秘書 玲子を世紀末オンナと呼ぶ理由(わけ)
フェライト製の大扉が開け放たれ、民衆がどっと外に飛び出した。
カチコチに凍ったドロイドをハンマーでたたき割る者、踏みつける婦人、足蹴にする子供たち。千℃以上で燃やされ一気にマイナス200℃近くに冷凍されて動かなくなったドロイドの筐体はまるで玉子の殻を手で握るようだった。剛性は消え失せ、ほんの少し力を加えるだけで砕けた。
「こりゃ気持ちいい」
「この弾ける感じが何とも言えへん。快感を呼びまっせ」
これまでに抱いたことが無い爽快な気分で足踏みを繰り返した。
壁の外に組み上がったドロイドのピラミッドは、土台となった一列を叩き壊すだけであとは自然崩壊する。見上げる村人の目はそれぞれに楽しげに揺れ、背後に対する警戒を怠ることとなる。
そう。ドロイドの進軍は囮だと気付くのに、しばしの遅れが生じた。
「きゃぁぁぁぁぁ」
女性の悲鳴がそれに気付かせてくれた。
俺たちにはまだなじみの無い地形で仕方がないのだが。例の合成樹皮製の田んぼに囲まれた土地には、地下に続く通路が点々とあり、どれもこれも屋根が低く、地上に突き出した部分がほんのわずかで、ほとんどが稲穂に隠れてよく見えない。その黒々と開いた地下道から続々とドロイドが顔を出し、あっという間に囲まれた。
「罠だ! みんな戻るんじゃ!」
遠くで主宰の声がし、
「早く中に入れ! 扉を閉める!」
大きな軋み音を出し、外に開け放たれた扉が閉まり始めた。
「いそげぇぇぇぇぇ」
怒涛の逆流を見る騒ぎで、民衆が壁の内側へとなだれ込む。俺も流れに任せて扉の隙間から中に入りかけた時だ。
「ジュジューっ!」
と言う悲鳴。続いて小さな子供の泣きじゃくる声。
瞬間、人の流れが滞り、一斉に振り返る。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
数体のドロイドが先頭にいた村人を捕まえ、地下道へ引き摺り込もうする場面を視界の端で捉えた。
「誰かが捕まったぞ!」
「早く助けろ!」
壁の中へ戻ろうとする人と救助に向こうとする人が衝突。しばらく揉み合いとなる。
パニックだった。
「落ち着けぇ!!」
主宰の叫び声。
「子供を助けるのが先じゃ!」
ジュジュが捕まった。
衝撃の事実を受け、勝手に俺の両足が急制動を掛けた。そして逡巡することなく足は踵を返して泣き声の聞こえた先を探った。
さっきまで俺の隣にいたのに、突拍子もない出来事に遭遇して意識が散漫だった。と今ごろ反省しても仕方がない。たぶん他の子供たちと飛び出してドロイドを踏んづけているうちに逃げ遅れたのだろう。
「ここはあたしに任せて!」
俺より先に引き返していたヤツがいた。
「足手まといだから、あなたは来なくていい!」
人を小馬鹿にするセリフを吐いて、自ら危険の渦中へ飛び込む女と言やあ──。
「なんだとこのヤロウ。バカにすんな玲子!! 俺がいなきゃ。お前がピンチの時、誰が助けるんだよ!」
こうやって俺はあいつに踊らされ、毎回迷惑をこうむることになるのだが、熱くなったらもう戻れない。スタートダッシュさ。バカの後を追う。
「あー、コマンダー。どちらへ?」
機敏に振り返ったナナが俺を追いかけて来るので、
「こら、ナナ。お前は足手まといだ。付いてくんな!」
「なんてこと言うんです。コマンダーがピンチの時、誰が助けるんレすかー」
「お前ってさ、俺の真似してないか?」
俺の後ろについたナナに首をねじって顎を突き出す。
「管理者製のアンドロイドは学習タイプですから」
「おもしろくねえよ、そのジョーク」
