11とある近衛兵の間奏曲③
予定通り同居が開始となり、王女殿下から一通の書状が届いた。内容は簡潔で、「モリー・ナーエを傷つけるような真似をしないように」という、あからさまな忠告文だった。どうやら彼女と王女は親しい間柄らしい。以前、突然王女に呼びつけられ、あれこれ詮索されたこともある。国守魔導師ターニャ・アランサバル繋がりだろうか。
「呼びつけられる」といえば、このところ仕事や休憩の合間にカイン副隊長からよく呼び出しを受けるようになった。同居生活は上手くいってるか、とか、困っていることはないか、とか。「鉄の副隊長」と名高いカイン副隊長は、僕たちの行く末をとても気にしているようだ。
カイン副隊長に「モリー殿はどうだ」と聞かれ、「不思議な方だと思います」と言うと何やら満足げに頷かれた。カイン副隊長にとって良い返答だったのだろうか。
続いて「気に入ったか?」と問われ、照れ混じりにどう答えようか考えた末、「よく分かりませんが、嫌な感じはしません」と答えた。カイン副隊長は珍しく口元を緩め、「そうか」とだけ短く言った。……何故かすごく恥ずかしくなった。カイン副隊長、勘違いしていなければいいんだけど。別に、「好き」とかそんなんじゃないのに。
退寮が決まった後、近衛隊の人間に探りを入れられたが、貝のように口を閉ざした甲斐あって退寮後の僕の住まいを知る人は少ない。
まず、ニコラウス隊長とカイン副隊長。そして交流のある同期──ユリアンやクラウス、カミユ、アストラッドくらいだ。
ユリアンたちに知らせているのは西地区の一軒家に住んでいる事のみで、誰と何のために暮らしているのかは言っていない。今でもアストラッドには根掘り葉掘り突っ込まれるが、黙秘。
時折、アストラッドには言わなきゃよかったとも思う。でも、そんなことをしたら「仲間外れにされた」と不貞腐れてもっと面倒になりそうなので、教えておいて良かったのかもしれない。
二人暮らしももうじき一週間が経つ。同居によって彼女と関わる機会がぐんと増えたというのに、なかなか思うようにはいかなかった。
ようやく挨拶を返せるようになったのはつい最近だ。彼女のように「にこやか」に、とはいかないけど。
モリー・ナーエはやっぱり不思議な人だった。僕が挨拶を返せず黙りこくっていても嫌な顔一つせず、次に出くわせばまたニコリと挨拶をしてくれる。一度だけでなく、何度も何度も。
気にしていないのかな、と思っていたけど、僕が初めて挨拶を返した時にいつもと違うふにゃっとした笑みを浮かべたので、何かしら心づもりはあったのだと思う。
でなきゃ、挨拶をし返しただけであれ程嬉しそうに(僕の思い違いじゃなければ)笑わないだろう。僕なんかに挨拶をされてあんな風に笑う女性、初めてだ。
彼女の穏やかな微笑みは見ていて落ち着くが、ふにゃっとしたあの笑い方のほうが、……なんて言ったらいいのか。胸の奥がきゅっとなって、じんわりと温かくなって、頭がぼうっとのぼせそうになって──すごく不思議な気持ちになる。
でも、あのふにゃっとした笑顔はそうそうお目にかかれない。初めて見たのは同居初日。婚約者が僕だと知った彼女が、「兵士様で良かった」と言った時だ。その次は初めて挨拶を返した時。思い返してみると、まだ二回しか見れていない。彼女は大抵、静かな微笑みを湛えている。
同居初日に名前を告げたものの、彼女は変わらず僕を「兵士様」と呼んだ。別に不満はなかったけれど、たまに僕の名前を忘れているのではないかと妙にもやもやした。
僕はちゃんと彼女の名前を覚えている。だが、それを口にする度胸も親しさもまだあらず。時が来れば、必要になれば彼女を名前で呼べるようになる……のかもしれない。
二人で暮らすようになって、日課が一つ増えた。……彼女の「観察」である。聞こえは悪いかもしれないが、これが見ていて飽きない。それに、……目が合えば話しかけてもらえるし。
掃除、洗濯、料理、農作業──彼女は働き者で、活動的だった。部屋にこもりがちな僕とは違い、家の中と外を行き来し、くるくるとよく動く。綺麗好きなのか、掃除は一日二回ほどしているようだ。
彼女はことあるごとに僕へ食事や湯浴びを勧めてくる。厚意はありがたかったけれど、気を遣わせているのではないかと思うと気兼ねが生じた。
それに、自信がなかった。彼女の気遣いを受け止め、十分に謝意を伝えられるのだろうかと。彼女と同じ食卓について、粗相をしないだろうかと。
彼女と深く関わり、何かがきっかけで拒絶や嫌悪されでもしたら?
