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前編

 

 その時の俺は、詠美が遺したものの中に、たしかソレ系のものがあるんじゃねぇかと思って、納戸を探してみた。

 今まで手付かずだった納戸の棚の上段に、ソレは、紙袋に包まれてあるにはあった。でも、俺が求めていたものと、少し違った。


「これは……ちょっと、由美にはすすめられねぇよな」


 俺はそれが入っていた紙袋の口をまたクルクルっとまとめて、元のところに戻した。

 

「ひとまず今日の明日の分くらいはあるみたいだし、やっぱ……ネットで注文するしかねぇか」


 戸惑いと気恥ずかしさは心の奥にしまって、パソコンのブラウザを開く。

 けれども、数分後、俺は、パソコンの前で、いったいどれを選べばいいのかと迷宮入りすることとなる。


 ……それが、今日の午前の出来事。 



 

  ***




 簡単に昼メシを食ってから、朝から水にひたしていたもち米の状態をみる。ネットのレシピ通りにゆでた小豆はザルにあげて煮汁と豆に分けた。

 そこまでやりおえて、少し落ちついた俺は、台所のカウンターに置いてある写真に向かって話しかける。


 「昨日ほど、おまえが生きていてくれたらなって思った日はなかったぞ」


 写真の中の妻の詠美は、にっこりと微笑んだまま何もこたえやしない。天国でもこんな風に笑ってるんだろうか。

 そんなことを思ったときに、突然ベランダの方から激しい雨音がした。あわててカーテンを開いてみれば、午前中晴れていた空は澱み激しい粒を落としていた。

 すぐに俺の脳裏にラズベリーピンクだとかのランドセルが思い浮かぶ。六年使ってもまだお綺麗な、几帳面な由美らしいランドセル。それを背負った、今朝も見送った背中。

 由美は傘を持っていかなかったはずだ。そう思って傘立てを確認してみれば、案の定由美の傘が残っていた。

 由美の身体、冷やすわけにいかねぇ。それだけでも、腹が違和感あるって言ってるなか小学校に登校したんだ。

 時計を見ると、下校時間まではまだ間があるが、空はやみそうもない。 

 俺はあわてて由美と自分の傘をひっつかんで玄関から駆けだした。


 

 ――しまった。

 そう思ったのは、家から飛び出して雨の中を走りだして数分後のことだった。

 黄色い帽子をかぶった小学生が何人か帰ってきている。


「あ、(まさる)のお父さん、こんにちは~」

「勝くんのパパ、勝くん、もう少し後ろ歩いてるよ」


 折りたたみ傘を広げた小学生のこどもたちや、雨に濡れてきゃあきゃあ声をあげているランドセルを背負ったガキ達に声をかけられたて、ハッとする。

 勝はまだ小4で今日は五時間目下校だったか。

 やばいな、勝の傘もってきてねぇ。そう思ったものの、そもそも傘立てに勝の傘がなかったことに思い当たる。 

 俺が今手にしているのは、自分の上に広がった紺色の紳士傘と、ひっつかんできた水色に白の水玉の由美の傘だけだが、傘立てにはそれしかなかったはず。

 そう思った瞬間、


「父さ~ん!」


という、勝の甲高い声がした。

 顔をあげると、友達の傘に入れてもらいながら手を振っている。


「何、傘持ってきてくれたの?……って姉ちゃんのだけじゃん。ちぇーっ」


 ちょっと口をとがらせた勝は、ちょっとため息をついてやれやれという顔で俺を見上げた。慌てて俺は言い返す。


「勝の傘、傘立てになかったぞ!」

「えー、嘘だろ?学校にも置き忘れてなかったのに!」


 勝がそう叫ぶと、周囲の男子達がゲラゲラ笑って、「勝、塾に忘れたんじゃねーの?」と言った。その声に勝の表情が変わる。


「げーっ、そうだったかな?オレ、覚えてねぇ。帰ったら塾の傘立て見に行く、家の鍵ちょうだい」

「……お、おう」 


 さっと開いた手のひらをこちらにむけられて、俺がポケットから探り当てた家の鍵を手渡すと、勝はにっこりと笑った。


「父さんは姉ちゃんとこに傘持って行くんだろ? 姉ちゃんは、迷惑そうな顔をすると思うけどなぁ」

「んなことねぇよ」

「そう思いたいの父さんだけだろーっ」


 そう言ったかと思うと、友達の傘にまた飛び込んで行き、あっというまに歩いていってしまった。

 勝の背中に、俺はごめんと呟く。

 勝のこと忘れてたわけじゃねぇ。だけど、俺は昨夜から、あまりに緊張しまくっていて、由美のことばっかり気にかかってた――だから、ごめん。

 俺は勝の父でもあるのに。

 子どもにとっては唯一だけど、俺にとっては愛すべき子どもが二人。目をかけて、手をかけ、気をかけるのがついついどっちかに偏っちまう自分が、今はほんの少しイヤになった。

