第四の人格
なんと、悲鳴はカエデだった。
きつく目をつむり、歯を食いしばるカエデ。瞼の裏側で目玉がグルグル動いていた。
苦しげに顔を歪め、激しく体を突き上げてからぶっ倒れると床を転げ回った。続いて電気製品がショートした時のような激しいスパークがほとばしり、耳からうす紫色の煙が立ち昇る。
「だ、大丈夫なのかユイ。こいつ壊れたんじゃない?」
「分かりません。でもネブラが停止してインプラントされていた装置が焼けたみたいです」
相手が人間の姿なのに、中身は全く異なるのがよけいに混乱させられる。
しばらく手足を痙攣させてバタバタしていたが、ほどなくして瞼がゆっくりと開いた。
「ふぅ。何だか頭の中が軽い。あー。バウンダリスキャンのポートが燃えちゃってるのさ。どういうことかな?」
想像だにしなかった少女が立ち上がり、俺を驚愕させた。
容姿はカエデなのだが、この口調はこれまでに無い、やけに人懐っこさを感じさせる不思議な雰囲気を漂わせていた。
「カエデ、大丈夫か? 耳から煙が出てたぜ」
「あっはっ。うっそ、それほんと? そりゃあ、吃驚仰天よね。たぶん大丈夫だと思うけどさ。自己診断してみるさ」
どこか打ち所が悪かったのか、何だかとても馴れ馴れしい。でも今までの中で俺的には最も好感触だ。
「最初に倫理回路の辺りを重点的に知らべたほうがいいですよ」
優衣も不安そうに落ち着かない様子。
「がってんさ」
再び目をつむって、数秒後。
「倫理回路正常。論理デバイス正常。キネマティックコントローラー異常なし。ハイプライオリティインタラプト……あっ」
「な、何だよ?」
「エモーションチップがレッドモードだ」
そんなことを言って俺に愛らしい目を向けたって知らん。何て答えたらいいんだ。
そりゃよかったね、か?
それとも、そりゃ大変だ、か?
まだ頭が痛いと言ってくれたほうが答えやすい。
「バカだね。あたしたちに痛みを求めるのは、あんたが生命体のつもりで接して来るからだよ。どんなに強く抓られたって痛いこと無いもん。と言うかさ。痛いって何? どういう感情なの?」
それは刺激の一種で感情じゃない。それより。
「誰? こいつ」
こんな人格を見せるカエデは初めてだ。
「ワタシたちには痛みはありませんが、人間の言う苦痛に近いものは備わっています。それは危険から逃れるために必要で、より強いショックをボディに受けるほど、その刺激が多く出るような仕組みになっています」
「そうだっけ? じゃラッキーじゃない。今のあたしにはそれが出なくなってるもん。エモーションチップがレッドモードってこういうことなんだ」
一体どうなったんだよ。こいつ。
「レッドモードって壊れたってことなのっさ。キミ」
「キミ? 軽いな。何だその軽さ。本当にお前はあのカエデなのか?」
はっとして吐息する。
「もしかして、これがこの子の本当の姿なのか?」
このカエデがこれまでと異質なのは、俺に対する侮蔑の態度が消滅していたことだ。それからあまりに人懐っこい。それがよけいに怖さを倍増させる。
だけど優衣は歓迎するかのように明るく言う。
「450年間ネブラに牛耳られていた部分がたった今、解放されたのですよ。いい意味で新たなカエデさんの誕生ですね。うれしいことだわ」
「タイプ4のエモーションチップが故障したおかげで、素のカエデになったということか?」
カエデは恐々と接する俺たちを一顧だにせず、嬉しげに両手を広げて自分自身を見た。
「これがあたしなの?」
「みたいだな。詳しいことは帰ってからニールに訊くといい」
「誰それ?」
「説明は仕事が済んでから詳しくしてやるさ。今は時間が限られてんだよ。1時間も無い。それまでに終わらさなければいけない」
「ふーん。何するの?」
なんとなく茜を連想させられるのは、そのまったり感が同じなせいだ。
「まずは次元シールド止めてくれ、それがすんだら重力制御システムの場所を教えて欲しい」
「簡単なことなのさ。両方同時にだってできるよ。だってさ、次元シールド制御も重力制御室の中にあるんだもん」
「そいつは好都合だ。すぐ行こう」
「こっちさ。ついておいでよ」
カエデはうなずくのと同時に走り出し、追いかけて来る優衣へ首だけを捻った。
「でもさ、なぜデバッガーが止まったんだい?」
「ロジカルワームっていうコンピューターウイルスのせいなんです」
「あっはっ。コンピューターウイルス? 何それ。古代人の考えたイタズラじゃん。こっちは常にセキュア状態なんだよ。そんな古臭い妨害工作にネブラが対応できないはずが無いよ。あははは、おかしぃ」
カエデは爽やかな声で、明るくカラカラと笑った。
「後から仕込もうったって無理なのは百も承知。でもな、俺たちはネブラが誕生する前から仕込んでいたのさ。気が付いたのはちょっと前だけど……」
ところで急げと言ったけど、もうちょいゆっくり走ってくれないかな。疲れを知らない二人に追従するのは結構厳しい。息が切れてきた。
先頭を走っていたカエデがぱたりと立ち止まり、しんがりから駆け寄る俺を待ちながら、あふれ出してくる言葉を綴っていく。
「プロトタイプか。そっか。でもなぜ今ごろ……あ。MSKね……あ――。起動コードが含まれてるじゃん……ぷっ」
カエデはもつれた糸が解ける快感に浸るように声を躍らせて、俺が追いつくとまた走りだした。
「おいおい。心臓がパンクすっぞ」
この陽気さがカエデの本来の姿だとしたら画期的だ。これがスン博士の求めていた新型のアンドロイドなのか。ネブラに操られ内部構造を引っ掻き回された果てに、部分的に破壊されていいほうへ倒れたのか?
