RUN AFTER
ある意味ラブコメの皮をかぶった何かです。何かの皮をかぶったラブコメです。
「貴女をむかえにきました」
すべてはここから始まった。
騎士としての正装に身を包んだ使者たちが大勢いる中、口を開いたのは能面のように表情のない一人の男だった。整った顔立ちであるだけに、より一層その無表情は際立っていた。
「亡きグレゴワール二世陛下の第一子、ユルシュル王女殿下。貴女は王家の落胤、高貴な方の一粒種、名君の忘れ形見。今日から貴女は女王陛下となるのです」
シンデレラのごとく王宮からの使者が来た時、ユルシュルはひどく顔をしかめた。小さな家を囲うように騎士たちがずらり並ぶ。むかえに来たというよりは、逃げ場をなくそうとするようにぎっしりと騎士たちは背景を埋め尽くす。
年は二十歳目前、平均女性よりいくらか高い背のユルシュルは剣術をたしなみ、女性らしいところが自分には全くない事を知っていた。突然王家の血筋だ女王だと言われても実感がわかないどころかふざけた悪戯にしか思えない。
確かにごく最近、ユルシュルの住まうエトワール王国の王は崩御された。グレゴワール王が跡継ぎの生まれないまま妃を早くに亡くし、以来側女も持たずに亡き妻の喪に服していたというのは有名な話だ。それゆえ跡継ぎが誰もおらずエトワール王国はにわかに暗雲垂れ込め、民の誰もが不安がっているのはユルシュルも知っている。だが、それが彼女に何の関係があろうか。こうして王宮の使者が来た今もそう思っている。
ユルシュルが淑女がするにはあまりによろしくない表情をしているというのに、対応する男の顔は仮面のように動かない。それが尚更、ユルシュルの眉をひそめさせた。
「嘘をつけ。帰れ」
わざわざけたたましく音をたて、ドアを閉める。閂はたいした意味がないだろうが常のくせで閉めていた。男はドアを叩く事もせずに、顔と同じく感情のない声でユルシュルに淡々と呼びかけてきた。
「虚偽ではございません。二十年前、亡き陛下はこの町に滞在なさいました折、貴女のお母上を見初められました。生まれた娘こそ貴女、陛下の血筋を受け継ぐ者。陛下亡き今、王家の正当な跡継ぎは貴女しかおりません」
ユルシュル自身も知らなかった出生の秘密をこんな形で知らされるとは思ってもみなかった。だが、ユルシュルはもう夢見がちな幼い少女などではない。ドア一つ隔てた相手に向けて、見えるはずがないのに皮肉げに口角を上げた。
「だったらどうだって言うんだ? わたしなんて凡人を使わずに、もっと他に良い傀儡を仕立てて戴冠させなよ」
どうせ、ユルシュルを女王にするというのは使い勝手のいい駒がほしいという者のお達しだろう。だが、彼女は易々とそれを受け入れるような娘ではなかった。狭い部屋を奥へ進むと、騎士の声が少し遠ざかる。
「貴女の面差しはお若い頃の陛下に瓜二つです。貴女が陛下の娘という事に間違いはない。亡き陛下の血筋を継ぐ殿下が次期女王になるのは当然の道理」
ドアの向こうの騎士はユルシュルの話を聞いてはいなかったらしい。聞く耳を持たない人間のうっとおしさをよく知るユルシュルは、白けたように顔にしわを集めた。
タンスの肥やしになっていた鞄を手にすると、必要最低限のものを片っ端から詰め込み始めた。ナイフ、火打ち石、注ぎ口のひしゃげたケトル、片手鍋、杓子、干し肉、カフの実、それから財布。最後に壁の装飾と化していた一振りの剣を見上げる。ユルシュルは、神聖な儀式にでも参加しているような面持ちでそれを見た。手入れだけは定期的にしていたその剣は、ユルシュルを育てた者の形見だ。彼女を剣の扱える人間に育てたのも、彼だ。決して、最近知った血縁者の天上人ではない。
「……父上……」