臆病な僕はそれが怖くて、誘いを全て断っていた。断る事で気を悪くしないか心配だったが、彼女は「遠慮しないでくださいね」「気が変わればいつでも言ってください」と、いつも穏やかな表情をしていた。
どんなに話題を用意しても、どんなに「今日こそは」と決意しても、うまく彼女に話しかけられなくて。僕はうじうじと遠くから見つめてばかりだった。
視線が合えば、彼女は「どうされました」「何か御用ですか」と声をかけてくれる。なのに、何を話せばいいのか分からなくて、いつもすげない振る舞いしかできない。用がないのに話したい時って、どうしたらいいんだろう。すごく難しい。
もともと人と話す能力に欠け、特に女の人と接する事が大の苦手な僕は、彼女が声をかけてくれてもまともに話すことができなかった。
それでも嫌そうな素振りを見せず、毎度毎度話しかけてくる彼女は挑戦者だ。僕としては、その、……嬉しいんだけど、どうしたらいいか分からないから戸惑ったりもする。
言葉が出ず結果的に無視してしまったり、そっけない口調になってしまったり、思ってもないことを言ってしまったりと失態ばかりな事もあり、彼女に嫌われやしないか不安だ。彼女と接するのにほんのちょっと慣れ始めた今は、少しだけ会話が続くようになった。……たまに。
一昨日、「兵士様、私に話しかけられるのが煩わしければ遠慮なくそう言って下さいね」と言われ、物言わぬ僕を気遣う彼女へポツリポツリと打ち明けてみた。僕は人見知りで、その上人と接するのが不得意であると。故に、不愉快にさせていたら悪いと謝ったのだが、彼女は「そんなことありませんよ。少しずつ話ができるようになって嬉しいです」と穏やかに微笑んだ。
僕みたいな奴と話ができて嬉しいなんて、正気を疑った。表面上の言葉かもしれないが、それさえも久しく与えられていない僕にとって、衝撃でしかなくて。
底知れぬ困惑に俯けば、彼女は「すみません。お気に触るような失礼を口にしましたでしょうか」としおれた声で尋ねてきた。
普段だったら首を振って否定していたけれど、それじゃダメだと思った。どうして僕が俯いたのか、どうして戸惑っているのかを伝え、彼女に非はないんだと強く言いたかった。
そこで僕は精一杯の気力を振り絞り、少しずつ話をした。ものすごく神経を使ったくせに、途切れ途切れでもごもごした言い方しかできなかった。
僕が彼女へ言った事をまとめると、こうだ。
「僕は暗くて幽霊みたいで気味が悪く、これまで散々女性に避けられている。だから、女性に話しかけられたり、優しくされたりするのに慣れていない。なので、君と関わる中で戸惑うことがある。今のように」
自分を知られる、ということへの恐怖心はあった。「女性に避けられている僕」や、「女性が苦手な僕」が彼女に悪い印象を与えたらどうしようと、嫌われたらどうしようと、とても心がざわめいて。
でもその裏に、僕の事を知って欲しい、そのままの僕を受け入れて欲しいという痛切な思いが一欠片あった。
彼女は僕の話を聞き終え、「そうだったんですね」と言った。笑いもせず、難しい顔もせず、ただただ僕の言った事を受け止めるような、そんな反応。良くも悪くもなかったが、とりあえず嫌われなくて良かったとほっとした。
僕を避ける女性について、「そんな人もいるんですね」と、首を何回か上下させる彼女はどこか感慨深げだった。その言葉と態度が、「私には無関係」と言っているように見えて、まじまじと見つめてしまった。
もしかすると彼女は、僕を幽霊みたいだとか、気持ち悪いとか、暗いとか、近寄りがたいとか思っていないのかもしれない。
他の女の人と同じような目ではなく、もっと違う見方で僕を映しているのでは?