とりあえず詳細はニールに任せよう。何とか連れ帰ってまともな人生を歩ませてやりたい。
思考を巡らせつつ、スカートの裾を風にはためかせて走る少女を追いかけ、俺は細い通路をひたすら駆けた。
機能停止をしたネブラの内部はどんどん気温が下がってくる。マラソンをするにはちょうどいいのだが、そろそろ足が付いてこない。
どんどん遅れだす俺に振り返りカエデが言う。
「ちょっとキミ。バテてる暇は無いよ。この先にあるターボリフトに乗るかんね。でないと1時間以内に着かない。さあ、サクサク行くよー」
「あのな……」
間違っちゃいないので何も言えないが、何だか拍子抜けさ。
ジト目で見る俺に笑みだけを返して、カエデはぐんと走る速度を増した。おかげで人間様はますます窮地に追い込まれる。こいつらについて行けるのは、玲子ぐらいのもんだ。
どれほど進んだのだろうか。途中でターボリフトに乗り換えた。そしたらその速度の凄まじさに呼吸を整えるどろこではなかった。
「リフトって……これじゃあ、ロケットだろ」
「ネブラがどれだけ広いか知ってるだろ。このターボリフトを使っても主要部間を移動するのに20時間はかかるんだぜ」
解っちゃいるが、にしたってネブラの施設は広大だ。端が見えないほど広い施設にぎっしりと並んだデバッガーの動かぬ緑黒い海に息を詰め、天を突く巨大な装置に固唾を飲み、やがて俺の脳細胞が打ち寄せる驚愕に耐え切れず、酸欠だと騒ぎ出す頃、ようやくカエデの足が止まった
「さぁ着いた。この向こうが重力制御システムなのさ」
分厚く、どでかい鉄の扉の前で、カエデは人物を紹介するみたいに手を広げ、優衣は探索装置を壁にかざしてうなずく。
「間違いありません。この奥でマイクロブラックホールを利用した大質量変動が観測できます」
視線を交わす俺と優衣に、
「ちょっといい?」とカエデが切り出し、
「どうするつもりか知らないけど。この中には167個のマイクロブラックホールを固定したリアクターがあるんだよ。知らないとあれだからひとつ忠告してあげるのさ」
厳しい眼差しで優衣を見つめ、さらに続ける。
「滅多なことはご法度だよ。10万倍に圧縮された時間流の中でここを破壊すると、数光年の空間を引き摺って爆縮するっさ」
「だから先に次元シルードを止めて欲しい」
「なるほどね。お安いご用さ」
うなずきざまに俺へウインクをくれた。
「なんかお前、可愛いな」
「うへっ。変なこと言うなよ、ユースケ」
カエデは指で唇と鼻のあいだを擦りながら、にへらと笑った。
「意味わからないよ。そんなときはどう答えたらいいのさ?」
「へへっ。俺もよく解らん。けど喜んでいいじゃね?」
白い花が咲いたように破顔するカエデが俺には天使に見えた。跳ね上がる鼓動を自制しつつ眩しい笑顔を眺める。
「ま、これからもっと勉強していけばいいんだ」
「アカネみたいにかい?」
「ああ。そうさ」
「……しっ! 誰かいます!」
優衣が唇に指を当て、俺たちの会話を遮った。
部屋の奥で物音がした。重々しい物体を動かしたときと同じ音だ。これまで森閑とした状態だっただけに、今の音は聞き捨てられない。
「全部のデバッガーが停止したんじゃないのか?」
音は確実に近づいて来る。
「MSKをインストールしなかった筐体がいるんだよ」
楓の言葉を聞いて、自然と俺の体が強張った。
「なんでだろ?」
「きっと、過去から帰ってきた連中さ。いろいろな時代を常に巡回してるからね」
奥の薄暗闇をキラキラした瞳で見据えるカエデの背中から、俺は震える視線を引き剥がし優衣へと滑らせる。
「見つかる前にこの場所をシロタマに知らせるのが先決だ。ユイ、すぐに始めてくれ」
手段は知らない。シロタマからMSKで知らされたのは優衣だけだ。
「スキャン装置にビーコンが仕込まれてるそうです。それをここに置いて行きます」
シロタマ製の不細工なカタチをした装置をポケットから出して、鋼鉄製の扉の真下に置いた。
「ビーコン付きとは……シロタマの奴、芸が細かいな」
「それではカエデさん。転送装置へ行きましょう。銀龍へ戻ります」
カエデは呆れ気味に上体を反らし、
「簡単に言ってくれるね。転送装置へ行くには音のする部屋を通らなければ……あ」
真っ直ぐな視線が俺の背後のさらに奥を指していた。
「ぬぁ!」
振り返って息を飲む。行く手を3体のデバッガーが遮っていた。