二年前に死んでしまったが、彼女を育ててくれた父は血のつながった親ではなかった。ユルシュルを生んだ際に死んだ母親に代わり一人ずっと娘を育ててくれた父親。彼の生前から血のつながりがないのだろうと薄々と気づいてはいたが、それでも養父を本当の父親のように思っていた。それはこうして真実を告げられた今も変わらない。そして、ユルシュルがたとえエトワール王の娘だったとしても、ユルシュル自身は何一つ変わらない。変わる必要はない。王宮に上がる必要も、ない。
厳かな気持ちで壁の剣を手に取ると、静かに腰の剣帯に納めた。
「私は貴女を無事に王宮までお連れする旨をいいつかっております。たとえ貴女が拒もうと、私は職務をまっとうします」
仕事に忠実過ぎるのも考えものだな、とユルシュルは両方の眉を上げた。
タンスの脇に、剣が二振りあるのを両方持ち上げる。一振りは腰に、もう一振りは鞄に隠すように詰めた。まだ必要なものはないかといくらか部屋の中を確認してから、荷造りを終わらせる。
「貴女がこの家から出ないおつもりでも、私たちはここから一歩も動きませんよ」
相手の、覚悟などという感情らしさの欠片もうかがえない声は、何故か言葉通りになるような未来が容易に描かせる。上役によっぽどの忠誠を誓ってここに居るのだろう。
ユルシュルは、服を着替えた。
「なあ、アンタ」
代表者の騎士に声をかける。
「ヴィルジール」
編み上げブーツの紐をきつくしばる。
「じゃあ、ヴィルジール」
ドアを開くと、先ほどと変わらぬ風景。立ち並ぶ騎士たちに、代表者のヴィルジール一人が間近に一歩踏み出しているだけ。
「女王の座なんか要らないから、わたしは王国を出ていくよ」
「逃げるおつもりですか」
鋭く翻った声は、あやまたずユルシュルの耳朶を打つ。恥ずかしいとは思わないのか、そんな問いただしにも聞こえた。だが、彼女には何の関係もない。
「ああ。わたしは逃げる」
にっと、いたずらっ子のような、冒険を前にした勇者のような不敵な笑みでユルシュルは答えた。
これがすべて旅の始まり。のちに英雄となる娘の旅立ちの日。長い長い追いかけっこの始まりだった。
『ならば私は追いましょう。貴女を王宮にお連れする私の役目を果たすまで』
彼はそれを実に忠実に実行した。他の王宮の騎士たちが脱落し、負傷し、死にかけて故郷へととって返しても、ヴィルジールは踵を返す事はなかった。おそらく彼は騎士たちを束ねる地位についていたからだろうが、それにしても職務に忠実過ぎた。
ユルシュルは、追っ手をまくためにはそれこそ“何でも”した。どんな手を尽くしても敵は引き下がらなかった。
エトワール女王の座から逃げ出した娘はより速くより遠くを目指して逃亡を続け、手段を選ばず、自身の身を守るために彼をまくために様々な“功績”を残した。元よりかなりの剣術の腕を持つ娘だったが、いかなる神が彼女に味方したのか、ただ逃亡生活を続けるだけでなく英雄行為を続ける事になったのだ。
手始めに農産物を食い潰す悪獣を倒し、悪逆非道の盗賊団を壊滅させ、領主により不当に税金を搾取されていた町を救った。あげく、人に全く懐かぬというドラゴンをその配下に下した。
どれもがユルシュルが速く遠くに行くための行為の副産物でしかなかったが、いつの間にかユルシュルの名前は英雄のように讃えられ世に広まっていった。
彼女が訪れた事のない町に行けば、どこかから噂を聞きつけた者たちが祝い出す始末。それがエトワール王国の隣国リュンヌを目前にしたある町では行われなかったため、ユルシュルは久しぶりに快適な町歩きを楽しむ事が出来た。めんどくさい追っ手に最後に追いつかれたのは二つも前の町だ、しばらくは顔を合わす事もないだろう、ユルシュルの足取りは弾んだ。
陽気な気分になっていたユルシュルだが、次第に町の様子がおかしいという事に気がついた。
