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誓約書。
文面に目を通し、記載された全ての贈呈品を貰い受けることを固く誓います。
一、住居
二、庭
三、畑
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麗筆で書かれた簡素な文書。下の方には署名欄。もう一枚の羊皮紙も一箇所を除いて同じ内容が記されている。
私は贈り物がなんであるかを、「受け取る」と言ってしまう前に聞いておくべきだったと深く深く後悔した。
「ターニャさん、これって」
「あたいからの贈り物さ」
(いやいやいやいやいや! 家に庭に畑って、どんな大金はたいてくれてんのターニャさん!)
彼女が豪気で気の良い性格だとはよく知っているが、これはさすがに受け取れない。私の中の「贈り物」の範疇を優に越えている。「贈り物」ってこう、アクセサリーとか生活用品とかお菓子の詰め合わせとかぬいぐるみとか、そんな可愛らしいものじゃないの?
いやまあ、「国守魔導師長」であるターニャさんは高給取りだから、彼女からしたら家一軒など屁でもないのかもしれないけど。
かくいう私も国守魔導師なのでそれなりのお給料は貰っているが、私は家と庭と畑が買える金額を安いとは思わない。そこは個人の金銭感覚の違いだろうが……。
「あの、ちょ、ターニャさん! こんなお金がかかってるもの、受け取れません!」
「心配するな。金なんざ一銭足りともかかってない」
「え!? どういうことですか?」
驚きを隠せない私は、見開いた目を更に丸くしてニヤニヤしているターニャさんを見やる。
「あんたの細っこい目、そんなに大きくなるんだね。目玉が飛び出してきちまうよ」
細目でつり目で一重なのは生まれつきです。って、それは置いといて。
面白そうに口角を上げるターニャさんに、再度「どういうことか」と尋ねると、以下の答えが帰ってきた。
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ターニャさん一家の邸宅が建つ地区に、ひっそり佇む無人の一軒家があったらしい。
その家の所有者は数十年前に亡くなっており、新たな家主を募るも手を上げる者はいなかった。
そうして何年か経ったが、やはりその家に住もうという人間は現れない。
雑草はびこる荒れた家屋を取り壊し、更地にして土地として売りに出そうという案が出たところで、ひょんなことからターニャさんの耳にこの話が入る。その家とターニャさん宅は離れた場所にあったが、その家はターニャさんの部屋の窓からいつも遠くにポツンと見えていた。
普段見ている風景から廃れた一軒家がなくなるのを寂しく思ったターニャさんは、その家を買うことにした。屋地を管理している不動産屋へ赴き、買取らせて欲しいと告げると──。
王族に次ぐ位を持つ国守魔導師からの申し出に、不動産屋は壮絶な低姿勢を取った。まあ、一般国民と国守魔導師とでは社会的立場に差があるのでそうなるのもしょうがない。それに、ターニャさんは私と違って国民にとても慕われているし。
「ターニャ様からお金を頂くわけには行きません!」と、不動産屋は一点張り。もともとその家は安売りされており、取り壊しの話が出ているほどだったので、タダでもらっても相手はそう損をしないだろうと踏んだターニャさんは不動産屋の提案をのんだ。
結果、特に交渉したわけでもないのに、ターニャさんは荒れた家屋をタダで手に入れたのである。
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「へえ、そんなことがあったんですね。知りませんでした」
話を聞き終えた私は、ふむふむと小さく頷きターニャさんをじっと見つめる。
「今から五年くらい前──あんたがペッカイナに来る前の話だからね。知らないのも当然さ」
