6 とある近衛兵の間奏曲①
陽は厚い雲に姿を隠し、連日冷たい雨が地を打っている。
一日、また一日と雨祭りが近付いているが、未だに彼女との約束を取り付けることはできていなかった。「祭りに行こう」と誘うだけなのに、どうして僕にはできないんだろう。
「雨祭り、一緒に行かない?」
その一言が、いつも言えない。
頭の中で幾度と無く繰り返していても、どれだけ練習していても、いざ彼女を前にすると口に出せない。
断られる事を考えると怖くて憂鬱で、僕みたいなのが彼女を誘うなんて分不相応な気がして──声にすることができないのだ。僕は本当に臆病でだめな奴。
いっそ、諦めてしまおうかと思った時もあった。
どうせ失敗する。彼女を戸惑わせてしまう。高望みはするな。できもしない事ははなからやめておけ。
陰気な思考がどよどよと渦巻き、ひどく嫌な気分になって。
……でも、しばらく時間が経って彼女の顔を見ると、「次こそは」と再起してしまう。
もっと一緒に過ごしたい、もっと仲良くなりたい、もっと近付きたい。欲望ばかりが胸の奥から湧き出てきて収拾がつかず、押さえられなかった。
最近の彼女は実に色々な顔を見せてくれる。いじらしくはみかむ様や、ふにゃっとした崩れた笑顔、慌てる表情、驚いた顔、困り顔──……どれも不思議と見ていて飽きない。実に表情豊かな人である。
出会った頃は穏やかな面持ちをしている事が多かった。だが、それは本当の「顔」じゃなかったのかもしれない。いわゆる、「上っ面」だ。
上っ面で親切にされていたのかと思うと少し悲しいものがある。だけど、これまで関わった女性のほとんどはその上っ面でさえ冷たく避けるようなものだったので、やっぱり彼女は上っ面を差し引いても親切な人なのだ。
自然体らしき彼女が垣間見える事も多くなったが、惜しげなく僕に与えられる優しさは変わらない。それがとても嬉しかった。本質的に人が良いのだろう。僕なんかとは大違いだ。
日だまりみたいな温かさを持つ不思議なあの人に、どんどん惹きつけられていく。もっと、もっとと思ってしまう。
距離を縮めたいのに、なかなか動くことができない。
もやもやして自分が嫌になるけど、諦めはつかない。
……悪循環だった。
機会を伺うばかりの毎日は陰鬱としていて、心模様も空模様も同じく曇り。時間は僕の行動を待ってはくれず、無常にも雨祭りまであと一日となってしまった。
朝食の後に誘ってみようと起き抜けから密かに意欲を出していたけれど、なんだか慌ただしげな彼女を前にして、奮っていた気持ちは萎んでいった。そして彼女は「ターニャ様のお手伝いで今日は早くから仕事なんです」と、足早に家を出て行ってしまって。
彼女はいつ帰ってくるのだろう。僕もこれから仕事で、夕方になるまで城にいなきゃいけないのに。夕食の時に誘えなかったら、もう好機はきっとない。
……ちゃんと誘えるだろうか。僕は。
できるだけ冷静に考え、他の手を模索する。本当は直接誘いたいんだけど、そうしようとして僕は何度も失敗していた。残された時間で確実に誘うためには、別の手立ても用意しておいた方がいい。
仕事へ行く間際まで思案し、僕は一つの方法を頭から捻り出した。不要になった書類の端を小さく切って、そこに祭りへ誘う文字を書く。アストラッドならば気の利いた文句なぞ添えられただろうけど、残念ながら僕にそんな芸当はない。
「明日の雨祭り一緒に行かない? 嫌ならいいけど」
そんな単純で素っ気ない一文を記し、小さな紙をダイニングの丸テーブルに伏せ置いた。
先にあの人が帰宅したなら、おそらく彼女はこの置き手紙に気付いてくれるだろう。彼女は大抵、僕が帰る頃に夕飯の用意をしてくれている。
