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アカネ・パラドックス  作者: 雲黒斎草菜
《第四章》悲しみの旋律
243/297

  時を繋ぐ糸  

  

  

 落下する流砂と白い瓦礫の渦に体は揉みくちゃにされ、頭の中では謎や疑問がいくつも入り乱れて、思考力はゼロに近かった。

 ……………………。

 自分の鼓動がうるさかった。

 とくん、とくんと脈打つ音を聞いて徐々に目が覚めていく。


(……何が起きたんだっけ?)

 とくん。とくん。


(そろそろ起きなきゃ……)

 とくん。とくん。


(あれ? 動けない)

 とくん。とくん。


(オーバヘッドディスプレイ……だ)

 とくん。とくん。

 そう目線の少し上で水色の小さな文字が見えた。

(脈拍89……呼吸12……酸素残量1時間32分……なんだ? これって防御スーツのマスクじゃねえか?)


「あ――っ!」

 自分で出した声に驚いた。耳が痛くなるほど大きな音だったのだけど、

(落ちたんだ!)

 ようやく途絶えていた思考力が復帰した。

(35分も経ってる……)

 ディスプレイの時刻を読んでようやく把握できた。落盤と一緒に崩れ落ち、粉砕したドームの瓦礫に埋まったまま、長いあいだ静寂に晒されていたことを。


(暗い……)

 マスクの外は暗闇だった。ディスプレイの水色の文字列以外は黒一色に塗りつぶされていた。

 体を起こそうとして力を掛けるがまったく動けない。気だるい疲労感が全身に広がって、何だかとんでもなくダルかった。

(埋まったんだ)

 自分の出した結論を思い浮かべた途端、猛烈な恐怖が襲ってきた。


 玲子が言っていた圧迫感、何も見えない閉塞感。それがヒシヒシと押し寄せてくる。

(まずい。生き埋めなんだ)

 さらに加わる暗黒の恐怖が色濃く迫ってきて、息が詰まりそうになった。


「アカネ! どこだ? 返事しろ! アカネ! どうした、返事するんだ!」

 立て続けに叫んで、ようやく落ち着きを取り戻した。


(俺がパニック起こしてどーすんだ)

 つい先程まで玲子に落ち着けと言っていた俺が、今度は逆の立場になっていた。


 冷静さを取り戻すために、深呼吸を何度か繰り返し、まったく異なることを考えようと努める。

 そしたらどいうワケか、髪をほどいた玲子の整った面差しを浮かべてしまった。

(何でお前が出てくんだよ)

 文句を言ったところで、所詮パニクった俺の頭がおかしいからで。深い意味など無いはずだ。


 体育会系のあの女は、シャワー上がりに濡れた黒髪をなびかせて、薄着のままよく銀龍の食堂へ顔出す。あの時のほんのり頬を色付けたヤツのセクシーなこと。

(つい、見惚れてしまうんだよな)


 それから一緒になって酒を交わし、笑い合う光景が次から次へと入れ替って消て行った。

(あいつと呑むと、不思議と意気投合する。素面の時は喧嘩ばかりなのに。酒の力は偉大だ)


 続いて、これまで玲子とやらかしてきた破天荒な出来事が、アルバムをめくるかのように瞼の裏を通り過ぎた。

 ザリオンに拉致られ、まさに奴隷市場に売られる寸前からの大逆転。今やザリオン連中を顎でこき使っている。


 そう言えば……。

 3万6000光年の彼方へ丸裸で送り込まれ、殺人ロボットの大群に押し寄せられたこともあった。あの時は超新星爆発に助けられたんだ。星の爆発だぜ。それを目の当たりにしたのに、ほらこうして無事だった。まだナナがいた頃の話さ。


