8 とある近衛兵の間奏曲(インテルメンツォ)
王女殿下の結婚式典で、王都全体が興奮していた四月中旬。
暗くて人見知りで落ちこぼれの僕に、名前も知らない婚約者ができた。
まだ正式に決定したわけではないけど、この話を勧めてきた上司が「そうなる見通しはかなり高い」と言っていた。
「婚約者」といってもよくよく聞けば中身は微妙で、会って話してお互いがその気になれば婚約するという、見合いに似たものだった。紛らわしい。
「僕なんかに務まるとは思えない」と断ったのに、謹厳な上司は「お前しか適役がいない。頼む」と真摯に迫ってきて、結局僕は渋々頷くしかなかった。
どうせ僕はこんな顔でこんな性格だ。高貴な血筋でもないし資産もそれなり。上手くなんていきっこない。すぐ相手の方が離れていくだろう。
人に嫌われるのには慣れている。だから、引き受けて破談になっても何の支障もないと思っていたのに──すごく面倒くさいことになった。
*
「おいルキノ。副隊長が今すぐ来いってさ」
同僚からの伝令で、休憩中に呼び出されたのはカイン副隊長の執務室。
何の用かと思えば、この間の「婚約者」に関する話だった。
「先日は突拍子のない話を受けてくれて感謝する。詳細が決まったので、今日はそれを伝えておこう」
「……はい」
自分のことなのに、気が滅入るだけであまり興味が沸かなかった。故に僕は気乗り薄だが、カイン副隊長は気付いていないようだ。元々僕は常日頃から著しく無表情らしいので、カイン副隊長だけでなく、大抵の人は僕の内面を読み取れない。
机に座るカイン副隊長は顎に手を当て、一枚の紙を見ながら重々しく口を開いた。
「先に詫びておく。すまない」
上司はこれから僕にもっと悪いことを言うようだ。例の一件が無効にでもなったのだろうか。相手が僕を気に入らなかったのだろうか。そんなの、別に僕はかまわないのに。逆に胸をなでおろすくらいだ。
「此度の件だが、今日正式に取りまとまった」
……なんだ。決まってしまったのか。お流れになればよかったのに。嫌だな、面倒くさい。
じわじわと重苦いものが滲み出てくる。
端正な顔をぼんやり見ていると、カイン副隊長は続けて予想だにしない発言をした。
「そこで、互いをよく知るために、ルキノには先方の家で暮らしてもらう事になった。これはまだ確定ではないが、おそらく時間の問題だ。日は追って知らせよう」
過日の「婚約者になってくれ」という唐突な要請も奇矯だったが、見ず知らずの異性と同棲しろというのはもっと非常識だ。僕が今話をしているのは、本当に真面目で冗談の通じないカイン副隊長なのだろうか。
面倒くさい。面倒くさい。面倒くさい。どうして僕がそんな事をしなければならないの。
渦巻く悪感情は決して口にしない。顔にも出ない。僕の気持ちを知ろうが知られまいが、そんなのはどうでもいいんだ。
ただただ、面倒。
「同居期間中は一時的に退寮となる。退寮の理由だが、隊の者には任務の為と伝える予定だ。もし聞かれれば『任務内容は極秘』だと言え。ニコラウス隊長には私から上申しておこう」
クラウスやカミユ、ユリアンなら一度言えば引き下がってくれるだろうけど、アストラッドはどうだろう。あの好奇心の強い同僚に根掘り葉掘りしつこく訊ねられるのかと思うと、うんざりする。
「前にも言ったが、先方は気立ての良い女性だ。お前にも好みはあるかもしれないが、逃すのは惜しいぞ」
気立てが良いと言われても、いまいちよく分からない。