もし彼女より先に僕が帰った場合は、一旦しまってしまおう。どうしても口で誘えなかった時に使うのだ。
……こうまでして誘えたとしても、良い返事がかえってくると決まっているわけではない。彼女には彼女の交友関係があり、先約が入っている可能性だってある。
──それでも、何もせずにはいられなかった。
なぜ何もせずにはいられないのか、なぜ諦められないのか、自分でもよく分からない。
とにかく、「もっと」、何かが欲しい。
エンドテーブルの一番下の引き出しを開ければ、いつぞや彼女が僕の手当に使ってくれたハンカチが顔を出す。未だに返せていないそれをそっと撫で、僕はゆっくりと引き出しを閉じた。
迫ってきた始業時間に追い立てられ、彼女が干してくれた雨避けの外套を羽織り雨の振る外へ出る。肌寒い空気の中城へ向かい、道すがら、彼女があの置き手紙を見つけた瞬間を想像した。
彼女は驚くだろうか。それとも困惑するだろうか。
帰ってきた僕になんと声をかけてくるだろうか。
どんな返事がくるだろうか。
吊りがちな細い瞳を丸くして、「これ、兵士様からですか?」と尋ねてくるだろうか。
そうだと答えた僕に柔らかく笑い、「ぜひご一緒させてください」と言ってくれるだろうか。
それとも、「明日はもう約束があるんです」と申し訳無さそうに頭を下げるだろうか。
思い描いた彼女の反応で心が浮いたり沈んだり──感情の変動が忙しなかった。
全て空想だというのに。実際のところなんて、まだ分からないのに。
城に着いて現実に戻り、先ほどまでの自分が実に馬鹿らしくなった。なんとなく収まりが悪くてそわそわしていたせいか、鍛錬中にカイン副隊長に喝を入れられてしまった。
アストラッドに「明日雨祭りで浮足立ってんじゃねーの?」とからかわれ、図星で何も言い返せずにいると、カミユが「嘘、ルキノ、何か予定あるの!?」と目を見開いていた。
面倒くさいことになりそうだったから早々に「ない」と告げれば、アストラッドとカミユはあっさり引いていく。
「なんだ、ないんだ。びっくりしたあ」
胸を撫で下ろすカミユに。
「へっ、ルキノに限って予定なんかないだろー。なあなあ、明日の日番変わってくんない? 俺、デートしたい子がいるんだよ」
口元をニヤつかせるアストラッド。
これ以上二人と話して余計な詮索をされたくなかったので、最低限の返事をしながら細身の剣を手入れする。いつしか二人は僕への興味を失くし、今度の実力試験について熱心に話していた。
*
その日の勤務が終わり、いつものように生温いお湯で体をさっと流して帰路につく。今日も静謐とした宝物庫の警備だった。もちろん、事件も問題も何も起きない。
来週の実力試験で配置換えが予定されているみたいだけど、落ちこぼれの僕には関係なかった。どうせ僕は万年宝物庫の担当だ。試験の結果があまりにも悪ければ、最悪近衛から外されるかもしれないけど。
……まあ、最近は体の調子も良いし、身のこなしにキレが出てきたから落第点は取らないと思う。これも彼女が栄養ある料理を作ってくれるおかげだ。
食事を摂るようになって結構体力がついたように感じる。顔色までもが変わった事には驚いたが、青みのない肌の色にもだいぶ慣れた。
家を出た時よりも雨脚は強くなっており、四方八方が大粒の雨だらけ。油を薄く塗った雨避けの外套もその効力を切らしてしまい、服の中まで水が染み込んでいる。
冷たい。寒い。
兵舎で湯を浴びて温めた体は、大雨によっていとも簡単に熱を奪われていた。
雨の跳ねる石畳を大股で歩き、今の僕の「家」を目指す。やがて見えた一軒家には明かりが灯っていて、彼女が既に帰宅していることを示していた。
