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彼と私の二重奏  作者: POMじゅーす
2.始まりの奇想曲(カプリチオ)
19/30

10とある近衛兵の間奏曲②


 空は晴れやかな青一面だったが、僕の気分は鬱々とした曇天だった。

 というのも、今日から例の婚約者との生活が始まるからだ。相手が誰だか知らないけれど、きっと会った途端に今回の話は流れるだろう。いいんだ。嫌われるのには慣れている。

 それでも、相手の女性と会った時の事を考えると気が重い。怯えられたり、嫌そうな顔をされたり、罵られたり、逃げられたりする場面を想像しただけで億劫だ。面倒くさい。

 女の人はみんな、暗くて幽霊みたいな僕を遠ざける。……あの人は違うみたいだけど。

 右手の甲に目を落とす。小さな擦り傷には瘡蓋ができかけていた。洗ったハンカチを返す機会はあるのだろうか。──また、会えるだろうか。

 頭に浮かぶのは、金色の巻き毛に黒い瞳のあの人。国守魔導師ターニャ・アランサバルの召使い、モリー・ナーエ。

 彼女のことを思うと、重苦しい気持ちが幾らか薄れた。次はいつ会えるか、どこにいれば会えるか、礼を述べてハンカチを返せるか、会ったら何を話すか……そんなことばかりを考えているうちに、婚約者の家に着いてしまった。

 王都エンデン、西地区。ヤクマオ大平原へ通じていることもあり、農耕や牧畜が盛んな所だ。五つの地区の中で一番人口は少なく、牧歌的で緑が多い。その一画に、婚約者の家屋は建っていた。

 カイン副隊長から渡された銀の鍵を使い、ドアを開ける。人の気配はない。婚約者となる女性が越して来るのは昼前くらいだと聞いているが、この分だとまだなのだろう。今が十一時を過ぎた頃なので、そろそろではあるか。

 屋内に入ってすぐの妙な段差を越え、昨日家具を置いた部屋へ向かう。ダイニングから本棚の並ぶ部屋へ、本棚の並ぶ部屋から自室へ。どこも簡素な内装だった。

 どうせ今日中に婚約も同棲も取り消しになる。取り消しにならなかったとしても、同棲期間の一ヶ月を耐えれば終わりだ。せっかく運んだ家具を寮へ戻さなければならないのが面倒くさい。

 カイン副隊長も何を考えているんだか。こんな僕と好き好んで婚約しようとする女の人、いるわけないのに。ましてや同棲なんて。

 心の内に溜まった陰鬱な気持ちが、ため息になって外に出る。それで気分が楽になったかといえば、そうではなかった。

 ぼうっと突っ立っておくのも疲れたので、椅子に腰かけて婚約者を待つことにする。相手の女性は僕が婚約者だと知らないらしいから、実際に僕がそうだと知って「まさかこんな奴が」って思うんだろうな。別にいいけど。

 何もせず、これからの展開を鬱蒼と予測していると、静かだった空間に馬の蹄や車輪の回る音が届き始めた。所々に人の声も混ざっている。……あとは、鶏の鳴き声と思しきもの。

 それはいいとして。

(──いよいよ、か)

 みるみる接近してくる音に、僕は自ずと身構えてしまう。おそらく、相手方がやってきたのだ。もしくは、近隣の酪農家が通っているだけか……直感的に、僕は前者だと思った。

「ここでいいですよ。ありがとうございました」

「おう! 家の中まで荷物運んでやるぜ?」

「えっ、いいですよそんな! 重いですし」

「重いから運んでやるって言ってんだよ。いいからどきな」

「あっあの、でも……いいんですか? ありがとうございます。じゃあ、そこのドアの前までお願いします」

「ん? そこでいいのか? 家の中まで持って行ってやるぞ?」

「肥料や農具があるので家の外で大丈夫です。すごく助かります」

 僕の予測通り。馬が土を踏む音も、回る車輪の音もこの家の前で止まった。女声の主が例の婚約者とみて間違いないだろう。会話から察するに、荷台から荷物を降ろしてもらっているようだ。

「これで終わりだな。じゃあな。新生活楽しめよー」

 気のよさそうな野太い声はそれで最後だった。

 ガラガラという車輪の音が遠ざかってゆき、「はい。ありがとうございました。本当に助かりました」と大きめの女声が飛ぶ。荷物を運んでくれたであろう人物に聞こえるよう、声を張ったのであろう。

 彼女がいつ家に入ってくるのか今か今かと憂鬱に待つ僕をよそに、例の婚約者は家屋の外周を歩き出した。鶏がクケクケ鳴いている。鶏を飼うのだろうか?