 なぁ、詠美に生きてて欲しかったなぁって、甘えるみたいに思っちまった。 

  



 6時間目の授業中らしき校舎を、静かに歩く。

 胸には小学校の入校証をひっさげて。

 40になるおっさんが平日の昼間から女子の傘持って歩いているのは、今の日本のご時世じゃちょっと危ういんだろう。男女平等なんやかんや言ったって、結局、学校のPTAの大半の平日の作業は女性が担ってくれてるって現状だ。

 そこに俺みたいなのが割り込むのは、どこか秩序を乱してるんじゃないか。そんな風に恐れのような気後れのようなものを感じるときもある。

 随分慣れた。男手ひとつで育ててんだから仕方ねぇだろっていう開きなおりもあるし、社会の変革を待っていたら子どもは大人になっちまうよっていう気持ちもある。

 だから、正当であるはずなのに、どこかちょっと引け目を感じるような立場であっても、まるでそれを気付かぬような顔して、あつかましく堂々と俺は、平日6時間目の小学校の校舎を、娘の傘を持って歩くんだ。


 親バカで、過保護な親かもしれないなぁ。

 俺なんて、傘どころか、弁当を忘れたって学校に持ってきてもらったことねぇもんなぁ。それでも子どもは育つって知ってんのに、俺は、いてもたってもいられない。

 由美が雨に濡れて帰るのを、普段ならばなんとか「友達の傘に入れてもらえよ」と思えるのに、今日ばかりはそうは思えない。

 ふいに家で準備している赤飯を思いだした。

 大人になっていく由美を前に、身体を冷やしちゃいけねぇよって思うのも自然なことなのかもしれないと思う。

 静かな廊下をつっきると、6年1組の教室が見えた。直接教室の横を通ればガラス窓から俺の姿が見えてしまうと思い、遠回りして教室の横を横切らないようにして娘の教室に近づく。都合よく、ドアもガラス窓も締まっており、静かに傘を置いて帰れば俺のことは気付かれずにすみそうだった。

 教室前の廊下の手すり横に置き傘がまとめて放り込まれている大きめのポリバケツ。

 ――ここに入れておけば、由美なら気付くだろう……。

 俺はそっとそこに傘をつっこもうとした。

 その時だった。

 締まっていた教室のドアが開いた。

 6年1組担任の女教師が目を丸くして俺の姿を見た。香川先生、だったか。


「あ……吉住さんのお父さん」

「え、あ……」

「こんにちは。あぁ、傘ですね」 


 俺の手に目を止めて、香川先生が教室の方を振り返った。

 止める間もなかった。


「吉住さん、お父さんが、傘を持ってきてくださったわよ」


 開いたドアから、由美の姿が見える。軽く眉を寄せたのがわかった。でも状況をさっして、すぐに立ち上がる。由美らしい仕草だと思った。それでもそれは俺のためではなく、先生に声をかけられたことに対する反応なのが伝わってくるくらい固い表情で、かなり由美のご機嫌をそこねてしまったことが予想できた。

 俺はすぐさま先生に「授業をお邪魔して失礼しました」と声をかけ、由美の表情から目をそらしたのだった。

 

 

 その後一時間ほどして、由美は帰宅した。

 案の定、ドアホンがなってドアを開けると、表情からして由美は大層ご立腹の様子だった。

 けれど、表情はともかく、見ればランドセルが少々水しぶきをうけているだけで、由美の身体は濡れてなかった。

 ほっとした。


「おかえり」

「……。……ぃま」


 おそらく「ただいま」と言ったんだろうが、語尾がかろうじて聞こえる程度。

 いつもなら、「挨拶は基本だぞ!」と口だしてうっとうしがられる俺だったが、なんだか今の俺はなんともいえず、「お、おぅ」と意味不明の声をあげてしまう。


 由美は出迎えた俺の横をさっと通り過ぎ、勝とパーテンションで区切って使っている子ども部屋にそそくさと入ってゆこうとした。

 ……あ、行っちまう!


