6
五月六日。曇り。微風。
今日は仕事で朝から城を訪れていた。
近づいてきた雨期に備え、雨雲をいかにコントロールするかをターニャさんと環境管理官と話し合い、ひと段落ついたところでティータイム。ナイスミドルな環境管理官が退室した後、私とターニャさんは紅茶を楽しみながら雑談していた。
今回は私が紅茶を淹れた。甘いスイーツに合うようさっぱり系の茶葉を選び、いつもより丁寧に淹れた紅茶をターニャさんは褒めてくれて。
それがちょっぴり嬉しくて、私は気分良くお茶とお菓子を味わっていた。
「そういやナーナ、あんたあの日、家を見に行ったのかい?」
あっさりとした紅茶の一杯目を飲み終えたところで、ターニャさんが次の話題をふってくる。神経回路が記憶を紡ぎ、例の一軒家や庭がすうっと頭に入り込んできた。
「あっ、はい。見てきましたよ。迷子にならず、ちゃんと辿り着けました」
(すごく良いとこだったなあ、あそこ)
ティーカップを置き返事をすると、ターニャさんは軽く笑って「あの家に行くのに迷子もクソもないだろうよ」と言った。
そうですね、と相槌を打つ前に、再度彼女は口を開く。
「で、どうだった?」
話の流れからしてあの家の感想を聞かれているのだと悟った私は、素直な気持ちにちょいと色をつけて返事をした。超にこやかに。
「すごく良い家でした。あんな素敵な物件を頂いて申し訳ないです。ターニャさんってば、全然ボロ屋じゃなかったですよ。庭も広くて、あれなら念願の家庭菜園や鶏飼育もできそうですね。とっても気に入っちゃいました」
なんで色をつけたのかって、「ヨイショ」ですよ「ヨイショ」。上司を立てるために、言わば軽いご機嫌取りでオーバーに称賛したんですよ。すっごい自然な流れで。くーっ、日本で上下関係厳しい職場にいたせいか、私は世渡りの術を染み込ませてしまっていたっ。なんて嫌な奴なの!
で、でも、決して太鼓持ちになるつもりはなくって、ついというかなんというか。ほんと、息をするように口が勝手にゴマすってたんです。や、あの家と庭を素敵に思ったのは事実だし、元はターニャさんのものだったあの一軒家を褒めることでターニャさんが喜んでくれたらなーっていうのもあって。私、ターニャさん好きだから。
……ごほん。話が逸れた。
堂に入った「ヨイショ」をさらりとやってのける自分に自己嫌悪しつつ、ニコニコ顔を保っていると、ターニャさんの顔つきが変わる。
砂色の目がキュッと細まり、ふっくらした赤い唇が妖艶な弧を描いて──「そうかい。気に入ったんなら、引っ越しちまいなよ」と、彼女は私に言った。
「え、ええっ?」
治まりかけていた「引っ越し熱」が瞬時に蘇る。大きな家、憧れの庭、素敵な未来のビジョン──それらは手招きするかのように、私の胸を熱くさせた。
しかし、私はまだ冷静さを見失ってはおらず、誘惑を押しのけて首を横に振った。「私にはもったいないです」「頂いてまだ四日しか経っていませんし」「まだ今の家に住めるので」等、我ながら苦しい理由で否定する。
そう。私はあの「贈り物」を喜び進んで貰ったわけではない。半ば流されるように、断りきれず頷いていて。予想以上に好みの物件だったので少し惜しい気はするが、機会さえあれば返納しようと考えていた。
いくら「住んでもいいかな」という気持ちが、「住みたいな」という欲が生じているとはいえ、コロッと方針を曲げたくはない。見合った努力もしていないのに甘い汁を吸うのは気が引ける。
かといって、ターニャさんの好意を踏み躙りたいわけではなく。提案を否定したことでターニャさんの機嫌を損ねないか心配になったが、彼女は艶やかな笑みを深め、「気に入ってくれただけでも嬉しいよ」と紅茶を啜った。
……これだけで済んでいれば良かった。
ここでティーテイムを終わらせ、仕事に戻っていれば良かった。
ターニャさんはそれ以上、私へ引っ越しを強引に勧めてはこなかったのだが、あの家に関する魅力的な話をたーっぷりしてきたのである。
湿気に強く防音に優れた建材を使用しているとか、街中と違ってゴミゴミしていないから静かだとか、土壌が良いから立派な作物が育つとか、井戸にはカシカ河の地下水を引いているとか、近くに民家も人通りもないので人目を気にせず暮らせるとか──。
もうね、わざとなのかと問い詰めたいくらい(できないけど)甘い話で、私の中の「引っ越し熱」がどんどんどんどん滾ってしまったんですよ!
