表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼と私の二重奏  作者: POMじゅーす
3.雨唄円舞曲(ワルツ)
29/30

8 とある近衛兵の間奏曲③


 なんで、どうして来ないの?

 僕と雨祭りに行こうと思ってたって、一緒に行こうって、君、言ったのに。

 全部嘘だったの?

 本当は来る気なんてなくて、僕をずっと待ちぼうけさせるつもりなんでしょ。

 そうだよね、僕みたいな奴と祭りになんて出かけたくないよね。相手が僕とか、嫌だよね。きっと誘われた事も迷惑だったんじゃない? そうに決まってる。

 ……それとも、来れない理由ができたの? 仕事が長引いてるとか、考えたくないけど、事故、とか。

 広場全体を見渡して、中央の時計台を睨む。その動作を何度繰り返したことだろうか。刻一刻と進む秒針が僕を焦らせ、暗い澱みを沈殿させてゆく。

(約束したのに)

 様々な気持ちが綯い交ぜになり、ひどく重く、嫌な気分だった。恐ろしいことに殺意すら沸きそうだった。けれど、体はこの場から動かない。彼女が来ないからといって、どこかに行ってしまおうという気にはならなかった。

「彼女が来るかもしれないから」と、そんな思いが微かにあったからだろう。それはどろどろとした重苦しい感情に埋もれながらも、希望のようにうっすらと、そして清らかに光っていた。

 時刻が十一時半を回ろうかという時、広場から伸びる幾つもの小路のうちの一つから、人が飛び出してきた。金の巻き毛を跳ねるように揺らし、淡い水色のフェチカを翻らせている女性。一目見て分かった。彼女だと。

 嫌なこと、悪いこと、考えていた事全てが真っ白になり、心臓がどくりと脈を打つ。

 来た。来た。彼女が来た! 脳が強い信号を放ち、自分ではない誰かに囁かれているような感覚に陥った。僕の目はすっかり捕らえられ、彼女の動きに合わせて視線が揺れる。

 広場にやって来た彼女は、冷たい雨に打たれているというのに上気した顔で息を切らせていた。ここまで走って来たのだろう。

(……来てくれて良かった。遅れたのは何かあったからなのかな。……何があったんだろ)

 先ほどまでの重苦しい気持ちはどこへやら。ヘドロのような澱みもいつの間にか消えている。

 今僕にあるのは、安堵と喜びと、ひとつまみの疑念だけ。

 きょろきょろと忙しげに周囲を見回し、何かを探すように右往左往している彼女。ペッカイナでは珍しい黒い瞳が見つけようとしているのは、たぶん、きっと、僕の姿。

 遅れながらも待ち合わせ場所に現れた彼女は、僕を探してる。では、こんな柱の陰でくすぶっていないで、すぐに彼女の側へ行き声をかけるべきだ。

 そう思うのに、僕の足は地面に縫い付けられたかのように止まったまま。けれど、両の目は彼女に釘付けで。

 彼女はいつもの穏やかな表情ではない、不安げで、心細そうな面持ちをしていた。どんどん下がる眉尻は、なんだか情けなくて、弱々しい。

 そんな顔であちこちをぐるぐる回り、他の誰でもない「僕」を懸命に探す様に惹きつけられる。とても蠱惑的だった。

 僕なんかが見つからなくて、あんな顔をするなんて。

 迷子になった子犬のように、脇目もふらず僕を探してくれているなんて。

 ──彼女のあの顔も行動も、他でもない「僕」がさせている。

 僕は今、彼女に必要とされ、求められているのだ。それがこんなにも嬉しいだなんて……!