俺とはまるで違う美しいフォームを維持して、走る速度を上げたナナ。
生意気にも軽々と俺を追い越して行くのは、先頭を行く玲子から数日前に走り方を教わったからで、あっという間にヤツと肩を並べやがった。
「くそー。お前までバカにしやがって!」
連れ去られて行く村人は青年と女性。そしてやはり幼いジュジュだ。
女性は自分の足を掴まれ引き摺られて行く。悲鳴混じりで何度も幼女の名を連呼するところを察すると、ジュジュの母親だと思われる。
二人は激しく抵抗するものの力には勝てず、そのまま田んぼの中に引き摺り込まれて行った。
俺たちもヤツラの後を追って、稲の海に飛び込んだ。
「なっ!」
凄絶な状態に目を奪われ足を止めた。
稲穂が死角になり外から見えなかったのだが、中は稲が広く押し倒され、散乱するたくさんの衣服が目に飛び込んだ。村人の物に間違いない。
ドロイドの陰湿な手段を目の当たりにして震えあがった。ヤツらは稲穂たなびく茂みの奥に隠れていて、前の道を通る村人を後ろから襲い、田んぼの中に引き摺りこんで凶行を重ねていたのだ。
「せぇーい!」
先に追いついた玲子が飛び蹴りを食らわした。
不意を突かれたドロイドの右手が根元から折れて青年がそこから離れた。しかし引き千切れた腕の先が彼の足を捕まえて放さない。
「えっ!?」
玲子が戸惑って固まっていた。
「あとは任せろ! ほらっ、後ろからダルマ野郎が来るぜ」
片腕を失くしたドロイドが背後から迫っていたが、玲子はそれを素早く右へとかわし、真後ろに移動して猛烈な蹴りを頭部へぶちかました。
ドギャッ!
何とも言えない不気味な音をあげて、ドロイドの丸っこい頭が目の前に落ちてきた。
もしあんな蹴りを俺が喰らったら、どーなんだろうな、と想像しながら青年に飛びつく。
「だいじょうぶか!」
「はい。でもこれが……」
蒼白ではあるが意識はしっかりしており、気丈そうなのだが動きが取れない。胴体から離れた状態でありながら、ドロイドの腕が青年の片足を掴んで放なれない。
玲子は次々襲ってくるドロイドを右に左に避けつつ、順に蹴りを加えてぶっ潰していく余裕たっぷりな攻撃だった。
俺は華麗なる玲子の蹴りから、青年の足に目を転じる。
固く握り締められたドロイドの指を外すのに奮闘中なのだが、いっこうに緩まない。
「何だこの指。ロックされてんのか?」
いくら力を掛けてもびくともしない。
「も、もう大丈夫です。村に帰ったらロックを外す道具があります。人間の力では外れる物ではありませんから」
「しかし走れないだろ?」
「ここで脳内を探られなかっただけでも本望です。後は何とかします」
そんなやり取りに割り込んだのはナナだ。
「コマンダー。ワタシがやりますよー。どいてくらさい」
片膝を落として俺の脇にしゃがんむと、軽々とむしり取った。
「お前ねー。やり方が荒っぽいなー」
「いいんですよ。外れたらそれで。あ、はい。取れましたよー」
「なんとっ!」
目を見開いたのは青年だった。
「オババの言ったことは本当なんだ。あなたは白神様……。おぉぉぉ。か、み、さ、ま」
恭しく目をつむってしまった青年の肩をナナはポンポンと叩き、
「あのー。わらしわー。神様ではないれすよー」
「ほら、また言語レベルが落ちたぞ。それより青年、早く逃げないと、またとっ捕まるぜ」
ナナには呆れの視線を注ぎつつ、俺はひれ伏す青年を立ち上がらせた。
「村に帰らないと悲しむ人がいるんだろ? 後は俺たちに任せておけよ」
いつまでも走り出すのを躊躇していた青年は俺の言葉に大きくうなずくと、田んぼの外へと飛び出して行った。
ドギャン!