『スケベ馬鹿!』


 忽然と玲子の声が聞こえた。

 それは幻聴だ。鼓膜を圧迫するほどの静寂の中にいると、なんでもない音が言葉に聞こえても不思議じゃない。

 だけどそれに反応してやる。おもしろいからな。


「俺はバカじゃねえ!」


『スケベは認めるのね』


「そうさ。スケベは認めてやるぜ」

 ははは。これがオレたちの合言葉みたいなものさ。

 さばさばして気分になって、マスクの中で叫んだ。

「スケベバカで上等だ! お前だって喧嘩バカだろ!」

 するとどうだ。胸がすっと軽くなり、いつの間にかほくそ笑んでいた自分を自覚して驚いた。


 すっかり冷静になった俺は、

「まずは明かりだ。人間は光を頼る動物だからな」

 声に出して自分に言い聞かせ、ついでに玲子の笑い顔に決意を告げる。

「こんなところで埋まってる俺じゃぁねえからな。みてろよ。ぜってぇ帰ってやる!」


 急激に血がたぎり、活気付いた。

 照明を点けるボタンは腹の下、ベルトにある。右手は腰のほうに曲がっていたが、左手がうまい具合に胸の辺りにあったので、手を伸ばすと意外とすんなり動いて、照明を点けることができた。ついでに通信機が起動していないことに気付いた。落下のショックで電源が切れていたのだ。


 さっと明かりが点きマスク内が真っ白に光り輝いた。見るとガラスの向こうが白い粉に完全に埋まっており、しかも頭より足のほうが上になっていて血が上りそうな体勢だった。


 少し弛緩できたのは防護スーツにそれほどの重みを感じないこと。たぶんあまり深いところまで沈んでいない。あるいは、この粉末が相当に軽いかのどちらかだ。

 手の先に固い物が触れたので、握り締めてみると簡単に砕けた。硬かったのはドームの外側だけで、内側は相当もろいようだ。



 通信機の電源を入れ直して、再度呼びかけてみる。

「アカネ! 聞こえるか、アカネ?」

 通信機は故障していない。返事がなければ互いに大きく離れてしまったか……あとは。

(いや。アカネに限ってそんなことはない)

 自分で出しかけたもっとも恐ろしい結論を急いで否定する。


 しかし返事がない……。

 空いた時間が恐怖にしか感じなかった。

「アカネー!」

 無意味なのだが、無線機相手につい大声になった。


《なんれすかぁ?》

 強張っていた力が一気に抜けた。

《コマンダーも生きてますねぇ、よかった。次のコマンダー候補探すのメンドクサイんスよ》

 幻聴ではない。はっきりとスピーカーから流れてきた、少し鼻にかかった甘えた感じの残る声。


「お前、のんびりしてんなぁ。俺たちは二重遭難をやらかしたんだぜ」


《ですね~。帰ったら怒られますよね》

「道草を食った子供みたいに言うな」

《え~。道草って食べられるんですかぁ? 今度ご馳走してくらさいよ》

「ああ。タダだからいくらでも食っていいぜ」

《たのしみですぅ》

「お前はウサギか!」

 能天気な会話を繰り返してくれたおかげで、恐怖心は消え去っていた。


「それより、お前は埋まってないのか?」

《あ、はい。いまコマンダーが埋まった辺りを掘ってます》

「よし。助かったぜ。さすが管理者製のアンドロイドは高性能だ。で、俺の位置は解るのか?」

《マスクのディスプレイに同期信号を受信するようにしてあります。近づけばお知らせが来る仕組みです》

「いいぞ。ちゃんと勉強してんじゃねえか」

《わたしをおバカちゃんみたいに言わないでくださいよ。一度聞けば絶対忘れません》

 俺も茜の位置を確認しようと試みるが、こっちのレーダーは止まったままだ。起動ボタンまで手が届かない。


「じゃあ。早急に俺を探し当ててくれ。俺は埋没したようで身動きとれんのだ」

《あ、はーい。急ぎまぁす》


 ありがたい相棒の心強い言葉にひと息ついた。なんだかんだ言っても頼りになる。

 救出を待つあいだに俺は滑落前に見た光景を反芻してみた。


 なぜ防護スーツが落ちてきたかだ。

 一つ言えるのは、玲子ではない。もしそうだとしたらミカンが空中で落したことなる。だが飛行中にハッチが開くことはないし、救命ポッドの底が抜けるなんてことも、ミカンはそんな間抜けなロボットではない。


 となると、誰かが銀龍から落ちた?