「ゆ、由美!」 


 俺はあわてて、由美を呼びとめた。

 どうしても聞いておかなければならないことがあるんだ。

 だが、なかなかそれはすんなりとは口にしにくいことで、俺は、由美が足を止めてくれたというのに、すぐさま言葉にできない。

 俺と由美の間に沈黙が落ちた。


「……何か用?」


 昼間、俺が教室に現れたことに照れと苛立ちを混ぜ合わせたような気持ちでも感じているんだろう、つんけんした態度のまま、それでも由美は、俺を無視せず用件を問うてきた。

 こういうところが、やはり由美の優しいところなのだ。

 わかっている。本質的に誰かを意図的に無視するとかできないのだ。そういう優しさを、俺は心底愛しく思う。こんな風に育ててくれた亡き詠美に感謝する。


「……あ、あのな……その……」

「何?」

「えっと……由美はさ……その……羽つきと羽無し、どっちがいいのかなって……」

「え?」


 由美は俺の問いかけの意味がわからないというような顔をした。

 その顔を見て、俺は思わず、はっきりと言っちまった。


「生理用品、ネットスーパーで注文するからさ……羽の有り無しどっちがいいのかと思って」


 俺が言った瞬間。

 由美の目が見開き、そして瞬時に鬼の形相へと変わった。

 その表情を見て、俺は聞くタイミングを間違ったんだと理解した。


「キモっ!」


 そう怒鳴ったかと思うと、由美は自分の部屋に駆け込んでしまったのだった。

 


 

  *** 



「なぁ、父さん……いい加減、お腹すいたー。先に食おうよ。姉ちゃん、なんか怒ってんだろ? とうぶん部屋から出てこないって」


 すでに由美が部屋にこもって、三時間以上経っていた。


 先ほど塾から帰宅した勝が子ども部屋に入ろうとすると、ドアがほんの少し開けられたが、由美の手だけがにゅっとでてきて勝の塾用リュックをと勝のランドセルが交換されたかと思うと、すぐに扉は閉められてしまった。

 鍵はつけてないから、押し入ることはできるだろう。でも、それはしてはいけない気がして、俺は由美が部屋に籠ってしまってから廊下でうろうろとしているだけだった。

 塾のリュックのかわりにランドセルを受け取った勝は、リビングであぐらをかいてローテーブルで学校の宿題をしはじめた。


「音読を聞いてよ、父さん」

「お、おう……」


 勝が超高速で句読点もかっとばすかのような音読をする。

 いつもなら、「ちゃんと読め! 音読は勉強の基本だ!」と突っ込むところだが、俺は気が気でなくて、そのまま勝の音読を止めずに聞き終えてしまった。

 5回同じところを繰り返し読んだ勝は、俺のいつもの突っ込みが入らなかったのが気持ち悪かったのか、


「父さん、どうしたの?」


と聞いてきた。


「由美、怒らせた」

「いや、それはなんとなくわかるけどさ……」


 そこまで言って、勝はため息をついた。


「姉ちゃんも微妙なお年頃に入ったってわけ?」

「……妙な言い方すんな」

「そんなこと言ったってさ」


 勝が台所と食卓テーブルに所せましと並べられた、グラスや小皿、唐揚げやらサラダ、そして赤飯の入った檜の飯台を見つめた。

 勝の視線を追うようにして、俺も朝からてんやわんやで扱っていた飯台をみつめる。

 詠美が生きていたころは、ちらし寿司や混ぜ寿司、赤飯やらで活躍していた飯台も、ほとんど戸棚にしまったきりだった。でも詠美がちゃんと乾かして手入れしてから片づけてくれていたからか、カビもなく、飯台は昔と同じキリっと小粋な出で立ちで風呂敷に包まれていた。