また一体、玲子の後ろ回し蹴りで頭部が吹っ飛ばされたドロイドが崩れ落ちた。
「せいっ!」
回転の反動を利用して今度は正面回し蹴りが炸裂。反対側にいた奴の頭が木端微塵となった。
「レイコさんかっこいい」
ナナは観客と化していた。
「§£★℄!$#◎」
一台のドロイドが何か声を出した。
ようやく玲子の動きが尋常でないと悟ったドロイドの集団が、ぐるりと俺たちを取り巻いたまま数歩下がり始めた。
そんな連中を玲子は猛禽類と同じ鋭い目つきで睥睨し、しんと静まり返った気迫で構え直すと相手と対峙した。
「どっからでも掛かってきなさい!」
そりゃすげぇ迫力だった。マジで敵に回したくないオンナだぜ。
「当たり前よ。あたしを敵に回したら後悔することになるのよ」
「へいへい。よく存じておりますよ」
威勢のいい言葉と態度を見て、俺は玲子の戦闘能力に一目置くようになった、あの日のことを思い出した。
あれは、まだ俺が舞黒屋に入社して二日目のことだった。
「── え? 歓迎会をしてくれるんすか?」}
「せや。ワシの片腕となって雑用をこなしてくれるんやろ? ほな歓迎するがな。どや。晩御飯でもおごるデ」
俺が自宅に帰ろうと、会社のでっかいエントランスから外に出た時のこと。黒塗りの高級車が待っていて、社長直々のお言葉だった。
この時、俺は天にも昇る気持で喜んだ。だってよ、この人は超一流会社である『舞黒屋』の社長さんだ。しかも横にはあの綺麗な秘書さんまで居て、ニコニコしてんの。俺ってラッキーボーイかな、って本気で思ったぜ。
誘われるままにクルマに乗り込むと、すんげぇ重々しい音がして扉が閉められた。
騒音も無くすぐに滑り出す高級車。揺れもしないし、こんなクルマがあったんだぁー、てのが感想だな。
会社を出た運転手付きの高級車は一流店の並ぶ繁華街を抜け──。
え? 抜けたぜ?
だいぶ経って、クルマは場末の街角で停車。
どんな高級レストランへ連れてってもらえるかと思いきや。オデンの屋台の真横でドアが開かれた。
驚いたさ。でも隠された名店かもしれないと考えたんだが、残念ながら普通の屋台だった。
「さぁ。何でも注文しぃや」
と言っておきながら、
「おやっさん。大根とコンニャクでええから、この二人に出したって」
「何でもって……ま、いっか」
なんたって俺の横には、屋台の小汚い椅子に超タイトミニのお姿で秘書さんが座っておられる。そんな彼女が2秒で中ジョッキを空にしようが、路上駐車したままの高級車が後ろから威圧してこようが、気持ちは舞い上がり天にも昇る気分。
やがて──。
なんでも注文しろと言ったくせに、大根とコンニャクを一対三の割合で食って、ビールを二杯飲むと、さっさと帰ろうとする社長。
「あー。よう食うた。ほなご機嫌さん」
秘書さんは急いでクルマの後部座席に飛びついてドアを開けた。
「お気をつけてお帰りください。奥様へはわたくしから連絡しておきます」
丁寧に頭を下げた。
「ほな。おまはんも適当にして帰るんやで。ここからは自腹やからな。何ぼ飲んでもエエけど、明日は遅刻しぃなや」
「はい。心得ております」
如才ない受け答えをして、彼女は頭を深々と下げた。
俺は息を飲んだね。二日分の呼吸を一度にしちまったさ。
鼻筋の通った端正な面立ち。首の後ろで結った長い黒髪を背中に泳がし、スリムでいて妖しく凹凸するボリューミーなボディを包み込んだレディーススーツ。短いタイトスカートから惜しげもなく伸ばされたセクシーな脚部。
どれをとっても百点満点のボディが街灯に艶かしく照らされて──ああ、なんて美しいんだ、って。
しばらくドキドキしてしまった。だって玲子のことなど、なーんにも知らないからさ。無知とは怖さを知らんのだな。いやほんと。
クルマはすぐに発車。続いて秘書さんは颯爽と胸ポケットから携帯電話を取り出すと、どこかへ連絡。会話の内容からして、社長の奥さんへの連絡のようだ。さすができる秘書は細かいところまで気が利くんだと、感心する俺の横にビールの大ジョッキが十個並んでいた。でも気にしなかった。だって彼女の優美で洗練された立ち居振る舞いを窺う限り、素面だったからな。
で、驚いたのはこの後さ。
「さて。裕輔さん」
そう。この頃、玲子はまだ俺のことを『さん』付けで呼んでくれていた。今じゃケチョンケチョンだけどな。
あぁ懐かしいぜ。初対面ではなかったけど、このとき初めて面と向かって喋ったんだっけな。
