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後編

 勝が扉を蹴ったものの、何かで中から押さえているのかドアは開かなかった。だが、あまりの粗暴さに俺はとっさに振り返り声を張り上げた。


「勝っ!何してるっ!」

「何って、蹴ってんだよ」

「扉は蹴るもんじゃねぇ!」

「わかってるよっ!でも、ドアは話しかけるもんでもねぇだろっ!電話の受話器じゃねぇんだよっ!」


 勝がそう返してきたと思うと、ぐいっと俺と扉の間に入り込むように立った。そしてさらに声を張り上げたのだ。


「姉ちゃん、わがままもいいかげんにしろっ!」


 思わぬ勝の言葉に、俺はまだまだ小さい勝の肩をつかんだ。


「おまえっ……」

「父さんは黙ってろよ、姉ちゃんに振り回されてるだけじゃん!」


 勝は振り返って真っ赤な顔をこちらをキッとにらむと、また扉に顔を戻して、叫んだ。


「父さん、姉ちゃんのために赤飯炊いてんだぞっ、傘だって、姉ちゃんの身体心配してわざわざ姉ちゃんに届けてくれたんだろっ! そもそも今日、昼間っから家にいてくれるのだって、姉ちゃんがお腹が痛いってたからだろ……そこまで父さんしてくれてるのに……なのに……なのに……姉ちゃんの親不幸者っ!」

 

 勝が叫ぶと、今度は中から、


「勝には関係ないっ!」


 と由美の金切り声が響いてきた。


「勝にも父さんにも、私の気持ちなんて、わかんないっ!」

「あぁわかんねーよっ、女じゃねーしっ! 6年生でもねーしっ!」

「じゃあ、黙ってなよっ!」


 由美の声が聞こえたとたん、勝は今度はダンっと扉を一度叩いた。


「でも、死んだ母さんの子っていうのは、一緒だ!」


 強烈な一喝だった。

 叫んだ勝が、はあはあと全身で息をしている。


 ――……死んだ、母さん。


 勝が詠美をそんな風に称したのを聞いたのは、初めてだった。

 扉の向こう、由美の気配も一気に静まった。

 俺もまた微動だにできない。


 ここにいる三人それぞれが、今、きっと全身で、「死んだ」という言葉にぐるぐると取り巻かれているのがわかった。


「……姉ちゃん、自分だけが可愛そうな子みたいな態度とるのよせよ」

「と、とってないっ」

「じゃあ、作ってもらった飯くらい、食えよっ!」

「……」

「母さん死んだ後、いろいろ困ったりしてるの、姉ちゃんだけじゃねーよ」


 勝は扉の向こうの由美に言い放ったのだろうが、勝の言葉は俺にも突き刺さった。

 だが、何も言えず廊下に立ちつくす俺の前で、勝は扉に向かって話し続けた。

 

「でも、姉ちゃん……。姉ちゃんが言ったんじゃねぇのかよ。葬式終わってさ、親戚連中、みぃんな見送って、この家に帰ってきたとき……喪服のまんまでこの家のリビングで三人でただこれからどうしていいかわかんなくて立ちつくしちまったときさ……。姉ちゃんが、言ってくれたんじゃんかっ!母さんがいなくなったところは埋めようがないけど、父さんと俺と姉ちゃんとで補いながら生きていこうって!それが母さんへの何よりもの供養になるはずだって!!!」


 勝が最後は泣き叫ぶように、そう言った。

 実際には、その横顔に涙は見られなかった。

 逆に、怒ったように真っ赤だった。

 なのに、その怒った顔から出た叫びには、深くぬぐいきれない哀しみと、それでも、絶望することなく明日に希望をもとうとするねばり強さがあった。


 あぁ、そうだった。

 葬式が終わるまで、ただただ俺達は気が張ってて。

 哀しみがあるのに、その哀しみをどう実感していいかわからない感じで、ただ通夜や葬儀が過ぎて行って、自分の頬に伝う涙すら、それが流れてるのはわかるのに自分のものでないような気がして……。

 俺も由美も勝も、覚悟はしていたはずなのに、やっぱり詠美がこの世にいないってことはとてつもなく、理解しがたいことで……。


 でも葬式が終わって、俺らをなんとか動かしていた親戚やら葬儀社の人やらがいなくなって、この部屋に三人だけになったときに。

 