もっとも、彼女の口から直に聞いた訳ではないので、あくまで僕の勝手な見解だけど……そうであってほしいと、無性に思う。そして、そんな厚かましい思いを抱く自分が恥ずかしくなり、彼女から視線を外して俯いてしまった。
話す度に、接する度に、どんどん惹かれていく。
もっと話したい。もっと知りたい。もっと色んな顔が見たい。
仲良くなりたいという気持ちが徐々に膨らみ、それと同時に嫌われることへの恐れも強くなった。だから、おいそれと一歩踏み出せない。僕の右手の手当てに使われた彼女のハンカチが未だポケットで眠っているのには、そんな理由があった。
もう少し彼女に近づけたら、もう少し僕に勇気がついたら。
──いつかちゃんと、自分からハンカチを返すんだ。
そして、彼女に聞いてみたい。黒い瞳に映る僕は、気味悪くないのかと。
*
今日の勤務は準夜番だった。落ちこぼれの僕はいつも通り地下の宝物庫の警備をした。いつも通りの見張りをして、いつも通りなんの問題もなく交代を迎えた。
宝物庫は城の地下深くに位置していて、そこに至る道順は入り組み、所々に兵が配置されている。王国始まって以来、盗人が辿りついたという記録はない。
数少ない国宝の鎮座する宝物庫は重要な箇所ではあるが、惑いの通路と行き届いた警備のために滅多なことでは事件など起きやしなかった。つまり、百戦錬磨の手練でなくとも務まる楽な持ち場なのだ。
近衛隊の中でも体力が群を抜いて低い僕に割り当てられるのが、そんな宝物庫である。
曇天のせいで夜が暗い。幸い、夜目がきくので道に迷ったり進む先に困ったりすることはないが、夜空の星がまばらなのは残念だ。
彼女は今、何をしているのだろうか。
もう寝ただろうか。それとも起きているのだろうか。
起きていたら、僕が帰宅した時に出迎えてくれるかもしれない。そうしたら、「ただいま」って言って、何か話を──……。
帰路につく中で、自然と彼女のことばかりを考えている自分がいた。
ポケットのハンカチをどう返そうか、僕が気味悪くないのかどう聞こうか、相も変わらず想をねる。
例によって「今日こそは」、と思うのだけれど、きっとどうせ行動には移せない。僕はどうしようもないくらい意気地なしで、臆病なんだから。彼女とだって、……全然仲良くなれてないし。
そうこうしているうちに、家の灯りが遠くに見えた。どうやら彼女はまだ起きているようだ。
吊り気味の黒い瞳を細め、「おかえりなさい」と彼女が柔らかに出迎えてくれる光景を想像し、ほんのりむず痒くなった。彼女と暮らし始めて、家に帰ることがちょっとだけ楽しみだったりする。
彼女の家に到着すると、屋内から微かに物音が聞こえた。おそらく、彼女はダイニングに居るのだろう。
扉を開ければ彼女が居る。妙な緊張感が忍び寄り、一瞬、鍵を開けるのを躊躇ってしまった。だが、いつまでも家の前でつっ立っているわけにもいかない。
銀の合鍵で扉を開け、屋内に入る。ランタンに灯る蝋燭が、家の中を夕焼け色に淡く照らしていた。
「おかえりなさい、兵士様。お仕事お疲れ様です」
カタンと小さな音を立て、椅子から腰を上げる彼女。僕が思い描いていたように、にこやかな出迎えをしてくれて。
何故か、ひどく安心した。
ドアを閉め、家に入ってすぐの段差でブーツを脱ぐ。彼女の家は土足禁止らしい。ちょっと面倒だったけど、この家の主は彼女なので従う他にない。……嫌われたくはないし。
「ただいま」
挨拶を返して、段差を上がる。ふわりと、酒の匂いが鼻をかすめた。テーブルを見れば、酒と思しきボトルと、赤紫に色づいた空のグラスが置いてある。一人酒をしていたのだろうか。
少し意外だった。彼女、酒が好きそうに見えなかったから。僕の勝手な思い込みだけど。