ターニャさんの唇からつらつら溢れる言葉に、自分でも目の色が変わっていくことが分かった。
例の一軒家や草ぼうぼうの庭が私の頭ではっきりと像を結び、キラキラと輝く。次々と浮かぶのは、野菜や果物の実る畑、小さな放牧地で日向ぼっこをしている家畜たち、ぽかぽか日差しの中、のーんびりと庭の手入れを行う私──。
抑制も虚しく、それらは次第に輝きを増していった。誘惑と共に。
上司からの「贈り物」を元々快く受け取っていない、かつチャンスがあればお返ししようと目論んでいた私は、甘い甘い誘惑と激闘を繰り広げた。
美しく妖艶な面持ちの裏で、彼女は何を思い、考えていたのか。
私を誘惑しようとしているともとれる態度に「乗せられてはいけない」と自戒していたのに、彼女の言葉は甘く、魅惑的過ぎた。
ターニャさんの度重なる甘言で優勢となったのは、いうまでもなく「引っ越し熱」。
そして、妖艶な上司は心動かす一言を放った。
「この前、ちょいと占ってみたんだ。あの家に引っ越すと運が向くよ。願望達成、良縁成就、無病息災、と出た。もし少しでも引っ越しする気があるなら、早い方がいい。その分早く運勢が変わる」
古い時代から砂漠の国イリネカに伝わる、砂占い。
かつて、ターニャさんは占い師をしていた。魔導師になった今も時折行っているようで、その精度は高い。これまで私も何回か占ってもらっており、それはほとんど見事に的中していた。
──熱狂こそしてないが、私は密かに占い好きだったりする。出勤前はニュース番組の占いをよく見ていたし、雑誌の占いコーナーも必ず目を通していた。占いの結果で一喜一憂する事もたまにあった。私は一般女子である。うん。
そんな私が、よく当たるターニャさんの砂占いを真に受けないはずがなく。
(願望達成、良縁成就、無病息災っ! こ、これはそそられる。女子として)
ぐわーんと心が揺さぶられた。
そんな時、ターニャさんからさらなる追加攻撃。
「せっかく贈った家だ。あたいもあんたに住んでもらえたら何よりだと思ってる。ま、無理にとは言わないけどさ……どうだい?」
ハスキーヴォイスが甘ったるく耳に流れ込む。ああ、セクシー。私はこの声に、ターニャさんの「お願い」に、弱い。私だけでなく、彼女の旦那さんや城の人間もこれに弱いと聞く。
こんなセクシー美女のお願いだ。靡かない人間のほうが少ないと思う。
それでもまだ、私の「遠慮」は踏ん張っていた。ものすごく健闘してくれている。
「えっ、えっと、あの、すごく良い家で、引っ越すのもいいなあと思うんですけど、でもやっぱり悪いです。私にはもったいないです、ターニャさん」
それまで表にしなかった焦りが出てしまい、私はしどろもどろに返事をする。あそこまで引っ越しに傾いておいて、「はい」と言わなかっただけすごいじゃないの。
「だから、変に気を遣わなくていいって言ってるだろ。あの家を気に入って、住みたいと思ってるんなら住めばいい。そのつもりでナーナにあげたんだから」
「でもですね」
ターニャさんは私の唇に人差し指を当て、顔を覗き込んでくる。これ、私が男だったら襲ってたかもしれない。
「せっかく贈った家だ。あたいもあんたに住んでもらえたら何よりだと思ってる」
彫りの深いエキゾチックな美顔が間近にある。所々掠れた低い声、砂色の猫目、厚く艶やかな唇、燃えるような赤い髪──その全てが、蕩けるような甘さを孕んでいた。
私は顔に熱が集まるのを感じ、無意識に体を硬くする。ついさっき、「自分が男だったら襲っていたかもしれない」と思ったが、なんだか逆のような気がした。
──……私が襲われてしまいそうだ。
「良い家だと思ってくれたんだろ?」
諭すように言われ、理想の家が、憧れの庭と畑が、頭の中を駆け回る。ぐるぐると、ぐるぐると。
彼女の言うとおり、私はあの屋地をとても良いと感じていた。
「引っ越し熱」に押されるがまま私が小さく肯んじると、ターニャさんは朱の塗られた唇をゆっくり動かす。
「……どうだい?」
じっと見つめられて、もう一度聞かれる。彼女の長く細い人差し指は、私の唇に触れたまま。
声が出せなかった。
素晴らしい生活、未来のビジョン、理想の家、と、パンパンに膨らんだ「引っ越し熱」の背中を押すかのような褐色の美女の蠱惑に思考を掻き乱され、私は幼子のように微かに頷いた。
脳みそにいる第三者の私が、「遠慮はどこに行ったのよー」と喚き散らしている。まったくもってその通りだが、言葉を封じられ、欲と美女に魅了された私になすすべはなかった。
刹那、砂色の瞳が光る。この時覚えた胸騒ぎは、すぐさま現実となり。
「そうか。引っ越すか。それは嬉しいな」
言って、ターニャさんが離れていく。妖しい顔貌はどこか悪戯っぽく、含みのある微笑みを湛えていた。
満足そうな態度の彼女を見て、私は一気に我に返る。深い夢から突然覚めたような感覚だった。
(──っやられた!)
