やっぱり雨は
久しぶりに書かせていただきました。構想から大体三週間で書きました。時間は割とかかってしまいました。受験勉強の息抜き程度に書いていたものを投稿するのは失礼かもしれませんが、出来るだけ多くの人に読んでいただけるとありがたいです。
富士山は果たして高い山だろうか。日本の中で見れば一番高い山だ。だが地球の中では他にいくらでも高い山は存在する。この時、富士山の高さはあまり関係がない。それと比較する対象の高さによって富士山は高くも、低くもなるのだ。
このことは直接的に、絶対的なものはないということを意味することになる。周りと比較も相対化もされずには何の評価もされない今日においては、誰もそのことを疑わないだろう。
だが全てが相対的なものであるとしたら、善悪や好き嫌いというものもまた、全く無くなってしまうだろう。基準がないからだ。そこで、いやそれははなはだ面倒だ、ということで一人一人が一応の価値基準や価値観を持ち始める。そうしてなんとかうまくやっていく。だがやはり、その価値基準も相対的なものであり、人それぞれ違うのだから、人間関係においていざこざや軋轢が避けられないのも、また必然なのである。
そして、俺の価値基準に照らし合わせれば、今日の雨は非常に迷惑極まるものであった。梅雨入りが発表され一週間。降りしきる雨を見ながらも、またもや漫然と消費される今日という日。一日中、今日は持ちそうだったのになあ。
――目の前のアスファルトには丸く大きなシミが点々とついていく。やがてその点は互いに結合し合い、点ではなくなった。遣らずの雨かのように意地悪く降ってきた雨。今日の帰り、ついさっきのこと。
雨自体は別に、迷惑なものなのではないのだ。そんなことは分かっている。雨を迷惑だと認識する人間がいるがために雨は迷惑なものとなる。相対的に考えればの話、だ。だから、むしろこの雨を喜んでいる人もいてもおかしくないとも言える。
ただそう考えてもやはり、俺は雨が嫌いだ。
「ビーーーーーーーーー」
突然何かが鳴り響いた。
まったく何だ。
そう思い、音のした後ろの方を向く。図書室の内外を分けるゲートのところ、一人の女子生徒。彼女は立ちすくみ、何が起きたのかわからないといった表情だ。
目が合った。
そんな目で見られても俺にもわからないのだが。
――じきに司書さんがやってきた。白髪混じりの髪を後ろで束ねただけ、いかにも学校の司書といった感じの中年の女性。あと十年も経ったら好々爺といった感じだろうか。いや、女性に好々爺は相応しくないのかもしれない。
女子生徒に何やら話しこんでいる。ここからだと遠くて聞こえないが、女子生徒は必死に何かを訴えている様子で、身振り手振りを交えている。ここからでも見えるのはバスの定期入れのオレンジ色、それとそれがぶら下がったカバン。そしてその中身を、司書さんがあらためている光景。まあいいや。俺は思った。
前に向き直る。足元にはスクールバック。その中から取り出したのは近所の古本屋でこの前買ってきた、表紙の色彩は褪せ、紙はすっかり醤油色に染まってしまっている安い文庫本。表紙を軽く舐めるように眺め、ページを繰る。
――壁の時計は五時過ぎを指している。さきほどから二十分ほど経っただろうか。読んでいる小説はなかなか展開が遅い。それに起伏がない。快適なキルタイムとはお世辞にも言えない状態だ。図書室が閉まるまであと約一時間。雨の降り方もさっきとさほど変わっていない。退屈だ。
「ビーーーーーーーーー」
またもや、図書室の静謐を切裂いてブザーが鳴った。うーん、とても迷惑。
先ほどと同じように、音がした方を振り向く。今度は前と違った女子生徒が図書室のゲートの脇に立っている。司書室の扉が開く。司書さんが近づいていく。また何事かを同じように尋ねる。すると、おもむろに司書さんがこちらに向かってきた。
司書さんの歩みは遅い。俺は何もやっていないのに、じわりじわりと追い詰められていくような感覚を覚える。
「ちょっと受付の前に集合してください」
司書さんが言った。