 ……あぁ、詠美がいないって。


 こうやって、疲れて帰ってきたときに、「ほら、ちょっとみんな座って。何か飲みましょ?」って声をかける詠美が。

 どこに隠してるんだかって、クッキー缶や羊羹をだしてきて、「家族みんなで疲れちゃったときは、甘いもの食べたら、元気でるよ」とか言って。

 そうしてもぐもぐ食べてるあいだに、さっと風呂の湯をためはじめてくれて……。


 あー、今日、辛かったよな。

 ってときに、その辛さをただ受け止めて、ただ、静かに流してくれる……。

 そういう……そういう詠美が、この家ん中にいないってことが、もうどうしようもなくて、俺はいったいこれからどうしたらいいんだってわかんなくて。

 格好悪いことに、あの時、俺以上に母親を亡くして茫然自失だった由美と勝に何を言っていいのかすらわかんなかった。

 由美の黒のワンピース、勝の白シャツに黒のズボンの、その姿が目に入るのに。

 その茫然とした表情に、いったい何を、どんな風に、言葉を……


 そう思ったとき、 俺より先に、くいっと顔をあげて、明るい声をわざわざしぼりだすようにして声を上げてくれたのは、由美だったんだ。

 まるで、逆境にこそ強く明るさを失わなかった詠美をまねるかのように。思いだすかのように。

 顔をあげて。はっきり言った。


『お母さんはやっぱり、素敵なお母さんだったからさ……お母さんがいなくなったところはどうしたって埋めようがないよ。変わりなんて、ないもん。だけど、父さんと勝と私とで足りない部分は補いながら生きていこうよ。明るく生きたら……きっときっとお母さん喜ぶよ。それが供養ってゆうのに、なるはずだよ』


 辛かっただろうに、励ますようにそう言ってくれた瞬間。

 俺は、もう足元から揺らぐように、自分が痛烈に情けないって感じたんだ。

 デカイ図体して、俺、何してんだ。何、みっともねぇことしてんだって。

 俺が由美と勝を守らなきゃ、どうすんだ。

 なんとしても守って、大人になってこいつらが一人前に社会に出ていくまでを、俺は全身全霊かけなきゃ、どうすんだよっ……って、わかったんだ。

 

 そうして、思ったんだ。

 詠美がきっと、したかったこと。

 愛する子たちの成長を見守ること、そばにいること、背中を押してあげること。

 それを……俺が。

 詠美ができなかったところを、俺がやらなきゃどうすんだっ……って。


 

 あの時の心境を思い出したら、俺は、いつのまにか目から涙をこぼしていた。

 勝が由美がひきこもった扉を睨んでる、その真剣な横顔をみて、さらにまた涙がぼろぼろ流れた。

 勝も大きくなったよなぁ。こんな風に言えるくらいに成長してんだなぁ……。


 俺も勝のように扉に目を向けた。

 そして口を開いた。その向こうにいる由美に伝わるように。


「由美、出てこい。俺にデリカシーが無かったことはあやまる。でも、やっぱり、それでも俺はお前の成長を祝ってんだ」

「……」


 押し付けなのかもしれないと思う。

 こういう場合、いったんは放っておいてやるのが、正解なのかもしれないとも。

 だけど、うっとうしがられたって、今は手放すべきときじゃない気もしてんだ。


 変化を怖がってる子を、ひとりっきりにすることは、もっと闇に突き落とすことになるんじゃないかって。


 俺は嫌われるだろう。

 娘が初潮を迎えたからって、おろおろしてて、なんてキモい父親だって思われるのかもしれない。

 語り草かもしれない。

 笑いの種になるのかもしれない。


 それでも、俺は。

 きっともし人生を何度繰り返すことになったって、俺は、嫌われるのがわかってても、今、この時に赤飯を炊いちまうことだろう。

 

 

「由美。お前の成長が、父さんは、嬉しい。祝福する」



 これが、俺が娘にしてやれる、精一杯なんだ。




 ***

  



 しばらくして、子ども部屋の扉があいた。

 俺が扉が開いたのを驚いてみていると、中から目を真っ赤にした由美が出てきた。布団にでもくるまっていたんだろうか。いつもは綺麗に結わえられている髪も、ほつれてバサバサになっている。

