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いつにするか少々悩んだが、キリ良く来月頭に住処を移すことにした。六月になれば雨期で仕事が忙しくなって引っ越しなどままならないだろうし、ターニャさんも「早いほうがいい」と言っていたからだ。掴みます、運勢。
そんなわけで、引っ越しが決まってからというもの、穏やかだった私生活が少しばかり活気づいた。
ターニャさんやフェデリカなど、親しい人達へ転居の日取りを手紙で知らせ、準備に取り掛かった。五月初旬に屋内と庭の大掃除を始め、毎日筋肉痛。おかげでターニャさんに「ボロ屋」と呼ばれていた一軒家は、見違える程綺麗になった。
体力の曲がり角を越しかけている私にとって肉体労働はキツかったが、新生活を思うと我慢できた。どんどんクリーンになっていく新たな我が家に胸は踊り、そりゃもうルンルンでしたよ。
埃と蜘蛛の巣を払い、水拭きしただけで壁と床はピカピカに。築数十年ということだったが、見込み通り傷や染みのない良い状態の家だった。雑草を刈り取りさっぱりした庭はやはり広く、どこに何を作るか困るほど。城の手前に通じる近道も見つけ、改めて良い物件を手にしたなあと感慨深くなった。
掃除と並行して業者へ家具や浴槽、家畜小屋の発注を済ませ、不動産屋で現在住んでいる家の売却手続きをした。今月末で退去です。もともと中古で買った小さな家だったので、査定をしても日本円で四百万くらいにしかならなかった。ちょっと足元見られた気がするけど、臨時収入としては大きい。老後のために貯金だ。貯金。
五月中旬には畑作りを開始。庭を区切り、どこからどこまでを畑にするか決め、せっせせっせと草むしり。ターニャさんから肥沃な土地と聞いていたので、土壌改良には手を出さないことにした。よく分からないし。
小石も拾ってあらかた畑の土台ができたところで、買ったばかりの鍬を使い耕起と畝作りを行う。農作業は小学生の体験授業が最後だったため、本や八百屋さんの情報をもとにとにかく耕した。出来上がった畑は素人にしちゃなかなかサマになっていたと思う。筋肉痛が悪化したけど。
念願の畑にテンションが上がり、引っ越しまで我慢できず種を蒔いてしまったのは私があまりにも浮かれていたせいだ。こんなにウキウキルンルンしたの、初めて魔法を使いこなせた時以来である。いや、天馬の背に乗った時以来? 闇夜に光る花畑を見た時以来? まあ、とにかく久しぶりに浮かれ気分でした。
まだ転居が完了していないのに種蒔きしてしまったので、掃除と畑作りが終わっても作物の世話に通わなくてはいけないハメになった。が、作物の成長が楽しみで楽しみで苦にならなかった。もう農家になってもいいとさえ思った。
連日畑の整備や水遣りをする中で、発注していた家具たちが次々に届きだした。今住んでいる家にある使えそうなものは運び屋に頼んで新たな住居へ移し、不要なものは心を鬼にして売り払った。私は要るもの要らないものの仕分けが苦手である。残った衣類や食器は貧民院に寄付するつもりだ。
そうして新居には物が増えてゆき、逆に今の住処からは物が減ってゆき。五月下旬になれば家具配置も大方進み、不自由なく新居で生活ができるくらいになった。家畜小屋だって完成した。
すぐにでも転居できそうだったが、転居届に新住所となるのは六月一日からだと記載して城に提出していたので、歯がゆくもその日まで待たねばならず。レサ・ハルダでは一ヶ月がかっきり二十八日のため、五月二十八日までは今の家にいないといけないのだ。
一日、もう一日と近づいてくる六月一日を歳を忘れて心待ちにし、五月の最後の週でご近所さんに挨拶回りをした。あの家を貰い、住むことになっているのは表向き「モリー・ナーエ」の方なので、ご近所さんたちには「召使の仕事がしやすいように西地区へ引っ越す」と伝えた。みんな「お仕事頑張りなよ」「また会ったらよろしくね」と笑顔で言ってくれ、ほっこりした。深く突っ込まれなくて幸いである。
*
いよいよ迎えた引っ越し前夜、五月二十八日。
家具や装飾品が消え、すっかり殺風景になった自宅で最後の荷造りをしていた私は、大切なものを整理していた。明日、ついにあの家へ入居できると思うと胸がドキドキする。ああ、今夜眠れるだろうか。
大事な書類が入った箱を持ち上げ、玄関近くまで運ぼうと歩き出す。
「わわっ」
ぽやんとしていたせいか、途中、手を滑らせて箱を落としてしまい、仕舞っていた書類が無造作に床へ散らばった。
あちゃー。と呟き、そこかしこに散乱した書類を集めていると、ふと、気になるものを見つけた。それは本当に本当に偶然だった。
(あれ?)