「よいしょっ……と。鶏様、ここが新居ですよー。片付けがひと段落したら外に出してあげるからね」

 ガチャガチャ、トタン。

 金具を弄り、何かを開ける音。続いて、バサバサという羽音に、けたたましい鶏の鳴き声。鶏小屋に鶏を放っている?

 トタン、ガチャガチャ。

 今度は逆に、何かを閉めて金具を弄る音。

 足音が出入り口の方へ向かい、ガチリと金属音が響く。鍵を開けようとしたが、先刻僕が開錠していたので適わなかったのだろう。

 そこから、空気がキンと張り詰めた。

 まるで警戒しているかのように、そろりそろりと屋内を移動していく「誰か」。鍵がかかっておらず、物取りでも忍び込んだと思っているのかもしれない。今日、僕がここに来るということを聞いていないとでも言うのか?

 いや、それは有り得ない。カイン副隊長は堅実な人だ。相手の承諾も得ず年頃の男女を同じ家に放り込むなんて、しないはず。

 訝しむ中で、押し殺された気配がゆっくりと近づいてくる。忍んで開かれたドアが小さく音を出し、例の婚約者であろう人物が隣室へ入ったのが分かった。

(……そういえば、この気配の消し方)

 ある女性が胸裏をかすめる。

 ──いいや、まさか。

(でも、声もちょっと似てた気がする)

 ──もしかしたら。

 けれど、そんな都合の良い話、あっていいはずがない。

 しんとした隣室から細い吐息が聞こえたが、それ以上に自分の心音が勝っていた。

 隣室と通じるドアをまじろぎせずに見据えていると、隣室の気配が動く。先ほどの忍び足とは違う、堂々とした足音だった。隣室から滲んでいた緊張感は解けており、「誰か」は屋内が安全だと認識したようだ。

 あっという間に足音が距離を詰め、自然と身が固くなる。

 ガチャっ。ギー。

(──っ)

 ……心臓が止まったかと思った。

 無機質な音と共に僕の部屋へ飛び込んできたのは、見知らぬ「誰か」ではなく「彼女」だった。

 胸元まであるふわふわした金色の巻き毛、切り揃えられた長めの前髪、一重で黒い少し吊った目、短い睫毛、白い肌、ほんのり赤みのある頬、彫りは浅く、低めの鼻──……城で会い、夜の公園で傷の手当てをしてくれた、あの人。

 国守魔導師ターニャ・アランサバルの召使、モリー・ナーエが、黒い瞳をまん丸にしてこちらを見ていた。

 僕もすごく驚いたけれど、彼女も同じようで。短く息を呑み、目を丸くしたままピタリと固まってしまっている。

(彼女が婚約者? 本当に? 何かの間違いじゃなくて? ハンカチ、返さなくちゃ)

 ドアノブを握り静止している彼女を見つめ、漠然と考える。

 僕は今日ここで婚約者と同居を始める予定で、初めて婚約者と会う予定で、この家は婚約者の物で──。

 やって来たのが彼女ということは、僕の婚約者は彼女で、今日から彼女と一緒に暮らして、ここは彼女の家で……。

(この人が、僕の婚約者?)

 信じられない。

 確かに昨夜、「彼女が婚約者だったらいいのに」と愚かに願ったが、それが現実になるとは考えてもみなかった。

 これは幻覚ではないのだろうか?

 驚愕と仄かな喜び、そして一抹の不安とで複雑になる。僕も彼女も不動で互いを注視していた。

 やがて、黒い瞳の彼女はハッとしたように身じろぎを一つし、薄紅色の唇を開く。

「こ、こ──こんにちは兵士様。どうしてこちらに?」

 未だ見開かれている黒の双眸とうわずった語頭に動揺が見えた。「どうしてこちらに」って、婚約者きみと暮らすために来たんじゃないか。分かってる癖にどうして聞くの?

