15.話 見えない赤ちゃん
*前回までのお話*
臆病な和久は、自分がタンポポ団の一員にふさわしくないのではないかと1人悩む。
元之には妹がいた。生後8ヶ月で、江美利という名だった。元之は江美利が可愛くてたまらず、よく抱っこしては「あぶぶぶぅ」とやっていた。
江美利のほうも元之が好きらしく、抱かれるとうれしそうにキャッキャとうれしそうに笑うのだった。
元之はよく面倒も見、母親の代わりにオムツを交換したり、ミルクを飲ませたりもしていた。
そんな様子を、もし浩や美奈子が見たら、ふだんの彼と見比べて仰天すること間違いなしだろう。
そんな元之の元へは、しばしばタンポポ団が遊びに来ていた。
もちろん、彼らがいる前では江美利に対して平然としたふうを見せていたのだったが……。
「あら、たいへんっ!」江美利をあやしていた美奈子が素っ頓狂な声を上げた。もちろん、真っ先に飛んでいったのは元之だった。
「なんですかっ、どうしました!?」
「ほら、見て。この子、だんだん透けていってない?」
美奈子の言う通り、江美利の体はすうっと透けて、向こう側が見え始めていた。
「いったい、これはどうしたことでしょう!」元之の慌てた顔を見たのは、タンポポ団の誰もが初めてのことだった。
江美利はますます透けていき、ついにはすっかり消えてしまった。しかし、いなくなってしまったわけではない。ベビー布団はくぼんだままだし、触れれば確かにそこに存在していた。
彼女は透明になってしまったのである。
「なんてこと! 赤ちゃんが見えなくなってしまったわ!」美奈子は叫んだ。
すると、その場から舌足らずながらも、威厳のある声が聞こえてきた。
「やかましいぞ。わしが透明になったからといってなんだというのじゃ。現に、わしはここにおるし、お主達もそれを感じているではないか」
言われてみれば確かにその通りで、透き通ったからといって別に問題はないのだった。
「しかし……しかしですよ、江美利。あなたはこれが正常だというのですか? どう見てもふつうではありません」と元之が言う。
「いいから、わしをこのベビー・ベッドから出すのじゃ。ちと、家の中を見回ってみたい」江美利は、まるで老人のような言葉で命令する。
「ですが、あなたはまだ、ハイハイしかできないではありませんか」元之はそう反論する。
「はてさて、それはどうかな。ささ、早くわしを下におろすんじゃ」
言葉に威圧され、元之は仕方なく江美利を抱きかかえると、カーペットの上に寝かせた。
「ばかもの! わしを寝かせてどうする。わしはお前達より上手く歩くことができるんじゃっ」
そう言ってごそごそと動く音を立てるが、実際に立っているのかどうかはわからない。何しろ、まったく見えないのだから。
しかし、すぐにそれはわかった。
まず、美奈子のスカートをギュッとにぎり、
「こやつは美奈子じゃ。よくわしを抱いてくれたり、あやしてくれたりしたな。礼を言うぞ」
次に浩の元へポテポテと音を立てて歩いていき、
「浩だったな。お主は、誰も見ていない隙にわしのほっぺをつねったことがあったな。忘れてはおらんからな」
浩は、やべっという顔をして、ペロッと舌を出した。
「お前は和久だ。元之が抱っこを勧めたとき、こわがって尻込みしたやつだ。なんと女々しいやつよのう」と言った。和久は恥ずかしさと恐ろしさで震え上がった。
「そしてお前。名は緑じゃな。寝ながら聞いておったが、どうやら別世界から来たそうだな。しかし思うに、お前は別段帰りたくもないそうだ。本当にそうなのか?」
たぶん、目の前にいる江美利に聞かれ、すっかり困ってしまっている緑。確かに、元いた世界は素晴らしいところだった。でも、美奈子とも浩とも元之とも、そして和久とも別れたくはなかった。
「うーん、ぼく、よくわかんないよ」緑はやっとの事でそう答えた。
「愚か者め。おのれのことであろうが。よくよく考えてみることじゃ。お前は自分の故郷に戻りたくはないのか? それともここに残るつもりなのか? だとしたらなぜなのか、とくと考えてみよ」
これはさすがに言いすぎだと思った美奈子は、思わず口を挟んだ。
「緑はまだ小さいんだもん、そんなこと簡単には決められないでしょ?」
「お前は黙っておれ! これは緑自身の問題なのじゃ。こやつが自分で解決すべきことであろう」
威厳たっぷりに言い下され、美奈子は渋々引っ込んだ。口の中で、「何さ、自分こそ赤ん坊のくせに」ともごもご言いながら。
それからも、江美利はたびたび透明になった。同時に、まるで賢者のように賢くなり、元之を何度となく言い負かすのだった。
ところが不思議なことに、両親がいるときには決して姿を隠すことがなかった。
「本当なんですよ、おとうさん、おかあさん。江美利はときどき透明になって、まるで仙人のようにわたしに意見をするんです」元之は熱心に説明したが、2人ともそれをまるで信じようとはしなかった。
ふだん冷静な息子がそんなことを言い出すなんて、そっちのほうこそ不思議でならない、そう思っているのである。
透明になった江美利は、ときどき元之と難しい問題について語り合うことがあった。
