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彼と私の二重奏  作者: POMじゅーす
2.始まりの奇想曲(カプリチオ)
12/30


 中央区に近づくにつれ夜のしじまに音が入り、やがて酒場の音楽や夜街を出歩く人々の喧騒で耳が賑やかになっていく。中央区の外れには飲み屋や飲食店の立ち並ぶ繁華街があって、そこら一帯は真夜中まで騒がしい。

 私の自宅(明日でお別れだけど)は繁華街から離れているので割り合い静かだが、たまに酔っ払ったおっさんが迷い込み、大声で歌い歩くこともある。大抵、警備隊が野太い歌声を聞きつけて速やかに連行してくれるんだけどね。

 泥酔した人間はなかなかに厄介だ。道中に嘔吐したり、知らない人に平気で絡んだり、どこでもかまわず寝っ転がったり……日本に居た頃、職場の後輩にそういうのが一人いた。毎回毎回「深酒するな」と忠告しても「大丈夫っすよ!」としたたか飲み、最後は周囲に迷惑をかけて家まで送ってもらう、どうしようもない後輩が。そいつのせいで私はすっかり「飲み会」を敬遠するようになってしまったのだ。ついでにのんだくれも苦手になった。

「酒は飲んでも飲まれるな」。正にこの一言に尽きる。ターニャさんなんか超酒豪で、悪酔いしたところを見たことないぞ。

 酔っ払いがうろついてそうな繁華街を通るのを避け、遠回りにはなるが私は別の道を進むことにした。行きは急いでいたのでやむを得ず繁華街を突っ切ったけれど、用事が済んだ今はそうする必要がない。

 繁華街から三つほど隣の通りを選び、先を急ぐ。繁華街のさざめきが遠くに聞こえ、それは五月蝿くもあり、ほっとできるものでもあり。夜道において人の気配を感じられる音と光の安心感は、どこの世界でも同じだった。

 さっさと家に帰って、やりかけだった引っ越しの最終準備をしなければならない。明日は待ちに待った転居だ。新生活を思うと心が弾む。恋人候補のことはちょっと忘れよう。

 私はブラウスの襟を寄り合わせ、早足で煉瓦道を歩いた。夜気はひんやりとしていたが、せかせか足を動かしているせいで体は温かかった。

(? 誰かいる)

 せめてもの近道にと小さな公園を抜けていると、備え付けの長椅子に横たわっている人が視界の隅に入った。

(この辺もまだ繁華街に近いから、酔っ払いが寝ちゃってるのかな)

 起こして絡まれでもしたら面倒だ。そうっと通り抜けよう。

 足音を忍ばせそろりそろりと通過する中で、仄かな酒の香りがした。

 ああ、やはりのんだくれか。そう思い、私は力なく仰向けに寝転んでいる人を何気なく見やる。

(あれ? この人)

 星明かりに照らされているのは、下瞼にくっきり浮かぶ濃い隈、青白い肌、血色の悪い薄い唇に、八の字に歪んだ眉、傷んだプラチナブロンド、ほっそりとした体躯。

 見覚えのある顔に、私はこの人が誰であるかすぐさま思い出した。

(あの時の近衛兵だ……!)

 城の物陰に潜む私を見つけ、入城許可証を確認したかと思えば無言で去っていってしまった、不思議で不健康そうな近衛兵。今は黒の隊服ではなく一般男性の服装をしているが、この強烈な人相は紛れもなく彼だ。

 なぜこんな時間にこんなところで寝っ転がっているのだろう。

 いやいや、それよりも。

(顔色悪っ! ちょ、これ、倒れてるんじゃないよね? わっ、手から血が出てる)

 彼のあまりの顔色の悪さにぎょっとし、無意識に足を止めてしまった私。病に伏せているのではなかろうかと視線を上下させ、目に映ったのは右の手背にこびりついた血液らしきもの。少量ではあるが、彼が病弱そうなだけに私は心配になった。

(放っといて命に関わるようなことがあったら大変だ。あ、でもお酒飲んで寝てるだけかもしれないし、どうしよう。手の怪我も大したことなさそうではあるよね)

 逡巡ののち、とりあえず意識があるかだけ確めることにした。

 こんなに血の気の悪い人をスルーするのは道徳的によろしくない。万が一、このまま野垂れ死にでもしたら可哀想だ。この人は近衛兵。彼が亡くなりでもすれば、国は有能な兵を一人失うことになる。

(単に寝てるだけだったら謝って立ち去ろう。病気か何かで体が辛いなら町医者に連れて行って、この人が歩けそうになかったら誰か助けを呼んで運んでもらうようにして──)

 もしもの時の対応策を考えながら、長椅子で仰のく近衛兵に腰を屈めて声をかける。

「あの、大丈夫ですか?」

 肩をゆすろうかと悩む前に、彼は瞼をゆっくりと開いた。虚ろな灰青の虹彩がゆらりと蠢き、私の方へ向く。

(相変わらずぼーっとしてる目だなあ。綺麗なのにもったいない)

 焦点の合わない双眸。意識が朦朧としているのだろうか。それは具合が悪いせい? お酒のせい?