俺は何も悪いことはしてないぞ。
――どうやら、図書室に残っている生徒を全員集めているようだ。俺はしぶしぶ椅子から立ち上がった。適当なプリントをファイルから出し、それを文庫本に挟んで栞にする。既に飽きの始まった小説を閉じると、俺は仕方なく受付の方に足を向けた。
貸出受付の前、見ると、ブザーを鳴らした女子生徒を含め六人の生徒が集まっていた。 その中に見知った顔があるのに俺はすぐに気が付いた。あちらの方も俺に気が付いた様子だ。近づいてくる。声をかける。
「よう、智弥、来てたのか」
智弥は、いつも貼りつかせている微笑を崩さない。言いながら俺の横に並ぶ。
「やあ奇遇だね。恒太郎がやったのかい?」
何のことだと思い、肩をすくめた。司書さんが全員を呼び終え、階段を下りてきた。間延びした声で司書さんが話し始める。
「図書館のゲートが先ほどから二回鳴りました。さっきの生徒もそうでしたけれど、本校の図書室から無断で本を持ち出そうとすると、ブザーが鳴るようになっています。盗難防止のためです。そこの図書室の使い方に書いてあります」
と言って俺の背後を指さした。皆がそちらに目を向ける。つられて後ろを向く。壁に大きめの一枚のプリントが貼ってあった。恐らくそれが図書館の使い方というものらしい。
「全ての本にICチップがついています。しっかり手続きをしないと、そこのゲートでブザーが鳴るようになっています。さっきの子はカバンの中に貸し出し手続きをしていない本が入っていました。それでブザーが鳴ったのです。でも本人は、こんな本知らないとい言っていました」
どういうことだろう。知らない本がカバンに入っていたら普通は気付くと思うが。
「私もこんな本知りません」
二回目にブザーを鳴らした女子生徒が口を挟む。上靴の色から察するにどうやら一年だ。肩から下げた新品のカバン。そこにぶら下がった黄色のバスの定期を見ると、あれ、なんだ、地元は俺と同じか。
「これで二回目です。とても偶然とは考えにくいです。誰かの意志を感じます。下らないイタズラです。本当に、下らない。今後こういうことがないよう、あなた方、よく注意してください、ね」
そう司書さんは言葉を結んだ。
俺は司書さんの言葉に、何か引っかかるものを感じた。どうしてそうはっきりと言えるのだろう。司書さんは俺たちの顔を、順繰りと見回す。要するに俺たちは、あからさまに疑われているということだ。
疑われて気持ちの良いものはないよなあ。 と思っていたら、案の定、
「俺はずっと上で勉強してましたよ」
一年の男子が吐き捨てるように言った。この前まで中学生だったような小柄な男子生徒。まだ可愛げもいくらか残っている。
「誰もあなたがやったとは言ってないわ」
司書さんはあくまでも穏やかに、ゆっくりと答えた。
周りを見てみるとここにいるのは、俺と智弥。それにブザーを二回目ならした女子生徒、一年生。さっき食って掛かった小柄な一年の男子。それと隣の三組の、たしか智弥と同じクラスだったと思う男子。あまり目立つような存在じゃないから名前は分からない。それと上履きの色から察するに、二年の女子が一人。
計六人。
「もう行っていいですか? バスが行っちゃうんですけど」
ブザーを鳴らした女子生徒は言うと同時に、急いだ様子で図書室から出て行った。それを合図とするように一同は解散した。司書さんは司書室に戻って行く。小柄な一年は図書館の二階に席があるのか、階段を上がっていった。智弥と同じクラスの男子は一階の席に戻っていった。
図書室のロビーは元の静寂を取り戻した。
それも束の間、だしぬけに智弥が話しかけてくる。
「恒太郎。これは、事件の匂いがしないかい!」
‥‥‥刑事ドラマの見すぎだ。
生憎だが俺はそんな気分ではない。だからと言って他に何もすることも無いのだが。徒然としていてもいい。だが、まあ、少し面白そうだ。ちょうど良いキルタイムにはなるかもしれない。ちょうど暇つぶしに持ってきた本も、逆に持て余していたところだった。
智弥のためここは一つ、踊ってやることにするか!