町民の辺りをうかがうような瞳は、ユルシュルをまるで歓迎していない。それどころか、瞳には悪意のようなものさえ垣間見える。注目を浴びると面倒だからとドラゴンを町の手前の森に隠してきたはずが、見られていたのかもしれない。ドラゴンを厭わしく思う者は多い。ドラゴンを見られたゆえに咎められているのかと思えば納得がいく。ユルシュルは人の機微に頓着はしない。英雄だなどと持ち上げられても思い上がったりはしないし、手の平を返すように冷たく不当な扱いを受けても憎しみを抱いたりはしない。英雄行為はエトワール王国からの逃亡の副産物でしかなく、ユルシュルは生来、人から一歩離れたところで接する性質を持っている。ゆえに、故郷の町でも父を亡くしてからたった一人で暮らしてきた。だが、他者に興味がなくとも彼らのおびえるような、不安を隠すような敵意は見逃すわけにはいかない。
「リュンヌとの緊張状態も限界なのだろうか……」
この町はエトワール・リュンヌを区切る国境に沿った場で、内陸の都より遥かに両国の影響を受け易い。エトワールと、リュンヌでは先だって互いの国の兵が国境沿いに緊急配備される、すわ戦争かという事件があったばかりだ。結局火種はくすぶったまま兵は引き返し、二国間で協議が始まったのだがまたいつ紛糾が開戦宣言に変わるか分からない。
このまま戦争に巻き込まれるのは芳しくない。ユルシュルの目的はヴィルジールを筆頭とするエトワール王国からの使者――もっとも最近はヴィルジールしかいないくらいだが――を完全に追い払い諦めさせる事だ。相手がなかなか引き下がらないから、ユルシュルも足を止める訳にはいかない。そのための手段は選ばず、結果的に最終的に理由はどうあれ人々に褒め称えられる。
まさか今回は、戦争を回避させなければならないのではあるまいなとユルシュルは冗談じみた考えを頭に浮かべる。そんな事にはならないだろうが、ユルシュルは今やドラゴンさえ操る存在。その身がどの国にも牽制になるのは明白で、ユルシュルを王家の血筋と知らない者でも利用しようとする始末だ。自分たちの側に引き込めば、民の尊敬を得ているユルシュルへの意識をそのまま支持率へ変える事が出来る。命を奪われる事はなくとも狙われる事が多くなった。今回もまた停戦のため、または開戦のために言う事を聞かせようとする者がいないとは限らない。思うと、ユルシュルはもう町の者のうかがうような瞳など視界に入らなくなった。
あまり人の多い場所には居ない方がいいかもしれない。戦が始まる前に国境を渡ってしまえば、ヴィルジールも追いにくいのでは。それは名案のように思えた。天がユルシュルに味方すれば、ヴィルジールが追いつく前に戦争が始まり、国境をはさんで彼との追いかけっこを断絶させられるかもしれない。今度こそヴィルジールを引き離せる。
「早いところドラゴンで国境を越えてしまおう」
関所や国境を越えるのに必要な手続きなどユルシュルは気にしない。こちらには空飛ぶ獣がいるのだ。楽な道を選ぶのが人間というもの。第一、そんな関所になど行ってしまえば足止めを食らうどころか素性が知れて“保護”されてしまうのがオチだ。ドラゴンにて国境を横切るのは当然のことだった。
だが、そう簡単に天はユルシュルの味方をしなかった。彼女が踵を返しドラゴンの待つ場所へ向かおうとしてすぐの事、わめき声が危険を知らせた。
「大変だ! リュンヌの兵が攻めてきた! 訳が分からねえが、我が国の卑劣な行為の報復だと……開戦宣言もなしの……」
男の声は途切れた。目を限界まで見開いて、信じられないものを見る表情でわなないた。町の者が皆恐れるように男を見、その視線の先を追った。
「あ……ああ……」
ユルシュルもまた皆の視線を追う。
曇り空にぼんやりと広がる、雄叫び。地響きのようなものがじわじわと広がる中、血気盛んな数人のリュンヌ兵が我先にと姿を見せる。
ついに、唐突に、簡単に、戦争が始まった。女たちは子どもをかばい家のドアを閉める。男たちは顔を見合わせ、ためらいながらも意を決する。
戦争。これまでに警備隊と反乱軍もどきの小競り合いならユルシュルも体験した事がある。だがまだ本物の戦争をその身で味わうには、平和な世界に育っていた。
「きゃあああっ!」
女が叫ぶ。理由はすぐに分かった。彼女は背中にリュンヌ兵の剣を受けて血を流していた。ユルシュルは顔色を変え、町の外を目指し走り出した。