「お時間がございましたら。もう少しお付き合いできますよ。ただし実費扱いになります。ここからは領収書も受理されなくなります。社長はたいへんな倹約家でございますから」
だろうな──。
オデン屋で、マジ『ダイコン』と『コンニャク』しか食わしてくれなかったんだから、言われなくても想像はつく。でもさ、食事のことはもうどうでもよかったんだ。社内のマドンナ、秘書課の玲子さんと一緒に肩を寄せ合ってハイボールを啜ってんだぜ。もう死んでもいい。
俺の視線は彼女の前で積み重なるビールジョッキの山に固着していたが、千載一遇のチャンスに気が逸らされ、この人がまさかあんなウワバミだとは微塵も疑わなかったさ。
ほどなくして、ビールが無くなりそうだと屋台の大将が愚痴りだした頃。外で可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「ご、ごめんなさい。私は何もしていません」
「ぬぁんだとコラ。オレの足を踏んどいて、そりゃあねえだろ。ケガしたぜ、ケガ。おう!」
内心やっべぇーなと俺は思った。ここらのチンピラだ。住民は物静かでおとなしい人ばかりなんだが、こんなヤカラもまだこの世に存在するんだ。
ところが、だ──。
状況は予想だにしない方向へと進んだのさ。
「そんな汚い足は切り落として、あたしがスルメの足と挿げ替えてあげようか」
だ、誰だ。火に油を注ぐようなことを言うのは、って。れ、レイコしゃん?
「身の程知らずの言葉だな。オレたちがどこの組の者か知らないのか?」と外からドスの利いた声。
やっべぇー。モノホンじゃねえか。
こっちは喉の奥からバクバク脈打った心臓が飛び出さんばかりなのに、玲子さんは、
「知らないわねぇ」
頬杖をついた艶美なお姿で平然とビールジョッキを傾けているだけ。
「──それよりさ。あなたたちこそ、あたしの声聞いたこと無いの?」
ビビりあがった屋台のオヤジを見ながらジョッキをごとりと置き、
「あたしよ……」
後ろに半身を捻って、屋台の暖簾を片手で払った。
街灯の下。シルエットになった玲子さんが二人のチンピラの前で直立。俺はスタイリッシュな輪郭に震えた声を漏らす。
「お……お知り合いですか?」
「初対面です」
影の奥から超事務的な声が渡った。
「どゆこと?」
何が起こったのかよく解らないでキョトンとする俺を一人残して、事は進展していく。
「おめえ、誰だ?」
男は首をかしげ、玲子さんは闇の中から妖しく輝かせた目で睥睨する。
「舞黒屋のあたしを知らないとは……お気の毒ね」
「あー。玲子先輩、助けてぇ」
飛びついてきたのも結構可愛い系の女子。
「マナミじゃない。どうしたの?」
始めて顔を見た女の子。そう、この時マナミちゃんはまだ受付ではなく、一般事務のほうへ回っていたのさ。
「この人たちにからまれて……よかった。先輩がいてくれて」
恐怖に引き攣っていたマナミちゃんの表情が途端に緩んだのだが、いささか酔っていたせいもあり、まったく気付かなかった。
だがすぐに酔いが覚醒されていくことになる。
「あたしたちが舞黒屋の従業員っていうことを知らないで手を出したのね、あなたたち!」
悠然として腕を組む玲子さんに、体のデカイほうがぐいっと乗り出す。
「舞黒屋だか越後屋だか知らねえけどな。オレは! 警察でさえ一目置いてるマサって言うんだ。でかい口叩いてるとぶっ殺すぞ!!」
俺は瞬時に悟ったよ。こけおどしだなとな。そんな看板を背負って肩をそびやかし、ここらを牛耳ろうとしてんだ。
よし。なんとかなりそうだ。美女二人の前で命がけのカッコ付けだ。男ならここは少々無理してもやるべきだろ。
「ま、ニイさん。この子は俺たちの身内なんだ。許してやって、どぎゃぁぁっ!」
しょせん俺の人生なんてこんなもんなのさ、と悟ったね。手を出す前にそいつに叩きつけられて、地べたにべシャンさ。んげぇ力だった。重機のアームに張り倒されたのかと思ったぜ。
「ジャマだ。おっさん!」
あり得ない馬鹿力で屈せられたが、俺の驚愕は別のところにあった。
「ぬぁぁ!」
玲子さんの艶美な切れ長の目が野生動物みたいに鋭く尖っていたんだ。
「あんたたち流れ者? そっか、サンピンの兵隊なのね」
「ぬあんだとぉぉ!」
チンピラは喚き、俺も目元がピクつく。
清楚でお美しい秘書さんが、なぜにこんな特殊な用語を知ってんだろ?