ああ、彼女は手紙を読んでくれただろうか。
ドクリと心臓が脈を打つ。彼女がどんな反応をし、どんな返事をするのか考えると、知覚が鈍って雨の冷たさが遠のいた。
すっかり見慣れた仮住まいに到着し、ざわつく胸の内を抑えながら銀の鍵を錠へ差し込む。ドアノブを握った手は、血の気を失った肌をしていた。
微かな緊張感に息を潜めてドアを抜ける。
「おかえりなさい兵士様。外、すごい雨でしたね」
穏やかに出迎えてくれた彼女は、僕を見るなり「ずぶ濡れですね」と目を瞠った。
「ちょっと待っててください」
そう言って自分の部屋へと駆けたかと思えば、厚めのタオルを持って戻ってきて。
「外套はそちらにお掛けください」
促されるままに水の滴り落ちる外套をドア横の木の杭に引っ掛けると、「どうぞ」とタオルを差し出された。
「……ありがとう」
普段通りの彼女の態度に拍子抜けしつつ、礼を述べてぐっしょりと濡れた頭や四肢を拭く。雨を吸って重くなった服はいくら拭いても無駄だろう。乾きやすそうな所だけにしておいた方が良さそうだ。
顔を拭こうとタオルを近づけると、花のような香りが仄かに鼻腔をついた。彼女が使っている洗剤の香りだろうか。
(……いい匂い)
城ですれ違う貴族や年配の女性が使うキツい香水とは違い、軟く染み込む匂いだった。
心地よい香りに気を取られ手が止まっていたが、正面から彼女の視線を感じてタオルを持つ手を再び動かす。ふかふかの生地が肌と擦れる度、花のような香りが鼻をくすぐった。
「着替えてきてはどうですか? その間に何か温かい飲み物を用意します」
体や髪をあらかた拭き終えたところでそう言われ、湿りきったブーツを脱ぎ家にあがる。靴下までびっしょり濡れており、足元が気持ち悪い。水分を吸ったせいでピタリと肌に張り付く服も気持ち悪い。
ダイニングを通り過ぎる際丸テーブルを横目で見るが、そこには夕食が並んでおり、僕の置き手紙はないようだった。彼女、手紙に気付いてくれたのだろうか。
自室へ入ってすぐに水浸しの靴下と服を脱ぎ去る。水気の残る体幹を拭くべくタオルに手を伸ばし、躊躇いが生じた。
他人のタオルであちこち拭くのはいかがなものか。親しい同性ならともかく、まだ友人とも呼べぬ女性の物で男である自分の体を全て拭いてしまうのは気が引ける。
彼女から渡されたタオルをひとまずベッドに置き、僕はクローゼットから手頃な手ぬぐいを取り出した。それを使って体中を拭いた後、部屋着のシャツとズボンを身につける。
──そして、彼女のタオルを手にとって「洗って返すべきだろうな」と考えたのだけど……なぜだか、そうしたくないと思った。
彼女の持ち物。彼女の私物。良い匂いのする、柔らかなタオル。
惹き寄せられるように顔を押し付ければ、肌を包む温柔な触感と優しげな花の香りでいっぱいになる。脳裏にあの人のふにゃりとした笑顔が浮かんだ。
(──欲しい)
ひとしきりタオルのふかふかな生地と花のような香りを堪能し、僕はタオルを小さく畳む。それを、エンドテーブルの一番下の引き出しに──彼女のハンカチの上に押し込めた。
……奇妙な感覚だった。
他人の借り物を返さずに仕舞ってしまう事への、人道に外れた後ろめたさ。彼女への罪悪感。
けれども、その裏に……表しようのない弾んだ感情が潜んでいて。
手に入れた。閉じ込めた。あの人のモノを。
暗く、甘い、満足感を孕む愉悦。
──ゾクリとした。自分自身に。でも、それが何なのか分からなかった。
ぴしりと閉じられた引き出しをぼんやり眺めていると、壁の向こうから食器の音や戸棚を開ける音──彼女がくるくると動く音が聞こえてきた。