好戦的な兵士たちにドラゴンの存在を知られる訳にはいかない。ドラゴンは強く、固い皮膚を持っている。その爪と牙はこれ以上ないというくらいに鋭く、翼を持つゆえにひと度空高く舞い上がれば矢も届かない。とはいえユルシュル配下のドラゴンはたった一匹しかいない。多勢に無勢、こんな戦争開始直後の混乱の最中では何が起こるか、どう事態がひっくり返るか分からない。大事な乗り物を傷つけられてはかなわない。
「ユルシュルさま」
――と、そこに見たくもない人物の姿を見つけられた。
「ヴィルジール……今はお前にかまってる暇はない」
相変わらず整った顔の、髪の毛すら乱れのない一人の騎士。ユルシュルはこの男の顔ばかり見ているが、今ばかりはそれがヴィルジールだと確認する暇さえ惜しかった。
「それは私にとっては好都合」
ユルシュルが余裕のない時なら上手く彼女を上手く捕まえる事が出来ると考えての事だろう。平然とした能面のような顔、町の混乱も彼には微塵も影響を与えない。
「お前って本当に……」
彼を一言で表現するのは難しいが、もっとよく周りに目を配った方がいいだろう。彼のせいと彼のお陰でユルシュルはこんな英雄とも呼ばれる存在になってしまったのだから。たとえば盗賊団退治は、エトワール女王になる予定のユルシュルを傷つける訳にはいかないと剣を振るったヴィルジールの力で成せた事だ。つまり、彼女の独力で盗賊を倒したのではない。以来暗躍するヴィルジールとは異なり、物事に頓着しないわりに派手な行動ばかりとるユルシュルの名前ばかりが人口に膾炙した。
とはいえ今はヴィルジールの事などかまってはいられない。ドラゴンの待つ森へ向かおうとして、ヴィルジールが立ちはだかる。いつもの光景だが今日はやけに彼がうっとおしかった。何故、こんなにも胸の奥がくすぶったように苛立つのだろうか? それは彼女にしては珍しい焦燥だった。
「どこへ行くおつもりですか」
「お前の居ないところなら、どこまでも」
さすがのヴィルジールも、小さく眉を動かした。真面目過ぎるほど職務に忠実な彼にしてみれば、職務自体を否定されたようなものだ。だがこの程度で怒り狂わないのがヴィルジール、表情はやはり変わる事がないのが彼らしいといえば、らしい。
「それで良いです。戦が始まったようですから、貴女は安全な地へ逃げて下さい。御身に何かあっては困ります」
エトワール女王になるはずの人間なのだから。ユルシュル自身の身を案じているのではなく、女王の座が待つ人間を案じているのだ。そんな人間のところに、ユルシュルが行くはずがないのに。くっと口の端を上げるとユルシュルは歩を進める。
「いい加減諦めたら。わたしに冠を頭で受け取る気がないのはもうこの半年でよく分かったでしょう」
「この半年で――貴女は力を持ち過ぎた。尚更そのままにしておけません」
ドラゴンの元へ急ぐユルシュル、ヴィルジールは力ずくで彼女を止めたりはしない。いつもこうだ。ヴィルジールはしつこいわりに卑劣な手段を使ったりせず力ずくに捕縛したりなどしない。
ユルシュルの視界の奥に、ドラゴンの巨躯が見えてきた。これでしばらくはヴィルジールを引き離せる。本当に、彼はどうしてこうもしつこいのか。嫌な予感をユルシュルにさせる行動は、彼女の足を速めさせた。まさか、彼は――死ぬまで諦める気がないのでは。
「英雄と呼ばれる女傑ユルシュル……。他国に渡す訳には参りません」
仮にも王家の血筋を継ぐ彼女を物のように口にするが、感情のない騎士の声からは冷酷そうな響きすら感じられない。
「それに貴女の得ている名声のほとんど見せかけのものでしかない」