 大きな瞳は充血し、瞼は少しはれぼったくなっている由美は、なんども目をこすりつつも小さく一歩をすすめ、廊下に立った。


「ゆ、ゆみ……」

 

 名を呼ぶと、眉間にぐっと皺が寄ったが、由美は俺を睨んだり、何か言い返してきたりしなかった。

 ただ、ずるずると足を引きずるようにしてリビングの方へと歩きだした。

 俺はあわてて追いかける。


「め、めし、食べるか?」

「……食べる」


 その返事に、俺は心底ほっとした。

 ずびずびと鼻をかみながら、ぺたぺたと裸足で廊下をすすむ由美は、まだまだ拗ねた雰囲気をただよわせていたが、刺々しい雰囲気はなかった。


「姉ちゃん、遅いよ!」


 とかギャーギャーわめいている勝を抑え込みながら、食卓をさっさと整え、食べられる用意をした。席に座っとけと言ったのに、由美は無言のままそのまま配膳を手伝ってくれていた。


 おめでたいことを祝うつもりの赤飯だったが、今、乾杯の音頭をとるのもよけいに由美を追い詰めるかと思って、そのまま席に着いた。

 いただきますと小声で言って、三人で、もそもそと赤飯を食べ始める。

 会話はなく、途中、 


「……味薄い」


 と勝が言って、すでにゴマ塩をかけていた赤飯の上にさらにゴマ塩をふりかけたりしたくらいだった。由美は無言でそのまま口に運んでたし。俺は、由美のことが気になって、ほとんど味がわからなかった。


「……おかわりいるか?」


 声をかけると、勝は威勢よく「いる!」といい、由美は首を横に振るだけだった。

 さっきはあれほど叫んで扉越しに由美に食ってかかっていた勝は、やっとありつけた食事の方に目がいって、俺と由美にはほとんど気を向けてこない。

 由美の方は、唐揚げを一つつまみ、サラダをつっつき、赤飯は一膳ちゃんと綺麗に食べてくれていた。

 

 箸を置いた由美はじっと食卓を見つめている。もう泣いてはいなかったが、かなり激しく泣いた後のせいか、時折ずずっと鼻をすすっている。

 勝はどんどん飯台から自分でおかわりをよそっている。きっと俺と由美の様子は目の端にとらえているだろうが、さっきみたいに割って入るつもりはないようだった。

 俺は何か由美に話しかけた方がいいのかと、逡巡していた。

 すると、声をかけてきたのは由美の方からだった。


「……父さん」

「な、なんだっ」


 焦って、声が上ずった。


「さっき言ってたの……私、自分で買いに行くし、お金だけちょうだい」

「え、さっきのって……」

「羽がどうとか言ってたヤツ。あぁいうの、やっぱ……いくらネットでも、父さんに注文されるとか、すごく、イヤ」

「あ……うん」

  

 ぼそぼそとした話し方だが、最後だけやけにきっぱりと「イヤ」としめくくった由美は、言いたいことがいえたのか、また沈黙に戻ってしまった。

 俺はといえば、逆に由美の態度に、またおろおろし始めた。


「あの……由美が買いに行くのはいいんだけど……一人で、大丈夫か」

「別に、ドラッグストアにもスーパーにも売ってるものだし、トイレットペーパーとかと一緒に買うし」

「う、うん」

「それに友達のお母さんが……私が母親亡くしたの心配してくれてて、そういうのとか何かあったら相談してとか……言ってくれてるし」

「そうなのか?」


 初めて聞く話に、俺は由美の顔をまじまじと見た。由美自身はうつむきかげんで、目は食卓を見つめたままだ。

 

「母さんが……病床で、いろいろママ友とかに、私とか勝のこととか……支えてあげてってメールとか送ってくれてたみたいだよ」


 ぽつぽつという由美の言葉に、俺はぐっと目頭が熱くなった。

 詠美……。おまえ、どんな気持ちで……それを。そんなメールを。

 気持ちの高ぶりをおさえるために、俺は茶碗をぎゅっと握る。そんな俺の前で、由美は淡々と言った。

 

