ああ、ちょっと忘れてた」
「絶対〝ちょっと〟じゃないですよね!?」
「まぁ細かいことは気にしないでくださいよ」
姫魚はそれを聞いてすぐに両手をそのあやかしの傷口に翳した。
桃色と水色の淡い光の中で傷口がみるみる塞がっていく。
「やっぱ姫魚さんはすごいですね」
「いえ、これくらいは全然…」
「そういえばこの間は犬神様の擦り傷治しまくってたよねー!治さなくてもいいって犬神様言ってたのに、一回怪我してるのみたら放っておけないーとか言って」
「だってあれはちょっとさすがに擦り傷にしては酷かったから…っ!」
「んー、確かにそうだった気もするけどー」
「そういうのを心優しいって言うんですよ座敷童子」
「むぅ…」
…なんか今日はむくれてばっかだな。
「蛟様も戦いに行けばいいのに」
「勿論行きますよ。ただ…」
「…ただ?」
実は先程からずっと気になっていることがあり、それのせいもあってあまり戦いに行けていない。
「私の水晶を持つ者が命を落としたようなので…水晶も割れてしまっているのか私の妖気にも微かにしか反応しなくなった」
私は自らの鱗から水晶を作り出すことができ、その水晶を私自身が見込んだ人間に授けていたりする。
その水晶は私の妖気に反応し、それを所持している者が生きているのか死んでいるのかを知らせてくれるのだ。
「あぁ、えっと…水刃家でしたっけ、授けたのって」
「ええ、はい…」
これは…誰かに水晶ごと砕かれたに違いない。
普通、所持する者が死んだことを報告し、居場所を伝えるためにその水晶が砕けることはない。
(強制的に、誰かの手によって砕かれた…といったところか)
まぁあれを砕けるのはあやかしだけだ。どこかの区のあやかしがやったのだろう。
「でもまぁとにかく、今はちゃんと鬼神様に言われた通り、戦いに行かなきゃだよ!」
「そうですね…じゃあ座敷童子、姫魚さんのことちゃんとサポートして守ってあげてくださいよ?」
「もー!分かってるってば…!」
まだ何か私に向かって叫んでいた座敷童子だったが、私は遠くに刀を持って突進している人間の姿を見つけ、そこへ向けて走り出した。
*
「青行燈、覚悟ぉっ!!」
「もう…騒がしいったらありゃしない…」
さっきまで人間たちも諦めたかのように落ち着いて殺されてくれていたが…
この者達はそんな感じではない。
「私を殺したら困るのはあなた方でしょうに…」
「何ふざけたこと言ってるんだっ!そんなわけないだろう!」
あーあ…可哀想に…
知らないのね、人間たちが冬に凍え死んでいないのは、少し隠世から漏れている妖気のおかげであって、それは私の鬼火あってこそのものだってこと…
…まぁ私より鬼神様のほうが鬼火の火力とかは強いけど。
(何を言っても、この人たちには無用、って感じね)
…そうと決まればすぐ殺るだけ。うん、とっても簡単。
まだ何か叫ぼうとしていた者の喉元は溶けてそのまま首がもげ、取り巻きの数人は黒焦げになって倒れ、動かなくなった。
「…喧嘩売る相手を間違えたのよ」
私はビュッと手元に戻ってきた鬼火を「えらいえらい」と褒めた。
「…あれ、青行燈様じゃないですか」
「まぁ!誰かと思ったら…久しぶりね、一目連様」
聞き覚えのある声と、澄んだ妖気に振り返ると、そこには真っ白の狩衣に薄水色の簡素な帯を身につけた、天候を司る隻眼の龍神、一目連がいた。
龍神とかいいながら、普通に悪いこともする神じゃなくてあやかしとして生きている者なわけだけど。
(…それをいいだすと鬼神様も神ってついてるのにあやかしよね)
でも…一目連の艶のある真っ白の髪の毛や、まだ私たちよりも血の気のある白い肌からはいかにも神様という感じがする。