「えっ、ターニャさ、今のは違っ」
「あんたしっかり頷いたじゃないか。何が違うってんだい?」
慌てて訂正するも、既に主導権はターニャさんに握られていて。
ニヤニヤしている彼女に、自分はハメられたのだという確信がみるみる増した。
「あれは……『いいえ』と言いたかったのに口が塞がれてたから」
「じゃあ首を横に振りゃあよかっただろ。だけどあんたは縦に振った」
「うっ……ず、ずるいですよターニャさん!」
「はははははは! 女の色香に惑わされるなんてなあ。しかも女のくせに。あんたもまだまだだねえ」
天を仰いでケタケタ笑うターニャさん。先程までのお色気ムンムンが嘘のようだ。
「もー、この前といい今日といい、いっつもそうやって私を陥れるんですから!」
ムスっと眉を顰めてみせ、不満を漏らす。
「人聞きの悪い事を言うなよ。あー、腹が痛い。面白いよなあナーナは。ぷっ、はははははは!」
声を上げて笑い続ける彼女を見て、私は「適わないな」と肩を落とした。図々しいとか厚かましいとか、遠慮とか、そんなものが一気にどうでもよくなる。
思えば、ターニャさんとこういったやり取りをして勝てた事はなかった。いつも負けか引き分けで、だから私は彼女にお世話になりっぱなしなのだ。
「はあ……笑い事じゃないですよ」
力なく項垂れると、頭をガシガシ撫でられた。ヅラがずれます、ターニャさん。
「あそこに住むの、満更でもないだろう? あんた、本当にあの家を気に入ってくれてるみたいだからさ」
(そ、それはそうなんだけどっ)
むー、と一つ唸る。それは最後の抵抗で、諦めでもあった。
「本当に、いいんですか?」
暫し沈黙したのち、口を開く。熱に渦巻いていた心は、驚くほど静かになっていた。
「ああ。もちろんさ。毎度毎度、あんたは人に要らない気を遣うねえ。たまには自分の気持ちだけで動くのもいいんじゃないかい」
おずおずと彼女の顔色を窺うと、星が見えそうなウインクがバチッと飛んできた。
(うーん……。たまには、いいのかな? こういうのも)
「いつ引っ越すか決まったら、絶対教えなよ」
「あ、はい」
……いささか複雑だが、またもや流される形で私の引っ越しは決定したのである。
*
引っ越しが決まったその日の仕事帰り、私は王女の私室に足を運ぶことにした。
自分の執務室を出る際、ターニャさんから「王女があんたに会いたがってる」と聞いたのだ。友人であるフェデリカ王女とは彼女の結婚式以来会えておらず、そろそろ顔を見ておしゃべりしたいなあと思っていたところ。引っ越しの報告もしておきたいし。
私の友人は王女であり、それは血筋や名ばかりのものでない。聡明で意志の強い彼女は、名実共に国を担う王女だった。公務やら国務やらで多忙のうえ、せっかくの蜜月を邪魔しちゃ悪いなと遊びに行くのを控えていたが、ターニャさんによるとどうやら今日はオフらしい。しかも私に会いたいと言っている。これはね、行くしかないでしょうよ。
上から下まで深緑のローブで覆ったまま、城の最上階へ昇る。王族の私室がある階とあって、警備は全て近衛兵で人数も多い。
廊下の両脇に等間隔でずらりと並ぶ近衛兵を見て、私はなんとなく、彼の姿を思い出した。誰かって、先日城内の外れで会った(見つかった?)、不健康そうで病んでそうな一人の青年だ。
(そういえば、この前会ったあの変な人、近衛兵だったよね。……いたりするかな?)