 瞬時、どろりとした黒いものが心に這い出る。

(……相手が僕だと知って、狼狽しているのかもしれない。そうだよね、僕なんかが婚約者なんて誰だって嫌に決まってるよね)

 彼女が動揺する理由を推量するが、後ろ向きな答えしか出てこない。

 じっと彼女に目を向け、嫌そうな顔をしていないか、苦い顔をしていないか顔の細部を観察する。眉が上がり、瞼は開かれ、口元は硬い。

(嫌なんだ。僕が相手なのは)

 嫌われるのには慣れているはずなのに、ずしんと重石を乗せられたような感覚が僕を襲う。

(やっぱり、女の人はみんな同じ)

 絶望にも似た感情が心の底で蜷局を巻いた。

「今日から……ここに住めって、言われてる」

 半ば投げやりに返事をすると、なんとも言えない間延びした声が耳に入る。

「へあ?」

 正直、意外だった。穏やかでしっかりしてそうな彼女からそんな声が出るなんて。本当は「はあ?」と言いたかったのかもしれない。

「どいういうことですか? どなたに言われたので? あの、間違いでなければここは私の家のはずですが……」

(ここは彼女の家。じゃあ、やっぱり彼女が婚約者だったんだ。……彼女は嫌なんだろうけど)

 確信するが否や、ずいずいと彼女がせり寄ってくる。口早に放たれる質問と気迫のある真顔のせいで少し怖く思えた。だが、それよりもポンとわき出た疑念の方が強かった。

 彼女はどうしてそんな事を聞いてくるのか。

 何も知らないような反応に少し戸惑う。

(どういうこと? カイン副隊長から一ヶ月の同棲について聞いているはずじゃないの? この人はどこまで知らされているんだろう)

 分からなくなって、瞬きをする。

「カイン副隊長が、お互いを知り合うために婚約者と住めって……」

 真剣な面持ちを前にやや萎縮してしまい、尻すぼみになってしまった。

「婚約者って、もしかして、あなたが?」

 テーブルを挟んで対峙する彼女は、カッと刮目して声を震わせる。言い様からして、「婚約者」という単語に覚えがあるようだ。まあ、その「婚約者」が僕だということは知らなかっただろうけど。

 幻滅すればいい。僕みたいな奴が「婚約者」だった事実に。

 初めて会った時も、次に会った時も、彼女は僕へ優しく、普通に接してくれた。けれどそれは僕が完全なる赤の他人だったからで、人生を左右する「婚約者」となると別物になってくるはずだ。

「……ここが君の家なら……多分、そうだと思う」

 暗く、澱んだものがどろどろとうねり、途切れ途切れに言葉を吐く。

「そ、そうですか。ここは、はい、私の家ですね。カインさ、様からこの家に住むように言われてるんですか」

(同居のことは聞いていないのかもしれない)

 驚きの治まりきらぬ様子で問いかけられ、そう思った。

「……ん」

 緩やかに、けれど着実に増す澱みを制するよう目を伏せる。

 彼女の顔を見ていると、この禍々しい澱みが溢れそうで怖い。

 力なく俯けば、正面から声が降ってきた。

「そう、だったんですね。知りませんでした」

 強張りは抜けきっていないものの、さっきより力みのない声色だった。少しずつ状況を把握し、落ち着きを取り戻し始めたのだろうか。

(本当に同居について知らなかったの? でも、あのカイン副隊長がこんな非常識な事を相手に知らせず推し進めるとは──……あ)

 不意に、とある人の顔が過ぎる。

 砂漠の国イリネカから来た国守魔導師、ターニャ・アランサバル。褐色の肌の豪気な女性。彼女はカイン副隊長の妻だ。

 国守魔導師ターニャ・アランサバルとカイン副隊長は夫婦で、モリー・ナーエはターニャ・アランサバルの召使い、僕はカイン副隊長の部下。

 点と点が繋がり、一筋の線となった。

 そうか。その繋がりで僕と彼女が引き合わされたのか。

 それならば、カイン副隊長の妻である彼女が糸を引いている可能性がある。豪胆で奇抜な性格である国守魔導師なら、この非常識をやりかねない。

(おかしいと思っていたんだ。厳格なカイン副隊長が、面識のない女の人と「同居しろ」って突然言い出すなんて)