「……でも、別にそういうのなくても、私、ひとりで買いにいけるよ」


 その物言いは、どこか周囲を突っぱねたような言い方だった。

 気になって、由美の方を見つめる。


「それくらい、自分ひとりでできるようにならないと、これからだって、困ることいっぱいあるだろうし。……この家に、女って私だけなんだし」


 由美がすべてを諦めてるみたいに、ため息をついた。

 小学六年生で、こんな、疲れたような溜息をつくようなもんだろうか。俺は自分の小6の頃を思い出しても、あまりに違いすぎて比較にもならないなと感じた。


「……私、一人でできるから、父さんは、心配しなくていい」


 由美がそんな風に言ったから、俺は首を横に振った。


「心配はするさ」

「……」

「由美。いくら由美が完璧にいろいろふるまっても、俺はやっぱり、心配する。頼りなければ心配するし、甘えん坊でも心配するし、しっかり者でも強い子でも、賢い子でも……心配はするんだよ」


 俺がそう言うと、由美が初めて顔をあげて目線を俺の方によこした。


「心配して、由美と勝のことをいつもハラハラしながら見て、手伝おうとして、そのほとんどが由美と勝に邪魔って言われるのが俺の役目だ」


 由美がじっと俺のことを見た。

 俺は出来うる限り、おだやかな笑みを心がけた。

 隣から、勝が茶碗を置いて、俺の顔を覗き込んできた。


「なぁ、オレ、父さんのこと”邪魔”とか言わねーよ」


 そういう勝の頭を俺は、がしがしっと撫でた。


「その言葉、録音しておきてぇなぁ」

「なんだよソレ」

「ん? いや……勝もさ、いつか、俺のことが邪魔だなとかうっとうしいとか思う時がくるんだよ。……そして、またそういう日々も超えていってさ……お前が俺の年くらいになったら、そんな日々を懐かしく思う日もくるんだろう」

「……な、なにオッサンくさいこと言ってんだよっ!」

「オッサンだからな、父さんは」


 勝の頭をもう一度撫でていると、俺の向かいに座っている由美が、


「……ごちそうさま」


と言って、立ちあがった。

 

「もういいのか?」

「うん。……お先に」


、由美はそういうと、あっというまに俺に背をむけて自分の食器を洗い始めてしまった。



  ***



 深夜、詠美の写真をリビングのローテーブルの上に置き、赤飯と日本酒を供えた。

 俺も写真の前にあぐらをかき、湯呑みに注ぐ。


「……由美も大きくなったよ……。でも、あいつ、いろいろ気ぃつかっちまってんだろうな」


 返事はもちろんない。

 でも、きっとどっかで聞いててくれてる気がする。俺は確信してる。


「俺なんて、思春期、もっと親に反抗して楯突いたもんだけど。……詠美はどうだった? ……もっと、もっと……いろんなこと聞いときゃ良かったな」


 ちびりちびりと湯呑みの酒を飲む。

 冷やしていたからか、少量口に含むだけでキリっと口内が引きしまる。


「これから、どんどん……由美も勝も大きくなって、俺はあいつらのこと、つかめなくなってゆくんだろうなぁ」


 弱音なのか感想なのかよくわからない呟きが俺の口からこぼれてゆく。

 詠美。

 お前は、こんな俺に、呆れているだろうか。

 いや、お前なら、笑って背中をポンっと叩いて、励ましてくれるんだろうか。


「詠美……お前が生きてる頃に言えなかったけど……やっぱり、お前、すごいな」


 酒がきいて、喉から食道、腹がカッと熱くなってゆく。


「……思い出すだけで、力づけてくれるんだもんな。俺にも、それから由美にも勝にもさ……自分が詠美から愛されてたんだなって信じ続けられる記憶をさ、残してくれたんだな。お前が精一杯俺達を愛してくれたって信じられるから、明日を頑張れる」


 写真に向かってそういえば、『なに照れくさくなるようなこと言ってんのよ!』って笑われた気がした。


「詠美……会いたいよ」


 湯呑みの酒を飲み干す。


「会って、触れたいよ」


 目が潤む。

 写真の詠美がぶれて見える。


「俺、泣き上戸になっちまったよ……詠美」


 名をよんで、テーブルに突っ伏したとき、ほんの一瞬、微かに、


『かっちゃん、大好きよ』 

  

 詠美の声が聞こえたきがした。




 ***

 


 