黒の双眸をぼんやり見つめながら、葛藤する。何か話しかけようか、ハンカチの事を言おうか、でも上手く会話ができるか心配で、不愉快にさせないか不安で──。
しばらくして、テーブルの側で佇む彼女が首をかしげて微笑んだ。
「どうされました?」
穏やかな声。凪いでいる黒い瞳。柔和な口元。
ただ黙って立ち尽くす僕へ、彼女は毎回こうやって声をかけてくれる。けれど、そこから会話を広げることなど僕にはできるはずもなく。
だって、彼女が楽しめそうな話題なんて知らないし、話すの苦手だし、話さないといけない用もないし……少し話をしたいだけとか、用事のうちに入らないでしょ。
(……今日も無理、かな)
もやもやと、胸がつかえる。
今回もまともに話す事は叶わぬようだ。「ようだ」と表し、実行できない──いや、実行しない自分を庇う。
ああ、ダメだ。僕はやっぱりダメな奴だ。
「兵士様、どうしましたか。大丈夫ですか?」
浮かない声が自己嫌悪の沼から僕を引き上げる。薄紅の唇にあった静かな微笑みは消えていた。
……また、やってしまった。心配させるつもりじゃなかったのに。
不甲斐なさを悔やみ、彼女から目を逸らす。ふと、テーブル上のボトルに視点が合わさった。
(あ……)
不意に、アストラッドの言葉が記憶に蘇る。
『酒飲んだら勢いが出んだよ。普段できないようなことも、すんなりやれるようになる』
僕は下戸だから酒は好きではないし、飲める方でもない。酒で気を大きくするのも良いことではないと思う。
けれど今は、「普段できないようなことも、すんなりやれるようになる」というくだりがひどく魅力的に感じた。
(あれを飲んだら、何か変わるのかな。言いたいことが言えて、伝えたいことが伝えられるのかな)
とりとめもなく考えていると、朗らかな声音が耳に入る。
「ええと、今日はですね、ターニャ様に頂いたワインを飲んでいたんです」
茶褐色のボトルに気を取られている僕に彼女が気付いたようだ。
「兵士様もお飲みになりますか?」
続けざまに聞かれ、僕は悩む。
酒は好きでない。飲みたくもなければ、飲めもしない。
だが、意気地なしの自分に勢いがつくのなら、試してみたい気もする。
一拍の間に色々計りにかけ、僕は酒を頂くことにした。失態をしでかし、彼女が不快にならないか気がかりではあるが、いつまでも同じ場所で足踏みするのもいい加減やめたい。
それに、食事や湯浴び等彼女の誘いを断ってばかりだったから、たまにはいいかな……って。彼女の親切心に甘えてみようと思った。
決意が揺るがないうちに、おずおずと頷く。
「そうですか。では、用意しますのでお掛けになってお待ちください」
言って、彼女は金の巻き毛を揺らし食器棚へ向かった。
彼女の促しに従い着席し、すらりとした後ろ姿を眺める。
ガラス戸を開け、僅かに背伸びをして指をさしながらグラスを選び──キビキビと流し台へ移動。グラスを水で濯ぎ、手早く布巾で軽く拭いてこちらへ振り返る。黒い瞳と僕の目が交差した。
僕の前に蔦の模様があしらわれたグラスが置かれ、礼を言う間もなくワインが注がれていく。
透明なグラスは、みるみるうちに赤紫に染まっていった。……こんなに飲めるだろうか。
「どうぞ。お口に合えばいいのですけど」
緩やかに口角を上げ、僕の方へグラスを寄せる彼女。
(酒、口に含むぐらいしかした事ないんだけど……)
全部飲める自信がない。波状に揺らぐワインを前に、やっぱりやめておけばよかったのではと少し後悔した。
グラスから視線を上げると、にこやかな顔した彼女と目が合って。
何かを見守るようなその黒い眼差しが、「あとには引けない」と僕に覚悟を据えた。
『酒を飲むなら一気飲み』
酒席でアストラッドが馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返していた決まり文句が脳裏を過ぎる。
