プリンの僕
僕は、ぶるりと体を震わせた。
いつの間にこんなに寒くなったのだろうか。ポケットに手をつっこみ、足早にコンビニエンスストアの駐車場へと足を踏み入れた。
店内。
客に聞こえんばかりの大きな声で会話をしている店員の女。僕はレジの側をすり抜けると、デザート類の立ち並ぶ棚へと足を運んだ。プリンの容器を手に取って物色していた所、前方の雑誌棚の前にあぐらをかいて座り込んでいる男の姿が視界に留まった。
男が開いていたのはグラビア雑誌だった。僕は嫌悪のこもった視線で男を見やり、ポケットの財布に手を伸ばした。数枚の硬貨を手の平に握り締め、レジに向かう。けたたましい笑い声をあげる店員の女。僕が来たことに気付くや否や、慌てて配置に戻った。
「141円になります。」
僕は無言で硬貨を差し出した。
店員が袋に包まれたプリンを僕に渡しかけた時、雑誌棚の方向から声が飛んだ。
「来い、来い。」
妙に甲高い声だった。何だか、胸がむかむかするような不快な響きがあった。店員は刹那、手の動きを止めたが、数秒後には我に返ったようにマニュアル化された作業を再開していた。僕はプリンを受け取り、雑誌棚の前を通って、店から出た。
視線を感じた。
嫌な予感。振り向きたくなかった。振り向けば、それが現実になってしまう気がしたのだ。僕がそさくさとコンビニエンスストアを後にしようと歩き出した時、またもや後方からガラス越しのくぐもった声が飛んだ。
「お、無視か。いいよ、ああ、わかったよ」
僕の心臓が縮み上がった。冷や汗が脇を流れ落ちた。
僕のことじゃ、ない。そうだ。きっと、コンビニに他の人がいて、その人が無視した、ってことだ。そうだ。そうに違いない。
僕は、構わず歩き始めた。このまま逃げ切れる気がした。しかし、予想はいとも簡単に裏切られた。
「にいちゃん、おい。おい。」
今度は、ガラス越しの声じゃなかった。何かが、後ろにいる。
振り向いた。いた。さっき、雑誌棚の前でグラビア雑誌を読み耽っていたあの男だ。知性の欠片も感じられない顔付き。顔にはにたにた笑いが浮かんでいる。
「何ですか。」
自分でも驚くくらいに情けない声だった。早くこの場から逃げ出したい。それだけが僕の願いだった。
「何で、無視したんだよぉ。俺が、さっき、話しかけたのによぉ。」
僕は後ずさりした。もう、何で僕がこんな目に合わなくちゃならないんだ。不公平だ。僕はただ、塾帰りに、ふいに甘いものが食べたくなって、プリンを買おうとしただけじゃないか。なのに、こんな、シンナで頭が溶けた野郎なんかに因縁を付けられなきゃいけないんだ。
「無視だ。また無視だ。自分が悪くなると、すぐ無視だよ。」
男の口調には、僕を嘲るような響きが含まれていた。僕はむかっ腹が立ったが、ここは抑えておくことにした。こんな奴なんかに腹を立てたって、仕方がない。そんなのは、馬鹿のすることだ。僕は馬鹿とは違う。頭の良い奴ならどうするか。考えたあげく、素直に謝ることにした。面倒事に関わりたくないなら、これが一番だ。
「すいません、気付かなかったんです。」
頭を下げてやった。
男は、着ているジャンパの裾を弄りながら僕を見つめていたが、突然、あのコンビニ店員の女のようなけたたましい笑い声をあげた。
そして、ジャンパのポケットから何か小さな、光るものを取り出した。
男が手に持っているそれが何なのか分かった時には、僕は既に路上を駆け出していた。
後ろを振り向いている余裕などなかった。僕は早鐘を打つ心臓を宥めながら、全速力で夜の街を駆け抜けた。自販機の側を通り抜け、路地に駆け込んだ。僕は石塀に寄り掛かり、ぜえぜえと息をついた。久しぶりに、本気で走った。体中から湧き上がってくる、高揚感のようなもの。僕は、体ががくがくと震えていることに気付いた。
状況を整理しよう。ナイフだ。男が持っていたのは、ナイフだった。奴は僕を殺すつもりなんだ。僕は喉元を掻き毟り、手を石塀から離した。こんな所で立ち止まっている訳にはいかない。いつ、奴がここに来るか分からないんだ。とにかく、家まで逃げようと思った。家なら安全だ。絶対、に。
眼の奥から、堪えていた涙が零れ落ちた。僕が、何で僕が。別に、何も、悪いことなどしてないじゃないか。さっきのさっきまで、普通にコンビニで買い物をしてただけの僕に、命を狙われる理由がどうしてあろうか。僕は目頭を拭い、リュックサックからプリンの入ったビニル袋を取り出した。
プリンを食べようと思った。こんな時だけど、いや、こんな時だからこそ食べたいんだ。しかし、僕は重要な問題に気付いた。スプーンがない。きっと、あの店員が渡しそびれたんだ。
もはや、笑うしかなかった。怒り、憎しみ、恐怖、絶望。様々な感情が、乾いた笑いとなって僕の体から抜け出ていった。神様って奴は、本当に、残酷だ。最後に贅沢をすることすら、僕には許されていないっていうのか。
僕は容器に口を突っ込み、舌をアリクイのように操縦して中身を舐めとった。とろけるような甘味。卵の味が僕の口いっぱいに広がっていった。底に付着したカラメルソースを流し込む。
覚悟は決まった。行くしかない。
僕は呼吸を整えた。
路地を飛び出した。必死に走り続けた。交差点に差し掛かった時、右の歩道から歩いてくる男の姿が視界に留まった。手には、鋭利なナイフが握られている。
悲鳴をあげて逃げ出す人々。たちまち、辺りは大騒ぎになった。
僕は、最後の力を振り絞って足を動かした。
走る。
走るしか、道は無い。
地面を蹴った。
知らず知らずのうちに、叫んでいた。
言葉にならない叫びが、辺りに木霊した。
走り続けた。
景色が、歪む。
残像。
クラクション。
男。
振り返る。
後方を。
いた。
ナイフ、を握った、男。
角を曲がった。
ついてきた。
男。
点灯する、信号。
横断歩道。
渡
近所、の人。
驚く
ろうと思った。
光の線。
街灯。
男。
横断歩道。
走った。
もつれた。
鋭い痛みが
走った。
転んだ、
と思った。
だめだ
投げ出された
車道に
後方
振り返る
男がいた
車
車がきた
僕の目の前に
、と思った
音
クラクション
痛み
にぶい
やばい、危ない
避けなきゃ
いたい
潰れた
唖然としながら僕を見つめる男の姿。
口がぽかんと開いていた。