「ほらー、勝、起きろっ! 学校、遅刻すんぞ!」

「んー……」

「由美はもう先に朝食すませてんだぞ、勝もさっさと食え!」  

 

 バタバタしたいつもの朝がはじまる。

 俺はネクタイを締めながら、足でゲシゲシと勝が寝るベッドを揺らした。


「起きる、おきるってば……」


 寝ぼけた声で返事しながらも、ちゃんと起き上がったのを確認してから、俺は台所で食器洗いをしていた由美に声をかけた。

 昨日のことは無かったかのように、『自然体……自然体』と心で唱えつつ話しかける。


「父さん、今晩は遅くなるから、夕飯は先に食っといて。肉じゃがを保温鍋にセットしてある。冷蔵庫にもずく買ってあるから、それも食っとけ、海藻あんま摂ってないから。白飯とみそ汁は頼む。勝にも手伝わせろよ」


 俺の言葉に、由美は手をとめてこちらをみた。


「……父さん、ちょっとまって」

「お、おうっ」


 由美に呼び止められるとは思わなかった俺は、動揺しつつ、ぎくしゃくしながらその場に直立不動となった。

 そんな俺の前で由美はそそくさとタオルで手をふき、由美はカウンターに手をのばした。

 ノートを手に取り、俺につきつけてくる。


「昨日、連絡帳のサインもらうの忘れてたから」

「あ、……あぁ」


 由美の担任の先生は、連絡帳に毎日保護者の「見ました」のサインを求めるのだ。昨日は帰宅して早々に、由美は部屋に閉じこもってしまったから、連絡帳を見ていなかった。

 由美に手渡されたノートを開き、昨日の日付で宿題やら今日の持ち物が書かれた欄の下に俺はサインを入れる。由美は相変わらず綺麗な字を書くなぁとノートに目を走らせた後、パタンと閉じてノートを由美に返そうとした。

 その時だった。

  

「……昨日、わけわかんないことで、閉じこもって……お父さん、ごめん」


 由美の小さな小さな声がした。

 驚いて由美の顔をみようとすると、由美は連絡帳をバッと俺から奪いラズベリーピンクのランドセルに突っ込むと、勢いよく背負い、バタバタと玄関に駆け抜けていってしまった。


「あっ、ちょっ! 姉ちゃん、早い! ちょっと待ってよ」


 あわてたように勝が牛乳を飲み干している。

 俺は立ちつくしていた。


 ……由美。


 切ないような、あたたかいような、どうしようもない気持ちがぐるぐるした。

 

 俺の横をドタドタと今度は黒のランドセルを背負った勝が走り抜けてゆく。

 玄関で靴をはきつつ、勝がこちらをちらっとみてニヤリと笑った。


「父さん、良かったな。姉ちゃんと仲直りできて」


 そう言い残して、勝もまた玄関ドアをバタンと閉めて、でかけてゆく。

 パタパタと遠ざかってゆく、足音。


 近所の子どもたちも登校しはじめたのか、遠くに聞こえるのは、子どもの甲高い笑い声やざわめき。


 『……お父さん、ごめん』

 『父さん、良かったな』


 我が子の声が脳内でリフレインする。

 守ろうと思って意気込んでても、救われてるのは。

 子どもにこうして助けられてるのは、俺の方かもしれない。


 きっと由美と勝がいなかったら、詠美を亡くした俺は、荒れ果てて、手がつけられなかっただろうから。

 今、こうして出社の用意してる自分も、少しでも栄養気にかけて食事メニュー考えてる自分も、想像できない。

 詠美を亡くして枯れ切ってしまいそうな俺の居場所を与えてくれたのは、あの子達なのだ。


「あーあ、俺、子離れもちゃんとできるように、考えとかなきゃなぁ……」

  

 そんな風に呟いて、俺は頭をかいた。




  ***


 