(ちょっとずつ飲むより、そっちの方がいいのかもしれない。息を止めて一気に飲めば味わわずに済む)
意を決してグラスに手を伸ばし、冷たい縁に口をつけると同時に呼吸を鎮める。流し込むようにグラスを傾け、息もつかずに飲み干した。
(……? そんなに酒っぽくない。甘くてクセがなくて果汁水みたいだ。軽めのワインだったのかな)
むせ返るような酒気に襲われるかと予測していたのに、そうではなく。酒独特の後味がほとんどない。肩すかしを食らった気分だった。
「いい飲みっぷりですね。もう一杯いかがですか?」
彼女は涼やかに笑み、グラスを置いた僕へ二杯目を勧めてくる。
果汁水のようではあるが、やはり酒は酒。これ以上飲みたいとは思えなかった。
首を振って断るも、「遠慮しなくていいですよ。まだありますから」とニコリと笑い、ワインボトルを持つ。
(酒を飲んで、どのくらいしたら勢いがつくんだろう)
もう一度断る前に、僕は思案し始めた。彼女から目を逸らし、空のグラスをじっと見る。
勢いがつくには酔いが回らなければならない。酔いが回るのには個人差がある。僕は酔うまで飲酒した事がないから分からない。
どうなんだろう。僕、いつ酔うんだろう。飲む量が足りなかったらどうしよう。でも、もう酒は飲みたくないんだけど。
そもそも、「酔う」兆候にはどんなものがあるのか。記憶を掘り起こし、今まで参加した飲み会や宴会の場面を洗い出してみる。
酒を飲んだ人間は、顔が赤くなって、口が酒臭くなって、口数が多くなって、声が大きくなって、意味不明な行動に出て──……。
(ん?)
もやりと、疑念が渦巻いた。
(もし僕が、顔が赤くなって、口が酒臭くなって、口数が多くなって、声が大きくなって、意味不明な行動に出たら……もの凄く気味悪いよね。確実に嫌われる気がする)
どうしよう。やはり酒なんかに頼るべきではなかったのだ。
酔った自分にいかなる変化が表れるのか、僕自身知らないのに。
急に怖くなった。酔った僕を見て、彼女が僕に刺すような嫌悪を向けないかと。
嫌われるのには慣れているはずなのに、なぜこんなにも胸が軋むのか。
分からなかったけれど、僕の中には「この人には嫌われたくない」という漠然とした思いが在った。
何も言えず、押し黙る。彼女は僕の斜め前で静かに佇んでいて。
この人はどうして、こんな僕を見放さないのだろう。
ずっと黙りこくっているのに、お礼さえ言えないのに、顰めっ面の一つもせず、しつこく返事の催促もせず、ただ僕を待ってくれる。
出会った時からそうだ。
怖がらず、怯えず、逃げも怒鳴りもせず、嫌味も言わず、好意的に接してくれる不思議な女性。
様々な思想がぐるぐる駆け巡り、感情が高ぶっていく。
(なんでこの人は僕を避けないんだろう。僕のこと、気味悪く思わないのかな)
──前々から聞きたかった。
黒い瞳に映る僕は、気味悪くないのかと。
ぐっと両手に力が入る。同じように喉にも力を込め、震える声を絞り出した。
「……君は、僕のこと、気味悪くないの」
言えた。……言ってしまった。
顔を合わせられなくて、深く俯いてしまう。
期待と不安で心臓が張り裂けそうで、こころもち気分が悪くなった。
彼女はというと、「え?」と低く呟いた。僕の声が聞こえなかったのだろうか。
「僕、こんなだから……怖いし、気味悪いでしょ」
答えが怖い。反応が怖い。
でも、知りたい。彼女が僕をどう捉えているのか。
少しだけ頭を上げ、上目遣いで面持ちを確認すると。
「ん? いえ、別に気味が悪いとは思いませんけど──」
首をひねり、眉根を上げ、いくらか目を丸め──きょとんとした表情と、どこか不可解そうな口調で言い切って。