とりあえず一つ訊ねよう。
「そういえば智弥。さっき居たやつ、お前のクラスのやつじゃなかったか?」
「ああ大川君ね。最近よく図書室で見かけるんだよ。まあ、本好きに悪い奴はいないよ」
たしかそんな苗字だった気がする。改めて聞いてみても、まあ、あまり印象に残らない。それなら忘れていても無理もないか。隣のクラスのやつなど全員を覚えていなくてもおかしくはないのだ。
すっかり乗り気の智弥が言う。
「恒太郎は準備はいいかい? じゃあ行こうか。さてまず、容疑者を絞ろうか。さっき集まったのは六人だったね。それに最初にブザーを鳴らした女子も含めて七人」
容疑者ときたか。そんな大層な。そのうち、捜査一課とか言い出しそうで空恐ろしいものを感じる。俺が答える。
「それに司書さんも含めて八人だ。
‥‥‥まず始めに言っておくが、お前じゃないよな。もしお前がやっていたとしたら俺は本気で怒る」
智弥が犯人だとしたら、それこそ時間の浪費だ。無為は好むが無駄は好まない。下らないことが嫌いなのは智弥も同じはずだから、こんな問いは杞憂ではあるのかもしれないのだが。万全は期すものだ。
「愚問だね。僕が犯人だったとしたら、何よりも僕が真っ先に、よく知っているはずさ。自分がやりましたってね。でも僕は知らない。つまり、僕は犯人じゃないってことになる」
全くこいつは、持って回ったような言い方をしやがる。智弥が続ける。
「まあそれはいいとして。それに恒太郎も違うとして、司書さんもやらないと思うから‥‥‥」
俺が口をはさむ。
「根拠は」
「根拠って言われると、ね。うーん、弱ったなあ」
そういうと智弥は、頭を抱えた。相変わらずオーバーなリアクションだ。
司書さんが犯人だと考えるのは確かに馬鹿らしいといえば馬鹿らしいかもしれない。だが見えていること、知っていることでさえ確かだとは限らない。だから微に入り細を穿ち、できうる限りきっちりと理屈を詰めていくしかない。だから一応、司書さんも考慮に入れなければならないのだ。俺が言う。
「司書さんには不可能であったことを示すのは簡単なことだ」
智弥はいい加減頭から手を放すと、こちらに向き直る。
「そもそも司書さんは司書室からは一回も出ていない。ブザーが鳴った時以外はな。これを裏付ける証拠は二つある、一つ目は、図書館の静けさだ」
そういいながら顔の横で人差し指を立てる俺。
‥‥‥何だ、そうとう俺も乗り気じゃないか。
智弥は、ほんほんと頷いている。
「受付からこっちに出てくるのに司書さんは、ドアを開けてまた閉めなければならない。その時、絶対に音がするはず。それに図書館はご覧のように、いつも、これでもかっ、というぐらい静かだ。それなら俺に音が聞こえるはずなのだが。あいにく俺は、ドアを開ける音なんて聞いていない」
俺がここに来たのは比較的に放課後も始まってすぐだった。昇降口に降り、靴を履きかえた時にはもう降っていたのだ。もし帰っていたらバックの中まで濡れて、教科書なんかも使えなくなってしまったところだろう。
それからしばらくはここでぼんやりとして、そのあとさっきまでは本を読んでいた。だからドアの開閉音には気づくはずだ。何せ本にはあまり集中していなかったから。
智弥がおもむろに歩き始めた。図書室のゲートの奥を指さす。思えばここは図書館。図書館の真ん中で堂々とは話せない。図書館前の新聞コーナーの座席の方で、ということらしい。俺が歩きながら続ける。
「二つ目は、これはまあ、決定的ではないが十分な裏付けになりうるものだ。もし仮に、司書さんが受付を出たとして、どうやってカバンの中に本を入れるかということだ」
ひとまず図書館を出る。ゲートを通り、図書館前のスペースに抜ける。ブザーの音は当然のことながら、しなかった。それは分かってはいたのだが、内心少しびくびくした。
椅子に落ち着くとしばらく智弥は思案顔だった。だがやがてぽんと膝を打った。何かに気付いたらしい。
「なるほど。よく考えると、このいたずらは簡単にできることじゃないね。狙った相手が席を離れたタイミングで本を中に入れる。尚且つ他の生徒には見つかってはいけない。それに仕掛けた本人にも、その本が入っていることを気付かれてはいけない。つまり司書さんには、見つからないタイミングを見計らって、本を中に入れるだけの時間はなかったんだね」