 最後の連絡をしてきた社長の口調は平静そのものだし。じゃあ、詰まる所……ありゃいったい何だ?

 ついでに白状すると、茜を連れて逃げることと、落ちてきた防護スーツにばかり気を取られて、黒い物体は人のカタチをしていたかどうかさえも覚えていない。

 結局、考えは何ひとつまとまらなかった。


 その時。

 突として俺の片ほうの足首が掴まれて、グイッと引き上げられた。そのパワーは力強く。まるでクレーンで吊られるようだった。


《コマンダー、みっけぇ~》

 片手で軽々と俺を掲げて茜が笑っていた。まるで釣り上げた魚を自慢げに見せるかのようだ。


「こ、こらアカネ。雑に扱うな。俺は魚市場の鮮魚じゃねえぞ」


 丸く見開いた目をした茜が、どさりと俺を降ろすと、両膝を落してこう言った。

《でもビックリしましたねぇ。まさかおユイさんとデバッガーが落っこちて来るなんて》


 何だよ、お前っ!

 あり得ない告白より、その明るい声に一瞬呑まれ、次に驚愕した。

「ユイか! あの防護スーツはユイだったのか!」

 改めて戸惑い、

「何でユイなんだ!」

 最後に慄き、辺りを見渡した。


「デバッガーだとっ! ど、どこだ?」


《ユウスケさん。無事ですか?》

 鼻に少し掛かる甘い声音がマスクのスピーカーを通して渡って来た。


「ユイっ!!!!」

 通信機から渡る声は優衣だ。目視ではどこから声を掛けてきたのか解らない。前方には茜がいるだけ。その茜を支えにして、歩きにくい瓦礫の山を旋回する。

 果たして俺の背後に立っていたのは優衣だった。マスク内で照明に浮きあがる可愛らしい顔立ちは紛れも無いが、なぜお前が空から落ちてきた?


「どういうことだよ優衣。俺たちの救助に来たのか? でも空から落ちて来るって尋常じゃない登場の仕方だぜ」


 普通に考えたら異常事態なのだが、俺が安穏としていられるのは茜も優衣も落ち着いているからだ。そしてその説明もゆったりとしたものだ。

《アカネを狙ってネブラがデバッガーを送り込んで来たんです。でももう大丈夫。ワタシがパワーモジュールを抜いて機能停止させました》


 茜を狙ってデバッガーが来た?

 銀龍ではそんな気配はまるで無かったぞ。それともここに落ちてからの話をしているのか?