贈り物を受け取った日に署名した(させられた?)、本人控えの誓約書。
丸めたまま保管していたのだが、落ちた拍子に紐が緩んだのだろう。革紐は外れ、羊皮紙は表面を床につけて長方形に広がっていた。
私の視界にあるのは誓約書の裏側。そこは何も書かれていないはずなのに、下の方に黒い汚れのようなものがついていて。「なんだろう」と羊皮紙を取り、確認してみれば──黒いのは汚れではなく、インクで書かれた文字だった。
(んんー? 何か書いてある? 四……ふぁる、ふぁるれぅあ?)
初めの数字は読めたけれど、その次の文字がパッと見分からない。それは見慣れない、と言うより、自分に縁のない単語だったので、意味を思い出すまでホンの少し時間がかかった。
(ふぁるれぅあ、ファルレゥア……何かの本で見た事あるような──……ああ! そうそう、「婚約者」だ!)
ファルレウア。ずっと前に読み漁った恋愛小説に何度か出てきた言葉だ。
単語の意味を思い出した私は、「ファルレゥア」がなんたるかを理解した上でもう一度文字に目をやる。と、同時に心臓が跳ねた。
(ん? って、ええ!? 婚約者!? しかもこれ、ちょ、ちょっと待ってよ)
短い一文を何度も何度も愕然と読むが、あまりの衝撃と信じがたさに声が出ない。状況を整理しようにも、頭がそれを受け止めきれず、ただただ私は瞠目して視線を左右に動かした。
(よん、こんやくしゃ。よん、こんやくしゃ。よん、こんやくしゃ。よん、こんやくしゃ……)
ああ、目が回りそう。
心の内でいくら繰り返しても、目を見開いて字を見直しても、小さく書かれた文字は変化せず。
「四、婚約者」。
ねえ、「四」って何。「四」って何?
──まさか。
胃の腑がきゅっと縮み、喉の奥底がキンと冷える。私の体は悪い予感に反応し、すくみ上がった。
それでも、状況を理解しようと、少しでも情報を得ようと、嫌に汗ばむ手先を動かして誓約書の表裏隅々に目を走らせる。
誓約書の表には誓言と「贈り物」の目録が記されていて、注意深く眺めるも初めに見た時となんら変わりはなかった。裏の方も睨むように凝視したが、あの不吉な文字しか見当たらない。
これは最初からここに書かれていたのだろうか。誓約書は渡された日にタンスの奥に仕舞い込んでいたので、後から誰かが書き足すのは無理だ。ではやはり、あらかじめ仕込まれていたのか?
表に書かれた目録は、「一、住居」「二、庭」「三、畑」の三つ。裏にある「四、婚約者」とは、一、二、三ときて四と、数が続いている。
もしや、この「婚約者」とやらは四つ目の「贈り物」なのだろうか?
私が上司に贈られたのは、家と畑と庭だけではなかったのか?
ここに、裏面の下側にひっそり書かれてある「婚約者」も、「贈り物」の一つなのだろうか。
頭が痛くなってくる。あまり考えたくはないが、自分に「婚約者」なんてとんでもないものが贈られている可能性が出てきてしまった。
一軒家に「婚約者」がついてくるなんて、正に寝耳に水。あまりにも常軌を逸しているではないか。
家と畑と庭でさえ私の中の「贈り物」の範囲を超えていたというのに、なんだ「婚約者」って。誰だ「婚約者」って。どういうことだ「婚約者」って。
……いや、何かの間違いかもしれない。そう、きっとそうだ。誰かがついうっかりペンを滑らせただけで、この「四、婚約者」にはなんの意味もない。私には関係ない。知らない知らない。
なーんて現実逃避をしつつ、半分混乱している脳内で婚約者に関連しそうな心当たりを探してみる。
(ターニャさんから「婚約者」なんて言葉一回もなかった。裏面のことだって聞いてない)
ターニャさんに呼び出され贈り物を頂いたあの日、彼女の口から「婚約者」の「こ」の字すら出なかった。先週ターニャさん宅に遊びに行った時も、そんな話されなかった。
言葉はなくとも、怪しい点はなかったか? よく思い出せ、七恵。
(「婚約者」とか言ってなかったけど、誓約書にサインするとき、ターニャさん妙にニヤニヤしてなかった? あ、というか今までターニャさんに誓約書なんて書かされたことなかったじゃん! おかしい! それに去年は記念日の贈り物なんて貰わなかった。言葉だけだった)
……出るわ出るわ気になるとこが!