彼女がなんと答えるのか、あれほど……あれほどまでに恐れ、身構えていたというのに。
呆気なかった。
あまりにも呆気なく、彼女は僕の欲しかった返事をくれた。
僕は弾かれたように上を向き、信じられないという気持ちで彼女を見据える。
「でも、心配にはなりますね。やっぱり、いつ見てもお顔の色が優れないですから、どこか具合が悪いのかと」
僕の心中など知る由もない彼女は、僕の心配まで始めた。
驚いて、解せなくて、だけど、嬉しくて──。僕はすっかり狼狽し、偏に彼女を凝視することしかできず。
「兵士様、持病はお有りですか?」
降ってきた声にハッとした。
話の流れからして、体調の悪そうな僕の身を案じた彼女は、僕が病を患っていないか気になったのだろう。
この容姿のせいでよく質問されるけれど、僕は別に病気ではない。職場の検診で栄養不良や睡眠不足の指摘はあっても、病の診断を受けたことはなかった。
「……ない」
ゆるゆると首を左右に振る。先ほどの衝撃の余韻が残っているせいか、僕はどこかしら上の空で。
「体調がお悪くもないのですか? お医者にかかられたりとか──」
再度、首を振って否定する。
僕の体調云々だとか、病気がどうとか、正直どうでも良かった。
彼女の「気味が悪いとは思わない」という言葉が何度も何度も反覆され、頭がいっぱいいっぱいだ。
「そうですか。兵士様、肌が青白いので具合が悪いんじゃないかと心配だったんです。すみません、急にこんなことをお聞きして」
腰を軽く折り、僕へ謝罪する彼女。
この人は、僕の見た目を気味悪く思わず、心配してくれていたのか。
「……別に」
ぼんやりと小さく言う。脳の第三者が「もっと気の利いたことを言え」と注意を飛ばしてくる。もっともだ。「謝らないで。気にしてないよ」とでも言えていたら良かったのに。
顔を上げた彼女の目線が、テーブルに落ちる。
(……あ)
トクンと、鼓動が小さく跳ねた。
彼女の顔が見るまに変わってゆく。
吊り気味の目尻も形の良い眉も大幅に下がり、口元は緩みきって──力の抜けたような、ふにゃりとしたあの笑顔。
「あ、手の怪我、綺麗になってますね。良かった」
そんな蕩けた笑みを零しながら言われ、胸の奥がキュッとなる。
彼女が手当てしてくれた右手。もう擦り傷はだいぶ癒え、瘡蓋が取れれば元通りになるだろう。
いつかの夜の出来事を思い出し、そっと右手に触れてみる。
あの日、彼女の温もりに包まれた手。彼女がハンカチでくるんでくれた手。
(──ハンカチを、……返さないと)
今もまだ、彼女のハンカチはポケットに眠っている。
この機会に返せたら──いや、その前に。
(もう一回、聞いておきたい)
「グラス、下げますね」
二つのグラスを持った彼女は、普段よりもニコニコしているように見える。
そんな彼女を見上げ、僕はひと握りの勇気を出した。
「本当に気味悪くないの。僕のこと」
「へ?」
間髪入れずに返ってきたのは、間の抜けた声。彼女のこんな声、どこかで聞いた事が……ああ、同居が始まった日だ。
彼女の顔から笑いが消え、見開かれた黒い双眸が瞬ぎもせず僕を捕らえる。
僕たちは真剣に向かい合っていた──はずなんだけど。
「……ふっ」
彼女がくしゃりと相好を崩し、唐突に噴き出した。そしてそのまま、フフフフフと声を出して笑い始める。
面食らった僕は何が起こったのか分からなくて、笑い声をあげる彼女をポカンと傍観していた。
(なんで笑うんだろう。僕、笑われるようなことしたのかな? すごく面白そうな笑い方……これは初めて見る)
笑い声は長く続かず、次第に消えていった。けれど、彼女は破顔したまんま。
「すみません、笑ったりして。さっき言った通り、兵士様は気味悪くなんてないと思いますよ。私は」
(……!)