「僕に雨が降らない程度に曇っていて、なおかつ月がよく見えるような天気を保てって言った犬神様はどこに行ったんだろうか…」
「あら、そんなこと言われてたの」
「…できないことはないですが、妖力消費が激しくて満足に戦えないんですよね」
どうやら天気について犬神から頼まれてたみたいだ。
まぁそのおかげで今こうして薄暗い月明かりの中という戦いやすい環境が保たれているんだけど。
「はぁぁ…もうそろそろ疲労が…」
「そんなことなら丁度よくさっき私が殺した人間がいるわよ」
お腹をさすりながら俯く彼に、私は自身が先程殺ったばかりの数人の死体を指さした。
「い、いいんですか…!?」
ハッと顔を上げ、キラキラとした少年のような目でこちらを見る一目連。
…本当にお偉い龍神なのだろうか。
「ええ。私は妖力をあまり消費しないから、食べる必要が無いのよね」
「いやぁ、これはありがたい…」
涙目になりながら彼は死体の腕を手に取った。
「あら、もっと豪快に全部食べても良かったのに」
「いえ、さすがにそれは…僕は犬神様や鋭峰様のようにそうやって食べるのは苦手で…」
「あー、そういえばそうだったわね…」
…お淑やかさでいけば隠世でも五本の指に入るのではないだろうか。
私がそんなことを考えているうちに、ではこれで、と言って龍の姿になった一目連は、その白銀の隻眼を妖しく光らせ、空の闇夜に紛れていった。
「…私も、もうちょっと頑張らないとね」
私はそう言って、特に当てがあるわけではないが、ふらふらと歩き出した。
「鬼神様も、九尾の番も、今頃妖退治軍やあの侑都たちとやりあってる頃かしら」
ふと江戸城のほうへ目を向けると、下の方で紫と青の炎が上がり、徳見直康がいると思われる場所からは赤い鬼火や妖気が漂っている。
妖退治軍はともかく、侑都たちはちゃんと生きて帰れるのだろうか…
そんなことを考えながら、私はずっと頭から離れない、各区の長しか知らない〝ある事〟をぽつりと呟いた。
「まぁ、私たちあやかしは、あの×××が×××しまったら×××しまうわけだけど」
*
「冷乃と麗生、大丈夫なのか…」
「どうだろ…あの二人だし大丈夫だとは思うけど…」
「相手がちょっと厄介だよな…」
波奈が単独行動をすると言い始めてから少し経った頃。
俺は足の傷が治りたてほやほやの雷飛と一緒にいた。
「煇利はまだまだ体力有り余ってんだろ?」
「有り余ってるってほどでもないけど…まぁそうだな」
「いいなぁ…俺はまだ妖力を使う加減が難しくて…」
雷飛は自身の弓を抱えながらそう言い、俯いた。
「心配しなくても、慣れれば楽さ」
彼の弓の先についた妖力の結晶が揺れる。
この弓は霊晶弓と言われるもので、その弓自体にも矢にも赤紫色の霊力の結晶が付いており、その結晶によってあやかしがダメージをくらう。
冷乃の霊符には劣るだろうが、相当扱うのが難しい武器だ。
(俺の妖棘のほうがまだ楽なのかもしれないな…)
自分の手のひらに浮く妖棘に目をやり、ぼんやりとそう考えていると、
「煇利…あれ見てみろよ」
雷飛が震えながら何やらどこかを指さしている。
「…犬神か」
そちらへ目を向けると、獣の姿と半獣の姿に交互になりながら戦火の中を駆け、家屋の屋根に登る、口に人間の腕を咥えた犬神が。
「俺らじゃあいつには敵わないな…」
「俺遠距離戦しか得意じゃないし…」
「でもかえってあの飛んでる時に矢を放てばいいんじゃないか?」
「あ、それ名案」
でも絶対当たらないだろうなぁ、とボヤきながらも、雷飛は霊晶弓を構える。
犬神が少し遠くで飛んだその時。
雷飛の矢が奴目がけて勢いよく放たれた。
(…って、あれ…当たった…!?)