 ベストの内ポケットに手をやる。カイン副隊長から「婚約者に」と託された手紙がそこにあった。

 そうだ、すっかり忘れていた。これを彼女に渡さなければ。

「……これ」

 差し出すと、彼女は細い腕を僕へ伸ばし手紙を受け取る。この時、手紙を書いたのは国守魔導師かもしれないなという予感がした。

「あ……私に、ですか」

 聞かれて一つ頷く。今なお密やかに蠢く澱みのせいで、彼女の顔を直視できない。

 カサカサという紙の音。

 どのくらいの文章が書かれているのか分からないが、彼女は結構な時間便箋にかじりついていた。彼女が手紙を読み終えるまで、僕はできるだけ何も考えないよう意識を濁らせた。

 ほどなくして、静かな声が耳介を打つ。ぼやけていた視界が像を取り戻し、テーブルの木目模様がくっきりと映った。

「……おおよそ把握しました。すみません、取り乱してしまって」

 僕の返答を待たずに、彼女はつらつらと話し出す。すっかり冷静になったようだ。

「婚約者──になるかもしれない人がいる事は知っていたのですが、その方と同じ屋根の下で暮らすというのは初耳でした。兵士様はいつからご存知だったのですか?」

(同居のこと、本当に知らなかったんだ)

 では、同居の件は彼女にとって寝耳に水なのだろう。

「……五月に入ってすぐ、カイン副隊長に言われた」

 答えれば、彼女は悩ましげに「五月」と反芻し、しばし押し黙った。何を考え込んでいるのか……僕が嫌なら早くそう言えばいいのに。

「そうですか……兵士様を巻き添えにしてしまったようですね。大変ご迷惑をお掛けしました」

 衣擦れの音がし、微かに大気が揺れた。

「巻き添え」とは、どういうことなのだろう。

 僅かに頭を上げ、前髪の間から彼女の様相を窺う。眉尻が困ったように下がっていた。

(──……そりゃあ困るよね。引越し先に僕みたいな奴が居るなんて、迷惑でしかない。それどころか、僕が「婚約者」である事だって迷惑なんだ)

 だったら。

 さっさと言えばいい。

 僕が婚約者であることも、僕と同居することも、全部取り消したいと。なかったことにしたいと。

 おどろおどろしい蜷局がのっそりと鎌首をもたげた。

(君が言わないなら、僕が言う)

 開口しようと決めかけた──その時。

「あの、今回のことですけど、私本当に何も知らなかったんです。初めにターニャさ──様にこの家と土地を贈り物として頂いた時は、引っ越しの準備で忙しくてですね。あっ、ターニャ様は私の雇い主でして、色々とお世話になっております。ええと、それで、ちょっとしたことがありまして、婚約者になるかもしれない人がいると昨日気付いた、うん? 知らされた? んです。けど、その人と同居するなんてのは一言も聞いていませんでした。ターニャ様が独身の私を心配して企画されてたみたいで、私の知らないうちに事が運んでいて……すみません」

 血色の良い唇から矢継ぎ早に紡がれる声で、悪感情から気が逸れる。

 なるほど、そうだったのか。やはり今回の件は国守魔導師ターニャ・アランサバルが仕組んでいたのだ。

 深々と腰を曲げ、僕へ低頭する彼女。

「カイン様の命となれば、お断りしたくてもできなかったのでしょう。私のような凡庸な女の相手を務め、同じ家に住むなんて。非常に申し訳ないです」

 しぼんだ声音、繰り返される謝罪。

(そんなに謝らなくてもいいのに)

 彼女だって被害者だ。何も知らされず、僕を送り込まれて……きっと迷惑しているはずなのに。

(どうして謝ってくるんだろう。僕の気持ちを気遣うようなこと、してくるんだろう)

 僕は俯くのをやめ、彼女の顔をよくよく眺める。もう一度目に入った下がった眉尻。これは困っているのではなく、負い目を感じているのかもしれないな、とおぼろげに感じた。……そうであって欲しいと、どこかで思っていたせいかもしれない。

 黒い瞳と視線が交差する。

 暗く澱んだ蜷局が首を降ろした。即時、彼女は眉の形を元に戻し、大きく息を吐く。

 そうして彼女は、呟くようにポツリと言った。

「……でも、兵士様で良かった」

(──!)