地面に膝を着いたまま、俺は困惑した顔だけを向けて彼女に告げる。
「あからさまに喧嘩を売っちゃまずいっすよ、秘書さん。酔ってるの?」
「あれぐらいのビールでは、あたしは酔いません」
きっぱりと言い切りやがんの。屋台のビールをほとんどこの人が飲んだというのに。
まじぃなぁ。きっと酔ってんだよ。酔って見境無く絡んでんだ。
気の強い女子によくあるよな。気持ちだけの正義感。でも正義って力だもんな。
さっきまで酔いが少し足に来ていたが、この窮地をどうこなすかで、すっかり冴え渡っていた。
マサと名乗った男の後ろに控えていた少し小柄なほうが目の色を変えた。
「オンナ二人。こっちも二人。ちょうどいいぜ。オレたちの相手をしな」
ニタニタやらしい笑みを浮かべて近づく男が玲子さんに手を出しかけたので、これは一大事だ。俺も阻止しようと体を起こす──が、またまた凝固することに。
チンピラの腕を強く引っ張った玲子さん。その反動を利用して腹部に膝蹴りを入れた。
「がふっ!」
か弱そうな女性だと気が緩んでいたせいもあったのだろう。まともに喰らった男は変な声を漏らしてうずくまった。
「おほぅ。気の強い女は好みだ。オレはこっちをお持ち帰りするぜ」
骨太で強健なマサが玲子さんの前に立った。まるででっかい熊だった。
俺は腹をくくったね。今度こそラストチャンスだ。男として命がけで何とかすれば、
(あら裕輔さんって見かけによらず勇気があるのね)ってなことになり……少々怪我したって、むふふ、的な展開が待っていたりして。と妄想を膨らませる俺の目の前で、別の展開が始まったのだ。
「セエィっ!」
気合一発、長く綺麗な脚がピンと伸びて男の顎に猛打。目を見張るようなクリーンヒットだった。
う、美しい……いや、妖艶だと言っておこう。すごい!
「ぐぅぅぅ」
熊ヤロウが地面に崩れた。
あ、あの。秘書さん。ミニスカートってこと忘れていませんか?
こっちは喜びにまみれ、いやいや、驚きにまみれて息も絶え絶えさ。
「ぬ、のヤロウ!」
メンツ丸潰れさ。一人の女性に足蹴にされて倒れるワケにはいかないだろう。その道のスジ者としては。
ところがだ──。
「サァイッ!」
気合いの二発目。
微塵の容赦も無い強烈な後ろ回し蹴りが、立ち上がろうとしたマサの肩と頭を繋ぐ部分に喰い込んだ。
「ドゥウブっ!」
血しぶきを吐いたマサ。そのまま横に吹っ飛び電柱に頭をぶつけて失神。
俺は目をつぶっちまったよー。怖くてさ。
「あたしを敵に回すと後悔するからね。覚えておきなさい!」
あ、はい。覚えましたとも。脳裏の奥底に焼き付けました。いろいろと不埒なことを考えてしまって、どもすみません。絶対服従を誓います。
玲子さんは手をパンパンと払い、俺はなぜか彼女に向かって土下座をしていた。
これで終わりかと思ったのだが、悪夢はまだ続いたのだ。
「こんな路上でなに騒いでンだ。マサ!」
街灯の光と影の隙間から鬼瓦そっくりの厳つい顔がぬんと飛び出た。
「ぬぉぉぉぉぉ。デーモンだ!」
ちょっちチビったかもしれん。街灯にまで届くんじゃないかと思わせる巨人なんだぜ。
「あ。キムにいさん。い、いや。このオンナに手こずって」
道の上で痛みに耐えて丸まっていた男が、唸りを混ぜた声で説明。
「手こずるだと……?」
圧迫感を持った極低音の声音と共に、鬼みたいに赤いデーモン野郎の顔が俺を睨み、すぐに玲子さんへ移動する。