「お前は空から落ちてきたんだぞ」


 夢でも見ているような混乱した思考が浮かび上がり、どうもうまく整理できない。

 あり得ないシチュエーションに戸惑って、考えを巡らせて固まってしまった俺に、優衣はぺこりと腰を折った。

 マスクから漏れる強い光りが揺れ動き、

《驚かせてごめんなさい》

 と言った。


 俺の顔色を窺うように、にこやかに微笑みつつ頭を上げたのは間違いなく優衣なのだが、栗色のボブカットだった。銀龍にいたのは黒髪セミロングでポニテだ。となると。

「また異時間同一体のユイだな。どの時間から来たんだよ?」

 ジフカでは同一時間流の優衣が大勢現れて、いいように振り回されたため、すぐにピンと来た。


《ごめんなさい、あまり時間が無いの。74秒以内にあのデバッガーを消滅させないと、ネブラは別のデバッガーを送ってくるわ》


 そう言うと優衣は足下の白い瓦礫を掘り出し始めた。茜もけなげに再開するところをみると、どうやら俺を引き出す前からその作業を二人で続けていたようだ。


 俺も手を出し、ついでに尋ねる。

「そこにデバッガーが埋まってるのか?」

《はい。ワタシが抹消される時間帯へ連れて行きます。そうしたら完全消滅が可能なんです》

 思い当たる単語にを耳にして、胸がズキリと脈を打った。


「お前が抹消される? どういう意味だよ?」


 黙って作業を再開しようとする優衣の肩を掴もうとした時だ。

「あつっ!」

 飛びついた指先と優衣の肩とのあいだで、パシッと火花が散り、細かな火の粉が、優衣のスーツの表面を転がって落ちた。


「お前――っ!」


《気を付けて……。ワタシは抹消する側のF877Aです。裕輔さんとは次元が違うため触れ合うと反発現象が起きます》


「ウソだろっ!」

 さらに鼓動が跳ね上がった。栗色のボブカットを見た瞬間からそんな予感がしていたのだが、それが的中した。


「お前……メッセンジャーと一緒に銀龍の外に落ちた……お前か……」

 腕に受けた外的な拒否によるショックよりも、精神的に受けたショックのほうが大きかった。目の前が暗くなってぶっ倒れそうだ。

 胃の中から込み上げてきた苦いモノに混ざって言葉が次々と滲み出てきた。


 優衣はしばらく無言で瓦礫を掘り進み、茜は積み上げられていく破片を黙々と片付けている。

「………………」

 穴を掘り広げる手の動きを少し止めて、優衣はまるで人みたいに吐息した。

《そうです。レイコさんを助けた後、真空の宇宙に吸い込まれたワタシです……でも……》


「でも。何だよ?」


《時間軸が消滅するまで、まだ58秒残っています》

「何のカウントダウンだ?」

 穴掘りの手を止め、俺も腰を伸ばした。


《ワタシに残された時間です》

「なっ!」


 信じられん。


 時間軸の消滅――凍りつきそうな言葉を思い出した。

 あの時、玲子が死ぬという歴史をネブラが企て、操られたメッセンジャーが実行した。しかしこの栗色の髪をした優衣が自らの命を犠牲にして、それを阻止した。玲子が救助されるという時間の流れに変えたんだ。


「信じられない!」

 同じ言葉しか出てこなかった。


 玲子死亡と刻印された時間軸が抹消される寸前に、こいつはまたここへやって来て、再び俺たちを助けたというのか。


《10秒もあれば、ワタシには何だってできますから》

「なんでそんなに楽しそうに言うんだよ!」

《だって元の次元に戻れば時が進みますが、ここにいる限りは停止したのも同然なんですもの》

 呆気に取られた。

 以前、社長が言っていた。優衣は無限の時間を持つと。だからといって次元が消え去るまでの、たった1分弱を楽しむかのような振る舞い。到底信じられるものではない。


 返す言葉が喉の奥でつっかえて出てこない。

 何も言えず、かといって何もしないわけにいかず。白い土砂を掘り起こす作業に戻ることで、かろうじて平静を保てた。

 砂よりも軽いパウダー状の物質に埋まった物を3人で掘り出すのは容易い。30秒もしないうちに人型の大きなボディが現れた。


「デバッガーだ!」


 間近で見るのは久しぶりだが、黒緑っぽく光る金属の光沢は忘れない。その怖さは戦慄と共に脳裏に焼きついている。


 筋肉質の男性をイメージさせる立派な体形はゆうに3メートルはある。最後に会った時よりも大きく感じたのは、仰向けになり手足の先までピンと伸びて大の字に広がっていたからだと思う。そしてこいつの特徴でもある、体の割りに小さな頭に付いたスリットの中は黒々としていた。