 吐息と重なったそれは、ひどく安心したような──随分と気抜けた声で。

 柔らかな笑みをふんわり浮かべ、細めた双眸を僕へ向ける彼女。吊り気味の目尻にえも言われぬ温もりが見えた。彼女のこの笑い方を目にしたのは初めてだ。

(僕で良かったって、僕で良かったなんて、なんでそんなこと言うの)

 ひだまりみたいな笑顔とそよ風みたいな言葉。否応なく染み込んでくるこの二つが、僕の中の暗く澱んだモノを一掃する。どろどろとした蜷局は溶けて消えた。

 彼女は……この人はずるい。すごくずるい。

 そんな顔するなんて、そんな事言うなんて。

(君の一挙一動でこんなにも振り回されてしまう僕は、馬鹿だ)

「何度かお会いしましたでしょう? 見知らぬ方じゃなくてほっとしてしまいました」

 本気で言っているのだろうか。僕が婚約者で良かったと。

 一つ瞬き、ぼうっと彼女に見入る。穏やかで温かなその笑顔を見ていると、どう表せばいいのか分からない不思議な気持ちが生まれてきた。

 包み込まれるような、溶かされるような……安らぎ。

 ──ずっと見ていたいと思った。僕へ向けられる優しい顔を。

「あの、ターニャ様から相手の男性の承諾を得ていると聞いてはいますが、もし不本意であれば今からでも撤回できるようお伺いを立てますよ」

 緩やかな弧を描いている唇が音を零し、脳内にかかっていた心地良い靄が晴れる。

 眉尻が少し下がった彼女の表情は「笑顔」でなくなった。

 残念だったけれど、僕は今しがた彼女が言った言葉について考えていた。

(不本意だった。カイン副隊長に根負けして引き受けた気の乗らない話だった。名前も顔も知らない人と婚約するのも嫌だったし、どうせ相手に断られるものだと思ってた)

 だが、相手は彼女だった。そしてこの人は僕で良かったと、そう言ってふわふわ笑った。

 僕で良かったと、ふわふわ笑ったんだ。

(僕は──)

 本当は僕のことなんか願い下げで、僕に「嫌だ」と言わせて僕から本件を破棄させたいのかもしれない。

 逡巡したが、僕はそうでないと、「兵士様で良かった」という言葉を信じようと思った。

 相手が彼女ならば、彼女が僕で良いというのならば、委ねてみよう。

(……僕は、この人がいい)

 伝えようと喉に力を入れるが、いざ声にするとなると緊張した。……情けない。

「気兼ねなく本音を言っていただいて結構ですよ」

 何も言わない僕を見かねたのか、彼女が声をかけてくれる。

 あまりの情けなさで居心地の悪くなった僕は、ものも言えずに俯いてしまった。

 首を横に振って答えを告げると、驚いたような声で聞き返される。

「こんな十人並みの女が兵士様の相手でもよろしいので?」

(どこが十人並みなんだろう。君はすごく不思議で、……幽霊みたいな僕にも優しい人なのに)

 僕は、君がいいんだ。

 ゆっくり、でもしっかりと頷く。

「本当に?」

 こわごわと尋ねられ、もどかしくなった。

(伝えられたらいいのに。僕の返事を、全部)

 僕は君がいい。

 君が僕で良かったと言ったように、僕も──。

(僕も、君で良かった。君が相手で本当に良かった)

 伝えたいのに、声帯が震えない。伝えた後に拒絶されたらどうしようという恐怖が足枷になっていた。僕は臆病だから。

 もう一度首を縦に振れば、「ふふ」と静かな笑い声が聞こえた。

「……そうですか。それは良かったです」

 物柔らかに言い、それから彼女も僕もしばらく黙っていた。室内から声音が失われ、僕の方から何か話しかけるべきなのか悩んでいると、彼女が「うーん」と低く唸る。

「それにしても、いきなり二人暮らしをするというのはどうなのでしょうね。世間体を考慮するとあまりよろしくないかと思いますが……兵士様のご面倒になりはしませんか?」

 確かに彼女の言う通り、婚前の、それも恋愛過程にない男女が同じ家で暮らすのは外聞がよくない。表面上、「近衛の任務のため」という事になってはいるが、下手すれば根も葉もない噂が流れ、お互い他の異性が寄り付かなくなる可能性もある。……僕には元々寄り付かないからいいんだけど、彼女は違う。