「それはそうですね」
日本人らしい相手に合わせるような当たり障り無い相槌を打つと、ターニャさんが紅茶を勧めてきた。今日は二回遠慮をして二回怒られていたので、私はお礼を言ってカップに口をつける。
薄紅色の液体は少々温くなっていたが、味は変わらず美味しかった。
「見慣れた景色がなくなるのが嫌であのボロ屋を貰ったんだけどね、あたいには住んでる家があるだろ? カインとチビどもを連れて引っ越すにも、四人で暮らすにゃあのボロ屋は狭すぎる。物置にするにもうちからだいぶ離れた所にあるから不便でね。どうしようかずっと困ってたんだよ。ま、今の今まで放りっぱなしにしてたんだけどさ」
そう言ったのち、ターニャさんはぐびぐび紅茶を飲む私に「それでだ」と一つ切り出した。
「最近良い考えが浮かんだのさ。ナーナに譲ろうってね。あのボロ家、荒れ放題だけど造りも建材もしっかりしてるし、あんたの家より広いし、なんてったってあんたが欲しがってた庭付き一戸建だよ。ちょうどいいだろ?」
確かに私は「庭のある家に住みたい」とターニャさんに漏らした事があった。
今の自宅は庭のない狭めのもので、日本風に言うと「庭なしミニ戸建(1Kバス・トイレ別)」って感じの小さな家。別に大きな不満があるわけではないが、ペッカイナでの暮らしにもだいぶ慣れ、生活の基盤を少しばかり広げてもいいかなという気持ちもあって。
庭で作物を育てたり、卵やミルクが採れる家畜を飼ったり、家具やインテリアのレイアウトを楽しんだり──……そんな、ちょっとした理想というか願望というか、未来のビジョンがあったのです。
ただ、あくまでも「いつか機会があれば」の話で特に急を要すわけではなく、他人に用意してもらってまで住みたいとは思っていない。
いくらお金がかかっていないとはいえ、家に庭に畑を貰うのはやはり気が引ける。……なんとかやんわり断れないだろうか。
「そうですね。えっと、いつか庭のある家に住みたいなとは思ってますけど、それはきちんと自分のお金で」
「あたしの好意を無下にするのかい? あんた、一度『受け取る』って言ったんだから筋通しな! 女に二言はなしだよ」
(あ、姉御っ! ターニャさん姉御すぎる!)
遠回しに断ろうとするも、言葉の途中で姉御肌な上司に一喝される。痛いところを突かれたのもあり、私は「うっ」と口ごもった。
「無理に引っ越さなくていい。とりあえず貰うだけでも貰っとくれよ。この先、あんたが今の家から出たくなった時に他に良い家を見つけたなら、返してくれてもいいからさ」
「な?」と、お願いされるように、諭されるように見つめられ、私は首を縦に振るしかなくて。
結局、息巻くターニャさんの気迫に呑まれ、私は王都郊外の一軒家と土地を譲り受けることになった。心から納得したわけではないので、本当にこれでよいのかモヤモヤするが。
私が了承(半ば流され気味に)するや否や、ターニャさんは羽ペンを渡してきた。さっきの誓約書にサインをしろということか。
(あー……サインしたら絶対受け取らないといけなくなるよね。後で「やっぱり受け取れません」とか言いにくくなるなあ)
納得しきれてない故に、私はまだ活路を探していた。この場で断るのは不可だと判断した私だったが、断る事自体を諦めていたわけではないのだ。
だから、誓約書にサインをするのは気乗りしなかった。形に残らない口約束と、形に残る書面での誓約とでは重さが変わる。自ら逃げ道を潰すようなことはしなくない。
贈り物はきちんと貰い受けるので誓約書まで書かなくていいのでは、とターニャさんに提案してみたが、彼女からは唸らせられる答えが返ってきた。
「ナーナのことだ。後々『やっぱり貰えません』とか言い出すかもしれないだろう? そうできないように文書に残しておこうと思ってね。あたいも賢くなったもんだろ」
ニヤリ。砂色の猫目を細め、ターニャさんの口が綺麗で妖しい弧を描く。