目線を彷徨わせ、さり気なく探してみたが、彼の姿は見当たらなかった。私は特にがっかりすることなく、「ああ、いないのねー」とだけ思い、歩き続ける。
白壁に背を合わせ直立している兵らは、チラリとこちらへ目を向けるも、私が「魔導師」だと把握するとすぐに視線を戻した。さすが心身鍛えしエリート。守衛兵や門番とは違い、そこまで緊張感を顕にしない。
下の階もこんな雰囲気で通れたらなあと思いつつ王女の部屋を目指していると、見知った顔を遠くに見つけた。
(あ、カインさんだ)
各場所に異常がないか見回っているのだろうか。それとも、部下の勤務態度をチェックしに来ているのだろうか。
腰まである金髪を綺麗に一つにまとめ、黒の隊服をピシッと着こなす彼は、ターニャさんの旦那様だ。近衛隊の副隊長をしている、生真面目で無口な長身のイケメン。スーツがすごく似合いそう。
唇を真一文字に結び、榛色の鋭い目を光らせているカインさんはちょっと怖い。ターニャさんを介して出会った当初は、内心かなりビクビクしてた。
(どうしようかな。仕事中だから挨拶だけにしとこうか)
カインさんは廊下に並ぶ近衛兵に声をかけながら私の方へ進んできている。このまま行けばすれ違うだろう。
ターニャさんの旦那様ということもあり、彼は私が身分を偽っていることや、私の素顔を知っている。ターニャさんほど親しいわけではないけれど、カインさんは良き協力者で、それなりに交流があった。
「こんにちは。お勤めご苦労様です」
カインさんとの距離が縮まり、仕事の妨げにならないよう短く頭を下げる。今度ターニャさん宅に遊びに行く予定なので、世間話はその時にしよう。
私の挨拶に、カインさんは礼だけを返してくれた。無口な彼らしいというかなんというか。私に遭遇したことに動揺しているのか、榛色の瞳が少し戸惑いを帯びていた。おやおや、「鉄の副隊長」と称されるカインさんが表情を乱すなんて、珍しい。
「……待て」
すれ違った──と、思いきや、カインさんは足を止め、私を呼び止める。
(わっ、なんだなんだ?)
反射的に立ち止まり振り向くと、カインさんもまた、上肢のみ振り向いた姿勢で私を見ていた。彼が仕事中に話しかけてくるなんて珍しい。もしや、警備に関するトラブルがあったのか? 物騒なのは嫌いですけど、私にできることがあれば力になりますよ。
「はい。なんでしょうか」
ローブでもつれそうになる足元に注意し、カインさんの近くに寄る。するとカインさんは「来てくれ」と、廊下の隅に目をやった。
(なになに、廊下の真ん中では話せないことがあるのかい)
頭にクエスチョンマークを浮かべて大人しく彼の後ろについて行く。近衛兵たちと離れたところでカインさんはこちらに向き直り、何やら目をきょろつかせて顎に手をやった。ターニャさん曰く、カインさんが顎に手をやるのは考え事をしている時、だそうだ。
なんなのだろう、とカインさんの出方を待っていると、数十秒の間を経て彼が声を発した。
「ターニャから、何か貰わなかったか」
唸るような低い男声。渋い、渋いですぜカインさん。
彼の問いに、私はすぐピンときた。数刻前、その話題についてターニャさんと話したばかりであるし、最近ターニャさんに貰ったものといえば、一つしか思い当たる節がない。
(カインさん、知ってたんだ。まあそうだよね、ターニャさんの旦那さんだもん)
そっか。カインさん、他の人に話が聞かれないように気を遣ってくれたんだ。これがニコ隊長だったら、どこでも構わずでっかい声で話されてただろうなあ。カインさんで良かったー。
「桧森七恵」は一人しかいないけれど、私は陰日向のように二つの「個人」を使い分けている。今回、公には「一般人モリー・ナーエ」が贈り物を貰ったことにしようとターニャさんと相談していたので、「魔導師ナーナ・フィモル」がターニャさんからの贈り物に関与している事は知られてはいけないのだ。
ややこしいが、あの家を貰ったのはナーナ・フィモルでもあり、モリー・ナーエでもあって。事情を知らない人に首を突っ込まれたら、面倒な事態になってしまうのである。最悪身バレですよ。
「あ、はい。私がペッカイナ国民になって二年目のお祝いを頂きました」
一つ頷き答えれば、カインさんは顎に手をやったまま小さく息を飲んだ。
「本当に受け取っていたんだな。あれを」
(うっ……受け取ってしまいました。はい。私が家を貰ったのにびっくりしてるのかな? あーあ、図々しい奴だと思われてないといいけど)
信じられない、とでも言いたげなカインさんの口調に、バツが悪くなる。
「はい。とても素敵な贈り物を頂いて──厚かましくも受け取ってしまいました」
私の顔はフードで隠れているため、カインさんから私の表情は見えないが、私は僅かに苦笑いをした。
「素敵……。そう、なのか」
カインさんは私の返事を聞くなり、二つの鋭い目を瞠った。若干声音もまごついており、彼はなにやら驚いているようだ。
(え、何を驚いてるの? 素敵な物件を素敵と言わずとしてなんと言えと。カインさんにとっては「ボロ屋」なのかな?)