 深淵から這い出たものがぞくぞくと背筋を震わせる。仄暗く甘い疼きとなってチリチリと胸を焦がすのは何か。「僕」を探す彼女に夢中になっていたため、その「何か」を深く考えることなどしなかった。

 焦りと不安の混じったあの顔で僕を見つけんとする様子を、ずっと見ていたい。

 もっと探して、もっと求めて。

 他の誰でもない、この「僕」を。

 暫くの間右往左往する彼女を遠目でじっと見つめていると、やがて彼女は広場の中央、時計台の傍らで立ち止まった。ソワソワと身じろぎをしながらその場に佇みつつも、あちらこちらへ顔を向ける。そして、ひとしきりそうした後、落胆したように肩を落とした。

(ああ、なんで)

 彼女の眉尻はついに下がりきり、薄い唇は固く強張っている。黒の双眸は狼狽えるかの如く揺れていて、小さく白い手が己を守るように縮こまった拳を作っていた。

(なんでそんなに可愛いんだろう)

 僕を探す彼女。

 僕が見つからなくて不安げにしている彼女。

 目が離せない。気を逸らせない。もう、彼女で頭がいっぱいだ。

 ──気付けば、足底が地を蹴っていた。吸い寄せられるように、引っ張られるように、徐々に徐々に彼女の方へ進んでいく。

 割りと近付いたはずなのに、未だそこかしこに目を凝らしている彼女の視野にまだ僕は入っていないよう。それどころか、彼女は僕と正反対の方角を向いてしまった。

(……僕はそっちじゃなくて、こっち)

 心の中でそう語りかけるも、もちろん彼女に聞こえるはずもなく。

 そっと気配を殺して忍び寄り、依然としてこちらへ背を向けている彼女の後ろで足を止める。ここまで近くに来たのに気付かないなんて。……余程、僕を探すのに必死なのだろうか。

 右に左にとくるくる回る金の頭をじっと眺め、彼女がこちらを向くのを、僕に気付くのを待っていたが、なかなかそうはならなかった。

 声をかけるか、彼女の目の前に移動するか。しばし悩み、肩でも叩いてみようと考えつく。思い切って、彼女に触れてみるのだ。嫌がられやしないか一瞬気になったが、ほんのちょっと、指先くらいなら大丈夫かな、と、思って。

 緩く握った拳のうち、人差し指をぴっと伸ばす。ドクドクと高鳴る鼓動に導かれるよう、ゆっくり、ゆっくり、それを彼女に近付けた。

(どこなら、いいかな)

 すぐそこにある彼女の体。首、肩、背、腰、腕──触れる場所はいくらでもある。しかしその中のどこであれば、失礼に当たらず、彼女の気を害さないでいられるか。

 伸展する腕を一旦止め、頭をひねる。彼女の後ろ姿をまじまじとくまなく凝視し、思案した結果、腕に決めた。自分的には無難そうな箇所を選んだつもりである。

 半袖のフェチカから出ている、二の腕の下の方。雨水の滴るそれに狙いをつけて、ピタリと停止していた腕を再び動かしてゆく。胸の音がひときわ大きくなった。いざ彼女に触るとなると(それも自分から)緊張する。嫌がられたら、謝ろう。

 雨の香りのする冷たい空気を吸い込んで、ツンと、彼女の肌に指先を埋めた。

 ……むに。

 温かくて、柔らかい。そんな感想を抱くと同時に彼女の腕がビクリと震え、僕は静かに指を離す。心臓が煩くて仕方がない。

「あ、すみませ──……っ兵士様!」

 勢い良く振り向いた彼女は謝りきる前に僕を認識したみたいで、吊り気味の黒い瞳がはっと見開かれた。

 そうして彼女は一瞬泣きそうな顔になって、ふにゃりと笑う。笑っているのにどこか儚げな、くしゃりと歪んだ表情に胸が締め付けられた。

 綻んだ唇から、ほう、と小さく息が漏れ、そのまま彼女は話し出す。

「ああ、良かった」

 吐息とともにはかれた言葉は、心底安心したような音色をしていた。それはか細い声だったが、雨音や喧騒など物ともせず、僕の耳にじわりと染み込んだ。

「そこに居たんですね」

 口元を緩め笑みを深める彼女は、まじろぎもせず僕を見上げている。僕の胸ははち切れんばかりに膨らんでいて、身動き一つ取れなくなってしまった。ただただぼうっと彼女を見つめるばかり。