犬神の丁度腹あたりに矢が命中し、顔をしかめた奴はそのまま地面へと真っ逆さまに落ちてしまった。
相当な量の血が出ているのが見える…
(獣の姿じゃなくて、半獣の姿だったな…少し可哀想なことをしたかもしれない)
そう思いながら、ちらっと雷飛のほうを見ると、彼は何故か目を瞑っていた。
「…どうした?」
「…俺獣の姿の時じゃないとああいうほとんど人間と変わんない見た目したやつを傷つけんの苦手なんだよ…」
そういう彼は少し震えている。
…今までどんだけ半獣の姿のあやかしとやり合ってきたと思ってるんだよ…今更感がすごいぞ…
(まぁ何にせよ、犬神はあそこら辺に波奈もいるだろうし、なんとかなるな)
俺と雷飛は、「狒々あたり行くか?」「いやぁ、無理だろ」「まぁやるしか無いんだけどな」「ははっ、そりゃそうだ」と言いながら、再び戦いに集中した。
でも…
(…そろそろこの戦も終わりそうだな)
江戸城のほうの赤と紫と青の見慣れた炎が少し勢いを失っているのが見える。
「鬼神様…やっぱ開眼したんか」
「ん、どないしたん玉藻前」
「いや、あの眼使うっちゅうことは随分本気でいくんやなぁ思て。」
五尾の西国きっての最強狐がそう言ったことに、すぐ近くにいたにも関わらず俺達は、何も気づかなかった───
*
…怖い。ただひたすらに怖い。
鬼神は…やっぱり只者ただものではない。
子憂と真がいるし、妖力札があるから多少大丈夫なんじゃないかって考えてた私が馬鹿だった。
「もう疲れてきてんじゃねぇか」
「…っ」
子憂はもうすでに疲弊しきっている。
だってしばらくずっと鬼神相手に立ち回ってやり合ってたんだから…
大怪我、とまではいかないが、体の至るところに傷ができており、桔梗色の着物は血がついたりして、ボロボロになっていた。
「…子憂、そろそろ交代したほうがいいんじゃないか…?」
「……あぁ、そうさせてくれ」
まだ私を庇っているだけで体力も残っていた真の提案に、子憂は頷き、戦うのと守るのを交代した。
「ねぇ、私も何かしたほうがいいよね…」
「いや、侑都は最後に大仕事が残ってるんだ、今は俺たちが〝弱らせる〟ってことに専念する」
私のほうへ来た子憂にそう申し出たが、やはり私は妖力札を使う最後の大仕事があるため、やんわりと断られてしまった。
「次はお前か?」
「あぁ、そうだ…!!」
鬼神の前へ飛び出していった真は、そう言うや否や、バッと鬼神に斬りかかった。
鬼神は刀を片手で持ち、その刃を跳ね返す。
その後、真は間髪入れずに再び腕に刀を振り下ろした。
「…わ」
…咄嗟のことで完璧に油断しきっていた鬼神は、右腕を斬られていた。
しかも結構傷が深い。ダメだ、パックリいってる…
(ちょっと…直視出来ない…)
「…お前なかなかやるんだな」
「これでも武道極めてたからな…戦う時の立ち回りは得意だぜ」
そういえば真は以前、空手をやっている、と言っていた気がする。
それに、舞台で活躍する人を目指していた時に殺陣もやっていたとか…
もしかしたらこの場で一番有利なのは真かもしれない。
「江戸の者じゃない者は、さすがに少し出来が違うなぁ?」
「そりゃどう、も…っ!!」
再び刀を突き立てた真だったが…
おっかなびっくり、あれだけ派手に右腕を斬られたにも関わらず、その斬られた方の腕で刀を持ち、ガッとその刃を自身の胸のあたりスレスレで止めた。
グッと刀を跳ね返そうとする鬼神の腕に力が入る。
力が入ったからだろう、パックリ開いた傷口からすでに血は多く出ていたのに、だばだばと血が出てきた。
妖力を使えば止血などができるということは知っているけど…
さすがにこれは痛々しすぎる。
真は鬼神のあの眼にじっと見据えられ、それに驚き力を緩めてしまった。
その一瞬の隙にガンッと刀は跳ね返され、真ごと吹っ飛ぶ。
「わ…っ!?」
「お、おい真…!!」
すぐ近くの壁にぶつかった真は、頭を打ってしまったのか、倒れたまま動かない。
───妙妖怨滅眼特有の技。
私は前に祖父に教えて貰ったことを思い出し、ピンと来た。
それは、ただの人間であれば確実にやられる。