 彼女の未来を考えると、こんな同棲しない方がいい。

 しかし、僕の面倒になるかと問われれば、どうだろう。彼女との同居でよからぬ噂が付き纏うとしても、どうせ僕に悪影響はない。もとより縁談など来なければ、女性に言い寄られることもないのだから。

 僕は──彼女との同居で面倒なことになるとは思わなかった。僕が相手で良かったと笑ってくれた彼女となら、同じ屋根の下で暮らしても良いかもしれないと思ってしまった。そこにやましい心はない。

 一緒に住めば、もっと彼女と話したり関わったりできる。

 ……もし叶うなら、彼女に近付いてみたい。僕を怖がらず、好意的に接してくれる女性と、仲良くなってみたい。

(別に僕はいいけど、彼女にとってはよくないよね。僕みたいな奴と同居なんて)

 彼女のために断るべきかどうかしばらく迷い、とりあえず聞かれた事に対する返事のみすることにした。

 俯いたまま首を左右に振る。まだ声は出せなかった。

「兵士様、気を遣っておられませんか? 私如きに配慮など不要なので、正直に言っていただいていいんですよ?」

「私如き」と自らを卑下する彼女は、出会った当初から物腰が低い。そりゃ、僕は一応「近衛兵」だけど、そんな下手にしなくていいのに。近衛兵といっても、僕、落ちこぼれだし。

(僕の方こそ「僕如き」な存在なのに、君みたいな……善良な女の人の相手になれて恐縮だよ)

 再度、ゆるゆる首を横に振る。

 ここで僕は思い立った。

(彼女は僕と同居するの、どう思ってるんだろう)

 聞かなければ。

 僕が婚約者で良いと彼女は言ったが、同居はまた別物になる。

 僕はこのまま同居になっても、その……いいかなって思うけど、彼女は違うかもしれない。相手が僕で良くとも、この家に住まわれたくないという気持ちがあるのでは?

 ──聞いてみなければ。

 そして、彼女が「嫌」だと言ったなら、苦い顔をしたならば、僕は黙って出て行こう。

 聞こう聞こうと思ったのだが、彼女が申し訳なさそうに口を開いたので時機を逃してしまった。

「それなら、良かったですが……私のような一般庶民が兵士様にお手数を掛けてしまい、恐縮です。あ、そういえば、元々住んでいたご自宅はどうされたのですか? 一ヶ月も不在だと家の管理にお困りになるのでは?」

 僕の家は城の寮。自室の管理は自分でしないといけないけど、今の僕には関係ない。だって、もう退寮したんだから。

「もしもご自宅が心配でしたら、無理してうちに住まなくてもいいのですよ。自宅の方が休まるでしょうし、便も良いんじゃないですか?」 

(無理して住まなくてもいいって言われても、僕、退寮したから帰るとこないし。……まあ、この同居が取り消しになったら帰れるけど)

 彼女の質問に首を振って返事をする。

(そうだ。ちゃんと声にして伝えないと。それができずして、彼女が僕と同居してもいいのか聞けるわけがない)

 くっと、奥歯を締める。

 決めたはいいが、なんて言おう。

 様々な文を組み合わせ、彼女へ伝える言葉を作っていく。

(「僕は城の寮に住んでいたけど、退寮してるから家の管理は必要ないんだ。心配してくれてありがとう」。……これだ。すごく普通で、差し障りがない)

 文章はまとまった。あとは声に出すだけ。

 頭を半分ほど上げ、彼女の顔を覗き見る。人と話す時は目を合わせろってカイン副隊長から口酸っぱく教えられているが、意識すると上手くいかない。女の人と話すの、苦手だ。

 黒い瞳と視線がかち合う。急に心臓がドキドキしてきた。

 言わなきゃ。口で。ちゃんと。

「寮、出されたから……帰る家がない」

 焦った僕は、愚かでしかなかった。

 真っ直ぐに僕を見据える彼女を前にして、せっかく考えた言葉は吹き飛んだのである。

(違う。僕が言いたかったのは)