 数日経った、ゴミ収集の日の早朝。

 俺は納戸の奥の紙袋を再びのぞいた。


 中にあったのは、生理用品のタンポンだった。どうやら詠美はタンポン派だったらしい。

 初潮を迎えた由美に、詠美の買い置きが渡せるんじゃないかと納戸を探したときに出てきたのはコレだった。


「……やっぱり、これはまだ早い……んだよな?」


 よくわからないが、使い方を説明することもそもそもできないし、俺はソレを紙袋ごと処分しようかと考えていた。

 なんとなく、この先、由美が見つけてしまったらまた先日子ども部屋に籠っちまったときみたいな気まずい空気が流れるんじゃないかと予想して。

 俺や勝が使えるわけじゃないし。

 由美はあの後無事に自分で購入できて、友達に相談しつつもなんとか「女の子の日」を切り抜けられたようだった。

 思春期の身体についての本を読んでみると、始まったばかりの女の子は、まだまだ身体が不安定で日数も安定しないらしい。そういうのもちゃんと由美は知ってるようで、可愛らしいポーチに一つ二つ納めて持ち歩いているみたいだった。


「ま、じゃあ、これは処分……と」


 紙袋ごと、住まいの地区指定のゴミ袋に入れようとした。

 そのとき、ふと、納戸の棚の、この紙袋のあったところの下段に、洗剤の買い置きに隠れてトートバッグがあるのが目に着いた。


「なんだ、これ?」


 焦っていて気付かなかったんだろうか。普段、トイレットペーパーやティッシュ、洗剤のストックをとるためにしか開かない納戸は電球の明かりが全体に行きとどかなくて、見落としていたのかもしれない。

 黒色のトートバッグを手に取り、電気が明るい廊下側に持ってでる。チャック式になっている口を開いてみた。


「あ……」


 思わず俺は声を上げた。


 開けたとたん目に入ったのは、懐かしい詠美の特徴ある丸っこい字だったからだ。

 封筒に入っておらず、可愛らしい絵葉書に書かれたメッセージ。


 『おめでとう、由美。サイズ、いろいろ用意したからね。お腹が痛い時は、貼るカイロを腰やお腹にあてたら少しラクになるよ。本当におめでとう、由美。お母さんより』


 絵葉書をとれば、下から出てきたのは、生理用品だった。

 小さいパック、大きいパック、いろいろ詰まっている。貼るカイロも入っていた。

 そして月経専用のショーツらしきものも、出てきた。いろんなサイズが詰められていた。


 ……いつ、初潮を迎えるかわからないから。

 由美がその時を迎えたときに、どれくらい背がのびて、どれくらい大きくなっているか、見届けられないから。いろんなサイズを詰めておいたのよ。


 詠美の声が聞こえた気がした。

 同時に、ちょっと諦めたような、けれども優しさを失わない詠美らしい微笑みが頭の中を過ぎてゆく。


「……詠美ぃ……」


 告知された後、いろんな思いで託してくれていたんだろう。さまざまな準備をしてくれていたんだろう。

 けれど、その準備の多くを俺や由美や勝に説明するだけの暇はなかったんだろう。医師の話していた時期よりもずっとはやく、急変してしまったから。


 トートバッグの中をみると、最後、白いビニール袋に何重にもくるまれたものを見つけた。

 何が出て来るんだろうと中をみたら、レトルトの赤飯が三パックつつまれていた。ご丁寧に消費期限が大きく付箋で貼られていた。


 もう、ここまで見たら涙が止まらなかった。


 なんだよ、詠美……おまえ、やっぱり、すごいよ。

 

 ……こんなに、愛してくれて、ありがとう。


 由美はきっと喜ぶだろう。

 もしかしたら、自分の身体を愛おしいと思ってくれるかもしれない。

 こんなに大切にされているということを、由美は、きっと心の糧にしてくれることだろう。 



 俺は処分しかけていた、買い置きらしき未開封のタンポンの入った紙袋の方をまた棚に戻した。

 いつか俺もさらりと、


「母さんが買い置きしてたものらしいよ」


 と言えたらいい。

 気負いなく、子どもの成長を受け入れられたらいい。

 まだまだ、俺は、つい肩に力いれちまうけれど。


 いつかきっと、自然体で愛せる日が来たらいいと思う。




 ***




 ちなみに、詠美が由美に用意したものは、全部”羽つき”だった。


 それが詠美の好みだったのか、たまたまだったのかはわからない。

 ただ、”羽”という文字は、詠美にすごくふさわしい気がした。



 ――……きっと、詠美の天使の羽は、強くやさしく綺麗に違いないから。



 天使の羽は、きっと子どもたちを守ってくれることだろう。

 そして、情けない俺のことも。



 きっと。ずっと。

 俺が、そこに行く、その日まで。

 




 fin.

 

 

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