動けなくなり、意識が無くなるのだ。
近寄ってうつ伏せだった彼を仰向けにすると…
なぜか胸のあたりを斬られている。
「…っ!?」
あの短時間で奴は跳ね返すと同時に斬り返したのだろうか。
鬼神のものとは違う、ちゃんと温かい鮮血が床に流れた。
「くっそ…やりやがったな…っ!!」
わなわなと怒りに震える子憂は、自身の刀を乱雑に掴み、バッと鬼神のほうへ走っていった。
「だ、だめ、子憂っ!!」
私はすぐ止めようと大声をあげたが…
その努力も虚しく、気づいた時には鬼神に斬りかかっていた。
このままじゃ…ダメだ。
私は子憂の刀を受け止めた鬼神のほうをキッと睨み、妖力札ではなく刀を強く握り、鬼神のほうへ向かっていった。
「やめて…っ!」
私は鬼神の左肩を斬った。
子憂の刀を止めることに集中していた隙を突いたのだ。
「…っ、いってぇなぁ…」
斬られたためか、左腕ごとダラリと下がった鬼神は、こちらをその渦巻くおぞましい眼で見下ろしてくる。
その瞳の中に怒りの色が垣間見えたが、今更ここで戦いて引くわけにはいかない。
「侑都、お前…」
子憂は心配そうにこちらを見る。
そして力が緩んだ時、真と同じように鬼神はギンッと眼を開き、子憂と目を合わせた。
そして案の定、子憂はそれによって壁に飛ばされてしまった。
今回は斬られてはいないが、火傷の跡が出来ているところを見るに、きっと同時に鬼火を放ったのだろう。
「いい加減にしてください、鬼神様」
自分でも驚くほど、低く冷たい声が出た。
「…この二人を気絶させただけじゃ物足りねぇな」
「…じゃあ次は私、ってことですか」
「ああ勿論。むしろそれ以外に何がある」
嘲るように言ったその言葉には、妖力がこもっていたのか、少し肌がピリピリした。
ふと子憂と真のほうへ目を向けると、徳見直康が二人をそっと部屋の端の比較的安全な場所に横たわらせてくれていた。
ありがとう、と心の中でお礼を言いながら、私はグッと力を入れ、鬼神と距離を取るべく、後ろへ下がった。
「お前…なんか持ってんな?」
私が態勢を整えようとした時。
奴のその声に目を見張った。
(まさか…妖力札のことを言ってるの…?)
きっとそうだ、妖力札の存在に気づいたんだ。
妖力札、という名称はわからなくとも、これだけ強い妖力のこもったものを人間が持っていたら…その存在にはさすがに気づく。
「普通の人間が持ってることなんてねぇような強い妖力だな」
(だ、だめ、今ここでバレたら意味がない…!)
私は咄嗟に思考を巡らせ、これなら不審に思われない、ということを口にした。
「冷乃さんと一緒にいた時に、妖力を少し刀に込めてもらったんです」
…そう、私が今持っているこの刀には、実際ちゃんと冷乃の妖力が少しこめられているのだ。
だから、このことはあながち間違いではない。
「冷乃…あぁ、妖退治軍か。あの女ならそれもあり得るな」
もし疑われて問い詰められたらどうしよう、という私の心配に対し、鬼神の反応は疑っている、というわけではなさそうだった。
(よかった、これなら妖力札がバレずに済む…!)
ほっと胸を撫でおろしたその時、
「何ぼけーっとしてんだ、まだやり合うんだろ?」
私の態勢に隙ができたところを突いて、鬼神の刀が私の頬を掠かすめた。
いや、掠めたというより…
手で触れた時の血の量などから、普通にザックリ斬られていた。
「っ…血がすごい…」
「お、お主大丈夫なのか…!?」
それを見ていた徳見が声をあげる。
「うるせーな」と鬼神がそちらを睨んだことで場の空気がゾッとし、温度が一気に下がった気がするが…
「そんなくらいの血の量で音を上げてるようじゃあ面白くねぇな」
「…別に音を上げたわけじゃないですけどね」
勝手に弱い人間、と決め付けられた気がして、私はやつを睨む。
「…口答えするな」
「…っ!?」
そして鬼神が少し動いた次の瞬間、私は見事に殴られていた。
みぞおちではなかったが、腹部あたりに今までに感じたことのない痛みを覚える。
たまらず私は片膝をついた。
(…だめ、何やってるの私…!ここで向かって行かなかったら意味ないのに…!!)