女の人はみんな同じだ。男らしくて、でも綺麗で優しい人が好き。そうでない者には目もくれない。それが悪いとは思わないけど、僕は相手の女性に期待なんてできそうもなかった。なので、「婚約者」の名前や身分を尋ねることをしなかった。興味がないから。
嫌だったけど、僕に拒否権はなさそうで。端正な顔に視線を向けたまま、目を合わさずにゆっくり首を縦に振る。カイン副隊長は強面を崩さず「よし」と渋い声を出した。
「退室を許可する。休憩に戻れ。……苦労をかけるな」
労いなんていらない。だからこれ以上厄介事に巻き込まないで欲しい。
「……失礼します」
緩やかに踵を返し、カイン副隊長の執務室から出る。
面識のない異性との同居──はなはだ面倒だ。相手に会うのも、相手に気を遣うのも、退寮するのも、荷物の整理も、引っ越しも、同僚をやり過ごすのも、何もかもが煩わしい。そう、何もかも。
僕は一人で静かに過ごすことができればいい。たとえそれが寂然たるものであっても、僕の生きる道には、「愛すべき人」や「生涯の伴侶」、「異性の理解者」など現れやしないのだから。僕には必要ないんだ。
あんな話をされた後で憂鬱だった僕は、城の兵士で騒々しい兵舎に戻る気がしなかった。
もう二十分もすれば鍛錬が始まる。残された休憩時間は少ないが、人のいないひっそりとした場所でぼうっとしていたい。そう思い、ざわついている兵舎の前を素通りする。
白い石材が敷かれた回廊を当てもなく歩いていると、ふと、人の気配を感じた。
それは回廊の外れにある倉庫の裏から滲んでおり、並みの兵士じゃ分からないくらい朧ろげで、微かなものだった。
僕は面倒な事が嫌いだけど、職務を放棄するほど愚かではない。
不審者が城内に紛れ込んでいてはいけないので、気は進まないが確認をすることにした。せっかくの休憩時間なのに、台無しだ。嫌になる。
いつもより神経を澄まし、気配のする場所へと歩いていく。倉庫の裏の気配が移動を始めることはなかったが、ただでさえ微弱な気が、息を潜めるかのように更にか細くなった。
僕が近付いて行くのを意識しているのだろう。誰かに見つからないよう物陰で気配を殺す人間なんて、ろくな奴じゃない。
潜んでいるのは不法入城者か、サボっている使用人か、迷い込んだ搬入業者か。
誰でもいい。僕は自分の仕事を全うするだけ。
ブーツの音が変わる。目標に向かううちに、踏みしめるものは白の敷材から土草になっていた。物陰に潜む気配ももう近い。
ほどなく、草薮が目に入った。大人が二人並べるか並べないかくらいの狭めな幅に、背の高い茂みがこんもりと葉を茂らせている。
どうやらこの先に誰か隠れているらしい。
愛用している細身の剣が腰にさしてあるか確かめ、冷たい柄にひと触れして、僕は緑が香る草薮を掻き分けた。植物独特の匂いが鼻腔を満たしていく。
ガサガサ……ガサッ。
意外に奥行のない茂みの向こうにいたのは、まじろぎせずにこちらを見つめる、黒い瞳の女の人だった。
*
城壁と城の外壁の狭い隙間に佇む女。
ペッカイナでは珍しい黒の瞳と凹凸の少ないのっぺりとした顔立ちに気を取られたが、僕は彼女の全貌を視界に入れ、その見た目からどんな人物でありそうか推測を始める。
この国における成人女性の一般的な服装であるブラウスとスカート。生地も作りもありふれたもので、気になる点は見当たらない。
外見上、目の前の女は刃物などの危険物を持ってなさそうだった。肩に掛けている鞄の中身がどうかは分からないけれど。
鞄の肩紐を握り、僕の方を向いたまま動きを静止している彼女からは、凄みや敵意を感じない。僕が来たことに驚いているのか、それとも僕の顔貌に驚いているのか、吊り気味の黒目がわずかに揺れている。
(……一般人?)