「ええ、すごく素敵でした。ターニャさんにはいつもいつも良くしていただいて、本当に申し訳ないです」
大層な贈り物を受け取っておきながら、貰って早々に引っ越しを決めておきながら、私は自分が図々しい人間だと思われたくなく。会話の端々に自嘲や慎みを交えて、ささやかな自己擁護を行っていた。
当たり障り無い、明るく穏やかな口調で言うと、カインさんはますます驚きの表情を深めていて。
「すごく素敵……? そ、そうか。ナーナ殿があれを気に入って受け取るというのなら、私もとやかく言うまい。それにしても、いったいいつあれに会ったんだ」
……なんだ。なんだなんだ。どういうニュアンスで言ってるんだそれは。
単に私が荒れ放題の物件を受け取ることを心配しているだけ? にしてはなんか引っかかる言い方だなあ。しかも「会う」って何「会う」って。「家に会う」。んー、文章おかしくない? 今のレミス共通語だよね? 建物に対して「会う」って表現、使ってたっけ?
私がペッカイナ王国に定住してはや二年。現地での生活と猛勉強のおかげでさほど読み書き会話に困らなくなってはいたが、言葉の使い回しや表現の仕方に悩むことも時々あった。
「え? えーっと、ついこの前見に行ったんです」
カインさんの言葉の意味を図りきれず、もやっとしたまま応答する。つっこもうかとも思ったが、カインさんが早く答えを聞きたそうだったのでタイミングを逃してしまった。
「! なんと、そうだったのか。そ、そこまであれに意欲的だったのだな」
えっ、そんなにビックリすること!? 意欲的とか言われたら、なんか私がガッついてるみたいじゃん。やめてくださいカインさん。わ、私だって断ろうとしたんですからねっ。
「えと、あの、意欲的というか、ターニャさんに勧められたのもありますし、興味はありましたから」
自分可愛さに言い訳めいたことを言ってみる。
「興味! ……なるほど、ナーナ殿もようやく……そうか……」
カインさんは指の関節の間に顎を埋めるように顔を下げ、やがて黙り込んだ。何か深く考え事をしているらしい。私はどうすればいいの。
(私が庭付き一戸建てに興味があるのがそんなに珍しいのかな?)
頭の回転数を上げて思考を巡らせていると、不意に名を呼ばれた。
「ナーナ殿」
その低く渋い声がやけに堅く、真剣味を含んでいたものだから、少々ビクッとしてしまった。さっきまでの狼狽え気味な声色はどこへいったやら。切り替え上手ですね、カインさん。
「! はいっ」
兵士らしいキリッとした毅然たる声に、条件反射で身がすくむ。ついつい背筋を伸ばし、姿勢を正してしまった。
ドキドキしつつ見上げると、カインさんからはもう驚きや戸惑いは消えており、いつもの凛々しく厳格な彼に戻っていた。いや、いつも以上に顔も目も声も堅い気がするんですけど。
ひと呼吸おいて、カインさんは口を開く。途切れない緊張感のせいで、私の心拍数は一向に収まらない。
「……あれは見てくれは悪いが中身は良い。大切にしてやってくれ」
(あれ? あれって、ああ、家のことか)
「えっ、は、はい。もちろん、大切にします」
榛色の真摯な双眸にじっと見つめられ、ドギマギして返答する。
(貰うんならあの家を大切にしろってこと、だよね? それしかないよね?)
カインさんと話が合っているか、不快に思われない答えを言えているか不安になったが、カインさんの様子を見る限りは大丈夫そうだ。
彼は私の返事を聞いてゆっくり頷き、「では」と残して去っていった。
(なんだったんだろ。つまり、貰うんなら大切にしろよってことでいいのかな)
廊下の真ん中でポカンとしていた私だったが、人目の多い場所でいつまでもそうしているのは目立つので、気を取り直して王女の私室へ歩を進めた。