「んまあ、そういうことになる」
そもそもの疑いが薄かった司書さんは、やはり不可能だった。そうなるとやはり、生徒の仕業になってくる。
智弥が言う。
「じゃあさ、犯人は図書館からもう出て行ったとは考えられないかな?」
ううむ。なるほど。
そういうことか。
さっきの司書さんに対する違和感の正体がわかったような気がする。司書さんの言い方はやっぱりおかしかった。俺たちの中にイタズラの犯人がいるとわかっているような口調。
だがそれも考え方によってはおかしくはないのだ。俺にとっては迷惑極まりないこの雨が、誰かの得になっているかもしれないように。
考えをまとめながら話をする。
「犯人にとってイタズラがもう、終わっているのなら、犯人は既に出ていっているのかもしれない。だがさっきの司書さんの話し方を思い出してみろ。俺たちを見回して、誰がやったんだと言わんばかりだっただろう? なんで司書さんはそんな自信が持てたと思う。司書室はあのゲートの目の前だ。つまり誰も出て行っていないのを司書さんは見ていた、と考えれば話はつく。だから俺たちの中に犯人はいる、と司書さんは決めてかかったような口調だったんだ」
誰も出て行っていないとすれば、犯人はまだ図書室の中にいる。司書さんはそう考えたから俺たちを疑った。ならば、別に不思議でもなんでもない。少し考えれば当然の考え方だ。まあそれも、ブザーを鳴らした彼女たちの自作自演でない限りなのだが。
「犯人はもう窓から出ていった、とかは?」
「窓から出たなら、音に俺が気付くはずだ。それに今日はなかなか強い雨だ。窓を開けたならその下が濡れるはずだ。調べればすぐにわかることだが、まあ望み薄と言えるだろうな」
そう俺が言うと、智弥は図書室の中に戻っていった。窓を調べてくるのだろう。いささか話が複雑になってきた。少し話を整理しておくか。
まず起きたことは何だ。これは見知らぬ本がバックの中に勝手に入っていたということだ。そして、その結果、その本を持った生徒が図書室を出る時にブザーが鳴ってしまったということ。
次にいつ起きたか。それはついさっきと、さらに二十分前ぐらいだ。
目的は何なのだ。ブザーを鳴らさせたかったのか。それともただ違う本を紛らせておきたかったのか。んーー。どっちにしろ、今の時点ではわからない。
それに他にわかっていることは、偶然ではないということ。明らかに誰かの意志を感じる気がする。
――すると智弥が戻ってきた。察するにどうも成果は芳しくなかったらしい。
まあいいだろう。これで智弥風に言うところの容疑者は、残り五人になった。
残り五人のうち、既に図書室を去ったのは二人。今わかっている中でも動きのあるのは、その二人だけ。他の三人よりはとっつきやすそうだ。少し考えてみる。
まずブザーを鳴らした二人目が出た以上、一人目の彼女のうっかりミスでブザーが鳴ったとは考えにくい。それに知らない本が入っているのもおかしい。読んでいた本が入っていたなら不思議でもないが。
他に考えられるとしたら、最初の彼女が自分で故意に鳴らし、そして自分の他にもう一人、ブザーが鳴るように仕向けた。あるいは共犯で二人で鳴らした。さらにもしくは、二人目が一人目に本を仕掛けその後に自分も鳴らした。
うーん。考えれば理屈が次々についてしまうなあ。なんだか収拾がつかなくなってきた。だがこの二人には決定的に足りないものがある。何よりも、そんなしょうもないことをする動機が見当たらない。
「なあ智弥。ブザーが鳴った彼女たちが犯人として、何かメリットや動機はあると思うか」
「表面だけを見たら、無いね。ただ」
ただ? 智弥が続ける。
「ただ、僕たちの知っている事情はこれがすべてじゃないからね。他の知らない事情が絡んでいる場合もある。すべてを知ることはできないからね。今は保留って形でいいんじゃないかな?」
実にごもっともな御意見で。そろそろ智弥も冷静になってきた。
他に俺たちが知っていることは? 犯人は図書室の中にいて今も隠れているのか? 図書館内のトイレにでもいて、俺たちはまだ姿は見ていないのか?