「ありがとうございます。私、全然兵士様を見つけることができなくて」

 一度言葉を切った彼女は、雨に濡れた唇をキュッと結び、僅かに目を伏せた。

「帰ってしまったのかと思って」

 僕を探している間、いったい彼女はどれほど不安だったことか。彼女が広場に来てすぐに、柱の陰から出ていればよかった。

 微かに震える声を聞いて、自責の念が湧く。だがそれよりも、喜びの方が大きかった。

 僕の自惚れでも勘違いでもなく、この人は確かに「僕」を探し、求めてくれていたのだ。そして、僕に会えてこんなにも心弛ばせている。

(僕は彼女に必要とされている)

 それが嬉しい。嬉しくて嬉しくてたまらない。

「はあ……良かった」

 覇気のない脱力したような声で呟いた彼女は、硬い両の拳を解き、それを僕へと伸ばしてきた。

(? 何を)

 しようというのか。

 温かく満たされていた胸に疑問と戸惑いが生まれると同時に、手先にぬくもりを感じる。滑らかな柔肌を突き宙に浮いたままだった僕の右の手を、彼女が両手で包み込んだのだ。

 目尻を下げ嫋やかな笑みを浮かべる彼女の視線は、繋がれた僕らの手に向けられていて。

 彼女の行動に驚き、ほんの少し息を呑む。そんな僕を知ってか知らずか、彼女はギュウと力を入れてきた。添えるように包んでいた彼女の両手は、もはや僕の手をしかと握っている。

 左の胸がズキンと痛み、駆け巡る血が心臓を破ったのではないかと思った。

 激しく動揺した僕は思わず腕を引いてしまい、その途端、彼女が細めていた目を瞠る。僕よりも小さく温度の高い手は、あっさりと離れた。

「あ、すみません。安心してつい……。兵士様、待ち合わせの時間に遅れてしまって、本当に申し訳ありません」

 上目遣いで見上げられ、またもや心臓が軋んだ。申し訳無さそうな顔をしている彼女を直視できず、自然と目がそっぽを向く。

「すみません」

 若干萎れた調子で再び謝られ、首を振って返事をする。視界の端で彼女が頭を下げた。僕の機嫌を伺うかのように、目線だけが僕の周りをチラチラ泳いでいる。

 短い間僕の様子を気にしていた彼女だったが、気を取り直したのかほどなくして明るく口を開いた。

「では……合流もできたことですし、どこに行きましょうか」

 にこやかに問われ「君が行きたいところ」と告げれば、探るようにじっと見据えられる。夜闇のような黒の虹彩に、幽霊みたいな自分の姿が映っていた。

「兵士様はどうなんですか? どこか行きたいところがあればそちらに先に行きしょう」

 行きたいところ。束の間考えてみたが、やっぱり特になかったので「ない」と言って頭を振る。すると彼女は「ううん」と低く漏らし、首を傾げた。

「兵士様、お腹は空いていませんか?」

 斜めを向いていた彼女の視線が僕に戻る。言われて、「そういえばちょっと空いてるかもしれない」と己の腹具合に意識がいった。

「少し」

 ボソッと出した声は不明瞭で小さくて、自分の耳でさえかろうじて聞こえたくらいだった。

(……今のは聞こえなかったかも)

 大雨の雨音や人々の喧騒で掻き消され、彼女の耳に届いていないかもしれない。言い直そうかと口を開きかけた時、「少しですか」と彼女が言ったので驚いた。

 彼女はよくもまあ僕の言葉を聞き取れるものだ。僕の声やしゃべり方は「怨霊の呻き声」と例えられ、「何と言っているのか分からない」と鼻で笑われることが多いのに。まあ、彼女からも何度か聞き返されることはあったけど、それでも少ない方だと思う。