気味悪くないって、また言った。
(でも、そんなこと──こんな僕を気味悪くないなんて、信じられ)
「気味が悪かったら、きっとこんな風に笑えてないです」
(──っ!)
嬉しいけど信じきれなくて、裏を読もうとしてしまって。戸惑うあまりに、彼女の返事を受け止めきれずにいた。
だけど、「気味が悪かったら、きっとこんな風に笑えてないです」という言葉が、やけにストン、と心の奥底に落ちてきて。
すごく、説得力があった。
そりゃそうだ。僕の事を気味が悪いと思っているのなら、あんなに面白そうな笑いも、力の抜けた笑いも、できる訳がない。
不明瞭な蒙昧から解き放たれた感覚だった。
そして、彼女が本気で僕を気味悪く思っていないのだと理解した僕は、驚いた。まさかこの世に、僕に気味悪さを感じぬ同世代の女性が居ることに。
唖然としていた僕へ、彼女は無邪気に追い打ちをかける。
「兵士様、そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」
(え?)
耳を疑った。
(どうして分かったんだろう。僕が驚いてるって)
僕は極度の無表情で、何を考えているのか、何を思っているのか家族以外に悟られたことなかったのに。
彼女は血色の良い頬を緩ませ、口を開く。
「人間はこの世界にウン十億といるんです。兵士様の事を怖がったり気味悪がったりするご婦人がいらっしゃるそうですけど、そうでない人もたくさんいると思いますよ。私みたいに」
じわじわと、込み上げるものがあった。
(彼女は、僕を)
あるはずがないんだと、決め付けていたものだった。
(僕を……)
己が思い上がらないようにと、これまで制し続けてきたものだった。
(受け入れてくれている)
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
どうしようもないほどに、胸が歓喜に沸いた。
グラスを洗ったり、ワインボトルを仕舞いに行ったりする彼女を、夢見心地で目で追ってみる。こんなとこ、カイン副隊長に見られでもしたら「だらしない」と叱られそうだ。
やがて彼女は洗面所へ向かい、のちにシャカシャカ何かを擦る音が聞こえてきた。音の大きさとこの時間からして、歯を磨いているのだろう。
(……もう、寝ちゃうんだ)
もっと話したかったのに。
名残惜しさに気落ちしていると、洗面所から彼女が出てきた。ツカツカと一直線に左端の部屋に歩いていく様を見て、寂しさがほんのちょっと増した。
「では、私はもう寝ますね。兵士様も早く休まれた方がいいですよ。おやすみなさい」
ドアノブに手をかけ、僕へ微笑む彼女。
待ってくれているのだ。僕の返事を。
「おやすみ……なさい」
就寝前の挨拶を返せば、彼女はニコリと笑みを深めた。
「はい。おやすみなさい」
ガチャ、……バタン。カチっ。
彼女がドアの隙間に消え、僕はダイニングに一人になった。
今しがたの出来事を揺蕩うように回想し、醒め切らぬ歓びに浸る。ひどく気分が良かった。
「……ありがとう」
僕を受け入れてくれて。
ドアの向こう側にいる彼女へ、ぽそりと送る。きっと届いていないだろうけど、無性に口にしたくなった。
ポケットに僅かな膨らみを作っているハンカチに、ズボン越しに触れる。
結局、ハンカチは返せなかったけど、奇妙なことに心残りとは思わなくて。
(なんでかな?)
きゅっと、ポケットの上からハンカチを優しく握る。
……なぜだか、とても──とても、返したくなくなっていた。