 機能停止させられたデバッガーはタダの木偶人形なのだが、その生々しいまでの威圧感は凄まじいものがあり、近寄るのも怖い。

「こんな奴が500兆も集まってんのかよ」

 ネブラの状況を想像して背筋に寒気を走らせた。


《よいしょっと》

 優衣は黒緑色に光るボディに飛び乗ると、デバッガーの胸辺りをブーツの底で二度ほど蹴り、伝言めいた口調で言う。

《ミカンちゃんをこっちに連れて来てから、少し歴史が変化してるんです》


 俺は「ああ」とうなずいてから、

「らしいな。それは俺とミカンを助けるためにやむ得ずに取った行動だと、お前から聞いたぜ」


《今回の事件も同じです。アカネの記憶では、バブルドームに落ちたレイコさんをミカンちゃんが救助に行く歴史は無くて、実際は(やぐら)を立てて、ロープで引っ張り上げたんです》


 まじかよ……。


《だからここに落ちたのが正しい流れなのか、そうでないのか、この時間軸のワタシはすっごく戸惑っていました。そこへ、ネブラの時空ハブが放出するトランスワープサインを感知して、咄嗟に消滅寸前のワタシに助けを求めて来たんです》


 信じられない話かもしれないが、優衣と茜は同じ時間の流れの中に存在するアンドロイドだ。これを時間のパスが通るというらしい。まあ言葉の定義などどうでもいいんだが、優衣は茜の数百年先の存在で、茜が経験していない未来であっても優衣は経験済みとなる。10年前の自分と10年後の自分に置き換えてみるといい。10年前の自分はこれから始まる10年間の経験はまだ何も無い。ところが10年後の自分はそれをすべて把握済みだ。


 だが問題にするのはここではない。いいかい、よく聞いておくれよ。時間のパスで繋がった二人がいる状態で、不変である時間平面に手を加えたらどうなるか。つまり歴史の改ざんである。

 そんなことをできる奴はいない。そう以前の俺の考えがそれだった。だが今となってははっきり言い切れる。確実にいる。


 歴史に手を加えられるとどうなるか。時間のパスで繋がった未来人には改ざん前の記憶と改ざん後の二つの記憶が発生する。これを記憶の二重化と呼び、未来と過去の時間の隔たりが大きいほど二重化している時間が長いと言う。優衣の場合は74秒。これだけのズレを生じて記憶が一本化していくらしく、その間に改ざんを発見できる。これが茜を歴史の羅針盤と呼ぶ理由さ。


 ところがだ。よんどころない事情でミカンを連れて来た時から、わずかだが茜の記憶が優衣の記憶と食い違って来ているのだという。




「よりにもよって、なんでお前が来たんだよ」

 さっきから俺の胸が激しく痛いのは、レイコや俺を助けるためにこの子は自分を犠牲にした。なのにそれを知っているのが俺だけだということさ。


 優衣は微笑みかけるように顔を傾け、

《想定外の時空修正は同じ時間軸のワタシにはできません。それで消滅時間軸にいるワタシが起用されました。宇宙空間に吐き出された後、時間軸を飛び越え、この時間の格納庫に残っていた、あのスーツを着込んでデバッガーの背中に飛びついたんです》


 頭の中で閃光が走った。衝撃だと言ってもいい。長いあいだ悩んでいた問題が解決した。

「次元が消滅したはずなのに、なぜあのスーツだけが消えないのか、ずっと疑問だったんだ」

 複雑に絡み合ったモノが(ほど)ける快感を覚えた。


「この時のためにあの防護スーツは消えずに残っていたのか!」

《そうです。これが時間項と呼ばれるモノです》


 いつだったかシロタマが説明していた。

 時間項とは因果律を構成するパラメーターの一つで、一連の流れがたとえ変わったとしても、それは不変のモノだと言う。ようするにあっちの時間軸にあったスーツはこの時の因果と繋がっていたため、時間軸自体が消滅した後でも、まだ存在していたワケだ。