「それではまずお昼ご飯を食べに行きますか? いろんなストラ料理の試食をやっている所があるんですよ。それともどこかのお店にしましょうか」

 密かに感心している僕をよそに、彼女はつらつらと話し続ける。彼女の提案に異論はなかったため、一つ頷いた。脂っこいものじゃなかったらなんでもいい。

「どんなお店がいいですか?」

 尋ねてきたかと思えば、首をひねって横を向く彼女。なんなのだろう。何かあるのかと視線の先を確認するが、これといって気を引くものはなかった。

「どこでもいい」

 抑揚のないボソボソ声。ニコラウス隊長に「口をおっぴろげて腹に力入れろ。そうすりゃ俺みたいにでかい声が出せる」と指導された事があるけど、僕には絶対に無理だ。

「え?」

 ああ、これは彼女に聞こえなかったみたい。

 聞き返してきた彼女は僕の方へ体を傾ける。横顔がぐっと近付き、音を拾うためだろうと分かっていても鼓動が高鳴った。……近い。

 こんなに近い距離で緊張して、馬鹿みたいに動悸がする。おかしくなってしまいそうだった。

 ──でも、もっと近付いてみたい。渦巻く欲の、なんと貪婪なことか。

 雨水で重みを増した金の巻き毛は普段よりふんわりしておらず、髪の間に耳の先がちょこんと出ていた。半ば無意識に可愛らしいそれにそっと唇を寄せ、静かに息を吸う。

「……どこでもいい」

 言い切るか言い切らないかのうちに彼女がえらく俊敏に顔を上げた。細めの瞳をまんまるにして、間髪入れずに一歩後ずさる。……僕に近寄られて嫌だったのだろうか。

「そ、っうですか。何か食べたいものはありませんか?」

 上ずった声に真っ赤な顔、しばたく瞼。これらが意味するのは、恥じらいか憤怒、それとも嫌悪?

 恥じらいであったらいいなと願うように思い、首を横に振る。彼女は丸めていた目を元に戻し、みるみる柔和な顔付きになった。ただし、頬は赤いまま。

「じゃあ、どこか適当に回ってみます?」

 穏やかで嘘くさい、どこか取り繕った微笑みに合わせて頷くと、「よさそうなお店とか、食べたいものがあった時は教えて下さいね」と彼女が僕の前に歩み出た。

 こうして僕と彼女の雨祭りが幕を開けたんだけど、僕は気の利いた台詞一つ言えず、つまらない思いをさせてないか心配だった。彼女から話しかけてもらえるのを待つばかりで、会話もそうそう続かず、黙々と足を動かす時間の方が長い。

 彼女は物珍しそうに露店や飾られた街を眺め回しており、時折「うわあ」「おおー」と、ぽかんと口を開けていた。母親に菓子を買ってもらって大喜びする子供を見て優しく笑ったり、異国の軟体動物を見て顔を顰めたり──ころころと変わる面差しは、見ていて飽きない。

 人混みを進む中、ふと、寂しくなった。

 隣を歩く彼女は周りばかりを瞳に収め、一人楽しそうにしている。僕など眼中になさそうで、それがもどかしく、いやに寂しい。

 なぜだか今、無性に話しかけて欲しくなった。こっちを向いて、僕を気にかけて欲しい。

 尚も視線を巡らせている彼女は、そんな僕に気付くことなく。しばらく眼で、空気で訴えてみたけれど、隣のこの人は明後日の方向を見ている。

 ほら、今も。何が面白いのか街灯の花飾りに釘付けだ。

 ねえ僕を見て。僕に話しかけて。……僕、隣にいるのに。

(そうだ。食べたい物ないか聞いてみよう)

 歯がゆくて、歯がゆくて、どうしようもなくなった僕は、ついに自分から声をかけることにした。

「……ねえ」

 彼女は少しもこちらを向かない。振り絞った僕の勇気は群衆の騒がしさに消されたようだ。

「ねえ」

 今度はさっきよりも大きめに呼びかける。それでも彼女は街灯の花飾りから目を離さない。細い首筋を露わにし、顎を反らして街灯を見上げる彼女の半面、金の巻き毛から覗く耳の先──鎮まっていた動悸が蘇る。