うーん。わからない。
だがこのイタズラには何か明確な意志の力を感じるのは確かだ。なんとなくやるイタズラにしては手が込んでいる。
それにこんなことしても直接的に生産性は見いだせない。何が起きるというわけでもないのだ。じゃあ、目的はもっと間接的なところにあるのか‥‥‥。
智弥が言う。
「それにしてもさ、犯人はまだ図書館にいるんだよね。なんでまだ図書館にいるんだろう」
‥‥‥そんなの決まっているじゃないか。なぜ早く気付かなかった。
「そんなの決まってるさ。まだ何かするつもりなんだろうさ」
「それなら、じゃあさ、三回目を待てばいいんじゃないかな」
「ビーーーーーーーーー」
そして三回目のブザーが鳴った。
「まただ。今度はだれだ!」
三人目、ゲート通ろうとしていたのは、智弥のクラスの大川君だった。
彼は冷静に、ゲート半ばで立ち止まった。カバンをおろすと、自分にも仕掛けられていたその罠をすぐに見つけ、カバンから出す。そして司書室の中に歩いていった。
遠くの方から聞こえてくる。司書さんと彼の声。
「やっぱ自分のにも入ってましたねえ。まったく迷惑です」
彼はそう言いながら司書さんに、仕掛けられていた三冊目の本を渡したようだ。これで犠牲者は三人目を数えてしまった。
顔からはいつもの微笑が消え、智弥は信じられないといった表情だ。
「またやられた! 犯人はどうやって、あの罠を仕掛けているんだろう。それも、三回もさあ!」
図書館の前、叫ぶ智弥を尻目に、大川君は、カバンを肩に掛けなおすと図書館の扉の向こうに消えていった。
智弥はしゃがみこんでしまい、口をゆがめて図書館のドアを見つめている。所詮は遊びなのに、そんなに真剣になれる智弥が少しうらやましく感じる。
今まで智弥と二人、勝手な推論を散らかしてはみた。だがいささか情報が少なすぎる。今わかっている手がかりを断片的に組み合わせてもこの程度が関の山だろう。要するに行き詰まりだ。
だから、
「とりあえず、イタズラに使われた本とやらを見てみようぜ」
俺は至極もっともな提案をした。
ゲートをくぐり再び図書館の中へ。ブザーは鳴るはずもないのだが、またもや少しびくびくする。
司書さんに、バックの中に入れられたという本を見せてもらう。すると示し合わせたように三つとも図書室に置いてある参考書だった。
「なるほど。参考書ならスクバに入っていても、帰り支度じゃ気づかないかもしれないね。犯人はそれを狙って、見つかりにくいこいつらを入れたんだ」
おそらくそのためだろう。そうでなければ図書室でも最辺境に位置する参考書コーナーの本をわざわざ選ばない。ここでもまたもや強い意志の力を感じる。
参考書のための書架は図書室でも二階のはずれにある。その隣の書架にはこの学校で作られた文集の類のもの、さらに続いて作家の全集ゾーンへと続く。俺たちはついでに、その参考書たちを返しておくようにと司書さんに頼まれた。
階段を上がる。二階には専門書などの類が中心に開架されている。その中でも参考書の本棚は滅多に使う人がいないらしい。どこにどの本が入るかすぐにわかった。本が挟まっていたとみられる三つの間隙。厚さから推測して参考書を本棚に戻す。パズルをやっているような気分だった。横に目を向けると歴代の卒業文集が並んで書架に収まっている。
「へえ。卒業文集まであるんだね、うちの図書館。あれ、去年のだけ無くなっているよ」
去年のものならば、まだ置いていなくても不思議ではないだろうに。五年前の文集とかなら不自然だが。
ん。智弥は無くなっているといったな。見てみると、本棚の一番手前が一冊分、隙間が空いている。隙間にはまだそれほど埃がたまっていない。誰か今しがた、その文集を見ているのかもしれない。
二階に上がったついでに、図書館にまだ残っている他の二人の様子を見ていくことにした。確認したいことがあったのだ。たしか二階には、一年のちっこい男子がいたはずだ。