 急激に落ち着かない気分に苛まれ、体がぶるぶる震えて猛烈に胸が締め付けられた。

「ちょっと待ってくれ。ここでそのスーツを持って行っちまうと、もうスーツは消えるんだろ? ということは……俺の記憶も消えるのか? あの時、お前が玲子の命を救ってくれた大切な想いこれを最後に抹消されるのか? イヤだ! お前のことはぜったい忘れたくない!」


 優衣からの答えは無く、ゆっくりデバッガーの横に飛び降りると、

《それじゃあ。この筐体(きょうたい)の処分はワタシがやりますので、あとを頼みますね》


 慌てて優衣を呼び止める。

「ちょ、どこへ行くんだよ」

《どこって?》


 目を見開いた優衣は、ちょっと困ったふうに首をかしげ、

《元の時間軸に戻るんですよ。次元の抹消と一緒にこのデバッガーも消し去ればネブラにも気付かれません。最初から無かったものになるんですから》


「ば、バカな。そうなったらお前も死ぬんだぞ。それなのに帰るのか?」


《ワタシはアンドロイドです。死など定義されていませんし、ワタシの時間軸は消滅するのが運命です。このデバッガーと同じ。最初から何も無かったことになります》


「意味解らんぜっ!」

 無意識にマスクの中で叫んでいた。

 自分のバカさ加減に呆れる。防護スーツのマスクをしたまま叫ぶなんて――耳がジンジンしていた。


 優衣は平然と、そして平淡に喋る。

《それが時間規則なんです》

「ユイ! この時間軸に留まれ。そうしたらいい。みんなでやって行こう」

 ちょっとの間が空いたが、


《ありがとう。でも行きます。ワタシはアーキビストなんです。時間規則を守るのが仕事なの》

 くいっと顎を上げて、俺を見据える瞳がマスクの中で色濃く輝いていた。


「あの時、お前がいなくなって、俺がどれだけ悲しんだと思ってんだ。胃に穴が空きそうになったんだぞ!」


 優衣は防護マスクの中でうふふと笑い。

《レイコさんがいなくなったら、そんなものじゃすまないくせに……》


「ユイっ! 行くな!」


《ユウスケさん……》

 彼女は決然と俺を見つめた後、俺の隣に立つ茜を指差した。


《ワタシは消えるわけでありません。ほらそこに立ってるでしょ。その子の未来はワタシに続いています。そしてワタシたちをネブラへと導く羅針盤でもあるんです。今回のような歴史の改変が起きても対処が可能なのはアカネがいるからなの。だから絶対に守って。でないとワタシの時間軸が根底から無くなってしまいます。そうなるとみんなと会えなくなる……》


 優衣の言葉は途中で消えた。風に飛ばされた砂粒みたいに、デバッガーもろとも俺の前から閃光と共に消滅した。



「ユイ……」

 足下に乗用車でも掘り起こしたのかと見紛う大穴がある。それはたった今、そこに優衣とデバッガーがいたことを物語っていた。

 俺は倒れ込むようにして、穴の底へ駈け下りた。途中でひっくり返ったが、そのまま転ぶに任せた。どうでもよかったからだ。


「ユイィィィィィィィ……」

 叫んでみたって、あいつが戻ってくるはずはない。


「くっそ! ぜってぇ俺はお前を忘れないからな!」

 悔しくって悔しくって、握っていた白砂を地面に投げつけたが、それは煙となって散るだけだった。


《コマンダー……》

 穴の上から茜が覗き込んでいた。


 マスクの中で天使の微笑みが展開されていた。その笑みの先に優衣の気配を感じ取り、思わずつぶやく。

「ユイ……」

 この子がやがて歴史を歩んでいずれ優衣になり、またここにやって来る。この流れの(みなもと)が茜なんだ。


「これが時を繋ぐっていう意味か? アカネ……」


 屈託のない表情のまま、茜はコクリとうなずいてみせ、

《さぁ。救助を待ちましょう、コマンダー》

 ずるずると崩れてくる穴の縁まで駆け登った俺の右腕を茜は力強く引っ張り上げた。

  

  

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