悔しさと痛みに顔をしかめ、奥歯を噛みしめる。
「やはりそうか。この眼の力はお前には効かない」
なにやら鬼神はそう言うと、私を見て、
「…その様子を見るに、まだやる気満々、ってとこか」
「そんなの…あなたを倒すまで諦めないに決まってるじゃないですか」
私は何とかフラつきながらも立ち上がる。
まだ痛みはあるが…
(大丈夫、鬼神様も少し疲れてそうだし…)
子憂と真が作った傷と、私の作った傷に少し鬼神も苦しんでいるようだった。
今だってまだ凄い量の血が出ているし、左腕は下がったままだらんとしている。
(次、どこか鬼神様が気を緩めたタイミングで妖力札を背中に当てれば…!!)
そうすれば確実に鬼神は瀕死状態となるだろう。
私はこっそり妖力札を手に持ち、その手を後ろに回した。
…よかった、まだ鬼神様は気がついてなさそう…
「…ったく、妖力込めたもんで斬られたからだろうが…体が怠いな」
案の定、やはり鬼神は少し疲れている。
でも…
(言っちゃえば私もさっき殴られたのがとんでもなさすぎてもう倒れそうなんだけど…)
鬼火を少し手に灯していたのだろうか、普通に殴られたものとは違う、一向に痛みが引くことのない現状に、私は今まだ意識があるうちにやるしかない、と意を決した。
──その時、背後でガタン、と音がした。
徳見が子憂と真を移動させた後、自身も少し隠れていようとしたのだろう、そこでは徳見が焦った表情で立っていた。
何をやってるんだろうかという呆れにも似た感情を抱いたが…
運良く鬼神はその方向を向き、私から目を逸らした。
今だ、今しかない…っ!!
私はバッと鬼神のところまで走り、今もまだ目を逸らしたままの奴に抱きついた。
「な…っ!?」
突然のことに驚き、鬼神が私に目を向けた時───
ごめんなさい
これはあなたのためでもあるの──
私は小声でそう言い、妖力札を鬼神の背中に当てた。
「…っ!!?お…お前…っ!!」
私は反撃されると思ったが、そうはならなかった。
妖力札から強い光が放たれ、真っ赤な炎を上げる。
私はこのままだと自分自身が燃えて死ぬかもしれないと思い、鬼神から離れた。
「今じゃ…っ!」
そして離れてすぐに、後ろで刀を鞘から抜いた徳見が、その鬼神の背中をグサッと刺した。
「っ…いってぇな…っ!」
がくんと前のめりになった鬼神だったが、刺さっている徳見の刀を後ろ手に引き抜くと、殺ったと思い込んでいる様子の徳見のほうへ向き直る。
そして妖力札の力によって瀕死状態となった奴は、息も絶え絶え、その眼を細めると何とか力を振り絞って徳見をぶった斬った。
誰が見ても油断しまくっていた徳見は、何も抵抗することなく、ただ断末魔をあげて倒れ、動かなくなった。
「やってくれたなぁ、お前…」
力なくそう言った鬼神が、ゆらりとこちらを向く。
その背と徳見に刺されたところからだらだらと血が流れていた。
(とどめってのをささないとダメだよね)
内心、ひどく苦しそうな顔をした鬼神を見て、本当にこれでよかったのかと思ってしまっているが…
何とか、グッと刀を握る手に力を込める。
しかしその時。
「ねぇ…っ!ちょっと待って!!」
「えっ…?」
聞き覚えのない女の人の声が聞こえ、そちらに目を向けると…
胸あたりまで伸びた艶やかな黒髪に、薄い橙色の着物と黒い帯、そして額から濃い橙の鬼の角を生やした…
「…あかば…?いや………紅葉もみじ…か」
鬼女紅葉、と呼ばれる女鬼がいた。
*
「なんで…どういうことなの…ちゃんと説明してよ…っ!どうしてあなたが…っ」
「落ち着け紅葉。今のお前が〝あかば〟ではなく〝紅葉もみじ〟であるのと同じだ」
「でも…っ!」
目の前では突然現れた紅葉と、息を切らし、血溜まりの中膝をついている鬼神が話をしていた。
「でも…あなたが鬼神だなんて…私知らなかった…」
「そりゃそうだろ、お前より俺のが後に死んだんだからな」
…〝お前より後に死んだ〟?