(飲み物、用意するって言ってたな)
解らぬソレから逃げるように引き出しから目を離し、ゆっくりと踵を返す。立ち込める霧のようなもやもやをピシャリと閉ざしてダイニングに出た僕の視界に、床に這いつくばっている彼女の姿が入った。
片手に雑巾、床に水。……あそこは僕が通った場所だ。そうか、びしょびしょの服から雨水が垂れ、床を濡らしてしまったに違いない。悪いことをした。
「あ、兵士様。もう少しでお湯が沸きますから、夕飯をお召しになっていてください」
上目遣いで言われるが、僕は夕食の並んだテーブルには行かなかった。
僕のせいで濡れた床を彼女に掃除させるなんて心苦しい。
床に膝をつく彼女の側に寄ると、彼女は「どうしましたか」と背筋を伸ばした。吊り気味な黒い瞳が不思議そうに僕を見ている。
「ごめん」
申し訳なく思って謝ると、彼女は一瞬キョトンとし、その次には笑顔を咲かせた。
「いえ、お気になさらず。大丈夫ですよ」
気にするなと言われてもそうはいかない。何でもかんでも彼女の優しさに甘えるのはどうかと思う。
「……手伝う」
返事を待たずに腰を折り、彼女の手にある雑巾をサッと掴む。僕より一回りほど小さな手が驚いたように揺れていた。
「えっ、いいですいいです! もう終わりますし、手が汚れますよ」
大きくない眼を丸くして首を振る彼女。いつも穏やかな声音に色がつき、それが面白い。
(……慌ててる)
すらっとした指先にぐいぐい引かれ、僕と彼女で雑巾の取り合いになった。その細腕には意外に力があるようで、なかなか離してくれない。
「手伝う」
困ったような、慌てたような、僅かに歪んだ彼女の面持ちを見据えて言う。僕が汚したものは僕が綺麗にするべきだ。
「ほんとに大丈夫ですので! ご飯できてますから座ってください」
更に力を入れて腕を引く彼女は絶対に譲ってくれないであろう雰囲気を纏っていた。けれど、それは僕も同じ。僕が濡らした床は僕が拭くべきだ。
彼女よりも強い力で勢いをつけて引っ張り、奪うように雑巾を取る。実力行使はあまり良くないんだろうけど、こうでもしないと雑巾は得られない気がした。
「あっ、兵士様!」
彼女がひときわ大きな声をあげたと同じくして、背後からジュウジュウと何かが蒸発する音がした。
なんだろうと振り向けば、先ほどまで雑巾の取り合いをしていた彼女がそちらへ向かっていった。見る限り、台所で沸かしていた湯が鉄板に零れたようだ。荒々しい手付きで焔石を叩く彼女の後ろ姿がある。
そんな彼女を眺めるのもほどほどに、僕は手中の雑巾で床に膜を張っている雨水を拭いた。吸水力がよいのか、二、三回拭いただけで透明な水たまりは消え、雑巾が重くなる。
ちょうど作業が終わったところで、タタタタ、と木目の床を駆ける足音が迫ってきた。
「兵士様、兵士様、代わります!」
隣にしゃがみ込み、素早い動作で雑巾に手をかける彼女。僕の手の甲に細い指先がほんの僅かに触れた。
「……終わった」
黒い双眸を見つめて告げれば、彼女は視線を彷徨わせる。どうしたんだろう。
「あ、ありがとうございます。すみません、仕事から帰ったばかりなのに気を遣わせてしまって」
水を吸った冷たい雑巾が僕の手から抜き取られるが、彼女は決して僕の顔を見ない。
(なんでだろう。僕、何か気に障ることしたのかな)
「夕飯できてますよ」
テーブルに着くよう朗らかに勧めてくる彼女とやっと目が合う。そこに負が渦巻いていないか確かめるよう、黒い瞳をじっと覗く。
(……怒ってはなさそうだけど)
数秒彼女を正視するも、僕への悪感情は見当たらなかった。どうして視線を逸らされたのか気にはなるが、いつまでもこうしていて不審に思われたくない。