今いる本棚の間を抜け、自習用のスペースにでる。彼は真ん中あたりの机で必死に教科書にかじりついていた。一年にしては既に受験生のように必死だ。三年のこちらとしては少なからずの気恥ずかしさ。
階を下る。こっちの自習スペースには人影がない。少し探してみると、小説や物語などが中心の一階の書架の間に、二年の女子が居た。彼女は昔懐かしい児童書を手に取り眺めていた。
図書館の出口、ゲートをくぐり、無駄に広い新聞コーナーのスペースに戻る。智弥はどっと、深椅子になだれ込んだ。俺が訊く。
「去年の文集はどこいった」
訊かれた智弥の目はどことなく焦点があっていない。遠くを見ている。もう、疲れたのか。
「それは、関係あるかなあ?」
ある、といえる具体的な根拠はない。貸し出し中という可能性もある。だが今見てきたところ誰も持っていなかったのは事実。それに、出し入れの少なそうなあの本棚にしては、本を抜き取った後の隙間が綺麗過ぎた。あれは最近持ち出された形跡がある。
「まったく。三回もやられたのにしっぽもつかめないや。ドラマみたいにはいかないね。二度あることは三度あるって、かなあ」
智弥が愚痴った。
確かに三回目が起きたのは悔しい。それも俺たちの目の前で。犯人は俺たちのことを見ながら今も、愚か者め、と嘲笑っているに違いない。かくなる上は四度目こそは‥‥‥。
俺まで大げさになってきたものだ。
ん? 四度目? なるほど。
なんとなくわかった気がする。
思考がつながる。ばらばらに向いていたベクトルが、急に同じ方向を向いたような感覚。 ――やりたかったことはだいたい分かった。
だが、根拠が足りない。やつが何をしようとしたのかは説明ができる。だがただの偶然としては任せられない問題がまだ一つある。
「智弥。一回目と二回目の女子生徒に何か共通点は無かったか」
「共通点? うーん、両方女子だったよ。あとは‥‥‥」
思い出せ。あの時のこと。つい三十分も前のことだ。
そういえば二人目の生徒は俺の地元出身だった。なんでわかった? バスの定期がカバンについていたからだ。
バスの定期。デジャヴを感じる。今日もう一回どこかで見なかったか‥‥‥。
そうか二人とも。
「確かに二人とも、本は勝手にいれられたんだ」
俺はそのように話を始めた。
「恒太郎? ‥‥‥さては、わかったんだね」
「まあな。まず、勝手に本を入れるのは簡単だ。二人が席を離れた隙に本をカバンの下の方にでも隠しておけばいい。今日は図書館に残っている生徒は少なかったから、見られずにやるのはそんなに難しいことじゃない。かくして、今まで鳴ったことのないブザーが、二回も今日一日で鳴ることになった」
「僕も今日が初めてだ」
「なら、故意に鳴らす意味は? 俺は、ブザーが鳴っている間に司書さんの目を盗んで誰かが何かするつもりだったんじゃないかと考えた」
「でも、二回も三回も鳴らしていたんじゃブザーへの注意はどんどん薄れていくね。それに危ないことをするなら、一回で決めればいい話だ。何回も繰り返せば、ブザーへの関心は薄くなる。またかまたか、ってね」
「そうだ。それで、だ。俺は逆に注意が薄れていくことを利用したと考えた。
彼はあの時落ち着いていた。確かに前に二人も同じことが起きていれば、自分にも音が鳴る予想はついたかもしれない。だがそれにしても彼は落ち着きすぎていたように思える。
それに前に二人もいたずらされていれば、普通は、自分のカバンにもイタズラされていないか疑うだろう。そして自分の持ち物を確認するのが普通ではないか。事実、彼はあの時、『やっぱ自分のにも入ってましたねえ』と言った。やっぱり、と思うんだったら、事前に確認して取り除けばいい話だ。だが三回目は起きた。普通に考えれば、三回目は起きてはいけないはずなのに。二回も同じイタズラを繰り返されれば、自分のカバンの中身を確認するはずなのにな」