悪獣退治は迷信深い村人が巨大なクマを誇張して、倒したユルシュルを褒め称え過ぎただけで、盗賊団退治は半分はヴィルジールの力で倒した上に、実は大した力もない数人の盗賊団だったにすぎない。悪徳領主から町を救った話も、まだドラゴンも隣りにいないユルシュルが関所通りたさに領主を脅して結果的に民を救った形になっただけだ。しかも町を救った見返りに鉱山の金をほしがった英雄だ。何故か話がこじれてユルシュルが素晴らしい人格の英雄になっている。ドラゴンの件も、あちらが偶然怪我していたところを自分の配下になるなら助けてやろうと切り出し従ったから助けただけだ。
噂の真実には英雄とは思えない行為ばかり。だからこそユルシュルは思い上がったりはしない――自分の行為を恥じたりもしないが。
「今に化けの皮がはがれて誰にも見向きされなくなります。そんな事になる前に早く、王宮に戻って下さい」
名声が地に落ちる前に、支持率もそのままユルシュル女王陛下を仕立て上げたいのだ。淡々と告げられると、その通りのような気にも、否定したい気分にもなれない。
「王宮に戻る? 元々居た場所でもないのに」
馬鹿な事を言うな。ユルシュルは笑った。それを受けてなのか、ヴィルジールはわずか眉を寄せた。彼にしては珍しく、口の中で言葉を詰まらせてから口を開いた。
「……それでも貴女は、人を惹きつける」
彼はその是非にすら興味がないという口調で告げたが、ユルシュルは眉をはね上げた。
「それはどうも」
彼女自身に“人を惹きつけ”ている自覚はない。己のために、エトワールの玉座につきたくないという我が儘ともとれるそれのために使者の前から逃亡。それを続けるためにやった所業、結果生まれたものが人々の役に立ったとはいえ、どれもユルシュルのエゴイズムのみが元だ。
王宮の使者たちの手から逃れる。エトワール女王にはならない。
「女王となり人を治めるべきという義務をまっとうしない貴女のどこが良いのかは分かりませんが、その魅力は他には渡せません」
随分な言い方だが、それでも感情が見えない分ヴィルジール自身が言っているのではなく、誰か他の人が書いた書面を読んでいるだけのように聞こえるから不思議だ。
「ご高説ありがとう。もう行っても?」
ユルシュルもユルシュルで、敵が強行手段に出ない限り無理矢理に振り切る事は少ない。寝ぼけ眼のドラゴンもしっかり目を覚ましたし、そろそろ潮時だ。
「開戦中に、これ以上どこへ行くのです」
「いつも言ってるだろう」
王宮の使者の居ないところへ。暗黙の答えを察してヴィルジールも口をつぐむ。
「無駄な事を。貴女は、エトワール王国の女王となるべきお方だ。それを放棄する意味が分からない」
「分からないなら一生分からないままでいればいい。そのうちはわたしを捕まえる事は出来ないだろうからな」
ドラゴンが両翼を持ち上げると風が巻きおこり、突風にヴィルジールが目を細める。腕で軽く顔をかばい、見る間に空へとその身を浮かばせる未来の女王を見上げた。
「今度は何をするおつもりで、英雄のユルシュル」
彼がユルシュルを敬称なしで呼ぶのは珍しい。なんとはなしに笑えてしまい、彼女は小さく口の端を持ち上げた。英雄でも何でも好きに呼ぶがいい。そうやっていつまでも狼狽していればいい。いつまでも地に這っていればいい。
「――戦争でも、止めてみるかな」
軽口の延長のそれを、彼女は叶える事になる。
エトワール・リュンヌの間で停戦条約が結ばれたのは、開戦から半月もたたないうちだ。ユルシュル自身もコントロール出来ない――元よりするつもりのない――英雄としての名声が、やはり功を奏した。
追っ手を振り切るためにリュンヌに下り立った娘がその国の主に見つかってしまうのは、彼女の知名度からいって簡単な事だった。彼女の望まない謁見の機会を与えられたのも、あっという間だった。
リュンヌの君主はドラゴン狂いで、ユルシュルを手にすればドラゴンもついてくるとあって色めきだった。その息子は好色で、早速ユルシュルにも目をつけた。戦争は、部下たちの勝手な振る舞いが元、君主自身はまだ時期ではないと思っていたのだ。停戦に至るのに不満はなかった。