「あの中、赤飯なんだろ?」

「あぁ」

「姉ちゃんって……まぁ、大人になった、ってやつ?」


 さすがのずけずけ言う勝でも、年齢的なものか照れなのか、「月経」「生理」という言葉は出さなかった。

 でも、俺は一瞬、勝の『大人になった』という表現に、微妙に抵抗を感じた。その言葉には、もっと生々しいコトが結びつくと思えてしまうのは、俺が中年男だからなんだろう。

 勝は生意気な口をきくようになっても、まだまだ小学生で、勝にとっての「大人になった」というのは成長の節目を指している。そのことが無性にほほえましいと思った。


「あぁ、そうだよ。……大人に近づいたって方が適当かもな」


 勝は俺の言葉に、「ふぅん」と呟き、息をついた。


「あーあ、姉ちゃん、はやく出てこないかなぁ。腹減ってるんだけどなぁ……」

「主役がいないのに、先に始めるわけにはいかないだろ」

「誕生日でもないのに、こんなに祝うもんなの?」


 素朴な疑問に、一瞬言葉につまった。

 だが、昨日の昼間、学校の保健の先生から由美が初潮を迎えたとの電話連絡が来て以降、ずっと頭の中にまわっていた詠美の言葉を信じて、俺は大きく頷いた。


「お母さんは、お母さんのお母さんに、赤飯で祝ってもらったって俺に話してくれたことがあるから、そういうもののはずだ」


 ”お母さん”という言葉を出したとたん、勝がビクッとふるえたのがわかった。

 すまないと思いつつ、俺は、勝の背中を軽くぽんと叩いた。


「大事なことだ。母さんがお前を産んでくれたのも、由美を産んでくれたのも……この女性としての身体の成長あってのことだった。……つながってんだから」


 そういうと、勝の表情が神妙なものになった。


「うん……。わかった」


 勝はそう言ってくれた。

 でも、やっぱり、ぽつんと言った。


「わかったけど……お腹すいた」


 俺は苦笑しつつ、勝に明日の朝ようにと買ってきていたロールパンを一つふくろから取り出し、勝にわたしたのだった。



 ***



 それからしばらく由美が出てこないかと待ったが、とうとう夜の八時の針をすぎてしまった。

 そもそも、そういう日になっているというのに、由美はトイレとかにいかなくていいんだろうか。いや、あぁいうのはどれくらいの頻度でトイレにいって交換するものなのか、皆目わからない。


 心の中で、つい、

 ……詠美がいてくれたら……。

 という気持ちが湧きおこり、俺はぶるるっと首をふった。

 いやいや、俺は決めたじゃないか。詠美の産んでくれた子たちを、守るって。

 いずれ由美が成長したら、こういう女性になってゆくあれこれの問題って起こってくるってわかってた、だからいろいろ思春期の子供をもつ親の本とかいうのを読んでみたり、恥ずかしいという気持ちを抑えつつ、学校の保健の先生に電話相談したりもしたんじゃないか。

 由美は俺に直接言いにくいだろうから、もしわかったら電話くださいって。


 幸か不幸か、昨日、学校での休み時間中に、初潮を迎えたとわかった由美は保健室に行ったらしい。それで、いろいろショーツを貸してもらえて生理用品もいくつか持たせてもらえたということだった。電話の向こうの保健の先生は、「ショーツなどはひとまず普通の下着をつかってしのぐことはできます。多めに生理用品はもたせましたから、お父さん、インターネットのお店などでも購入できますから、用意してあげてください」と言われたのだ。

 

 俺は意を決して、由美のいる子ども部屋をノックした。

 返事はない。

 先ほどからなんどかノックしているのだが返事はなく、そのたびにすごすごとリビングに引っ込んでいたが、そろそろ俺は由美とドア越しでも話そうと心に決めた。


「由美……出て来るの、いやか。腹は減らないか」


 声をかける。

 物音ひとつしない。


「じゃあ、そのままでいいから聞いてくれ」

「……聞きたくない」


 震えるような声が、微かにした。

 その微妙な枯れ具合から、泣いていただろうことが想像できた。

 俺に微妙なことを聞かれたのが嫌だったのかもしれないし、母親に相談できないことがつらいのかもしれない。 


「それでも……聞いてくれ。由美の身体の成長のことだ。照れて、無かったことにできるわけじゃないんだ」


 扉の向こうにいる由美に必死に話しかける。

 

 『よくわからない』……だから、あいまいなままにしておく、そういうことは世の中たくさんある。

 追求しない方が良いこと、追求しないからこそ周囲とうまくやっていけること、そういうことは確かに存在する。

 だけど、やっぱりわかっとかなきゃいけないこともあったりすんだ。

 体調の変化とか、成長の節目とか、生きるか死ぬかっていうくらいに心身が傷ついたときとか。

 一人じゃなくて、誰かがいて、誰かがそばにいて、現状を知っておくことが大切なことっていうのがあるんだ。それは俺のつたない子育ての持論だった。


「由美、父さんにはたしかに言いにくいかもしれないし、恥ずかしいって思うかもしれない。だけど……」

「放っておいてよ……もぅ……やだ……お母さん」


 ズキンと胸が痛む。

 