(……仕方、ないよね)

 声を大きくしても聞こえないなら、仕方がない。

 そう理由を付けて、彼女の耳元に音もなく顔を寄せる。心臓が痛い。胸が苦しい。近付いただけなのに、どうしてこうなるのだろう。そもそも、どうして近付きたくなるのだろう。

「食べたいもの、ある?」

 問うなり彼女は矢のような速さでこっちに首を捻った。見開かれた眼は零れんばかりにまんまるだ。

「──っ食べたいもの。ええと、いえ、何でもいいですよ。はい」

 一拍の間を置いて開口し、もごもごと言葉を詰まらせた彼女。白い肌が一気に赤く染まり、朱色の頬がニコリと緩む。

「お腹が空いてる時って、なんでもおいしくなりますよね。あはは、はは」

 顔こそ上手に澄ましているが、早口と乾いた笑い声で彼女が動揺しているのが分かる。見透かすように瞳を覗くと、頬を彩る赤が濃くなった。怒っている雰囲気はない。

(……照れてる?)

 観察するうちにフイと目を背けた彼女は、やがて肉料理がおいしいという店を指さし、そこにしないかと言わんばかりに僕を見上げた。

 脂っこい料理は苦手なので肉料理と聞きそう食欲は沸かなかったが、あっさりしたものを頼めばよいかと考え、彼女の提案に乗る。

「そよかぜ亭」という屋号の店はそこそこ賑わっており、けれど満員というわけではなく待たずして席に座ることができた。店内にひしめく客の話し声に、肉の焼ける音や油の爆ぜる音が混じる。

 向かいに座る彼女は熱心に品書きを見つめ、しばらくうんうん唸っていた。そこまで真剣に悩まなくてもいいんじゃないかと思ったけど、口元に手を当て眉間に皺を寄せる姿も珍しくてつい眺めてしまう。

 やがて牛肉のシチューに決めたと力強く頷いた彼女は、「好きなんですよね、これ」と頬を緩ませていて、そんな顔につられて僕も同じものを頼んだ。「兵士様もお好きなのですか」と問われ、特にそういうわけではなかったため「別に」と答えれば、彼女は一瞬だけキョトンとした。

 あそこで「僕も好きだ」と言っていれば、彼女の心に僕に対する親近感が生まれたかもしれないのに。そして、話も弾んだりして、仲良くなれたかもしれなかったのに。

 後悔したが、時は戻らない。

 彼女の唇から溢れる世間話を聞きながら黙々と昼食を摂る。「わ、おいしい」とシチューに向かって破顔している彼女を見て、なんとも言えない気持ちになった。シチューじゃなくて僕に笑ってくれたらいいのに、……なんて。

「おいしいですね」

 幸せそうに微笑まれ、「家で食べる方がおいしい」と遠回しに彼女の作った料理を褒める。始めは「え?」と首を傾げていた彼女だったが、そのうち意味が分かったのかみるみる顔を赤くした。

「そんなことないですよ」と視線を彷徨わせ、いつもの穏やかな表情を作ろうとして失敗し照れ笑う様子はそれはもう可愛くて。思わず見とれてしまった。

 食事を終えて勘定を済ます際、僕は遠き日にアストラッドが言っていた言葉を思い出した。

「女と街に出た時は男が財布を開けねえとな。それがこの世の決まりってもんよ」

 どんな理屈があるのかは知らないけど、この世の決まりならば従うに他無い。そう考え、率先して硬貨を出すと、すごい勢いで彼女に断られた。払う、払わないの言い合いの末、半ば強引に僕が支払いをして決着がついた。