(うぐっ)
さすがターニャさん。二年の付き合いなのに、私の事をよく分かってらっしゃるようで。
「そんなことしませんよ」
妖艶な上司は見事なまでに私の胸裏を見透かしており、私は焦る内心を隠し取り繕って乾いた笑みを浮かべた。
「そうかい? じゃあ、とっとと書きな」
トン、とインク瓶を手元に置かれ、気が重いながらも私はペンを手にとった。もうあとには引けない。
「タダの家だからターニャさんに出費はない」「タダの家だからターニャさんに迷惑はかけていない」と心の中で念仏のように繰り返し、羽ペンをさらさら走らせてゆく。
今日の日付を書き終え、署名に差し掛かったところでターニャさんが口を挟んだ。
「ああ、名前んとこはあんたの本名を書くんだよ。『ナーナ・フィモル』じゃなくて、あー……なんてったっけ? ほら、あんたの世界のぐじゃぐじゃした文字の」
「『漢字』ですか?」
眉間に皺を寄せ何かを思い出そうとしているターニャさんへそう言うと、彼女はバッと顔を上げる。癖のある赤毛が跳ね、まるで火が爆ぜるようだなと思った。
「そう、それ! それで書いとくれ」
ターニャさんはレサ・ハルダ(異世界)の人間だ。日本で使用されている平仮名も漢字も読めないのに、なぜ記名を漢字でしろというのだろう。
「どうしてですか? ターニャさん、漢字読めないですよね」
「あんたの名前を表す『カンズィ』なら分かるさ。初めてあたい達が会った時、あんた自分の名前を『カンズィ』で紙に書いてあたいにくれただろ?」
二年前の四月。私が先輩魔導師ターニャ・アランサバルへ自己紹介した際、彼女は私の「本当の」名前を知りたがった。レサ・ハルダには存在しない、漢字で書かれる私の名前を。
彼女は私の名を正しく発音できなかったけれど、私の名を正しく書けなかったけれど、嬉しかった。理解してくれようと、知ろうとしてくれようとしている真摯な思いが。
そうして私は目頭を熱くさせつつ、レサ字と漢字を用いて自分の名を紙に記し、ターニャさんへ渡したのであった。
(あの時の紙、ちゃんと持っててくれてるんだ)
これまでの気の重さが一瞬で引っ込み、ジーンと心があったかくなる。口元に力を入れ、にやけそうになるのを我慢していると、ターニャさんが言葉を続けた。
「レサ・ハルダでは『ナーナ・フィモル』があんたの名前になってるけどさ、それはあんたの『本当の』名前じゃないだろ。あたいは『本当の』あんたの名前を書いて欲しいんだ」
言って、ターニャさんは私の頭を撫でる。ウィッグ越しだったが、その優しい手つきの温かみを感じ、私は気恥かしさと嬉しさに胸を蕩けさせた。
「……分かりました。では、漢字で書かせてもらいますね」
溢れ出る柔らかな気持ちをそのまま顔に出し、締りのない笑顔をターニャさんに向ける。効果音をつけるとするなら、「にへへ」とか、「ふへへ」とか、とにかくデレデレしたものだろう。
「なんだい。だらしない顔だねえ。ほら、書くもん書いてパルミー全部食べちまいな」
ターニャさんはムニっと私の頬をひとつまみしたのち、カップになみなみ紅茶を注いでくれた。
「あ、はい。すみません。へへへ」
私は年甲斐のない締りない顔のまま止まっていたペンを持つ手を動かして、「提出用」と「本人控え」の二枚の誓約書にそれぞれ漢字で署名を行う。
隣でターニャさんがいつになくニヤニヤしながら私の様子を見ているのがやや気になったが、きっと私の締まらない顔に影響されたのだろう。
久しぶりに書いた漢字。久しぶりに書いた地球での私の名前。
うまく書けるか少し不安だったけど、指はしっかり書き方を覚えていた。漢字一文字一文字の書き順でさえ、迷わなかった。
──桧森七恵。
たった四文字なのに、どうしてこんなに感慨深いのか。
……そんなの、解かりきったこと。
両親が私に付けてくれた、世界で、いや、宇宙でたった一つの大切なものだからだ。