「由美……」


 扉の向こうに呼び掛ける。

 返事はないが、鼻をすする音が聞こえる。


「由美?」


 再び声をかけると、枕かぬいぐるみか、なにか柔らかいものが扉にあたった音がした。俺がいるこの扉に投げたのかもしれない。

 

「……うるさいっ!」

「由美」

「もうぅっ、もうっ、なんで、傘なんて持ってくんのよ、いつもはそんなことしないくせにっ! みんな見るじゃないっ、あたしに何か変化あったのかって思うじゃないっ」

「変化あっただろう? 身体、冷やしちゃだめだろう!」

「何言ってんの? あたしを晒し者にしないでよっ。ごまかすの必死だったんだから……。先生も妙に優しくしてくるし……もうやだ、お腹痛いし……面倒くさいし……こんなのなりたくなかったっ!」


 由美の言っていることは支離滅裂だったが、ひとつわかったのは、初潮を迎えた自分の身体を喜んでいないんだってことだった。

 俺は、ボディブローくらったときみたいに、息が苦しくなった。

 さらに由美が、


「男に生まれた方が、絶対に良かった! 女なんて、損だっ! イヤなことばっかりっ!」


 と叫んだかと思うと、いつも大人しくてまじめで神経質すぎるところすらある由美が、わぁわぁと声をあげて泣き出したのに、さらに苦しくなった。


「由美……」


 この扉、蹴って中に飛び込みたい。

 そう思うのと同時に、由美をこれ以上、父親の俺が近づくことに怖くなった。


 どうしたらいい?

 どうしたらいいんだよ。

 泣いてる。

 娘が泣いてる。でも、俺には、腹の痛みも、血を流すことの辛さも、そういう身体の変化に戸惑う気持ちもよくわかんねぇ。

 俺は男として、成長して、一人前に機能するようになったら、嬉しかったくらいなんだ。他の男子も、そういうもんだったと思う。男の場合、快楽が結びついてたからだろうか。

 でも、全体的に男ってのは、筋肉がつくのも背が伸びるのも、いろんなところがデカくなるのも待ち望んでるし、変化することそのものがかっこいいって思ってる気がする。

 

 でも、由美は違うんだ。

 変化がいやなんだ。変わるのを嫌がってんだ。 


 これが男女差って奴なのか。

 わからない。

 けれどどうしたって、身体に性差はあって、本人たちが望む望まないの気持ちなんてすっとばして、身体は日々変わっていく。


 それを、親として、応援したいのに……。

 ちくしょーっ、やっぱり俺じゃ駄目ってことなんだろうか。


 俺は廊下で頭をがしがしと掻いた。

 心の中で、亡き妻に問う。

 ……詠美、どうしたらいいんだ?

 詠美は言ってただろう。母親が赤飯を炊いて祝ってくれたって。父親と目を合わしづらかったけど、成長たって証だよって母親に言われて、恥ずかしくても嬉しかったんだ……と言ってただろう?

 何か、自分は大切にされてるんだなって思えたし、自分を大事にしないといけないって思えたんだって。


 俺……俺、そんな風に由美に思って欲しかったんだ。

 女の子に生まれたことを、嬉しいと思えるみたいに。

 赤飯炊いたのも、傘もっていったりとか由美の身体気遣うのも、みんなみんな由美が自分の身体を愛しいと思ってほしかったからなんだ。


 でも、それって、夢物語なんだろうか。

 

「由美……それでも、せめて飯くらい……」


 俺はどうしたらいいかわからないままに、情けない声で扉に話しかけた。閉じこもった由美がなんとか顔をだしてくれないかと思って。

 だがそれが逆効果だったのか、「やめてっ!」とヒステリックな声がした。


「本当にやめてったら……。父さんが作ったお赤飯とか……ほんとに……。うぅぅ……お母さん……。もぅ、やだぁ……」


 うめくような泣き声に、俺が由美をさらに追い詰めている気がして、どうしていいかわからなくなる。もう、ここから離れた方がいいのかもしれない……。

 そんな風に思った時だった。

 不意に背後から、何か飛んでくる気配がした。

 

 ガンッ!


 大きく振り上げた勝の足が、俺のすぐ隣を突き抜けて、扉を強く一度蹴ったのだった。




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