なぜあの時気にならなかったのか、自分を小一時間問い詰めたい。や、決して全く気にならなかったわけではなく、場面場面で大なり小なり引っかかりはしたが、「まあいいか」「気のせいか」と流してしまっていたのだ。だってこんなこと、予想もつかないでしょう?
(もっとターニャさんの言動を意識しておけばよかった。ちょっと変に感じたところもそのままにしておかなかったらよかった。誓約書の裏もちゃんと見ておけばよかった)
激しい後悔と自責の念に駆られながら、記憶を根こそぎ掘り返す。もっと、もっと何か情報が欲しい。
ターニャさんの発言や振る舞いを見直していく中で、ピカッと稲妻が脳裏を走った。
(この前会ったカインさんの態度、それに会話!)
上司の色気と自身の欲に負け、引っ越しが決まった五月六日。フェデリカに会いに行く途中で出会ったカインさんとのやり取り──。
*
「本当に受け取っていたんだな。あれを」信じられない、とでも言いたげな口調。
「素敵……。そう、なのか」贈り物が素敵だと言った私へ返ってきた微妙な返答。瞠った目、まごついた声。
「すごく素敵……? そ、そうか。ナーナ殿があれを気に入って受け取るというのなら、私もとやかく言うまい。それにしても、いったいいつあれに会ったんだ」おかしな言葉の使い方。
「! なんと、そうだったのか。そ、そこまであれに意欲的だったのだな」見に行ったと言うなり、ビックリされて。
「……あれは見てくれは悪いが中身は良い。大切にしてやってくれ」最後はやけに真面目に締めくくられた。
*
当時、私はカインさんが口にしていた「あれ」を「家」に置き換えていたが、それが違っていたら? 「家」ではなく、「婚約者」もしくは「婚約者であろう人の名前」だったとしたら?
ちょっと脳内変換してみる。あれを、「婚約者」と「太郎」に。
「本当に受け取っていたんだな。婚約者を」
「素敵……。そう、なのか」
「すごく素敵……? そ、そうか。ナーナ殿が太郎を気に入って受け取るというのなら、私もとやかく言うまい。それにしても、いったいいつ太郎に会ったんだ」
「! なんと、そうだったのか。そ、そこまで婚約者に意欲的だったのだな」
「……太郎は見てくれは悪いが中身は良い。大切にしてやってくれ」
……あれ、なんかそれっぽくない? それっぽくない!? 「家」よりもこっちの方が自然じゃない!? うわあああああああああどうしてくれんのこれ!
「四、婚約者」の信憑性が高まってしまい、さっきより追い込まれてしまった気がする。どんどん広がる危機感と共に、疑問もポンポン沸いてきた。
(私、マジで婚約者贈られてる? カインさんはターニャさんの贈り物に「婚約者」が含まれていることを知っていた? そうだとして、私にその話題を降ってきたってことはターニャさんに口止めはされていないってこと? 「素敵」って言って驚かれる婚約者って、どんな婚約者? 見てくれは悪いって言ってたから、ブ男だったり? 婚約者はカインさんと関わりがある人?)
ここまで考えて、再び私の頭に稲妻がピシャーン! と落ちた。
(素敵って言ったら驚かれる……? ハッ! ……フェデリカ、お前もかー!)