立ち上がって何歩か歩き、椅子に座る。彼女は台所に行きカチャカチャとお茶の準備をしている。
(僕の手紙、読んだのかな)
丸テーブルを隅から隅まで見渡すも、あの紙はない。まさか皿の下に敷かれているなんてことはないだろう。彼女は眼が悪いわけでもなさそうだし、さすがに気が付くはずだ。
(返事はどうなんだろう。いい? だめ? ……まあ、どうせ僕みたいなのに誘われても困るだけかもしれないけど)
らしくもなくやきもきしつつ待っていると、台所の彼女がティーカップの載った銀のトレイを運んできた。
「兵士様、先にお召になっていても良かったんですよ」
彼女の言葉に首を横に振る。作ってくれた人よりも先に食事に手を付けるのは、やっぱり気が進まない。
「ハーブティーです。どうぞ。体が温まりますよ」
トッ、と湯気の立っているカップが置かれ、微笑んでいる彼女へ「ありがとう」と伝える。少しだけ笑みを深め、彼女はトレイを台所に戻しに行った。
「じゃあ、食べましょうか」
テーブルに着くなりそう言った彼女が食前の祈りを始めたので、自分もそれに倣う。
「今日はオムレツと野菜スープにしました。デザートがあるのでパンは抜いてます。もし足りなかったら出しますから、言ってくださいね」
毎日振る舞われる食事は本当にありがたいと思う。料理本を読んでなんでも作ってしまう彼女はすごい。僕の好きなものや好みの味付けも聞き、合わせてくれる所もすごい。
彼女がカップに口をつけるのを見て、スプーンを持つ。白い皿の上で体を震わせているオムレツは、スプーンで割ると中から黄身がとろりと出てきた。
口に運ぶと卵の優しい味が舌先に広がり、味のついた挽き肉や炒めた玉ねぎがひょっこりと出てくる。
「おいしい」
そう伝えると、目の前に座る彼女は「ありがとうございます」と言い、ふにゃりと笑った。嬉しそうな崩れた笑顔を見ると、胸が温かくなる。
「えっと、今日は○△□と△○□が卵を生んでなかったんですけど、市場で卵が安かったのでたくさん買ってきてしまって……それで夕飯はオムレツになったんです。お口に合ったようで良かったです」
僕の好きなふにゃっとした笑いは長く続かず、彼女は静かに口元を締めた。穏やかな微笑みを湛えているが、きっとそれは作られたもの。……最近、彼女の作り顔がちょっとだけ分かるようになった。
──作った顔の裏で、彼女は何を考えているのだろう。
料理を頬張る彼女を密かに観察し、あれこれ思案してみるが、出てくるのは後ろ向きなものばかりだった。
夕食を食べ終わり、おいしそうなデザートが運ばれても気分は晴れない。
いったいいつ手紙の返事をくれるのか。悶々として待っていた僕に放たれたのは、予想だにしなかった言葉だった。
「そういえば兵士様」
他愛のない話から一転、彼女はそう切り出してきて。
「夕方、掃除をしている時にこの紙がテーブルにあったのですが、兵士様のお忘れ物ではないですか?」
ごそりと質素なスカートから取り出したのは、僕の置き手紙。
……すごく驚いた。彼女が何を言っているのか分からなかった。
だってそれ、その手紙は君宛てなのに。
雨祭りに誘うため、僕が彼女に書いたものなのに。
テーブルを挟んで向こう側にいるこの人は、まるで自分には関係のないもののような言い方をしたのだから。
唖然として手紙を凝視していると、彼女は上手に温顔を作り口を開いた。
「あの、詮索しているわけではないですよ。兵士様のものであればお渡ししようと思っていただけですので」
──作った顔の裏で、彼女は何を考えているのだろう。
僕に誘われたこと事態が嫌で、なかったことにしようとしている?