「兵士様、兵士様、大丈夫ですか?」

 もう一度声をかけると、彼は大きく瞬きした。灰青の瞳がほんの少し生気を取り戻した──気がする。辺りは薄暗いし、この人の表情は読み取りにくいから思い過ごしかもしれないけど。

 不健康そうな近衛兵はおもむろに上体を起こし、ぼうっと私を見上げている。星の青い光と夜闇の影で一段と顔色が悪く見えたのかもしれない。

 起き上がれるだけの体力があることは分かったが、肝心の体調は不明。大丈夫かと尋ねているのに、この人、なんにも返事しないんだもの。

(声を出せないほどしんどいのかな? えー、でも、そのくらいしんどいなら体起こせないでしょうよ。どうしたのかな?)

「あの、大丈夫ですか。どこかお加減が悪いのですか」

 黙ったまま私に顔を向けている彼に再度呼びかける。たっぷりの沈黙を経て、ようやく彼の薄い唇が開いた。私は忍耐強い方なので、待つのは不得意でない。

「……なんで」

 ボソボソとした低い声。この前聞いたものと同じだ。

(え? 何が「なんで」なの? 私がここにいること? 私が声をかけたこと?)

「はい?」

 彼のゆくりない返事に僅かに驚いていたため、素で聞き返してしまった。

 私は今、「一般人モリー・ナーエ」。城の兵士にはそれなりの応対をしておきたい。城勤めの兵士に特別な階級が与えられている訳でも、敬うように義務付けられている訳でもないが、一般市民からすると「城兵」はお偉方なのだ。日本でも、警官や医者に対して自然と低姿勢になる人が多いでしょう? それと似ている。

「家に帰る最中にここを通りかかったら、横になっている兵士様をお見かけしたもので……体調がすぐれないのかと心配になって、声をおかけしてしまいました。お節介でしたらすみません」

 主語がないので何に対しての「なんで」か分からない。ひとまず、なぜ私がここに居るのか、なぜ私が声をかけたのかを答えてみた。

 不健康そうな近衛兵は先ほどのように大きく、緩やかに瞬き、薄紫の唇をうっすら開く。綺麗で掴みどころのない灰青の瞳の中には、どことなく浮かない顔した私がいた。

(この人、まるで活力とかエネルギーがなさそう。やっぱり病人?)

「具合がお悪いのですか?」

 青褪めた肌と精彩のなさに、私は自ずと彼の身を案じていた。……私の母も、このような肌の色をしていた時期があった。あれは母が亡くなる何週間前のことだったか。病院のベッドで日に日に弱り、細く、青くなっていった母。亡骸はあまりにも冷たく、白く、空っぽだった。

 不健康そうな容貌に一瞬母の面影を重ねてしまい、私の心に影が差す。私はそれをすぐさま振り払い、こちらを見上げる近衛兵の返事を待った。

 彼は無言で私の方をぼんやりと見ている。時折、うっすら開いた薄い唇が物言いたげに小さく動き、かと思えばピタリと止まり。そんな動作を何度か反復し、終いに彼は俯いてしまった。

(わ、下むいちゃった。気分悪くなったのかな?)

 もう一度声をかけようか迷っていると、か細い声がボソリと耳介を打った。

「……平気」

 弱々しく消え入りそうな声だったが、彼が放ったのはおそらく「平気」という言葉だ。

「本当に大丈夫ですか?」

 おぼつかない声が気がかりで、思わず聞き直してしまう。彼は寸刻静止し、やおら頷いた。光沢のない傷んだプラチナブロンドがさらりと揺れ、酒の香りがふわりと漂う。

「そうですか。それなら良かったです」

 心配は拭いきれていないけれど、しつこく問うのも憚られる。本人が平気と言うなら、これ以上つっこむのはやめておこう。座って話ができるくらいだから、命が危ない感じではなさそうだし。

 ただ、手の甲の傷をそのままにしておきたくはなかった。擦り傷程度だとしても、ばい菌が入って化膿したら大ごとだ。彼は近衛兵なので、剣を扱うのに支障を来すかもしれない。