 彼女は薄い唇を微かに開き、目を瞠っている。

 驚いているみたいだ。それもそうか。「帰る家がない」なんて言われたら、ビックリするだろう。

「どうしてですか」

 どよどよと自己嫌悪している僕の耳に、えらく真剣な声が入る。

 瞬き一つしない黒の瞳に捉えられ、僕はますます焦燥感に駆られた。

 彼女に失礼のない、彼女を傷つけない返事をしないと。

 目まぐるしく回るたくさんの文字。落ち着いて選ぼうにも、隣室の時計の音に急き立てられ、何がなんだが分からなくなってしまった。

 僕の返事を待つ黒の双眸にいたたまれなくなり目を逸らす。いつまでも待たすのは悪いと思い、彼女の問いかけに答えるべく口を開くが。

「……婚約者きみと暮らさないといけなくなったから」

 どうしようもないほどに、僕はドツボに嵌っていた。

(違う。違う。こんな言い方するつもりは)

 ──これじゃあ、まるで。

(彼女を責めてるみたいじゃない)

 物事の中心にいるのは彼女であっても、僕に寮を出るよう命じたのはカイン副隊長だ。彼女だって知らなかったことなのに、彼女は悪くないのに。

(僕は嫌な奴だ)

「すっ、すみません私のせいで!」

 罪悪感に射たれたのか、声を張って謝る彼女。謝らなきゃいけないのは僕の方だ。責めるような事を言ってすまないと。そういうつもりではなかったのだと。

 謝りたいのに、声が出せない。

「本当に申し訳ないです。赤の他人と──私なんぞと同じ家に住みたくありませんよね。なんでしたら可能な限り早く寮に戻れるよう掛け合ってみますよ」

(謝らないでよ。君は悪くない。僕がだめなんだ)

 君を咎めるつもりはなかった。負い目を与えるつもりはなかった。

 君と住みたくないわけじゃない。寮に戻りたいわけじゃない。

 合わす顔などなかったが、分かって欲しくて目で訴えてみる。無表情な僕がこんなことをしても効果はなさそうだけど。それでもそうせずにいられなかった。

 彼女は唇をキュッと結び、僅かに眉間に皺を寄せていて。

 そんな顔、させたくないのに。

 僕はいつもいつも、彼女を困らせている気がする。

 君のせいじゃない。君は悪くない。僕は同居、嫌じゃないよ。

 届け、伝われ。縋るような気持ちで彼女を見つめ、頭を振る。

「え? いいんですか? この家、王城から離れてるので通勤には不便ですし、私のような女もいるんですよ。本当にここに住んで大丈夫なんですか?」

 心配するような口調に、揺れる声。

 僕のことなんか気にしなくていい。婚約者が君だからこそ、同居相手が君だからこそ、大丈夫だと思えるんだ。

 君さえ良ければ、僕は大丈夫。

「君が嫌じゃなかったら、別に……」

 頷いて、告げる。

(……でも、彼女は?)

 そうだ。聞かなければ。

 勇気を出して顔を上げ、黒い眼にじっと目を合わせる。深い夜の色に吸い寄せられそうだった。

 すごく聞きたい、聞かなきゃいけない事なのに、中々言葉が出てこない。

 だけど、やるしかない、やらなきゃいけないと自分を奮い立たせ、僕は声を絞り出した。

「……君は、嫌じゃないの?」

 ──言った。聞けた。

 どんな答えが返ってくるのか気が気じゃなくて、息が止まりそうだった。

 嫌だと言われたらどうしよう。顔を顰められたらどうしよう。ぎこちない空気になったらどうしよう。

 否定的にしか考えられなかった。

「え? わ、私は嫌じゃないですよ。全然」

 だから、彼女が驚いたようにこう言ってくれて、すごくすごくホッとした。

 とめどなく湧く安堵と喜び、少しの恥ずかしさ。

 じんわりと胸が温かくなる。ユリアンやカミユ、クラウス、アストラッドに受け入れられた時を思い出した。

 ぼうっと彼女を眺めていると、彼女は僕へにこっと微笑む。なんだかくすぐったくなって俯いてしまった。

「これからよろしくお願いしますね」

 ひと呼吸開いて、穏やかな声が降ってくる。

「よろしく」と返したかったけど、恥ずかしくてできなかった。

 責めた事も謝罪できていないし、ハンカチだって返せていない。心残りはたくさんあったが、これから挽回していこうと思う。僕にしては珍しく前向きだ。

(……仲良くなれたらいいな)

「クルッケッコッコー!」

 屋外で鶏が力強く鳴き、「頑張って」と僕を激励しているようだった。


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