試しに殺気を放ってみる。しかし、なんの反応もなければ、顔色が変わることもなかった。その筋の人間ではないようだ。思えば、不法侵入者がわざわざ兵舎の近くをうろつくこと自体、おかしな話である。
さしずめ、用事があって来城していた一般都民、或いは城で働く勤め人、といったところか。入城許可証を持っていればの話だけど。
この女の人は気配を抑えるのが少しばかり上手いようだが、とりたてて問題視する事ではない。所詮、訓練を受けた兵なら誰でも気付ける程度のものだ。隠れるのが得意な子供がいるように、彼女もきっと隠れ達者なのだろう。
だけど、もしものことがあってはいけない。
入城許可証はしかるべく確認しておいた方が良さそうだ。
そう思った矢先、僕はふと気分が重くなった。
(どうせ、話しかけたら気味悪がられるんだろうな。僕はこんなだから)
人に言わせれば、僕は重病人もしくは幽霊のような面差しをしているらしい。それに加え、大人しくて無口、淡々としている性格ということもあり、僕は隠微で暗い奴とされ、会う人会う人に薄気味悪く思われている。ユリアンやアストラッド、カミユ等、近衛隊の一部の人間はそうでないようだけど、大多数は僕を煙たがる。
特に女の人には強い不快感、恐怖心を与えてしまうみたいで、避けられたり、目を逸らされたり、悪口を言われたり──とにかく、よく嫌われていた。
僕にはどうしてか分からなかったけど、同僚のアストラッドが「お前が近衛兵のイメージを壊す見てくれをしてるからだろ」と言っていた。そんなことを言われても、僕も他の皆と同じ試験を受けて近衛兵になったんだから困る。
(別に慣れてるから気色悪がられてもいいんだけどね)
僕の三、四歩くらい先でじっとしている黒眼の女性をぼんやりと見ていると、彼女の纏う雰囲気が変化した。驚きや戸惑いを含んだ不安げなものから、柔らかで、それでいて強い意志を宿したものに。
そうして彼女は、あろうことかにっこり微笑みかけてきた。こんな僕を前にして。
「あっ……どうも。こんにちは、兵士様」
明るくて温もりのある声。それは、他の誰でもない僕にかけられている。
彼女は僕の返事を促すように、首をかしげて微笑み続けた。動きに合わせて金色の巻き毛が揺れる。
思ってもみない彼女の態度。表面的なものかもしれないが、僕はらしくもなく面食らってしまい、瞼を大きく開閉させた。こんなこと、幼少期を除いて今までに一度でもあっただろうか。
上辺だけでも女性に愛想よくされたことなど、無いに等しい。
(……どうしたらいいのか、分からない)
城で働く侍女や使用人から、目を合わさない早足の挨拶をされた時は目礼だけしていたが──こんな場合はどうすればいい?
自分に対して友好的な女性へ返す言葉が、しぐさが、接し方が、さっぱり分からない。
分からないから、何もできない。
僕はどうすればいい? にこやかに挨拶をしてきた彼女に、なんと返せばいい?
過去の引き出しを手当たり次第に開けていく。
母が僕に声をかけてきた時、僕はどう答えていた?
小さな女の子に遊びに誘われた時、僕はどんな対応をした?
どちらも幼少の頃の霞んだ記憶なので、詳しく思い出せない。
僕の目には、依然口元を緩めている黒い瞳の女性が映ったままで。彼女は僕を、静かに見つめている。
ああ、何か。何か言わなきゃ。
彼女は僕の返事を待っている。
「……ここで、何してるの」
考え迷った後に唇から零れたのは、不明瞭で消え入りそうな声で。
僕は「こんにちは」と言った彼女へ返礼することも、微笑み返すこともできず、ただ焦って思いついた言葉を口にしていた。それは僕の立場上聞かなければいけないことだったが、挨拶を返してからでもよかったのではないかと、言った後で後悔した。
この人、気を悪くしないだろうか。……するよね、こんな僕が礼を欠いたんだもん。
久しぶりに女性相手に自分の態度を省みた気がする。僕はどうせ暗くて落ちこぼれで嫌われ者。それでいて、人見知り。今更誰にどう思われようが気にならない──はずだったのに。
「この奥から猫の鳴き声が聞こえて……気になって茂みの奥まで来てみたんですけど、どこかに行ってしまったみたいです」
黒目の女性は、笑みを深め、朗らかに肩をすくめてどうしようもない僕の問いにすぐ答えてくれた。
吊り気味で細い双眸に一見そっけなさそうな印象を受けるが、それは違うように思う。彼女の目元は優しげで、どこか安心感があった。顔を綻ばせているせいなのかもしれないし、演技かもしれないけど。
いつのことか、「女は皆役者だ」とアストラッドが言っていた。この人もそうなのだろうか。そうだとしたら……少し、ほんの少しだけだけど、悲しい、かもしれない。本当にほんの少しだけだから、大丈夫だけど。
こんな僕に本気で愛想良くしてくれる女の人なんて、いるはずがない。いるはずがないんだ。