 申し訳無さそうに頭を下げ続ける彼女へ「いつも色々してもらってるから、お礼」と伝えるも、彼女はしょんぼりした顔のまま。

 店を出てもなんだか少し気まずくて、流れを変えようと話しかけてみた。だけど、雨の音や通りの賑わいで彼女には聞こえなかったよう。

 仕方がないと自分に言い聞かせ、濡れそぼった髪からチョンと出ている耳の先に口を寄せれば、彼女の細身全体が大きく跳ねた。

「へっ、兵士様、あまり耳の近くで話されると驚いてしまいます。声を大きくしていただければ……」

 耳を押さえて真っ赤な顔をし、慌てふためく彼女。そんな反応をされると、もっと見たくてまたやりたくなってしまう。……まあ、やんわりと嗜められたからもうしないけど。

 頬にうっすら赤みを残して踊りを見に行きたいと言われ、断る理由もなく頷いた。「楽しみです」と心弾ませている彼女の顔は、もうしょんぼりしていない。

 会場であるアディリータ広場に着くまでの間、僕はずっと隣を歩く彼女を見つめていた。


 *


「うわー、すごい。華やかですねえ」

 感嘆の溜息と共に彼女の唇から出たのは、興奮のためか普段より少し高めの音だった。

 うっとりと、そしてうきうきしている明るい声の余韻に浸りたいのに、耳が張り裂けんばかりに演奏されている音楽が邪魔をする。正直、耳障りだ。おまけに広場の人口密度は高く、人混みが苦手な僕にとってこの上なく居辛い。

 顔には出ないが内心辟易としている僕とは正反対に、隣の彼女は細い目を見開き、黒い瞳を輝かせ広場のあちこちに視線をやっている。

 フェチカを着せられた銅像を見て「綺麗」と呟き、踊り狂う人々を眺め楽しそうに微笑み、うるさい音を鳴らす楽団に「ほう」と吐息を漏らす。僕には何が珍しく、何がそんなに愉快なのか分からない。

 でも、彼女が嬉しそうだから。彼女が楽しそうだから。彼女が笑うから。

 煩く踊るだけのこんな催し物も、くだらなくはないのかもしれない。

 瞬きもせず広場を見渡している彼女を見ていて、ふと思う。この人は踊らないのかと。

 こんなに楽しそうに見入っているのだ。きっと踊りが好きなのだろう。

 もしかして、本当は踊りの輪に入りたいのに、僕に気を遣って見るに留まっている、とか。……ありえそうだ。彼女は優しい人だから。

 彼女が離れてしまうのは少し嫌だけど、わざわざここまで来ている事もあるし、せっかくなので満喫して欲しい。

「……ねえ」

 僅かに体を寄せて話しかけてみたけど、歌と踊りに夢中になっている彼女には僕の声は届かなかったよう。

 どうしようかと悩み、待ち合わせ場所でしたように体のどこかをつついてみることにした。耳元に声をかける事も考えたが、それは彼女を驚かせてしまう。……あの赤くなった顔を見るのもいいんだけど、また彼女に注意されるのは避けたい。

 淡い水色のフェチカから伸びる白い腕。雨水がいくつもの筋を作り、彼女のきめの細かい肌を流れ落ちていた。

 彼女の体。彼女の肌。

 息を殺して自らの指を近づけ、そっと、触れる。柔らかな感触を得て、心臓が妙に高鳴った。これは緊張なのだろうか。僕が今まで生きてきた中で女の人に触る機会などなかったし、触った事もないに等しい。

「どうされました?」

 こちらを向いた彼女は、ついさっきまでのキラキラとした表情を抑え穏やかな顔をしている。悪く言うわけではないが、なんとも澄ました顔だ。

 彼女に聞こえやすいように若干体幹を傾け、口を開く。僕がもっと大きくてはっきりとした声を出せばいいだけなんだけど、たぶん無理。

「踊らないの?」

 問うと、すぐさま返事が来た。彼女は目を瞠ったり、肩をびくつかせたりしていない。驚かさずにすんで良かった。……このくらいなら近付いてもいいのか。

「あ、はい。いいんですいいんです。見てるだけで楽しいので」

 迷いなくキッパリ言い切った彼女は、吊りがちな目を細めて笑う。

 遠慮しているのか、それとも本意なのか。探り始めた矢先に「兵士様は踊らないんですか」とにこやかに聞き返された。

(僕? 僕が踊るなんて、まさか)