どういうことだろうか。
私が頭の中で悶々と悩んでいると、紅葉は何かを理解したように頷き、落ち着きを取り戻した様子で、「じゃあ私はちゃんと鬼神様って呼ばなきゃだね」と言って笑った。
そしてそれに対し、好きにしろというような視線を送る鬼神。
なんだろう、この感じ…
なんか…恋人同士みたいな…
(いや、でも…気のせい、かな)
「というかさっきから気になってたんだけど…なんでそんなに血だらけで死にかけてるの…!?」
ハッと我にかえったかのように鬼神にグッと詰め寄った紅葉は、自身のその手に橙色の鬼火を灯しながら、
「私こう見えて鬼火で怪我だったりを治すのを生業なりわいとしてるの、だから…」
と心配そうな顔をして言ったが…
「…いや、別に治さなくていい」
鬼神は差し出された白い紅葉の手を自身の血だらけの手でやんわりと制した。
(なんで断ったんだろう…?いやでも、ここで回復されても私、ちょっと困るかも…)
だって回復しちゃったらまたもとの力でやり合ってくるってことでしょう…
(紅葉さんには悪いけど…私の体力が持たない…!)
今だってお腹の殴られたところがまだズキズキしているもの…。
「俺はこいつらに殺されるくらいなら自分で死ぬってさっき決めたばっかだからな」
鬼神はそう言って、まだ意識が戻らない子憂と真に目を向ける。
(もしかして、私が妖力札を使ったあたりで決めたのかな…)
いや、そうでなければこの鬼がそんなに簡単に自分から折れるわけがない。
「俺だって散々暴れてきたしなぁ…まぁ念願の徳見の野郎をぶち殺すのが終わったってのもあるが」
そういって奴は部屋の端にあった酒の入った瓢ひさごを手に持った。
ふわっと日本酒の香りが漂う───
*
俺の頭の中には、あやかしとなってからの記憶が渦巻いていた。
まずは九尾の番と会ったときのこと。
俺は最初、ちょっと面倒みたら捨てる気でいたんだが…
「きじんさま、きじんさま。てあわせしてください」
二人が手合わせをしろと言ってきた。
俺はその時すでに夏夜の区の長であり、今と力も変わらなかったのだが…
───普通に手強かった。
「お前ら…すげぇな、意外と」
「そ、そうでしょうか…!」
「…やった」
まだあやかしとなってから長くないような、齢十三ほどの見た目をした二人は、その時から俺の側近的な立場となった。
そしてその手合わせの後に、炯眼と鋭峰という名を与えたんだっけか。
その時はまだ漢字などを知らず、拙い言葉で必死に喋っていた炯眼は、俺が現世から持ってきた本を読み、徐々に賢くなっていった。
確か鋭峰はあの時から一語文しか喋れなかったが、炯眼の真似をしたり、沙冬の区の長である青行燈から言葉を教わったりして、少しだけ成長した。
もともと二人とも感情表現する能力が乏しく、無表情だったが、炯眼は無表情の割に少し表情豊かになってきて、鋭峰も俺と青行燈、犬神の前では感情を顔に出せるようになってきた。
そんで犬神。
あいつは俺のことを最初は呼び捨てで呼んでたな…
すんごい尻尾振りながら俺の社まできて、挨拶も無しに急に向かってきて…でも俺が勝ったことで「あんた強いんだなー!しゃあなしにサマ付けで呼ぶかぁ」とか全然腑に落ちないみたいな顔して言った。
次の日にけろっとした顔で「鬼神ー!あっ、ちがった、鬼神サマー!!」とかいいながらもっかい社まで来た時は驚いたというかもうもはやどうなってんだこいつと不思議に思ってしまった。
…今でも呼ぶ時ちょっとぎこちない感じになってるんだが…
まぁそれが一番あいつに関してで記憶に色濃く残ってることだ。
青行燈は…鬼火を使うのが上手いってのが一番印象に残ってんな。
実は一回も手合わせしたことないからなんとも言えない…ってのが本心だったりする。