「つまり犯人は、大川君だね」
俺は無言を以って肯定の意を示した。
「でも結局、彼は何がしたかったのかな? ただのイタズラだったとしたら、自分が鳴らして知らん顔すればいい。生産性がないのも甚だしいけどね」
「智弥。図書室で起こる後ろ暗い事といったら、お前は何を考える?」
「そうだねえ。一度本棚から抜いた本を違うところに戻すようなやつは、舌を抜いた方がいいね」
「少しは真面目に考えろ。司書さんも言っていただろうに。あのゲートは何のためにある? 盗難防止用だと司書さんは言っていた」
一気に話してしまおう。
「ブザーが鳴った一回目の生徒は当然、持ち物をチェックされるだろう。盗もうとしたんじゃないか、ってな。二回目の生徒もチェックはされるだろうが、一回目ほどは厳しくはないだろう。イタズラだと思われる確率が高くなるからな。そして三回目。三回も起きれば、またイタズラだと大方は思ってしまう。僕もイタズラされていました、と言えばそれで司書さんは別に荷物を調べたりはしないだろう。そこを彼は突いたんだ」
「じゃあ。大川君のカバンにはもともと二冊の貸出手続きしていない本が入っていて、そのうち一冊だけを司書さんに返してから、もう片方はそのまま持って行ったってことか」
「そうだ。二冊分がゲートで引っかかってもブザーが鳴るのは、音が重なってしまって一回だけに聞こえるからな」
「それじゃあ一体彼は、何を盗んでいったんだい?」
一呼吸置く。恐らく間違いない、あの本はこの図書室には今ない。
「参考書を戻しに行った時、置いてなかった本がある。そして、誰もそれを読んではいなかった」
「卒業文集だね!」
俺は黙って頷く。
だが、智弥はいまひとつ釈然とはしない。
「でもさ、恒太郎。初めにブザーが鳴った二人が早めに帰るとは限らなかったんだよ? 閉館間際に鳴ってしまう可能性だってある。そうなったら、この計画はできなかったんじゃないかな」
「大川君にはブザーを鳴らす時間を調整するのは難しいことじゃない。早く帰ることがわかっている人を選んで、彼は罠を仕掛けたんだ」
智弥は常に纏わりつかせている微笑を崩しはしない。が、その眉根が少しばかり歪んだのが見て取れる。
「鍵はバスダイヤだ。ブザーを鳴らされた女子は両方ともバス通学者だった。これは俺が確認済みだ。バス通の生徒は普通、早めにバス停に行って並ぶそうだ。そうしないといい席には座れない。だから図書館に寄っても、バス通学者は早めに学校から出ていくらしい。幸い図書館に来る生徒は大方、メンバーが固定されている。一週間も通って観察していれば、誰がバス通学で、どのタイミングで帰るかなんて十分予想できる」
「じゃあ、大川君が最近図書室に来るようになったのも?」
「そうも考えられるかもしれん。穿ちすぎかもしれんがな」
俺はそう言いながら足を組みなおした。だがまだ最後の確認が残っている。この部分だけは、完全な憶測にすぎない。
「最後の確認だ。これはまるっきり推測なんだが、大川君が去年の先輩と何か関係を持つようなことは無かったか?」
一瞬、智弥は明後日の方向を向いた。そうかと思うと、自分の左上を見つめながら古い記憶を探っているようだ。
所詮は推論ゲームなのだから、実際のことはどうでもよいのかもしれない。が、ここまでやってきたからには、それなりの自信があった。
智弥はやがて目を開け、そして伏し目がちになり、顔を上げた。言うことには、
「うん。‥‥‥そういえば去年の今頃だね。たしか一つ上の先輩と付き合っていたことが、あった、かもしれない。一緒に歩いていたのを見たって話を聞いた気がする。そういう色恋沙汰からは遠そうなやつだからさ、あいつ、けっこう話題にはなっていたね。でも、言われないととても思い出さなかったよ」