 小刻みに首を横に振る。

「そうですか。……あの、兵士様。私は見ているだけで楽しいんですけど、兵士様はどうですか? あまり踊りに興味がないなら、違うところに行きましょうか」

 ああ、思い切り気を回させてしまった。

 彼女は僕が踊りなんて見ていないことに……特に楽しんでいるわけではないことに気付いている。

 洞察力があるのか、人の気に敏感なのか。顔に出したつもりはないのに、「興味がない」というところまで悟られているのには少し驚いた。まあ、僕が無反応過ぎてそう判断したのかもしれないけど。

 首を左右に振って答えると、彼女は申し訳なさそうな表情で「でも」と食い下がってくる。僕になんか気を遣わなくていいのに。

 どう返事をしようか迷って、思い浮かんだものを言葉にする。

「君が楽しかったらいい」

 ──そう。結局、そうなのだ。

 彼女が楽しんでいるのならそれでいい。

 ただ歌い踊るだけの混雑とした人の群れも、耳がじんじんするような煩わしい音楽も、君が楽しいのなら。

(それでいい)

 彼女が楽しんでくれるなら、それだけで意味がある。

「ええ、あの、でも──」

 所在なさげにしている彼女へ、少し強めに「いい」と言う。

「え、あっ、あの、あー……ありがとうございます」

 視線を彷徨わせながら紡がれる礼はぎこちなくて、ちょっと可笑しかった。しばらくチラチラと僕の様子を窺っていた彼女だったが、そのうちまた満足そうに踊りの輪に目を向け始める。

 綻ぶ口元、緩い曲線を描いた眉、生気に溢れた黒い瞳──灰色の雨などものともせず、彼女の横顔は煌いていた。

 彼女が踊りの観賞に夢中になっているのをいいことに、遠慮なく隣の彼女を見つめ続ける。睫毛の長さや黒子の数、よく見ないと分からないくらいの産毛……二週間毎日一緒に過ごし彼女の顔は見慣れたはずなのに、たくさんの発見があった。

(あっ)

 不意に、彼女の姿勢が僕の方へ傾く。肩の下あたりに僅かな重みが生じた。故意にではなく、何かを見ようとしているようだ。

 広場の中心に目をやると、人の輪が一部崩れていた。ここからでは分かりづらいが、どうやら誰か転んだか倒れたかしたらしい。爪先立ちで首を伸ばす彼女の横顔はどこか心配そう。しかし、周囲のさざめきから「踊り手の一人がただ転んだだけ」と知ってすぐに表情を和らげた。

 数分もしないうちに輪は元通りになったけれど、彼女と僕の肩はまだ触れ合っている。離れた方がいいのかどうか逡巡したが、彼女に気にする様子はなさそうだったので、なんとなくそのままにしていた。冷たい雨に打ち続けられているというのに、彼女の肌はぬるま湯のように温かく、心地がよい。

 フェチカ越しに感じる肌の感触を楽しみながら、木の葉の先からボタボタと流れ落ちる雨粒をぼうっと眺める。すると、隣から視線を感じた。

 何か用ができたのかな、と首を捻れば、真顔の彼女と目が合った。珍しい色の瞳は吸い込まれそうなくらいに黒く、澄んでいる。綺麗な色だ。

 一呼吸間を置き、彼女は何も口にせず、しかと僕を見据えて柔らかく笑った。

(なんなんだろう)

 彼女に笑顔を向けられるのは嬉しいが、言葉がない分、その意味が分からなくて戸惑ってしまう。柔和な微笑みだからきっと悪い意味ではないのだろうけど。

「何?」

 尋ねるも、彼女は「なんでもないです」とへにゃへにゃ笑うばかり。

 嬉しそうに緩い笑顔を見せる彼女の心がさっぱり見えなくて。ただ、なんだかすごく機嫌が良くなったことだけは見て取れた。どうしてなのか広場を出る間際まで考えたが、最後まで分からずじまいだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