 確か、鞄にまだ使ってないハンカチがあったはずだ。鬱陶しがられても嫌なので甲斐甲斐しく手当てをするつもりはないが、せめて血を拭き傷口を清めるくらいはしても罰は当たらないのでは。や、拒否られたらしないけど。騒ぐほどの怪我じゃなさそうだしさ。

「兵士様、右手を怪我をされているようですね。雑菌が入って膿んでは大変です。よろしければ、お拭き致しましょうか?」

 差し障りのないよう、穏やかに、丁寧に申し出る。

 近衛兵は今までより幾分か早く反応を見せ(それでもゆっくりだった)、伏せていた青白い顔をもたげた。灰青色の双眸は変わらず虚ろだったが、真っ直ぐに私を見つめていて──少しドキリとしてしまう。彼とかっきり視線が合ったの、これが初めてなのではなかろうか。

 じーっと正視され、ちょっと落ち着かない。でも、私はそれを表面に出さないよう、おすまし顔で首をかしげてみせた。「どうしました?」とでも言うように。あざといな、私。

 だけど、時が止まってしまったのではないかと思うくらいに、彼は微動だにしなかった。

(えー……どうして固まっちゃったの? そうも仲良くない女にこんなこと言われたからかなー? どう断ろうか考えてるのかも。あちゃー、失敗した?)

 逸れることのない視線と長い沈黙に耐えかね、「すみません。差し出がましかったですね」と言うと、やっと彼が動いた。

 ふるふるとゆっくり首を横に振りながら、不健康そうな近衛兵は俯く。

「そんなこと、ない」

 これまたボソッと呟かれたのは「否定」だったが、彼の本心が読めない私は確認のためにもう一度尋ねた。

「そうですか。では、よろしいですか?」

 努めて人当たりの良い、穏やかで明るい声音を出す。頭を垂れている近衛兵はゆるゆると頷いた。

(……ほんとにいいのかな? 実は断れなくて嫌々頷いたんじゃ)

 若干不安になるも、自分から言っておいて今更「やっぱりやめておきます」なんて取り消せない。それこそ失礼だし、気まずくなる。んー、……既に微妙に気まずかったりして。

(大きなお世話だったのかも。ちゃちゃっとやってさっさと帰ろう)

 私は鞄からハンカチを取り出し、公園の水飲み場に走った。蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく流れ出る。島を縦に横断するカシカ河の淀みない地下水は、ペッカイナの人々に常に潤いを与えている。

 濡らしたハンカチを絞り、長椅子で待つ近衛兵のもとに戻るべく振り向けば──あれ、すんごく見られてない? そんなに凝視しなくても……。怪しまれてるのかな?

 内心ぎくしゃくしていたが、澄ました表情を崩さず彼に駆け寄る。

「お待たせしました。失礼しますね」

(ちゃっちゃとやってさっさと帰る。うん)

 長椅子の脇にしゃがみ込むと、始め私を見下ろしていた彼は、ハンカチを持った手元に目線を移した。そんなに見られるとなんか息が詰まるなー。別に変なことするわけじゃないんだから、ねえ?

 袖口から覗く、男の人にしては細い手。木目の板に置かれているそれに手を伸ばし、あと少しで触れるというところで、彼が僅かに身じろいだ。乾いた血の付いた右手が、私と距離をとるかの如く宙に浮いている。

(あ、やっぱり嫌だったのね。はあ……やらかしちゃった。ありがた迷惑だったかなあ)

「すみません。ご迷惑でしたか?」

 ハンカチを持った手を下げ、謝罪する。傷口は洗ったほうがいいですよと告げて立ち去った方がよかろうか。いや、立ち去ってしまいたい。だってもう気まずいんですもの。居たたまれません、この空気。

 上目遣いでそっと彼の面持ちを窺う。

(あ。この人、いつから始終ぼんやりしてるから表情読もうとしても無駄か。ほんと、不思議な人だよね)

 見上げた顔は、下濃い隈に青白い肌、血色の悪い薄い唇、生気の欠けた瞳、八の字に歪んだ眉と、やっぱり何も変わってなくて。

 ──でも、心なしか、口元に力が入っているようだった。ほんのちょっぴり唇の端がキュッとなってるくらいだけど。

 私はそれを「不快感の表れ」ではないかと捉え、どうしようかとはらはらしていたのだが……彼はふるふる首を横に振った。迷惑か聞かれて首を横に振るということは、傷を拭いてもいいわけ? うーん、ほんっと読めないなあこの人。

(私に気を遣って拭かせてくれようとしてるのかな。そうだったら悪いなあ。でも、この流れをぶった切って「ご自分でどうぞ」とか言えないし)