あいつの鬼火が灯った提灯や行燈の火は、特に何もしなかったら半永久的に保つ。
俺の鬼火も消えることはそうそう無いが、あの鬼火は火力調節がどんなあやかしでも簡単にできるのが凄いところだ。
それを活かして、俺と一緒に現世の火関係のことにも携わっていたりする。
そして…話すのも考えるのも億劫になる白澤。
あいつに関してはもはや何も無い。
善良なあやかしってとこがどうも気に食わん…
春麗の区で他の区から溢れたあやかしや、不要だとみなされたあやかしを匿ってるのも、いいことなのだろうが、俺からしたら目障りでしかない。
ただ…普通にそこらのあやかしより強いのは確かだ。
それ故に俺はあの時賛成か反対かを念入りに問うたというのに、あいつは結局反対したから…ああなったのだ。
他にも門番や俺の区のあやかしに対して思うところだったりは色々あるが…
実際のところ、もう何も…
後悔することなどは無いのかもしれないな──
*
目の前で酒を呷った鬼神は、床に転がる自身の刀を手にした。
すぐ横にいた紅葉がハッと目を見開き、鬼神のほうへ手を伸ばそうとしたが、何かを悟ったように目をゆっくりと細め、うっすら涙を浮かべると、力なくその場に座り込んだ。
床にべっとりと付いた血がその綺麗な着物を赤く染める。
「鬼神様…?」
私はそれまでとは鬼神の様子が違うことに気がついた。
妖力札を一番弱いところに当てられたことで瀕死状態になっていることは変わっていないのだが、これまでと纏っている妖気が違う。
そして、
「…楽しみだな」
と鬼神が紅葉にむけてそう笑いかけると、一瞬とても泣きそうな顔になった彼女だったが、静かな声で「ええ…そうね」と笑いかえした。
二人のやり取りに困惑する私に、ふっと鬼神がいつになく優しく、そして人間らしく微笑んだかと思うと─────
あろうことか、鬼神は手に持った刀を自身の腹に突き立てた。
突然のことに思考が追いつかない。
すでに血で悲惨なことになっている床に、さらに血溜まりができる。
「え…?き、鬼神、様…??」
これもしかして切腹とかいうやつなのだろうか…
(でも確かこういうのって介錯する人がいるんじゃ…)
というかそれどころじゃない。
刺したところからの出血がとんでもないのに、さらに吐血までしている。
ごぼりと血を吐く音が脳内に不安と恐怖を与える。
腹を刺したのだから当然と言えば当然なのだが…さすがにわたしも目を逸らした。
(紅葉さんは平気なのかな…?)
ふと気になってちらっと紅葉のほうを見ると…
「…!?」
彼女の足元が透けていた。
「も、紅葉さん…」
あやかし達の身体って透けるものなの…!?
心配になって声をかけたが…
「いいの」
「え…?」
「これで…いいの」
微笑みながらそう返されてしまった。
よく見ると紅葉の目には涙の玉が浮かんでいる。
これでいい…?
一体どういうことなのだろうか…
*
「あ」
「?」
「炯眼。透けてる」
「え?あ、ほんとだ…まって、鋭鋒も透けてるよ」
「…うわぁ」
「「…??」」
何?こいつら。
さぁ?冷乃にわかんないこと私に分かるわけないでしょ。
あれからどれだけ経っただろう…
一心不乱にひたすら妖力を使いまくって札を飛ばしまくっていた時だった。
…突然九尾の番の身体が透け始めたのだ。
こんなのってありなの…!?
私と麗生の脳内が驚きと疑問に埋め尽くされる─────
「は?犬神、透けてるんだけど」
「あー?……うげ、ほんとだ透けてらぁ」
目の前の犬神の身体が透けるなんて…冷乃…麗生…助けて…
なんだかよくわからないまま、腹から血を流した犬神が目の前に落ちてきて以降ずっと相手をしていたが…
(…こいつもしかして消える…とか?)