「オンナにか? 男じゃねえのか?」
怪訝な形相で、再度、玲子さんの白い顔とその背中で怯えたマナミちゃんを交互に見つめて、
「ぐわははははははは…………グヲッ!」
腹を抱えて笑った鬼瓦デーモンのミゾオチに秘書さんの飛び蹴りが沈んでいた。
赤い顔がみるみる青くなり、さらに白くなった後、再び真っ赤に、
「ぐぉぉぉ! このヤロウぶっ殺してやる」
鬼顔がさらに狂暴に。悪鬼だな、こうなりゃ。
悪魔の呪いにも似た様相でデーモン野郎が玲子さんに飛び掛かったが、風のような見えない動きで丸太みたいな二本の腕をひょいと避け、首の後ろからシャープな回転蹴りを捻じり込んだ。ついでに白い下着もちらり。
むおぅ。興奮が止まらん。いろんな意味でな。
「がふっ!」
後頭部を後ろから蹴られたら、どんな巨漢でも前へ屈むのは当然で。素早く前へ回った秘書さんの正拳突きが腹部にめり込み。間髪入れずにさらに二段構えだ。顎に一発。そして男の最もショックを与えてはいけないところへ強烈なトゥーキック。サッカーのゴール前なら確実にキーパーをなぎ倒して得点になったであろう猛烈な一打が入った。
「ぐばぉうっ!」
デーモン閣下は卑怯な攻撃を受け───コイツが卑屈な手を使うのは昔からなんだよ───また青い顔に変わる。って信号機かっ!
青の次に黄色くなった後、白くなったが、まだ「がぉぉぉ」って。
「うぉっ、すげえな。こいつ怪物かよ」
起き上がろうとするので、俺も加勢に入る。美女二人の前で震えている男ではない、というところを見せなくてはな。てな覚悟で、屋台の脇にあった空の一升瓶で思いっきり脳天をぶっ叩いてやった。
さすがの怪物も、ようやく後ろに倒れ込んだ。
両手を腰に当てた玲子さんが、整った面立ちに笑みを浮かべて俺にのたまう。
「あなたも、やるじゃない」
生まれて初めて見た女性の超眩しい笑顔に呑まれたな。
やがて電柱の陰でぶっ倒れていたマサの意識が戻り、
「キム兄さん! だいじょうぶっすか」
デーモン野郎に飛びつくが、こっちも意識がもうろうとしていた。
「あんたら藤原組の者でしょ」
「な、なぜ知ってる!」と青い顔して振り返るマサ。
「あたしの名は玲子。舞黒屋の玲子よ。極道の世界で生きていくなら、手を出してはいけない相手がいることを覚えておきなさい!」
すげぇよ。ヤクザ相手に啖呵切っちまったよ。この秘書さん。
胸打たれた。この人のそばに居たい……って、つい思っちまったんだ。
あ──。なんで思っちまったんだろ。これが悪夢の始まりだったんだよな。
デーモン野郎は相当な体力を持ったバケモンで、すぐにむくむくと半身を起こすと、血の気の失せた顔を向けた。
「舞黒屋のレイコ……」とつぶやくと、言い訳めいたことを低音で絞り出し、
「く、暗くてよく見ていなかった。まさか組長の……」
マサが飛びつき、
「組長の何すか? キムにい」
「マサ。引き上げるぞ。この人に手を出すな。舞黒屋にもな」
「なぜだ! キム兄い?」
おーっと、くだらない思い出話に時間を費やしちまったぜ。
そうそう、勘違いしないでくれよ。玲子はあっち系の人間じゃないからな。れっきとしたセレブのお嬢様さ。ただ藤原一家の組長お気に入りの女性だとキムさんは言いたかったんだな。何で気に入られたのかは知らない。怖いから俺は聞きたくない。