 モヤモヤしつつ、血のこびりついた右手にそっと手を近づける。彼はびくりと腕を震わせ身を硬くしたようだったが、さっきみたいに避けられることはなかった。

 細く青白い手のひらにそろりと指先を滑らせると、不健康そうな近衛兵は再びピクンと手をびくつかせる。指先から伝わる温度はとても冷たくて……私も少し、手先を強ばらせてしまった。こんなに冷たくなるまで、彼はここにいたのだろうか。

 大丈夫かと声をかけてみれば、彼はおずおずと頷き、自身の右手に目をやった。ぼんやりとした眼差しに、目の下の濃い隈、八の字に歪んだ眉──やはり、何を考えているのか分からない。けれど、触れ合っている彼の右手は、妙に硬く。

(んー……もともとが八の字眉だから、嫌がってるかどうか解りづらいー。なんていうか、ビクビク感はありそうだけど。緊張してるの?)

「痛かったら言ってくださいね」

 片手で彼の右手を支え、もう片方のハンカチを持った手で彼の右手をやんわり拭いていく。よくよく見れば、手背の中心に何かで擦った痕がいくつかあった。どれも浅い傷で、もう新たな血液は出ていない。

 彼の様子をさり気なく探ろうとしたけれど、上から視線を感じたので不発に終わった。たぶん、上向いてたら目が合ってたと思う。うん。

 何分も経たぬうちに、血はほとんど拭き取ることができた。これでおしまいにしようと考えていたのだが、生々しい傷口を剥き出しにしておくのもちょいと痛ましい。保護の意味合いで、ハンカチで覆うことにした。ハンカチはたくさん持ってるので、一枚くらいあげたって無問題。このハンカチは特にお気に入りでもないし。

「ハンカチを洗ってきます」

 拭き取った血で汚れたままのハンカチを傷口にあてるのはいただけない。ちゃんと洗い直さないとね。

 たたっと水飲み場に行き、ハンカチをじゃぶじゃぶ揉み洗いする。よく絞ってピンと布地を伸ばし、水気を切った。

(こんなもんかな)

 さて、戻ろう。と、回れ右をすれば。

(……ん?)

 不健康そうな近衛兵は、今しがた清拭した右手を己の太腿に乗せ、しげしげと眺め回していた。

(どれくらい血が取れたのか見てるのかな? 拭いた刺激で痛みが出たのかな?)

 不思議に思っていると、彼は傷のない左手で右手を静かにさすった。緩慢で、儚げな動作だった。

「お痛みがありますか」

 近衛兵のもとへ足を向けながら聞いてみる。ワンテンポもツーテンポも遅れ、彼は二度首を横に振った。うーん、反応が鈍いですな。ぼーっとしてるせいかしら。酒? それとも元からのんびり屋さん?

「それなら良いのですが……痛ければ我慢せずに言ってくださいね。失礼します」

 雪のように冷たい手をとれば、やはり彼はピクンと腕を震わせる。痛いのか、触られたくないのか、はたまた触られるのに慣れていないのか、緊張しているのか──何が原因か定かではないが、抵抗があるらしい。

(早く済ませよう)

 細く青白い手の甲にハンカチを巻き、きつくなり過ぎないよう注意して結ぶ。応急処置としてはこんなもので十分だろう。レサ・ハルダで誰か絆創膏開発してくれないかなー。

「あいにく、包帯は持ち合わせておりませんでしたので……代用でよければ私のハンカチをお使いください。帰宅されたら、念のために消毒をしておくといいかもしれません。ハンカチは捨てて頂いて結構です」

 ぼうっとこちらを見下ろす彼にそう言い、しゃがめていた腰を上げる。

「夜は冷えますから、お体を壊さないうちに帰られた方がよろしいですよ。では」

 爽やかに愛想笑いを浮かべ、一礼。彼は大きく瞬き、薄い唇を微かに開いた……が、そこから声を発することはなく。

(顔色は悪いけど命にどうこうはなさそうだし、傷も綺麗にしたし、もういいよね。さようなら、不思議な近衛兵さん)

 これ以上ぎこちない雰囲気になる前にと、私は退散を決め込んだ。

 しかしまあ、彼の独特さと不健康さったらもう、なんていうか気になるよね。やっぱりカインさんかニコ隊長から情報収集しよう。ついでに例の恋人候補のことも聞いてみようかな。

 煉瓦を踏む音が静穏な公園にコツコツと鳴り響く。

 長椅子で佇む近衛兵への興味で背後が気になったが、振り返って目が合いでもしたらバツが悪い。あの人はどんな人なのだろうと想像しながら、私は好奇心を滾らせ帰路をゆくのであった。


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