嬉しいというよりは、ほっとした気分だった。まあその事実が直接関係しているかはわからない。他の事情があるのかもしれない。どちらにしろ、わからないのだ。俺たちは大川君ではないから。
それに何故だろう。いまいちすがすがしくない。
「さすが恒太郎だよ! 名探偵、藤生恒太郎。ここにありって感じだね」
おどけた調子で智弥が褒めそやしてくる。相変わらずのオーバーリアクションだ。一応ここは図書館前なのだが。
すると当然のことのように智弥が言った。
「じゃあ、ほら、司書さんに、成果を報告しないとね」
んっ。
「ああ、別に、それはいいんじゃないか? 文集ぐらい何冊も作って、いっぱいあるだろうに。それにこれはゲームだ。推理ごっこだ。確証はどこにもない。俺は、理屈付けをしただけだからな」
俺のその答えは、いつもの俺にしては不自然だったのだろう。智弥はぐちぐちと、せっかく‥‥‥なのになんで、などと言っていた。 いかんせん自分たちのしたことに智弥はまだ気付いていない。ただそれもまた推測にすぎないかもしれないが。
俺は半ば強引に図書館を辞した。
暗い昇降口。校舎には残っている生徒は殆どいない。音がしない。雨は依然として降ってはいるが、だいぶ弱くなっている、流石にそろそろ帰るとする。
智弥は、今日は親と外食に行くらしく、迎えの車が来ていた。一緒に乗っていくかいと言われたがそのお誘いは断った。
「また明日、恒太郎。今日の放課後はなかなか楽しませてもらったよ」
そう言うと智弥を乗せた車は走り去った。
雲が依然として深く垂れこめている。今日も、やはり夕日は見えない。だがこの雲の上には、今日も変わらず紅い世界が広がっているのだ。
対照的に目の前の景色は灰色。暗い夕方。駅までの道。
一人で歩くこの道はこんなにも広かったのかと今更ながら気づく。
大川君にとってあの卒業文集は、余程大切なものだったのであろう。人様のものを盗んだのだ。校則を破ってまで、人を欺いてまで、人の道を外してまでして。そこには通常の理性は働いてない。ある種の狂気すら垣間見られる。恋は盲目という。彼は今も夢中なのだ。学校ではもう追うことのできない彼女の影を、文集に、彼女の写真に追っているのだ。彼と彼女をつなぐのはもうあの文集だけなのではないか。
それに対して、俺はどうであったか。軽い気持ちで事件を推察し始め、良い暇つぶしにしていた。楽しんでさえいた。俺は一体、彼の何を知っている。俺にはとやかく勝手な憶測を述べられる筋合いはないではないか。そこに人の気持ちがあることを俺は考慮に入れなかった。自分以外の他人にも、その人なりの人生があるということも。
――俺のしたことは彼の気持ちを弄んだことにはならないだろうか?
深く垂れこめた雲。暗い夕方。一年前。梅雨も半ば。二人組が歩いている。男女二人。男は大川君。雨が降ってきた。おもむろに男が傘を開く。傘は一本。二人で一つの傘に入る。次第に雨は激しくなる。近づかなくては濡れてしまう。アスファルトを叩く雫。地面から跳ね返る泥水。近づかなくては濡れてしまう。
男の頬に触れる彼女の髪。少し湿り気を帯びているが、暖かい。
彼女が言う。
「雨が降って‥‥‥良かったね」
全てはあの雨が悪いのだ。俺はあの雨に心底迷惑させられた。そうでなければ俺は、雨が降って良かったと思う人間のことなど考えもしなかっただろう。この通学路だって、ここまで広くはないはずだ。
いつもの通学路。いつもの道。一人の道。一人では、広すぎる。
やっぱり雨は嫌いだ。
読んでいただきありがとうございます。この話は、自分が雨の日に図書室で勉強していた時に思いついたものです。自分の学校の図書館から実際に本を盗むとしたらどのようにするか、そんなことを考えていた時に考え付いた話です。
大学に合格したら、もっとお話を書いていけたらなと思います。