それに対して攻められたエトワール王国は兵の増強がまだ不十分、今年は不作もあってやはりまだ戦争は早すぎる、避けられる事なら避けたいと考えていた。またユルシュルが最近までエトワール王国に居たので引き戻すよう懐柔するなら今しかないと思っていた。そのためには戦争をしていては何かと不都合になるのだと、彼女によって思い知らされてもいた。
「……ちっ……何でこんな事になったかな」
元はといえば、ユルシュルは女王になりたくない一心で逃げ出した。道中、実に様々な因子が絡み合って取った行為が結果的に人々の注目を集めてしまった。停戦の件も何がどうなってこうなったか――覚えてはいるが分からない。更に人から狙われるようになっただけだ。
こんな事になるくらいなら、大人しくエトワール女王になっておけば――などとは思わないが、噂ばかりが膨らみ過ぎた。リュンヌでも彼女は戦争を止めた英雄扱いだ、しばらくはユルシュルも派手な動きが出来ない。
もっと遠くへ、行かなければならないのに。
珍しい事にユルシュルはため息をついた。
エトワール王国の王宮では、大臣たち年嵩の男たちが集い、それぞれに国の末路を憂いていた。戦争などめんどうではあるが彼ら高貴な身分のものにとっては別世界の話。つい最近起こった開戦も停戦も彼らには現実感のないもの。
しかし、一国の主が不在という長い状態は次なる戦争を引き起こす。危険な状態というのはよく理解していた。彼らだけでは政は進まない。いや、彼らだけで政治を行っても構わないのだが、長きにわたって王制を敷いてきた彼らにはやはり自分たちに都合のいい傀儡が必要だった。それから政治形態を変えるのでも遅くはない。
「我らが女王はまだ捕まらないのか」
「恐れながら。しばらく逃しておけとの当初の狙いが裏目に出たものと思います」
ある騎士が一人、宰相大臣たちのご機嫌うかがいに来ていた。アシルはきちんと仕事をする人間の顔をしていたが、内心では早く帰してくれないかとうっとおしく思っていた。王宮から呼びつけられて出向かないわけにもいかず、また友人に今の王宮の情報を与えるためには必要な事だと分かってはいたが。
「やはりあのような者を女王候補に仕立て上げるべきではなかったのだ」
「しかし、もう我が国の民は……リュンヌなど他国でもそうだが、彼女をこそがエトワール女王だとの声が高まっておるのだぞ」
「とはいえあのじゃじゃ馬娘は捕まらん。玉座をいつまでも空席にしてはおけん」
「ですから、わたくしの息子が代理を行うと言っておるのです」
「ふん、信用なぞ出来るかお主の息子なぞ。それならばわしが直接務めた方がまだましだ」
「黙れヒヒじじい」
「やはりユルシュルなど、もはや女王ではないと切り捨てるべきでは……」
(全く進んでいないな、前回と)
やれやれとアシルは脳内で自分の首を振った。
ユルシュルの利用価値と捕まらなさを天秤にかけてどちらにもぐらぐらと傾いて重きをどちらにもおく事が出来ないままに会議は終わる。
自国にてどのような会議がなされているか――エトワールから離れた遠方にいながらヴィルジールは予測していた。鏡の中でアシルは、苦笑のにじむ渋面をつくって彼に告げてきた。背景にはアシルの自室、ヴィルジールも何度か訪れた場所だ。対する自分の背後にあるのは、安く古く狭くくたびれた宿の質素な内装。彼ら二人は離れた場所にいるというのに、ひどく簡単に話をしていた。
『お偉方はまだ結論は出せないと』
アシルとヴィルジールの通信は魔術師の手によって行われた。鏡のある場所で魔術師さえ居れば可能となる、鏡越しの通信だ。それは地理的な距離を超えて遥か遠方に居る人間と鏡を介して顔を合わせ会話が出来るという魔術。今は少し離れた場所にいる魔術師のおかげでこうしてヴィルジールは友人と容易に情報交換が出来るというわけだ。
『もちろん俺は、エトワールの女王にはユルシュル殿下がふさわしいと今回も強調しておいたけどな』
「当たり前だ」