僕は暗くて落ちこぼれの嫌われ者。妙な期待など、してはいけない。しない方がいい。
深く関わってはいけない。関わらない方がいい。
──……でも。
でも、僕のことを気味悪がるわけでもなく、嫌悪するわけでもなく、逃げ出すわけでもない彼女を見ていると、彼女の声を聞くと、言いようのないもやもやとした気持ちが生じてくる。
それは、まだ形の出来きらぬ「興味」だった。
僕はふらふらと草の茂みを出て、黒目の女性の目の前に立つ。「仕事の為」だとぼやけた「興味」を押しやり、こちらから視線を逸らさぬ彼女へ入城許可証を見せるように告げた。
「はい。今出しますね。……どうぞ」
己が不審者かどうか確かめられているというのに、彼女は嫌な顔一つせず肩に掛けた鞄から一枚の厚紙を取り出した。それは僕の方にすっと差し出されたが、僕は受け取らなかった。いや、受け取れなかった。
厚紙を持つ白くて華奢な手に拒絶されたらどうしようと、怖くなってしまって。
「恐れ」に気付かないふりをして、目線を厚紙に落とす。青の国章が捺されたそれは、間違いなく「下級入城許可証」。役職身分欄には「ターニャ・アランサバルの召使」、名前欄には「モリー・ナーエ」と記入されてある。
僕は彼女が怪しい人物でなかった事に警戒を解くと共に、知らなかった情報を得てそうだったのかと僅かに驚いた。
(この人が国守魔導師の召使だったんだ)
ペッカイナ王国国守魔導師、ターニャ・アランサバル。遥か南の砂漠の国から移住してきた彼女は、飾り気のない型破りな人柄で、身辺に使用人や侍従を置くのを嫌がっていた。
そんな彼女が、何年か前に一人の召使を雇った。人当たりが柔らかく、真面目で礼儀正しい女性だと噂に聞いた。また、その女性は、この国ではあまり見ない黒い瞳を持っていると耳にしたことがある。あの当時、新たな国守魔導師と同じくらいに話題になった人物だ。
……彼女が、例の。
城の上層警備にあたるユリアンやカミユは見た事があると言っていたけれど、大概地下の宝物庫を持ち場としている僕はこれまで対顔する機会がなかった。まさかこんなところで出会うなんて。
顔を上げると、黒い瞳の彼女がニコリと目を細めた。僕に向かって微笑んでくれているようだ。
この人はどうしてこんな僕に笑いかけてくれるのだろう。僕のこと、気味が悪くないのだろうか。それとも、アストラッドの言う通り、演技をしている女優なのだろうか。
ぼうっと、彼女の姿を視界に留める。
胸元まであるふわふわした金色の巻き毛、切り揃えられた長めの前髪、一重で黒い少し吊った目、短い睫毛、白い肌、ほんのり赤みのある頬、彫りは浅く、低めの鼻。ペッカイナでは見慣れない顔つきだ。
決して美人というわけでも可愛くもなかったが、血色の良い彼女は健康そうで、幽霊みたいな僕とは正反対だなと思った。
ひだまりのように温かく、そよ風のように穏やかに僕を見上げている彼女。妙齢の女性にこのような温顔を向けられたのはかつてないことで、すごく困惑していたけれど──。
けれど、僕は今、この人の柔和な微笑みに仄かな安らぎを感じているようで。
不思議なことに、彼女の顔から目が離せなかった。
……。
……。
「……あの、どうかなさいましたか?」
人当たりの良い、だけど、どことなく訝しげな色を孕んだ声に、はっとする。
僕は呆けたように彼女をずっと見ていたのだろう。僕みたいな不気味な奴に凝視されて、彼女が不愉快になっていたらどうしよう。……きっと気味悪く思ってるよね。
そういえば、クラウスたちが初めて気さくに話しかけてきてくれた時も、僕はこうやって彼らをしばらく眺めていた。僕なんかに親しく接してくれる事が不思議で、信じられなくて、でも嬉しくて、どうしたらいいか分からなくて。
そう、どうしたらいいのか分からなくて。
どうかしたかと聞かれても、どう答えたらいいのか分からなかった。答えるのもひどく億劫だった。
入城許可証によって彼女の身分は証明され、問い詰める必要も、縛り上げる必要もない。
僕は黒い瞳の彼女から目を逸らし、後ろを向く。葉の生い茂る草薮に逃げるように突っ込んでいくと、「えっ? あの、ちょっと」と慌てた声が耳に入った。
無視してしまうなんて悪いことをしたけど、迂闊に発言して不快な思いをさせたくない。でも、もう遅いよね。こんな僕に無視されたら誰だって腹が立つ。
彼女が怒って追いかけてこないかとか、怒号が飛んでこないかとか、「気色悪い」と呟かれてないかとか心配になり、僕は普段より速い歩みで兵舎に戻った。
(……優しそうで、不思議な人だったな)
午後の鍛錬中、国守魔導師の召使というあの人の事を何度か思い出し、カイン副隊長に「身が入ってない」と叱られてしまった。「婚約者や同居を気にしているのだろうが、雑念は怪我の元だ」と言われたが、その時まで僕はすっかり例の婚約者について忘れていたのであった。