それとも、断りづらくて気付かないふりをしている?
知らぬ、気付かぬ、存ぜぬで通そうとしている?
もしくは本当に「自分宛てでない」と思い込んでいる? いや、それはないだろう。この家には僕と彼女の二人だけで、他に誘う人なんていない。手紙だって見つけやすいように、下に落ちてしまわないように、テーブルの中央に置いていた。そんなものが「忘れ物」であるはずない。「忘れ物」だと思うわけがない。
やっぱり嫌だったんだ。僕なんかに誘われて迷惑だったんだ。直接断りたくないくらい、煩わしかったんだ。
心の奥がざわりと澱む。黒くてドロドロとした何かが蛇のように蜷局を巻いて、ぬうっと鎌首をもたげた。
(「忘れ物」だとか、本気でそう思ってるの)
澄ました顔を保っている彼女から僕の書いた手紙を受け取り、文面を読みなおす。こじんまりとした文字が読む者を虚しく誘いかけていた。
(……それが、君の答え?)
息が細くなる程に胸が重苦しくなった。暗い澱みは静かながらもどんどん大きくなっていて、自ずと体に力が入る。
──ひどく不快だった。
僕みたいなどうしようもない奴は嫌がられても断られてもしかたがないと思っていたはずなのに。
彼女みたいなよくできた人を誘うなど、分不相応であると分かっていたはずなのに。
それでもこんなに胸が痛むのは、おどろおどろしい感情がこみ上げるのは。
……期待していたんだ。彼女が笑って「ぜひご一緒させてください」と言うのを。僕をもっと受け入れてくれるのを。
ああ、なんて。
なんて僕は愚かなのだろう。
……彼女はひどい。
激しい自己嫌悪に混じって、彼女に対する憎々しいものが一つ芽生えた。
僕のことを怖くも気味悪くもないと言い、嫌がることなく世話を焼いてくれ、いつも温かく好意的に接してくれていたのに、歩み寄ろうとした僕をどうして突き落とすような事をするのか。
誘いを受けろというわけではない。受けてくれなかったから憤っているわけではない。
裏切られた気分だった。
勝手ではあるが、僕はただ、彼女に誠実にあって欲しかったんだと思う。断るにしてもちゃんと言ってくれたらよかったんだ。「約束している相手がいるので」「予定が入っているので」「あなたと行きたくないので」……理由はどうあれ、正直に言って欲しかった。
誤魔化しも、知らないふりも、して欲しくなかった。
僕を受け入れるような姿勢をとってくれていた彼女だからこそ、余計にそう思う。
カチャ、と物音がして空気が揺れる。彼女の指がティーカップの持ち手にかかるのが垂れた前髪の隙間から見えた。
「ケーキは、……お嫌いでしたか?」
沈黙に耐えかねたのか、おずおずと尋ねてくる彼女。
(そうやって、話題を変えるつもり? 僕の誘いはなかったことにするつもり?)
渦巻いていた澱みがわっと広がる。心が真っ黒になりそうだった。
首を振って返事をすると、彼女は「良かった」と軽く笑う。何が良かったの? 僕の誘いをやり過ごせたこと?
本当は気付いてるんでしょ。この手紙が自分宛てって。
心の中を埋め尽くした澱みが胃の腑をつたって喉を渡り、声帯を震わせた。
「……気付かない振り、してるの?」
言うつもりなどなかったのに、どうしてか責めるような言葉が口をついた。
「え?」
彼女は僅かに眉を上げ、「何がですか」と問うてくる。
しらばっくれているのか、心当たりがないのか。
見定めるべく彼女を視界に捕らえ、しばらくじっと見分する。大きな表情の変化はなかったが、のっぺりとした顔が少々強張っていた。
どうせ、焦っているんでしょ?