「のう元之よ。宇宙には果てがあると思うか?」
「一応、ビッグ・バンから発生したと言うことになっていますね。つまりは、風船のようにどんどん膨らみ続けているのですよ。ということはですね、当然と言いますか、果てはあるという結論に達します」
「ビッグ・バンねえ。それが本当にあったという証拠は、宇宙に散らばった星がどんどん離れていくからという理由じゃったな。しかし、それが本当かどうかはわからぬ。果てがないからこそ、星が遠ざかっていくのかもしれんぞ?」
「わたしは果てがあると思いますね。いえ、この宇宙だけではなく、無数に宇宙が存在するのですよ。ですから、もし宇宙の果てを突き破ることができたとしたら、別の宇宙へと行けるのではと考えていますが」
「そもそも、ビッグ・バンが起こるにはきっかけが必要であろう。科学者どもは、そもそも何もないところでそれが起きたと言っておるが、矛盾を感じはしないか?」
「それは……」
たいていの場合、元之のほうが問い詰められてしまう。
しばらく続いた雨がやみ、やっと晴れ間が出てきた。タンポポ団も一緒に、散歩に出ようということになった。
この時の江美利は、ごく普通の赤ちゃんだった。ふっくらしたほっぺにかわいいえくぼ。笑うと、まるで天使のようだった。
元之は乳母車に江美利を寝かせると、一同揃って、見晴らしの森へと出かけていった。
「久々に晴れたね。ここんとこずっと雨だったんで、気がふせってきちゃった」と美奈子。
「おれも、外へ出て遊べねえんで、テレビゲームばっかやってたぜ」背伸びをしながら浩が言う。
「江美利も、今日は大人しくしていてくれそうなので助かります。たまには外の空気も吸わせてあげなくてはなりませんからね」
ところどころぬかっているところもあったが、空は快晴だし、風もそよ吹く程度で、とても気持ちのいい日だった。
この森の中心には見晴らしの塔が立っていて、周囲あちこちには小さな広場が設けられていた。
その1つに乳母車を止め、一休みすることにした。
美奈子、浩、元之、和久、緑はベンチに座り、最近の話題やテレビで観たことなどを話している。
そのとき、事件は起きた。
突然、乳母車が倒れたのだ。
「あらっ、たいへん!」美奈子は慌てて乳母車を起こしに行ったが、いるはずの江美利がどこにも見当たらない。
「江美利ーっ」とみんなして叫ぶが、相手はやっとばうばうと話せる赤ん坊である。返事などできるわけもない。
元之は真っ青になり、ベンチの下や木の陰を探した。しかし、どこにもいないのだった。
そのとき、例の舌足らずの声がどこからか聞こえてきた。
「どうじゃ、わしとオニごっこをしようではないか。上手く捕まえることができたら褒めてやろう」
透明になった江美利だった。
「江美利、悪ふざけはおよしなさい。今すぐに出てくるんです」元之は言い返したが、当の江美利はもうオニごっこを始めているらしかった。
「おいおい、見えない相手をどうやって探しゃあいいんだよ」早くも浩がぼやく。
「どうしよう、どうしよう」和久は、今にも泣きそうだった。
「と、とにかく、手探りで探すしかないわね」美奈子は両手をぐるぐると回しながら、あちこち歩いて回る。「まったく、しょうがいないいたずらっ子だこと」
江美利はときどき、「こっちじゃ」などと声を出してからかうのだが、その場へ急いでも、空を掴むばかり。立ち歩きができるのだから始末に負えない。
「早く見つけなきゃ、ケガでもしたらたいへんだよう」和久が困り切った顔でバタバタと走り回る。下手をしたら、自分が木にぶつかってひどい目に合うかもしれないというのに。
「何か見つける方法はないかしら」と美奈子。
「うーん、困りましたね」元之もふうっと溜め息をつく。「わたしに時間をください。ちょっと考えてみますから」
元之は立ち止まって、当たりの様子をじっとうかがう。そのうち、ハッという顔をして、
「ははは、簡単なことでしたよ、皆さん」と言うのだった。
江美利はどうやらぬかるみを踏んだらしく、かわいらしい足跡がうっすらと草の上に残っていた。
「足跡を追っていきましょう。なあに、すぐに捕まえられますよ」
足跡を追っていくと、そこは見晴らしの塔の真下に続いていた。
「あ、あそこにいるな。とっ捕まえてやる!」浩が両手を広げてそっと近づいていくと、やや透けて見える江美利の姿が見えた。彼女は塔をなでるようにしながら、じっと上を見上げているところだった。
「ほらっ、捕まえた!」浩は江美利を抱き上げる。江美利は何も言わず、うっすらとした顔で浩を見つめた。
「のう、浩よ。この塔はいったいなんのためにあると思う?」
「そりゃあ、灯台だろ? だってよ、夜にやるとてっぺんが光るじゃねえか」
「そうじゃろうか。わしにはもっと重要な意味があるように思うのじゃ」
江美利を元之に渡すと、その姿はどんどんはっきりしてきた。
「元之よ、お前はわしの兄としてとても賢い。わしはな、そのことをいつも誇りに思っておるのじゃ……わしは……わちはお前のことが……だいちゅきじゃ――」
言葉が赤ん坊のそれに代わると同時に、江美利はすっかり姿を現すのだった。
*16.話 冬のセミ*