一瞬の躊躇いもない友人の返事に、アシルは彼の瞳を鏡越しに覗き込む。普段と変わらぬ、ガラス玉のように無機質なヴィルジールの瞳は、人の情など知らぬ風情ではあるが――。
アシルは知っている。ユルシュルを女王として立てるのをやめるとお偉方が決めれば、彼女の命はない。それを知ってヴィルジールは阻んでいるのだ。彼女を追い続けているのも、命を守るため。そうアシルは思っているが、ヴィルジール自身がそれに気がついているかどうか。認めるかどうかは分からない。
『しかしあの短期間で停戦条約までこぎつけるとは、殿下もやるねえ』
「……あんな事を……する必要はなかった」
今回の事の顛末はアシルも既に、現地にいたヴィルジールから詳しく聞き及んでいる。ヴィルジールの話に主観的なものはないからとても分かり易いが、彼の気持ちを勝手に推測するのも友人にとっては容易い。
ユルシュルはドラゴンで遠く逃げ出した。しかし戦時中ともあって、リュンヌではどこもドラゴンとそれに乗る娘を受け入れなかった。平素なら英雄だ女傑だと彼女を受け入れたかもしれないが、敵国の人間かもしれぬユルシュルをおいそれとは街に入れる事は不可能だった。説明も面倒なユルシュルはすぐさま街を発つのだが、それがリュンヌ側にエトワールの諜報員だから街から引き返したのだと思われる結果になる。
早い話がユルシュルは戦争にうんざりしたのだ。
どちらの国にも停戦を持ちかけ、そうしなきゃドラゴンで焼き払うとかなりの短絡的さと乱暴さで脅しかけた。そこで二つの国は時期尚早な戦争をするより目の前の甘味を誰よりも早く手に入れる方が先だと条約を締結した。甘味であるユルシュルは早々に逃げ去ったが、彼らは簡単には諦めないだろう。戦争を犠牲にしてまで手に入れようとしたユルシュルだ、せめて誰かの手に渡るまでは食らいつく。
それを分かってヴィルジールは「する必要はなかった」と言っているのだ。付き合いの長いアシルは遠からずの答えを出せていると自分で思っている。ユルシュルは危険な場所に足を踏み入れるべきではなかったし、更に彼女をつけ狙う存在を増やすような行動はひかえるべきだったのだ。ヴィルジールはそう思っているに違いない。実際アシル自身もそう思っていたからだ。
『お前も相当破格な人に恋しちゃったよな』
「……何をおかしな事を言っている? 私は任務をまっとうしているだけだ」
ヴィルジール本人が無自覚だから仕方がない。だがアシルの読みは外れてはいないはずだ。いくら真面目一辺倒のヴィルジールでもただ王宮への忠誠心だけであそこまでユルシュルを追う事が出来るだろうか。
そんなもの、本人が気づいていなくとも、職務に対するもの以外の情熱があるから可能になっているに決まっている。と、アシルは考えている。正解はヴィルジールのみぞ――いや、彼に自覚がないのなら神のみぞ知る事だろう。
それにしてもユルシュルは破格も破格、企画外にもほどがあるとんだじゃじゃ馬次期女王だ。それはアシルにだけではなく、もちろんエトワールのお偉方も、彼女をずっと追い続けているヴィルジールにもよく分かっている。
ずっと平凡だが平和に暮らしてきて突然、王宮からのお召しがかかる。小心なところもあるアシルには、彼女の気持ちも分からなくはない。だが拒否をここまで長く引っ張る事など並大抵の力では出来ない。出来るはずがない。彼女には幸運と勝利の女神がついているに違いない。
『いっそお前、殿下に愛をささやいてみろよ。王宮に行きたくなるかもしれないからさ』
「お前の言っている事の意味が十割方分からないんだが」
他愛のないつぶやきだったが、まさか全否定されるとは。アシルは苦笑する。だが彼の狙いは不可能な未来だろう。ユルシュルは他人に頓着しない。土地に縛りつける事も出来ない。逃亡劇を続けるのには生来の旅人気質のようなものが備わっているからでもあるのだろう。