「……嫌なら嫌って言えばいいのに」
またもや、思うままに唇が動く。己の耳に入ったのは、冷たく、低く、恨みがましい声だった。
こんな忌まわしい感情を込めた言葉など口にするなど、自分でも珍しいと思う。ほとんど情動的だった。
吊りがちな細い双眸をまんまるにした彼女は、目を白黒させ少しばかり口を開けた。心底驚いたような顔に、「図星なのか」と苦々しくなる。
しかし。
「へ、兵士様! あの、あの、その手紙って私宛だったんですか!? いえ、見つけた時にもしかするとと思ったんですけど、宛名がなくて本当に自分が誘われてるのかすごく悩んでですね……!」
固まっていた驚愕の面が瞬時に崩壊し、せかせかと、おろおろと、口早に話しだす彼女はしどろもどろで。
「ほら、私宛って分からないのにその気になっちゃうのは自意識過剰じゃないかなと思いまして! もし私宛じゃなかったら思い上がった自分が惨めで恥ずかしいですし」
顔中を赤くし、力強く声を立てるその様は作り物ではなさそうだった。
「私宛なのか確認しようと思ってたんですよ? でも兵士様何も言わないですし、やっぱり私宛じゃなかったのかと思って話さなかったんです! 私宛ならそう書いてくださいよ! あっ、いえ、私も悩むばっかりせずに最初に確認すればよかったんですけどっ……」
一気に言って、口ごもる。気まずげに目線が逸らされ、かと思えばギンと吊り上げた黒の瞳を真正面からぶつけてきた。考える暇もない。
いつの間にか俯けていた顔を上げていた僕は、眼力溢れる彼女の視線に射抜かれる。
「ええと、まあ、そういうことなんです。嫌とかじゃなくて、つまりは誤解なんです! お誘いは嬉しいし、一緒に行こうと思ってました!」
その言葉は真か嘘か。
吟味しながら真っ直ぐな視線を受け止める。
「だから、ほんと、嫌じゃないんですよ全然! 兵士様、雨祭り一緒に行きましょう!」
語気を強めた彼女は、テーブルに拳をついて立ち上がりかけていた。
(……え? 誘われた、?)
手紙で誘って、気付かないふりをされたと思っていたら、どうやらそうではないようで──……僕は今、誘い返されたのか?
呆気にとられパチパチ瞬いてしまう。そうして、先ほどまくし立てられた彼女の話を頭で反芻する。たくさんの言葉の中から大事な部分を噛み砕き、反芻して反芻して、そうして少しだけ冷静になった。
……そうだ、彼女の言ったように、僕は手紙に宛名を書いてはいなかった。宛名がなくても分かるだろうと認識していたせいか、宛名を書くこと自体を思いつかなかったのだ。
彼女は真面目だから、宛名がないことに引っかかったのかもしれない。ああ、そういうことだったのか。
疑念は晴れつつあったが、暗く蠢く蜷局は未だに残っている。
やがて彼女はしおしおと力が抜けるように椅子に腰を落とし、控えめに謝った。
「あ……すっ、すみません私、失礼な事を」
僕は自分が早とちりをしていたかもしれない事に後ろめたさを感じ、顔を伏せる。
彼女が嘘をついているのか、僕が勘違いをしていたのか──真実はどこにあるのだろう。
目玉を動かしテーブルの向こうの様子を窺うと、表情をなくした彼女が物憂げな視線をティーカップに沈めていた。
そんな彼女を目にして、ふと思う。
もし、彼女が本気で僕と雨祭りに行こうと思っていたのなら……。
(君宛だって伝えたら、この手紙、受け取ってくれるよね?)
僕の誘いが嬉しかったと本心で言ったのなら……。
(嫌そうにしないよね? 困ったりしないよね?)