またまた引っ越しの決まった五月六日に遡る。久しぶりに会いに行った友人とのやり取りが、走馬灯のように巡った。
*
「慎み深く型にはまった性格のあなたが受け取るとは思いませんでしたけれど、たまには思い切るのも良いことですわ。ただ、無理はなさらないようにね」無理をするなという気遣い。
「す、素敵、ですって? ……そう。あなた、ああいうのが好みでしたのね」素敵な贈り物を貰って申し訳ないと言うと、返ってきたのはギョッとした声。それと、引かれたような、驚かれたような反応。
「まあ、ナーナ。あなた、そう考えていたの? 自分で理想に仕立て上げていくなんて、やけに積極的ね。意外だわ」ふてくされると、フェデリカはブルーアイズを瞬かせ。
「わたくしからの記念日の贈り物です。よく考えて神殿にお出しなさいな」帰り際に神妙な面持ちで渡されたのは、「婚約届」と「婚姻届」。
「そうならばいいのですけど」私へ投げられた、物憂げな視線。
*
もうね、あの「婚約届」と「婚姻届」がフラグですよね。意味もなくこんなもの渡しませんよね。あーもう、ベルンハルトに遠慮せず、あのまま居座ってどういうことか聞いておけばよかった! 引っ越し準備ですっかり忘れてわ。
濃厚。婚約者も贈り物説、超濃厚。カインさんとフェデリカも一枚噛んでるとみた。
フェデリカも婚約者が誰か知ってそう。でね、「ああいうの」イコール「婚約者」のことだと思うんですけど、「素敵」って言って驚かれるってどうなのよ。すごく不安。
我が上司には人を見る目があると思っていたが、カインさんとフェデリカのあの反応を見るからに、今回のチョイスは疑わざるを得ないかもしれない。いや、まだその人に会ったことないんだけど。てか、その人が誰かすら知らないからね。だってここ、「四、婚約者」しか書いてないんだもん!
私は床にへたっと座り、長い長い呻き声を漏らした。面倒くさい事になったとか、あの時ああしていればよかったとか、どうすればいいのだろうとか、とんでもない人を充てがわれたのではないかとか、立ち込める暗雲にひどくストレスを感じて。
ただ、一筋の光が私にはあった。それはめちゃくちゃ細くて弱々しいものだが、ないよりはマシである。
今まで私が繰り広げた思考はあくまで推理の領域であり、確定事項ではない(と思いたい)。まだ「何かの間違いの可能性」も残っているのだ(すごく低そうだけど)。
(だって、もし贈り物の一つに「婚約者」があったとして、私、その人に会ってないもん。紹介されてないもん。この誓約書にサインした日、つまり贈り物を受け取った日からもう一ヶ月が経つのにコンタクトがないってことは、贈られてないも同然だよね? ターニャさんのドッキリ大作戦かもしれないよね? 第一、私、婚約届出した覚えないから「婚約者」ができるはずないし)
結婚や婚約をする際は、神法に基づき書類を神殿に提出したり、儀式を行ったりしなければならない。だけど、私はそれをしていない。「婚約者」など、できているはずがないのだ。
この世界には天上の神々に定められた「神法」なるものが存在している。
天上の神々が原初の昔に制定し人々に伝えたとされる古い古い法律で、太古より語り継がれるそれは万国共通であり、レサ・ハルダで生きる人間に今も尚遵守されていた。
(フェデリカに渡された婚約届は──あった。うん、何も書いてない。書いた記憶もない。必要な手順も踏んでない。それに、ターニャさんはアグレッシブだけど冷徹非道ではない。私の気持ちを無視した婚約なんて、進めたりしないんじゃ)
驚き、思い出し、考え、整理し、推理し、やっとこさ冷静さを取り戻してきた私が次に思ったのは、これから自分がどう動くかだった。
(……このままモヤモヤするのは嫌だし、放っといて本当に婚約者が現れでもしたら困るし……うん、白黒つけよう。問題解決は早い方が良い。仮に婚約者が贈られてたとしても、断固拒否するんだ。本気で嫌がればターニャさんだって私の意見を聞いてくれるはず。あの人はなんだかんだ、私にマイナスになる事はしないから)
しばし悩んで、ポケットの中の懐中時計を見やる。時刻は夜の八時を少し過ぎたくらいだった。
神経を集中させてターニャさんの魔力を捜すと、西地区の方角に暖かな気配を感じた。彼女は自宅に居るようである。夜だから家に居るのは当たり前のような気もするが、我が上司は酒と賑わいが大好き。時折街へ飲みに出ていることがあるのだ。子供が産まれてからはその機会も随分減ったみたいだけど。
(この時間ならまだターニャさん起きてるよね。ちょっと訪問には遅い時間だからそこは謝ろう。よし、行くぞう!)
最後の「よし行くぞう」は決して「吉幾三」にかけたわけではない。断じて。
ぐっと拳を握り、私は素早く立ち上がる。馬鹿みたいに睨んでいた誓約書を丸めて革紐で括り、床に散らばっている書類を無造作に箱に戻した。続いて寝室に向かい、まとめた荷物の中から肩掛け鞄を引っ張り出す。
(今気付けて良かったんだよ。大丈夫、きっと間に合う。酷いことになる前に手を打てる)
精一杯のポジティブシンキングで自分を奮い立たせ、私は金髪ウィッグを引っ被り、鞄に誓約書を放り込んで家を飛び出した。