「あーあ…私はこの戦が始まった最初からこうなるだろうなって予想は一応してたけどね…」
私は自らの手のひらを目の前に掲げる。
その手は、その向こうの夜空まで見えるほど透けていた。
「私たちあやかしは、あの鬼神様が死んでしまったら消えてしまう…」
私は威力を失いつつある自身の鬼火に目をやりながらそう口にして、江戸城のほうを見た。
…あぁ、やっぱり。
鬼神と徳見がいるであろう場所から漏れ出る赤い鬼火が消えかかっている。
あの鬼神が死ぬことなんて無いのだが…
「…自分でちゃんと死のうって意志を持った上で自分の手で刺すなり何なりすれば死ぬのよね…?」
一度ぼそっと鬼神が死ぬということについて言っていたことを思い出しながら復唱して、ふぅ、と一息つく。
───そろそろ〝終わり〟…かな。
*
「あちゃー。元々人間ってのはデカかったなぁ」
俺は周りであやかし達が透けだしたのを見て、ふぅ、と息をつく。
「酒呑童子や、そろそろ帰るか?」
「いや、もーちょいおってもええんちゃう」
横で戦っていた酒呑童子は、刀を持つ左腕を下げ、江戸城の今にも消えそうな赤の鬼火を見ながら、ぼそりと呟く。
「…もうそろそろ終わりそうですねぇ」
「大天狗」
バサリと横に降り立った彼もまた、江戸城の方を見やる。
「まさか、関東大妖怪の鬼神様がこうなってしまうとは。一体どれほどの力を持った人間がいたというのでしょう」
「……いや、これは鬼神様が妥協したわけでも弱かった訳でもないで」
「その通り…まぁ、眼の使いすぎやな。最後なんて多分あの眼の力を全部だしたんとちゃうか?」
「お狐様はさすがですねぇ、そうやって分かるなんて」
妙妖眼や、怨令眼……この手の眼のことを神力眼というのだが、これらは普通、その眼の持ち主の妖力、霊力の強さで持続させる。
それが弱ければ弱いほど、眼の開眼していられる時間は縮まり、なおかつ力も衰える。
それが、元々人間の鬼神は……
(憎しみと恨みの怨念。それだけであそこまで持続させていたっちゅうことか……)
「恐ろしい鬼…いや、人間やな」
「どないしたん?」
「どうかしました?」
「ん?あぁ、いや…なんでもない、気にせんとってや」
首を同じ方向に傾げる二人にくすりと笑うと、俺は帰ろう、と歩き出した。
二人もそれに頷き、俺より先をすたすたと歩いていく。
「お疲れ様。………ゆっくり眠りや」
俺は江戸城のほうを見ながら最後の最後に小声でそう言うと、一尾だけ白い白尾をふわりと振った。
*
「俺が死んだら…隠世のあやかしは消える…」
目の前の鬼は消え入りそうな声を必死に絞り出す。
「本当にこれで…良かったの…?」
自分の意思で鬼神をここまで追いやったというのに今更何を言うって感じではあるけど…
鬼神の身体も透け始めているし、もうすぐここの二人は…消えてしまうのだろう。
「外見てみて」
ふいにかけられた紅葉の言葉に、私はふらふらと力無く外が見える場所に移動した。
そこには…
「あ…」
色んな色の光の粒が渦巻く光景が広がっていた。
そしてふと背後に何かを感じ、振り返ろうとした時───
真っ赤な光の粒と、橙色の光の粒が目に飛び込んできた。
…それは、闇夜に浮かぶ数々の光の粒が、あやかし達が消える時にできたものだと私が気づくには十分すぎるものだった。
なぜならそれが鬼神と紅葉の身体から出た光の粒だったのだから。
そして部屋はその赤と橙の二色の光に埋め尽くされる。
声を出そうとするが、思うように出ず、なぜか涙ばかりがこぼれ、頬を濡らした。
涙で歪む視界の中に最後に見たものは鬼神の、今までに見たことのない、心の底からの優しい笑みだった────