そんなユルシュルがたとえヴィルジールでなくとも誰かの愛の告白で、どこかに居つくなどともはや考えられない。彼女は一生逃げ続けるのではないかというくらいに逃亡者を演じるのが上手い。ヴィルジールがどうのと言ったところで今更ユルシュルの考えは変わらないだろうし、アシルはむしろそんなユルシュルを見たくはないかもしれない。だが友人であるヴィルジールが色恋沙汰で困惑する姿なら見てみたい。あの鉄仮面の無表情、能面男がそれを崩す日がいつか来るのなら。その相手をするのがあのユルシュルならば更に楽しいものになるだろう。
『とにかくお前、殿下には……女性には優しくしろよ』
そうして彼が普段は見せない優しさを見せれば、もしかするともしかするかもしれないから。などという無駄なあがきをさせてみようと、アシルはつぶやいた。絶対にあり得ない未来だからこそ、覆すのが面白いのだ。それをするのはアシルではないが、そそのかすだけならタダだ。相手がヴィルジールでなければもっと面白おかしく話を脚色して方々に触れ回り外堀を埋め、殿下の相手にもその気になるような甘言をささやくのだが、全てヴィルジールがそれらを無駄にする。
やっぱりユルシュルに愛をささやけよ、と言いたくなるのを我慢しての台詞は、正直アシル自身も間抜けなアドバイスだなと呆れてしまった。それにきっと、ヴィルジールの優しさなど一般人の平均的優しさの五パーセントにも満たないに違いない。
「……それは分かっている」
それから彼らは二三連絡を済ませると、通信を終えた。魔術師も下がらせて、ヴィルジールはささやかな面積の寝台の上に体をくつろがせた。小さな窓の向こうに見える夜中の空には、半月だけがぽっかりと浮かび上がっていた。
任務第一のヴィルジールが脳裏に描くのは、任務に関わる最重要人物の姿。背中ばかり見ているような気がする、ユルシュル。最近何を見ても彼女の事を思い出すのは、彼の任務が滞っている事を自身急き立てているのだろうと分かっている。ユルシュルはエトワールに必要な人間だ。その人間性がどうあれ、人は力あるものに従う。権力や財力、武力ではないもので、他者を注目させる力が、王には必要なのだ。彼女はそれを持つ。はじめて見た時から、ヴィルジールがグレゴワール王の面影よりも早く見つけたものは、彼女の瞳の強い光――。あれは王国に必要なんだと“誰にでも”思わせる力が彼女にはある。エトワールの繁栄を第一に考える騎士が、ユルシュルを女王にと望むのは、国のためを思ってだった。今でもヴィルジールはそう信じて疑わない。
しかしまさか、逃亡するとは思いもせず、その上即位もまだの身で、王宮の騎士の手を介してであっても、尊敬されるような存在になるとは、一瞬だとて脳裏に浮かばなかった。一体彼女は何を味方にしているのだろうか? 民も、ドラゴンも、神まで味方にして、どこまで行こうというのか? あれだけ幸運に恵まれている彼女だ、もしかすると本当に――もちろん“任務と国が至上”のヴィルジールにはあり得ないと分かっているが――女王にならなくとも、たった一人でも生きていけるのかもしれない。しかしそれをヴィルジールは許さないし、彼女の身に何かあったら事だ。そんな事になったら、ヴィルジールは――。
「……もう、寝なくては」
こうしてはいられない。明日も早くに起きて、未来の女王を追わねばならない。この足が折れても、目を両方失おうとも、何があっても、職務はまっとうすべきである。
いつかエトワール女王になる彼女を思い描いて? いや、いつか自分の手が彼女の手をつかむ時まで。歩みは止めない。
ヴィルジールは明日もまた彼女の事を追ってゆくのだろう。思うと、ふわりと息がもれた後、口元をゆるめていた。
fin.
ご覧いただきありがとうございます。
一年くらい昔に書いたものを加筆修正したら当時は思ってなかったけれど少女マンガの読みきりのようではないかと思いもしました。
長く書きたいけどかけないので無理やり短くしました。いつかデレるヒロインが見たかったです。あ、デレるヒーローも。
ちなみにドラゴンの名前はドラゴン(まんま)だったりなかったり(適当)