我ながら陰湿である。彼女を試すようなマネをしようとしているのだから。
小さな紙を、誘いの手紙を持った手を彼女の方へ迷いなく突き出す。
「君宛」
(ねえ、そうでしょ?)
前髪の僅かな隙間に見える彼女は、「ありがとうございます」と言ってまごつくことなく僕の手から紙を受け取った。
短い文章の書かれたそれに何度か目を走らせた彼女の白い頬に、どういうわけか赤みが差す。
あの赤みは何を意味するのだろう。……もしかして、もしかすると。でも、まさか。
決して不愉快ではないむず痒さが、心の澱みの一つ前に飛び出してきた。
意地の悪いことをしておきながら、自分の方が動揺するなんて。
「あの、私でいいんですか? 雨祭りにご一緒するの」
赤らめた頬で、どこか不安そうな顔で尋ねてくる彼女。
声を大にして「もちろん」と言うことができない僕は、頷く動作で返事をする。すると彼女は、間髪入れずにふにゃりと笑った。
「そうですか。明日、よろしくお願いしますね。へへっ」
とても温和に空気が揺れ、じわりと胸が暖かくなる。
何、その崩れた、気取らない笑い声。そんなの、ずるい。
(……ずるい)
ずるい、ずるい。君はずるい。
僕は君を試したのに。君が嫌がるだろうと、困るだろうと半分思って試したのに。
そんな柔らかい声を出して、そんな笑みを見せるなんて。
君はちっとも嫌そうじゃないし、ちっとも困ってないじゃないか。
僕の中から猜疑心は消え、引っかかっていた彼女の言葉がストンと心に落ちてきた。「自分に宛てられた物だと思いつつも、宛名がなかった故にどうすればよいのか迷い、遠回しな事をした」というのは、きっと事実なのだろう。
長くて鬱陶しい前髪の隙間。限られた視界の中に居る彼女は、崩れた笑顔を抑えて穏やかな微笑みを作る。
「君こそ」
ぐるぐる巡る様々な感情に翻弄されながら重い口を開けば、僅かに首を傾げ、「はい?」と澄ました顔を向ける彼女。
「……僕でいいの?」
「はい、もちろんです」
当惑混じりにこわごわ問うた僕に明るく即答した彼女は、可笑しそうに声を漏らした。
狼狽えもせず、嫌そうな素振りも見せず、当たり前のように僕を受け入れる彼女は、本当に不思議で、本当にずるい人。
じっと見つめると、僕の視線に答えるように朗らかな声を出す。
「明日も良い雨が降るといいですね」
ニコリと笑いかけられるが、それは作り物っぽい笑みだった。気持ちを隠そうとしているのか、ただ場を雰囲気を良くしようとしているだけなのか、はたまた癖なのか──。
見極めるように凝視し続け、ほどなく彼女が目を逸らす。白さを取り戻していた頬が、再び紅を帯びた。弧を描いている唇がどことなく強張っている。
これは、照れたのだろうか。
「えー……っと。ケーキ、食べましょうか。今日のは自信作なんですよ」
そう言って彼女が可愛らしくはにかむものだから、僕の心臓はギュッと縮まり、全身がほんのり熱くなった。……どうやら僕も少々照れてしまったらしい。
気恥ずかしくて一心にケーキを口に運ぶ僕に、彼女はあれやこれやと話しかけてくれた。緑色のしっとりとしたケーキはアルザ草で作ったものだとか、苦味をなくすのにどんな工夫をしただとか、そんな事を口にする彼女はちょっぴり得意げ。
「兵士様のためにちょっと頑張ってみました」
揚々と締めくくられるその率直な好意に脳がくらりとして、落ち着かなくて、でも嬉しくて──……。
ケーキを食べ終わる頃には、心の奥にどっかりと居座っていた暗い澱みは綺麗さっぱりなくなっていた。




